質量分析計

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質量分析から転送)

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脇 紀彦、早坂 孝宏、瀬藤 光利
浜松医科大学 解剖学講座 細胞生物学分野
DOI:10.14931/bsd.1792 原稿受付日:2012年5月30日 原稿完成日:2012年8月6日
担当編集委員:河西 春郎(東京大学 大学院医学系研究科)

英:mass spectrometer 英略語:MS 独:Massenspektrometrie 仏:spectrométrie de masse

 質量分析計は気相イオン質量電荷比(m/z)と存在量を測定する装置である[1]。質量分析計はイオン源、質量分析部、検出部から構成される。イオン源で化合物はイオン化され、質量分析部方向に加速される。イオンは質量分析部でm/zに従い分離され、検出部で検出される。質量分析計の装置構成を表記する際に特に重要となるのは、イオン源と質量分析部の種類である。ここではそれぞれの代表的な動作原理について説明する。

質量分析計とは

 世界初の質量分析計は、約100年前にJ. J. Thomsonにより作られた放物線型質量分析計である。日本では質量分析計は大阪大学の緒方と浅田らにより1930年代に初めて作られた。質量分析計は1950年代まで主に原子質量の精密測定に用いられていたが、1960年代以降、有機化合物や生体高分子などをイオン化する方法が開発されたことにより、今日では様々な分野で必要不可欠な分析機器のひとつとなっている。
 ペプチドや代謝物等の生体分子が測定可能となってから、脳科学を初めとする生命科学分野における質量分析計の利用は著明に増加してきた。質量分析計を応用することで開発された2DE/MSやLC/MS/MSは、プロテオームプロファイル解析[2]や疾患バイオマーカー探索[3]に中心的な役割を果たしてきた。質量分析計はNMR、X線構造解析に比べ極めて高い感度を持つことから、脳組織だけでなく血液や脳脊髄液中の微量分子を試料とした解析にも多用されている[4]。質量分析計が解析対象とする分子は幅広く、ペプチドを初めとして[5][6]、グルタミン酸、GABA等のアミノ酸系神経伝達物質[7]や、モノアミン類[8]、アセチルコリン[9][10]等の神経伝達物質、サイクリックAMPサイクリックGMPのような環状ヌクレオチド[11]の解析にも利用されてきた。

イオン源の種類と動作原理

 質量分析の分析対象となるのはイオンである。試料化合物をイオン化する装置がイオン源であり、以下に示すような複数のイオン化原理に基づいている。とりわけマトリックス支援レーザー脱離イオン化法(matrix-assisted laser desorption/ionization、MALDI法)とエレクトロスプレーイオン化法(ESI法)は、それまでのイオン化法では断片化しやすかった高分子化合物のイオン化を可能にした[12][13]。このことにより医学生物学分野におけるタンパク質ペプチド多糖等の生体高分子の解析が大きく発展した。

マトリックス支援レーザー脱離イオン化法

 マトリックス支援レーザー脱離イオン化法(matrix-assisted laser desorption/ionization、MALDI法)は、試料化合物とイオン化促進剤(マトリックス)の混合物にパルスレーザーを照射することにより試料化合物をイオン化し、気体中に放出する技術である[14][15]。レーザーエネルギーの殆どはこれらのマトリックス化合物に吸収されるため、試料は分解されず、水素イオンの付加により生じる[M + H]+ナトリウムイオンの付加による [M + Na]+、水素イオンの除去による [M − H]-等の化合物由来イオンが主に検出される。 M/z 3000を超す巨大分子をイオン化できることが長所である。欠点としては、低極性分子のイオン化が一般に難しいことが挙げられる。

エレクトロスプレーイオン化法

 エレクトロスプレーイオン化法(electrospray ionization、ESI法)では、液体試料が細管先端から窒素ガスと共に噴霧される[16]。溶媒の蒸発に伴いイオンが形成される。ESI法では多価イオン[M + nH]n+がしばしば形成されるので、高分子量化合物が小さなm/z範囲で検出されるのが特徴である。したがって広い質量範囲に亘り測定を行える利点がある。ESIは大気圧イオン化法の一つであり、液体クロマトグラフィー質量分析(LC/MS)はESIの開発により実現したといえる。

