「物体探索」の版間の差分

提供:脳科学辞典
ナビゲーションに移動 検索に移動
編集の要約なし
(ページの作成:「英:Object exploration  動物は環境を自発的に探索することにより、環境にある物体の性質や複数の物体の配置に関する知識を獲...」)
(3人の利用者による、間の83版が非表示)
1行目: 1行目:
<div align="right"> 
英:Object exploration
<font size="+1">[http://researchmap.jp/read0102345 上北 朋子] イラスト:奥村 紗音美</font><br>
''同志社大学 心理学部心理学科''<br>
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2013年3月13日 原稿完成日:2013年7月2日 一部改訂:2021年6月3日<br>
担当編集委員:[http://researchmap.jp/atsushiiriki 入來篤史](独立行政法人理化学研究所)
</div>


英語名:object exploration
 動物は環境を自発的に探索することにより、環境にある物体の性質や複数の物体の配置に関する知識を獲得し、環境の変化を察知することができる。基本的には物体探索は自発的に行われるが、強化子を用いて探索行動を誘発し、物体認知能力や記憶力を測定する課題もある。


{{box|text= 動物が環境を探索する時、目新しい物体に対しては時間をかけて探索を行い、何度も探索を繰り返すことにより馴化が生じる。馴化の後、新しい物体を提示することや、物体の位置を変化させることによって、探索行動は増加する。このように物体探索は、環境内に生じた変化に対して、動物が自発的に接近する行動であり、動物のもつ新奇な事象に対する好奇心が動機づけとなっている。物体自体の認知と物体の空間的配置の認知は、異なる神経基盤によって支えられている。}}
== 物体探索と物体認知 ==


== 物体探索とは  ==
 動物が環境を探索する時、目新しい物体に対しては時間をかけて探索を行い、すでに探索が行われ馴染んだ物体には探索量が減少する。また、物体と物体の位置関係が変化しても探索行動が増加する。このように物体探索行動に見られる新奇物体と馴染物体に対する探索行動の違いや、位置の変化に対する反応は、物体そのものの認知および物体の配置に関する認知に基づいており、これを総称して物体認知と呼ぶ。  正常な動物は、環境の変化に応じて物体認知を更新することができるが、側頭葉内側部を破壊されたサルでは物体認知の障害が生じることが報告されている(Murray &amp; Mishkin, 1998)。ヒトにおいても、アルツハイマー症や脳梗塞、脳炎、慢性アルコール中毒などにより側頭葉内側部にダメージを受けた患者において物体認知障害が生じる(Mumby, 2005)。


 動物が環境を探索する時、目新しい物体に対しては時間をかけて探索を行い、何度も探索を繰り返すことにより馴化(habituation)が生じ、探索量が減少する。しかし、すでに馴化が生じた馴染物体であっても、物体間の位置関係が変化した場合や、物体の置かれた環境が変化した場合に探索行動が増加する。このように物体探索行動は、環境内に生じた新たな変化に対して、動物が自発的に接近する行動であり、動物のもつ新奇な事象に対する[[嗜好性]](novelty preference)<ref><pubmed>20060020</pubmed></ref>や[[好奇心]](curiosity)<ref><pubmed>5328120</pubmed></ref>が動機づけとなっている。
=== 物体探索課題 ===


 物体や物体の位置、物体の置かれた環境を実験的に操作し、探索行動に及ぼす局所的脳破壊や薬物投与の効果を調べることにより、物体の[[認知]]、位置の認知、および環境の認知に関わる脳領域を明らかにすることができる。
 物体探索課題では、通常オープンフィールドに複数の物体を配置し、これを動物に探索させる。例えば、二つの同じ物体を探索させた後、ひとつの物体を新しい物体に置き換えられると、ラットは新奇物体を優先して長時間探索する(Berlyne, 1950)。このように、新奇物体に対する探索嗜好性を利用した物体探索課題は、食餌制限による動機づけの操作や、課題のルールに関する先行訓練が必要でなく、簡便な行動課題として広く使用されている。 2.1 物体探索行動の定義と指標 物体探索についての操作的定義は研究者によって多少の違いがある。多くの場合、ラットの吻部が物体に接触している状態(Poucet, 1989)、および物体から1cm以内(Norman &amp; Eacott, 2005)または2cm以内(Ennaceur &amp; Delacour , 1988)にある状態と定義される。物体の上に登る行動や、物体の周囲を回る行動は物体探索とみなさない。ラットが物体にどのように触っているかを分析することは必要ないが、一貫して適応できる簡便な操作的定義をしておくことが重要である(Mumby, 2005)。 新奇物体への嗜好性は、単純に新奇物体と馴染物体の探索量を比較することでも可能であるが、探索量の個体差の問題を除外するために、馴染物体と新奇物体の全探索量に対する新奇物体探索量の割合として示されることが多い。物体馴致試行における探索量とテストにおける馴染物体または新奇物体の探索量の変化量を指標とすることもある。統計的に有意な嗜好性を示しているかどうかについて、ワンサンプルt検定により、群の平均探索率がチャンスレベルよりも有意に異なっているかどうかを調べることができる。ただし、嗜好性が強いということが、認知能力の高さを示しているかどうかは明らかでない(Mumby, 2005)。


== 物体探索課題  ==
=== 物体探索行動に影響する要因 ===
 
 この課題は、主として物体の認知や位置および環境の認知を測定するために使用される。物体探索課題では、実験アリーナに複数の物体を配置し、これを動物に探索させる。実験場面や物体への馴化が生じた後に、物体や物体の配置および環境を変化させ、これらの変化に対して、探索行動が増加するかを検討する。この課題は、食餌制限による動機づけの操作や、課題のルールに関する先行訓練が必要でなく、簡便な行動課題として広く使用されている。
 
=== 物体探索行動の定義  ===
 
物体探索についての操作的定義は研究者によって多少の違いがある。多くの場合、動物の吻部が物体に接触している状態<ref><pubmed>2803548</pubmed></ref>、および物体から1cm以内<ref><pubmed>15839802</pubmed></ref>または2cm以内<ref name="Enna"><pubmed>3228475</pubmed></ref>にある状態と定義される。物体の上に登る行動や、物体の周囲を回る行動は物体探索とみなさない。動物が物体にどのように触っているかを分析することは必要ないが、一貫して適応できる簡便な操作的定義をしておくことが重要である<ref name="Whi">'''Ian Q. Whishaw. Bryan Kolb.'''<br>The Behavior of the Laboratory Rat: A Handbook with Tests.''<br>''Oxford University Press, USA,1 edition'':2004</ref>。
 
=== 物体探索行動に影響する要因 ===


==== 物体の変化 ====
==== 物体の変化 ====


[[Image:Uekita Ob Fig.1.jpg|thumb|350px|'''図1.物体認知を調べる課題''']]
Ennaceur &amp; Delacour (1988) は45 cm x 65cmで高さ45 cmの壁のあるオープンフィールド内に、1つまたは2つの同じ物体を置き、これをラットに数分間探索させた。一旦、ラットを広場から出して遅延をおき、再度、動物を2つの物体のある広場に戻し探索させた。一方は遅延前に提示した物体と同じ物体(馴染物体)で、他方は異なる物体(新奇物体)である。新奇物体の探索時間が馴染物体の探索時間より長ければ、動物が馴染物体を記憶していることの裏付けとなる。遅延時間が1分の時、明らかに新奇物体に対する選好が見られるが、遅延時間が長くなるにつれ、その傾向は減少した。この課題は、課題のルールに関する学習すなわち参照記憶が必要でないため、測定値は物体についての作業記憶を反映している。 2.2.2 位置の変化 Thinus-Blanc, Bouzouba, Chaix, Chapuis, Durup &amp; Poucet (1987)は、約1mのアリーナに配置した複数の物体の位置的関係性の変化が、物体探索行動に影響することを示した。この課題は、装置馴致および連続する3セッションからなる。1セッションは15分間、セッション間間隔は10時間程度であった。最初の2セッションは、物体馴致セッションであり、同じ配置の物体を繰り返し探索させる。第3セッションにおいて、新しい配置で同じ物体の探索を行わせる。もし新しい位置に移動した物体への探索行動が増加すれば、動物が空間的関係性の符号化ができたとみなすことができる。  探索行動の変化は物体の配置の変化の仕方によって異なっていた。例えば、4つのうちの1つの物体の配置が変化し、配置が変わった物体に対して再探索が生じた。4つの物体の配置が4角形から3角形へと幾何学的に変化すると、配置が変わった物体と変わっていない物体のそれぞれに対して再探索が生じた。興味深いことに、幾何学的配置を保ったまま、物体間の距離のみが変わった場合には再探索は起こらなかった。また、1つの物体を取り除くと、残った物体への探索量が増加した。  上述のように、物体の配置の変化の仕方によって、配置が変わった物体だけでなく、配置が変わっていない物体に対しても探索量が増えることがある。したがって、物体の空間的配置の認知ができているかどうかの判断は、単純に移動物体と固定物体の比較だけでは不十分であるだろう。
 
 動物に二つの同じ物体を探索させた後、ひとつの物体を新しい物体に置き換えると、正常な動物は新奇物体を優先して長時間探索する<ref name="Enna" /><ref name="Dix"><pubmed>10512585</pubmed></ref> 。
 
 Ennaceur&nbsp;&amp; Delacour (1988)<ref name="Enna" /> は45 cm x 65cmで高さ45 cmの壁のある実験アリーナに、2つの同じ物体を置き、これを[[wikipedia:ja:ラット|ラット]]に数分間探索させた(見本段階)。一旦、ラットを広場から出して遅延をおき、再度、動物を2つの物体のある広場に戻し探索させた([[テスト]]段階)。一方は遅延前に提示した物体と同じ物体(馴染物体)で、他方は異なる物体(新奇物体)である(図1)。新奇物体の探索時間が馴染物体の探索時間より長ければ、動物が以前に探索した物体を認知したと結論できる。
 
 物体認知(弁別)には、物体の形、材質、匂い、色、明るさなど物体のもつ様々な特徴が手掛となりうる。ただし、ラットやマウスの視細胞の97%は暗所で機能する桿体細胞であるため、色の[[知覚]]に限界があることを考慮する必要がある。この他、物体認知に[[触覚]]が使用されることもある。一方の物体の表面に凸凹があり、他方の物体の表面が滑らかであれば、触覚が弁別の有効な手掛りとなるだろう。<ref><pubmed>20060020</pubmed></ref> 。
 
 脳損傷や薬物投与によって馴染物体と新奇物体の探索時間に違いが見られなくなった場合、物体認知の障害が生じていると解釈できる。また、遅延時間に依存して障害が生じる場合には、[[作業記憶]]障害が生じている可能性を検討すべきである。
 
 この課題は課題のルールに関する学習が必要でないため、[[参照記憶]]障害の可能性は除外できるだろう。
 
==== 位置の変化 ====
 
[[Image:Uekita Ob Fig.2.jpg|thumb|350px|'''図2.位置認知を調べる課題''']]
 