化学イオン化法

 化学イオン化法(chemical ionization、CI法)ではメタンアンモニア等の反応ガスに熱電子を衝突させることで、あらかじめ反応ガスをイオン化する。このようにして生じた1次イオンがイオン分子反応で2次イオンを生じた後に、導入された気相の試料分子と反応し試料分子のイオン化をもたらす。 イオン化がソフトなためフラグメンテーションが起こりにくいことが長所である。試料を加熱気化する必要があるため、難揮発性分子や不安定な物質の測定が難しいことが欠点である。

電子イオン化法

 電子イオン化法(electron ionization, EI法)は、運動エネルギーを持った電子(熱電子)を気相中の分子に照射することでイオン化を行う技術である。ガスクロマトグラフィーMSのイオン化法として用いられている。試料を加熱し気化させることが必要であるため難揮発性の物質の解析が難しく、また試料がフラグメンテーションしやすいため分子量の大きい物質は解析困難であることが欠点である。非イオン性の低分子量有機化合物の分析のための技術として用いられている。

高速原子衝撃法

 高速原子衝撃法(Fast Atom Bombardment, FAB法)は、グリセロールグリセリン)等のマトリックスに溶解させた試料に、加速したキセノンまたはアルゴン原子を照射することでイオン化する方法である。 FABでは極性の低い分子も比較的容易にイオン化できるのが長所であるが、一方でMALDIのように巨大分子をイオン化できないのは短所といえる。

質量分析部の種類と動作原理

 質量分析部は、電磁気的相互作用を利用することにより、m/zに従いイオンを分離する部分である。分離方法は飛行時間型磁場型四重極型イオントラップ型フーリエ変換型等の動作原理に基づいている。複数の原理を組み合わせたハイブリッド型も最近では開発されている。ここでは代表的な動作原理に基づく装置について記述する。

飛行時間型

 飛行時間型(time-of-flight, TOF) 装置は、一定の加速電圧で加速されたイオンが一定距離を飛行するために必要な時間が、イオンのm/zの値により異なることを利用した装置である[15][17]。真空の分析管を通過する間にイオンは分離され、m/zの小さいものから順次イオン検出器に到達する。原理上、測定対象となる質量の上限がないため、高分子量化合物の測定に適している。全てのイオンを検出するため、測定感度が高い。一方で、飛行距離を長くすると装置が大型化するという欠点がある。

磁場セクター型

  磁場セクター(magnetic sector) 型装置ではイオン化された試料化合物は加速電圧で加速され、扇形分析管中の磁場に入射され、ローレンツ力により軌道を変える[18]。分析管の半径と一致する軌道を示すイオンは分離部を通過し、検出器で検出される。この条件を満たすイオンのm/zは加速電圧と磁場強度に依存するため、加速電圧を一定にし、磁場強度を変化させることにより任意のm/zのイオンを検出することができる。分解能が高いのが長所である。外部磁場を必要とするので機体全体としては大型になるのが短所である。

リニア四重極型

 リニア四重極型装置(linear quadrupole) では、真空容器中に4本の円筒形の棒状電極が、中心軸から等距離・平行に配置されている[19]。隣接する電極に正負逆の電位を、向かい合う電極に等しい電位を与えるという条件のもとに、各電極に直流交流の成分を持つ電位を印加すると、四重極中に周期的に位相の変化する電場が生じる。イオン源で生成されたイオンは四重極の領域に進入し、イオンと同極性の電極対からの斥力と、逆極性の電極対からの引力を受け振動する。電位の直流成分、交流成分の振幅と周波数により決まる特定範囲のm/zのイオンのみが、棒状電極にぶつからずに四重極を通過し、検出器に到達する。比較的小型で単純な構造を持ち安価である長所を持ち、汎用装置として広く普及している。検出器に到達するのは生成されたイオンの一部であるため、感度が低いのが欠点である。