[[Image:Uekita Ob Fig.3 new.jpg|thumb|350px|'''図3 位置認知と物体認知の複合課題'''<br> (<ref name=ref100 />をもとに作成)]]
 
 あらかじめ探索させた複数の物体の配置を変化させると、正常な動物では配置の変化した物体に対して探索行動が増加する<ref name="Dix" />。
 
 Dix & Aggleton(1999)<ref name="Dix" />は100 cm x 100cmで高さ46 cmの壁のある実験アリーナに、2つの同じ物体を置き、これをラットに数分間探索させた(見本段階)。一旦、ラットを広場から出して遅延をおき、再度動物を2つの物体のある広場に戻し探索させた(テスト段階)。この時、使用する2つの物体は見本段階と同じものであるが、片方の物体のみ、見本とは異なる位置に配置した(図2)。もし新しい位置に移動した物体への探索行動が増加すれば、物体の位置関係についての認知的処理が行われたとみなすことができる。
 
 探索行動の変化は物体の配置の変化の仕方によって異なる<ref name="Thi1987">'''Thinus-Blanc, C., L. Bouzouba, K. Chaix, N. Chapuis, M. Durup, & B. Poucet'''<br>A study of spatial parameters encoded during exploration in hamsters''<br>''Journal of Experimental Psychology: [[Animal]] Behavior Processes'':1987,13,418-427</ref>。例えば、4つの物体を配置して馴致した後、第3セッションで1つの物体の配置を変化させると、配置が変わった物体に対して探索時間が増加した。
 
 4つの物体の配置を4角形から3角形へと幾何学的に変化させると、配置が変わった物体と変わっていない物体いずれに対しても探索量が増加した。興味深いことに、幾何学的配置を保ったまま、物体間の距離のみが変わった場合には探索時間の増加はみられなかった。また、1つの物体を取り除くと、残った物体への探索量が増加した。
 
 物体の位置関係の認知と物体の認知に関わる神経基盤は、物体馴致セッション、位置認知テスト、物体認知テストを含む一連の手続きによって同時に検討することができる(図3)。Save, Poucet, Foreman, &amp; Buhot (1992)<ref name=ref100><pubmed>1616611</pubmed></ref> は、円形の実験アリーナに5つの異なる物体を配置し、ラットに探索させた。物体馴致として6分間の探索を3セッション繰り返した後、位置認知テストにおいて2個の物体を移動させた。
 
 統制群と前部[[頭頂皮質]]損傷群のラットは配置の変化した物体に対して変化していない物体よりも多く探索行動を示したが、[[海馬]]損傷群と後部頭頂皮質損傷群のラットではこのような傾向が見られず、物体の位置関係の認知に失敗した。次の物体認知テストでは、一つの物体を新しい物体に置き換えたところ、全ての群のラットが新しい物体に対して探索行動が増加した。これらの結果は、海馬や後部頭頂皮質が物体の位置関係の認知に関与するが、物体自体の認知には関与しない事を示している。位置関係の認知に選択的な障害は、[[wikipedia:ja:げっ歯類|げっ歯類]][[デグー]]の海馬破壊<ref><pubmed>21291914</pubmed></ref>やラット[[NMDA型グルタミン酸受容体]]の薬理学的阻害<ref>'''関口理久子'''<br>ラットの空間探索行動に及ぼすNMDAアンタゴニスト,MK-801の効果''<br>''心理学研究'':1997,68,88-94</ref>によっても生じることが報告されている。


==== 環境の変化 ====
==== 環境の変化 ====


[[Image:Uekita Ob Fig.4 new.jpg|thumb|350px|'''図4.環境の認知を調べる課題'''<br>(<ref name="Dix" />をもとに作成)丸は物体A、三角は物体Bを示す。]]
 Dix &amp; Aggleton (1999)は、物体の置かれた環境が変化すると、物体への探索行動が増加することを報告している。彼らの実験では二つの異なる環境(X, Y)と2種類の物体の複製3個(A1-A3、B1-B3)を使用している。環境Xで二つの同じ物体Aのペアー(A1, A2)を探索させ、環境Yでは物体Bのペアー(B1, B2)を探索させる。それぞれ、3分間の試行を2試行ずつ実施し、5分間の遅延後のテスト段階において、ペアー物体のうちの一つの環境を入れ換える。すなわち、環境Xまたは環境Yにおいて物体A3および物体B3を探索させる。環境Xの場合、物体A3は環境一致物体、物体B3は環境不一致物体であり、環境Yの場合、物体A3が環境不一致物体であり、物体B3が環境一致物体である。正常なラットは、環境一致物体よりも環境不一致物体に対して長い探索行動を示した。同様の実験において、海馬 (Mumby, 2002)や後嗅領皮質(Norman &amp; Eacott, 2005)を破壊された動物は、このような傾向を示さないことが報告されている。
 
 あらかじめ探索させた物体を異なる環境で再度探索させると、正常な動物では、環境の変化に応じて物体への探索行動が増加することが報告された<ref name="Dix" />。この課題では、セッション1において、相同の二つの物体(A1とA2)を環境Xで探索させ、異なる相同の2つの物体 (B1とB2)を環境Yで探索させる。それぞれの環境で、3分間のセッションを2試行ずつ実施する(見本段階)。
 
 5分間の遅延後、ペアー物体のうちの一つの環境を入れ換える(テスト段階)。例えば、環境Xに物体A1と物体B1を配置し探索させる(図4)。この時、物体A1は環境一致物体、物体B1は環境不一致物体である。
 
 セッション2において、見本段階での試行の順序を入れ換えて3分間のセッションを2試行ずつ実施し、テスト段階では環境Yに物体A1と物体B1を配置し探索させる。この時、物体A1は環境不一致物体、物体B1は環境一致物体である。
 
 このように、それぞれの環境においてテストした結果、正常なラットは、環境一致物体よりも環境不一致物体に対して長い探索行動を示したが、海馬 <ref name="mum2002"><pubmed>11992015</pubmed></ref>や[[後嗅領皮質]] <ref><pubmed>15839802</pubmed></ref>を破壊された動物は両物体への探索行動に違いがなく、環境と物体の組み合わせの変化に反応を示さないことが報告されている。
 
=== 実施上の注意点  ===
 
 動物が実験環境に十分に慣れていない場合、[[フリーズ]]が起こり、探索行動そのものが生じない可能性がある。したがって、実験前に10分から15分の短時間の環境馴致を数試行行い、動物を実験環境に慣れさせておく必要がある。使用する物体に関して、物体の特徴や複雑さによって探索量が異なることがある。したがって、使用する物体がどのくらい探索を引き起こすかをあらかじめ調べ、あまりにも探索量が多い物体と、あまりにも少ない物体は使用しない方がよい。また、探索中に物体についた匂いなどによって物体を弁別する可能性を排除するため、物体はペアーで準備しておき、一方を見本段階、もう一方はテスト段階で用いるようにする必要がある。


 データ分析に関して、探索行動は、探索開始から1,2分間は強く現れるが、馴化は比較的素早く生じ、探索行動が終了する。探索終了後のデータは実験操作に対してノイズを加えることになり、テストの初期段階で起こっているだろう新奇嗜好性を不明瞭にしてしまう可能性がある。したがって、1分ごとに探索量を調べ、どのように新奇嗜好性が変化するかを確認する必要がある<ref name="mum2002" />。
=== 実施上の注意点 ===


 新奇物体への嗜好性は、単純に新奇物体と馴染物体の探索量を比較することでも可能であるが、探索量の個体差の問題を除外するために、馴染物体と新奇物体の全探索量に対する新奇物体探索量の割合として示されることが多い。物体馴致セッションにおける探索量とテストにおける馴染物体または新奇物体の探索量の変化量を指標とすることもある。統計的に有意な嗜好性を示しているかどうかについて、ワンサンプル[[wikipedia:ja:t検定|t検定]]により、群の平均探索率がチャンスレベルよりも有意に異なっているかどうかを調べることができる。ただし、新奇物体への嗜好性が強いということが、認知能力の高さを示しているかどうかは明らかでない<ref name="Whi" />
動物が実験環境に十分に慣れていない場合、フリーズが起こり、探索行動そのものが生じない可能性がある。したがって、実験前にラットを10から15分の短時間の環境馴致を数試行行い、実験環境に慣れさせておく必要がある。  使用する物体に関して、物体の特徴や複雑さによって探索量が異なることがある。したがって、使用する物体がどのくらい探索を引き起こすかをあらかじめ調べ、あまりにも探索量が多い物体と、あまりにも少ない物体は使用しない方がよい。また、探索中に物体についた匂いなどによって物体を弁別する可能性を排除するため、物体はペアーで準備しておき、一方を見本段階、もう一方はテスト段階で用いるようにする必要がある。  データ分析に関して、探索行動に対する新奇嗜好性は、探索開始から1,2分間は強く現れるが、馴化は比較的素早く生じ、探索行動が終了される。探索終了後のデータは実験操作に対してノイズを加えることになり、テストの初期段階で起こっているだろう嗜好性を不明瞭にしてしまう可能性がある。したがって、1分ごとに探索量を調べ、どのように新奇嗜好性が変化するかを確認する必要がある(Mumby et al., 2002)。  


 また、前述のThinus-Blanc et al.(1987)<ref name="Thi1987" />の実験によると、物体の配置の変化の仕方によって、配置が変わった物体だけでなく、配置が変わっていない物体に対しても探索量が増えることがある。したがって、位置関係の認知的処理ができているかどうかの判断は、単純に移動物体と固定物体の比較だけでは不十分であるだろう。
== 遅延非見本合わせ課題 ==


==ヒトにおける物体認知の発達==
delayed nonmatching to sample,DNMS
===注視時間と探索行動===
 ヒトの生後ごく初期における物体認知能力は、対象をどれだけ長く見ているかという注視時間を指標とすることが多い。最もシンプルな手続きは選好注視法である。一対の刺激を提示し、それぞれの刺激を注視する時間に偏りが生じるかを調べる。どちらかの刺激をより長く注視していたならば、二つの刺激を弁別できたとみなされる。別の方法として馴化・脱馴化法があり、これは上述した動物実験のものと同じ実験パラダイムである。すなわち、何らかの刺激を複数回提示し、注視時間が短くなったところで(馴化成立)、新たな刺激を提示する。この時、注視時間の増加(脱馴化)が見られたならば、最初の刺激と後に提示された刺激を弁別できたとみなされる<ref>'''加藤正晴'''<br>視線計測による乳児研究の新展開<br>''心理学評論'':2009,52,35-50</ref>。このような方法によって、まだ言語獲得以前の子どもにおいて物体そのものの認知や物体の空間的特性や物理的特性の認知を測定することができる。探索行動を指標として認知機能を測定した研究もあるが、注視か探索かという指標の違いによって、課題の遂行成績が一致しないことが指摘されてきた。