四重極イオントラップ

 四重極イオントラップ(quadrupole ion trap, QIT) は三次元の高周波四重極電場によりイオンを蓄積することを基本原理とする[20]。ドーナツ状のリング電極とそれを挟む2つのエンドキャップ電極で構成され、リング電極の入り口側にイオン化部,出口側に検出器が配置されている。導入されたイオンは電極間にトラップされる。リニア四重極では安定な振動を行うイオンが四重極を通過し検出されるが、四重極イオントラップでは不安定な振動のイオンが系外へ排出され検出される。リニア四重極に似た特徴を持つが、原理上、導入された全てのイオンを検出できるためより高感度である。また機体は小型で安価である。一方で蓄積可能なイオン量に制限があるため定量性は劣る。

フーリエ変換イオンサイクロトロン共鳴

 イオンを磁場中に導入すると、ローレンツ力を求心力(向心力)として、イオンは磁場と鉛直に交わる面で回転運動する[21]。これはサイクロトロン運動と呼ばれ、運動の周波数はイオンのm/z磁束密度に依存する。励起極板間にこの周波数の電圧を印加すると、共鳴するイオンはエネルギーを吸収し、サイクロトロン運動の位相が揃い回転半径は増す。このとき検出極板間に生じる誘導電流は異なるサイクロトロン共鳴周波数が合成されたものである。フーリエ変換イオンサイクロトロン共鳴(fourier transform ion cyclotron resonance, FT-ICR) 型装置では、この誘導電流をフーリエ変換することで周波数スペクトルおよび質量スペクトルマススペクトル)が得られる。高い質量分解能が利点であり、一方価格が高いことが欠点である。

質量分析計を応用した分析技術

2次元電気泳動質量分析法

 2次元電気泳動によりタンパク質を分離し、個々のタンパク質を質量分析計を用いて同定する方法が2次元電気泳動質量分析法(2DE/MS)である。2DE/MSは脳科学を含む生命科学全般で用いられてきたが、現在のプロテオーム解析では分離能やスループット性で優るLC/MS/MSが使われることが多い。

液相クロマトグラフィータンデム質量分析法

 質量分析計に高速液体クロマトグラフィー装置を接続し、溶液試料を解析する手法が液相クロマトグラフィー質量分析法(LC/MS)である。さらに、1回の測定で2段階以上の質量分析を組み合せる技術であるタンデムMSと組み合わせることにより、液相クロマトグラフィータンデム質量分析法(LC/MS/MS)が開発された。LC/MS/MSにより特定のm/zの分子を選択しフラグメント化することができるため、夾雑物の影響を抑えた構造解析が可能である。 プロテオーム解析において、蛋白質混合溶液をプロテアーゼ処理し、得られたペプチド断片混合液をLC/MS/MSに供し、データベース検索により質量情報からペプチドを同定し、さらにそのペプチドが由来したタンパク質を同定する手法であるショットガン法が利用されてきた。

イメージング質量分析法、質量顕微鏡法

 イメージング質量分析法(IMS)とは、固体試料上の各点で直接分子のイオン化と質量分析を行うことで、分子を可視化する技術である。固体試料切片に対しレーザーによる二次元走査を行い、イオン化された分子を質量分析する。得られた質量スペクトルを再構成することにより、任意のm/zの分子の試料内分布情報を得ることができる。MADLI法の登場により、イメージング質量分析法は生体分子のイメージングに広く用いられるようになった。現在では顕微鏡レベルと言ってよい空間解像度での測定が可能となっており、肉眼解像度(100 μm)を超える解像度を持つイメージング質量分析法は特に質量顕微鏡法と呼ばれる[22]。乳児神経軸索性ジストロフィーモデルマウスにおけるシナプス構成分子の可視化を初めとして、脳科学における質量顕微鏡法の利用は増えている[23]

参考文献

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