===物体の永続性===
DNMS課題は、サルやラットにおいて物体認知を測定するために使用される課題である。この課題は見本試行と選択試行から構成される。まず、見本試行において、見本物体が短時間提示され、遅延時間後の選択試行では、見本物体と同じ物体が新奇物体とともに提示される。動物が新奇物体を選択すると報酬が与えられる。各試行で遅延時間の長さを操作することで、記憶負荷を操作することができる。 同様の実験パラダイムにおいて、見本と同じ物体を選択した場合に報酬がもたらされる遅延見本合わせ課題(delayed matching to sample, DMTS)もある。ただし、動物は新奇物体に対する探索欲求が高く、新奇物体を選択させるDNMSのほうが、比較的素早く習得できる。以下に述べる課題は報酬課題であり、訓練時には食餌制限による動因操作を行う必要である。
 指標が注視時間か探索行動かによる遂行成績の不一致は、永続性の概念についての一連の研究において議論となった<ref>'''J・ ヴォークレール 著 明和政子 監訳/鈴木光太郎 訳'''<br>乳幼児の発達 運動・知覚・認知<br>''新曜社(東京)'':2012</ref> <ref>''''U・ゴスワミ 著 岩男 卓実, 上淵 寿, 古池 若葉, 富山 尚子, 中島 伸子訳'''<br>子どもの認知発達<br>''新曜社(東京)'':2003</ref>。物体認知発達心理学者であるPiaget(1896年-1980年)は、ヒトの誕生から2年間の期間を感覚運動段階と呼び、この期間に乳幼児は自己の運動と外界に存在する物体との関係を学習していくと考えた。その代表的な認知として物体の永続性(object permanence)が挙げられる。永続性とは物体が見えなくなっても存在し続けることの認知であり、隠された物体の探索行動が生じる場合に永続性が確立されたとみなされる。この物体探索行動は発達とともに段階的に変化していく。誕生から2カ月までは物体が視界から消えても反応しない。4カ月から8カ月の乳児では物体が視界から消えると驚く反応を見せるものの探索行動は生じない。しかし、8カ月から12ケ月の乳児では、布や衝立で隠された物体を積極的に探索するようになる。したがって、物体の永続性の概念の獲得には1年程度を要するのであると考えられた。ところが、注視時間を指標とするBaillargeonの実験「跳ね橋実験」<ref>'''R Baillargeon'''<br>Object permanence in 3 l/2- and 4 l/2-month-old Infants.<br>''Developmental Psychology'':1987,23,655-664</ref>では、物体の永続性の認知そのものは3.5カ月で獲得されることが示された。この実験では、物体とそれに向かって移動する衝立の映像が“ありえる条件”と“ありえない条件”の2条件で提示され、それぞれに対する注視時間が測定された。“ありえる条件”では、衝立が物体にぶつかって止まるのに対して、“ありえない条件”では衝立が物体を通り越して移動を続ける。3.5カ月齢の乳児において“ありえない条件”での注視時間が“ありえる条件”よりも長くなったことから、3.5カ月ですでに物体が存在し続けるという永続性の認知が可能であることを示している。したがって、物体の永続性の認知と消えた物体に対する探索行動の発現の時期は必ずしも対応するわけでない。


===探索エラー===
=== サルの遅延非見本合わせ課題 ===
 物体探索行動が開始された後も、しばしば探索エラーが生じる。Piagetは9月齢前後の乳児では、物体が目の前で衝立Aから衝立Bの後ろに移動しても、衝立Aの後ろを探し続ける「A-not-Bエラー」が生じることを指摘した。Diamondによるサルの前頭皮質損傷や研究やヒトの前頭皮質損傷患者を対象とした一連の研究により、「A-not-Bエラー」は[[前頭前野]]の未成熟によると考えられている。
 物体の特性を知覚レベルでは認知しているにもかかわらず、実際の探索行動が成功しない例は落下する物体の探索行動にも見られる。選好注視法を用いた実験では、物体が障害物によって妨げられている軌跡上を通過しないという固体性(solidity)の概念は、生後3,4カ月で獲得されることが確認されている。しかし、落下する物体を探索させる課題では2歳児でも探索エラーが多く見られた。この探索エラーは、固執傾向というよりむしろ、物体と障害物との位置関係の表象を形成することの困難さや障害物に対する注意の欠如により生じると考えられている<ref>'''大杉 佳美・内山伊知郎'''<br>2,3歳児における固体性の認知に関する探索行動について<br>''行動科学'':2013,51,81-89</ref>。
==神経基盤  ==
 物体探索行動は新奇な物体の出現や物体の配置の変化など、環境内に生じた新たな変化によって引き起こされる行動である。この時、新奇な事象が行動の誘因であり、いわば報酬の役割をもつといえる。神経細胞レベルにおいても、新奇刺激が報酬系すなわち[[ドーパミン]]ニューロンの活動を引き起こすことが報告されている<ref><pubmed>9658025</pubmed></ref>。新奇刺激のインパクトによって反応の強度や持続性は異なるが、刺激が繰り返し提示されると、その活動は鎮静化していく。ドーパミンニューロンの障害によるおこるパーキンソン病の患者では新奇探索傾向が減少し、危険回避傾向が増加する<ref><pubmed>15201352</pubmed></ref>。同様の行動傾向を、ドーパミンD4受容体ノックアウトマウスが示すことが報告されている<ref><pubmed>10531457</pubmed></ref>。


 これまで、物体探索行動を指標として測定された物体認知の神経基盤としては、海馬が物体の空間的な位置情報処理に関与するが、物体認知そのものには重要でないという一致した見解が得られてきた。主にげっ歯類を対象とする物体探索課題では、物体認知に関わる脳領域についての積極的な結果が得られていない。霊長類では非見本合わせ(nonmatching to sample)という手続きにより物体認知が測定されてきた。この課題の物体認知テストでは、見本試行において、テーブル上に見本物体が短時間提示され、選択試行では見本物体と同じ物体が新奇物体とともに提示される。動物が新奇物体を選択すると報酬が与えられる。この課題の位置認知テストでは、テーブル上の左右におかれたふた付の報酬ケースのうち、ランドマークとなる物体により近い方を選択すると報酬が得られる。下側頭葉 TE 野を損傷されたサルは、物体認知テストにおいて著しい障害を示したが、位置認知テストでは障害を示さなかった。一方、下頭頂酔葉PG野を損傷されたサルは、位置認知テストで障害を示したが、物体認知テストでは障害を示さなかった。このような結果から、Mishkinらは、同一の物体の情報処理が、処理内容によって異なる経路を介することを主張した<ref><pubmed>7126325</pubmed></ref> 。すなわち、視覚的に提示された物体について、空間的位置情報は一次視覚野から背側に流れる経路「where pathway」で処理され、物体認知は一次視覚野から腹側に流れる経路「what pathway」で処理されるとした。
 この課題では、テーブルをサルのケージ正面に配置する。テーブル上の3か所には報酬を入れる窪みがある。見本試行では、その窪み1か所に報酬を置き、その報酬に物体をかぶせ置く。サルが物体をずらして報酬を獲得すると、ケージ正面にスクリーンが降り、遅延期間となる。その間、実験者は別の2か所の窪みの上にそれぞれ異なる物体を置く。一方には見本試行とは異なる新奇な物体、他方には見本と同じ物体を置く。新奇な物体の下の窪みに報酬があり、サルが新奇な物体を選択することが正反応である。この物体をずらすと報酬を獲得することができる。Mishkin (1979)は、この課題を用いて、マカクザルの海馬と扁桃体を含む頭葉内側部の損傷の効果を検討した。その結果、見本試行と選択試行の遅延時間が10秒以内である場合、この課題の遂行に損傷の影響はなかったが、それよりも長い遅延時間が挿入されると、その時間依存的に課題の正答率が低くなった。後に同研究者によって損傷の精度を高めて追試が行われた結果、この障害は海馬や扁桃体単独の損傷では生じず、むしろそれらの近辺領域にある嗅皮質の損傷が障害を引き起こしたことが明らかになった(Murray &amp; Mishkin, 1998)。したがって、海馬と嗅皮質は物体の記憶に関して異なる役割を担っており、物体の記憶には海馬ではなく嗅皮質が重要な役割を担うと考えられる。


 また側頭葉内側部と物体記憶の関連について、見本試行と選択試行の間に遅延時間を設定する[[遅延非見本合わせ課題]](delayed nonmatching to sample)によって検討されてきた。この課題を用いた初期の実験<ref><pubmed>418358</pubmed></ref>では、[[wikipedia:ja:マカクザル|マカクザル]]の海馬と[[扁桃体]]を含む側頭葉内側部の損傷の効果が検討された。見本試行と選択試行の遅延時間が10秒以内である場合、この課題の遂行に損傷の影響はなかったが、それよりも長い遅延時間が挿入されると、その時間依存的に課題の正答率が低くなった。後に同研究者によって損傷の精度を高めて追試が行われた結果、この障害は海馬や扁桃体単独の損傷では生じず、むしろそれらの近辺領域にある嗅皮質の損傷が障害を引き起こしたことが明らかになった<ref><pubmed>9698344</pubmed></ref>。したがって、物体認知記憶には海馬や扁桃体ではなく[[嗅皮質]]が関与すると考えられる。
=== 齧歯類の遅延非見本合わせ課題 ===


== 関連項目  ==
ラットやマウスにとっては迷路での走路選択のように全身運動を伴うDNMS課題が適しているだろう。Aggleton (1985)は、霊長類で使用されたDNMS課題(Mishkin, 1979)と同じ実験パラダイムをY迷路装置で実施できるようアレンジした。この課題では、Y迷路の走路先端には、模様や材質の異なる目標箱が挿入されている。さらに、箱には異なる物体が設置され、ラットにこれを探索させる。最初の試行では、物体の入っていない箱の置かれた走路からスタートさせ、残る2走路を選択させる。これら2走路には同一の箱と物体が設置され、いずれを選択しても報酬が与えられる。これが最初の見本試行となる。動物が走路を選択すると、20秒間そのまま箱内部に留め置かれ、この遅延期間中に次の選択走路となる2走路の箱が入れ替えられる。一方は先の選択と同じ物体の入った箱が設置され、他方には異なる物体の入った箱が設置される。遅延後の選択試行では、動物が見本で選択した物体と異なる新奇な物体の置かれた箱に入ることが正反応で、そこで報酬が与えられる。見本と同じ物体の置かれた箱に入ったならば誤反応とされ、報酬は与えられない。正反応の場合、その試行は次の試行の見本試行となる。誤反応の場合は、もう一度同じ選択肢で試行を繰り返す。その場合を除いて、セッション内で同じ物体ペアーを繰り返し使用しない。ただし、時間的に十分に間隔のあいたセッション間では繰り返して用いられることもある。Aggleton &amp; Rawlins (1989)は、ラットの側頭葉内側部の複合損傷がこの課題の遂行に及ぼす効果を検討した。その効果は上述のサルで報告されたものと一致し、扁桃体の単独損傷では遂行障害が生じないが、海馬および扁桃体の複合的損傷は、この課題の遂行障害をもたらした。
*[[空間認知]]
*[[作業記憶]]
*[[長期記憶]]
*[[海馬]]


== 参考文献  ==
=== 実施上の注意点 ===


<references />
DNMS課題では、典型的には自由摂食時の体重の80%から85%になるように基準を設けて、動因操作を行う必要がある。ただし、基準が適切でない場合、過活動や反応抑制ができなくなり、課題遂行に悪影響を及ぼす。このため、基準は課題の習得の程度に応じて調節する必要がある。  動物がある左右の特定の一方向ばかりを選択する傾向(サイドバイアス)を形成しないよう注意する必要がある。セッションの中に、矯正試行を挿入し、左右どちらの選択肢も選択する機会を設けることで、サイドバイアスを防ぐことができる。 DNMSの障害が物体認知記憶の失敗によると結論付ける前に、いくつかの他の可能性を考慮しなければならない。例えば、過活動、ストレス反応の変化、反応抑制の問題がDNMSの遂行を妨害する非特異的な効果をもつ可能性がある。損傷実験においては、手術後の回復期間を十分に設け、テスト前に遅延を挿入しない条件で再訓練を行うことも必要だろう。


== 物体認知の神経基盤 ==


(執筆者:上北朋子 イラスト:奥村紗音美 担当編集委員:入來篤史)
 これまで、海馬が物体認知には重要でないことが、各課題での損傷実験から示されている。一方、周嗅領皮質が物体認知には重要であると言われている。これは、視覚刺激が繰り返し提示されたときにおこる周嗅領皮質でのシングルユニット反応やc-fosの発現とも一致している(Aggleton and Brown, 1999)。物体認知記憶の神経基盤の研究は、他の脳部位やサーキットに関しても検討されているが、物体認知の脳内基盤を特定するには至っていない(Mumby, 2005)。

2013年2月25日 (月) 23:27時点における版

英:Object exploration

 動物は環境を自発的に探索することにより、環境にある物体の性質や複数の物体の配置に関する知識を獲得し、環境の変化を察知することができる。基本的には物体探索は自発的に行われるが、強化子を用いて探索行動を誘発し、物体認知能力や記憶力を測定する課題もある。

物体探索と物体認知

 動物が環境を探索する時、目新しい物体に対しては時間をかけて探索を行い、すでに探索が行われ馴染んだ物体には探索量が減少する。また、物体と物体の位置関係が変化しても探索行動が増加する。このように物体探索行動に見られる新奇物体と馴染物体に対する探索行動の違いや、位置の変化に対する反応は、物体そのものの認知および物体の配置に関する認知に基づいており、これを総称して物体認知と呼ぶ。  正常な動物は、環境の変化に応じて物体認知を更新することができるが、側頭葉内側部を破壊されたサルでは物体認知の障害が生じることが報告されている(Murray & Mishkin, 1998)。ヒトにおいても、アルツハイマー症や脳梗塞、脳炎、慢性アルコール中毒などにより側頭葉内側部にダメージを受けた患者において物体認知障害が生じる(Mumby, 2005)。

物体探索課題

 物体探索課題では、通常オープンフィールドに複数の物体を配置し、これを動物に探索させる。例えば、二つの同じ物体を探索させた後、ひとつの物体を新しい物体に置き換えられると、ラットは新奇物体を優先して長時間探索する(Berlyne, 1950)。このように、新奇物体に対する探索嗜好性を利用した物体探索課題は、食餌制限による動機づけの操作や、課題のルールに関する先行訓練が必要でなく、簡便な行動課題として広く使用されている。 2.1 物体探索行動の定義と指標 物体探索についての操作的定義は研究者によって多少の違いがある。多くの場合、ラットの吻部が物体に接触している状態(Poucet, 1989)、および物体から1cm以内(Norman & Eacott, 2005)または2cm以内(Ennaceur & Delacour , 1988)にある状態と定義される。物体の上に登る行動や、物体の周囲を回る行動は物体探索とみなさない。ラットが物体にどのように触っているかを分析することは必要ないが、一貫して適応できる簡便な操作的定義をしておくことが重要である(Mumby, 2005)。 新奇物体への嗜好性は、単純に新奇物体と馴染物体の探索量を比較することでも可能であるが、探索量の個体差の問題を除外するために、馴染物体と新奇物体の全探索量に対する新奇物体探索量の割合として示されることが多い。物体馴致試行における探索量とテストにおける馴染物体または新奇物体の探索量の変化量を指標とすることもある。統計的に有意な嗜好性を示しているかどうかについて、ワンサンプルt検定により、群の平均探索率がチャンスレベルよりも有意に異なっているかどうかを調べることができる。ただし、嗜好性が強いということが、認知能力の高さを示しているかどうかは明らかでない(Mumby, 2005)。

物体探索行動に影響する要因

物体の変化

Ennaceur & Delacour (1988) は45 cm x 65cmで高さ45 cmの壁のあるオープンフィールド内に、1つまたは2つの同じ物体を置き、これをラットに数分間探索させた。一旦、ラットを広場から出して遅延をおき、再度、動物を2つの物体のある広場に戻し探索させた。一方は遅延前に提示した物体と同じ物体(馴染物体)で、他方は異なる物体(新奇物体)である。新奇物体の探索時間が馴染物体の探索時間より長ければ、動物が馴染物体を記憶していることの裏付けとなる。遅延時間が1分の時、明らかに新奇物体に対する選好が見られるが、遅延時間が長くなるにつれ、その傾向は減少した。この課題は、課題のルールに関する学習すなわち参照記憶が必要でないため、測定値は物体についての作業記憶を反映している。 2.2.2 位置の変化 Thinus-Blanc, Bouzouba, Chaix, Chapuis, Durup & Poucet (1987)は、約1mのアリーナに配置した複数の物体の位置的関係性の変化が、物体探索行動に影響することを示した。この課題は、装置馴致および連続する3セッションからなる。1セッションは15分間、セッション間間隔は10時間程度であった。最初の2セッションは、物体馴致セッションであり、同じ配置の物体を繰り返し探索させる。第3セッションにおいて、新しい配置で同じ物体の探索を行わせる。もし新しい位置に移動した物体への探索行動が増加すれば、動物が空間的関係性の符号化ができたとみなすことができる。  探索行動の変化は物体の配置の変化の仕方によって異なっていた。例えば、4つのうちの1つの物体の配置が変化し、配置が変わった物体に対して再探索が生じた。4つの物体の配置が4角形から3角形へと幾何学的に変化すると、配置が変わった物体と変わっていない物体のそれぞれに対して再探索が生じた。興味深いことに、幾何学的配置を保ったまま、物体間の距離のみが変わった場合には再探索は起こらなかった。また、1つの物体を取り除くと、残った物体への探索量が増加した。  上述のように、物体の配置の変化の仕方によって、配置が変わった物体だけでなく、配置が変わっていない物体に対しても探索量が増えることがある。したがって、物体の空間的配置の認知ができているかどうかの判断は、単純に移動物体と固定物体の比較だけでは不十分であるだろう。

環境の変化

 Dix & Aggleton (1999)は、物体の置かれた環境が変化すると、物体への探索行動が増加することを報告している。彼らの実験では二つの異なる環境(X, Y)と2種類の物体の複製3個(A1-A3、B1-B3)を使用している。環境Xで二つの同じ物体Aのペアー(A1, A2)を探索させ、環境Yでは物体Bのペアー(B1, B2)を探索させる。それぞれ、3分間の試行を2試行ずつ実施し、5分間の遅延後のテスト段階において、ペアー物体のうちの一つの環境を入れ換える。すなわち、環境Xまたは環境Yにおいて物体A3および物体B3を探索させる。環境Xの場合、物体A3は環境一致物体、物体B3は環境不一致物体であり、環境Yの場合、物体A3が環境不一致物体であり、物体B3が環境一致物体である。正常なラットは、環境一致物体よりも環境不一致物体に対して長い探索行動を示した。同様の実験において、海馬 (Mumby, 2002)や後嗅領皮質(Norman & Eacott, 2005)を破壊された動物は、このような傾向を示さないことが報告されている。

実施上の注意点

動物が実験環境に十分に慣れていない場合、フリーズが起こり、探索行動そのものが生じない可能性がある。したがって、実験前にラットを10から15分の短時間の環境馴致を数試行行い、実験環境に慣れさせておく必要がある。  使用する物体に関して、物体の特徴や複雑さによって探索量が異なることがある。したがって、使用する物体がどのくらい探索を引き起こすかをあらかじめ調べ、あまりにも探索量が多い物体と、あまりにも少ない物体は使用しない方がよい。また、探索中に物体についた匂いなどによって物体を弁別する可能性を排除するため、物体はペアーで準備しておき、一方を見本段階、もう一方はテスト段階で用いるようにする必要がある。  データ分析に関して、探索行動に対する新奇嗜好性は、探索開始から1,2分間は強く現れるが、馴化は比較的素早く生じ、探索行動が終了される。探索終了後のデータは実験操作に対してノイズを加えることになり、テストの初期段階で起こっているだろう嗜好性を不明瞭にしてしまう可能性がある。したがって、1分ごとに探索量を調べ、どのように新奇嗜好性が変化するかを確認する必要がある(Mumby et al., 2002)。

遅延非見本合わせ課題

delayed nonmatching to sample,DNMS

DNMS課題は、サルやラットにおいて物体認知を測定するために使用される課題である。この課題は見本試行と選択試行から構成される。まず、見本試行において、見本物体が短時間提示され、遅延時間後の選択試行では、見本物体と同じ物体が新奇物体とともに提示される。動物が新奇物体を選択すると報酬が与えられる。各試行で遅延時間の長さを操作することで、記憶負荷を操作することができる。 同様の実験パラダイムにおいて、見本と同じ物体を選択した場合に報酬がもたらされる遅延見本合わせ課題(delayed matching to sample, DMTS)もある。ただし、動物は新奇物体に対する探索欲求が高く、新奇物体を選択させるDNMSのほうが、比較的素早く習得できる。以下に述べる課題は報酬課題であり、訓練時には食餌制限による動因操作を行う必要である。

サルの遅延非見本合わせ課題

 この課題では、テーブルをサルのケージ正面に配置する。テーブル上の3か所には報酬を入れる窪みがある。見本試行では、その窪み1か所に報酬を置き、その報酬に物体をかぶせ置く。サルが物体をずらして報酬を獲得すると、ケージ正面にスクリーンが降り、遅延期間となる。その間、実験者は別の2か所の窪みの上にそれぞれ異なる物体を置く。一方には見本試行とは異なる新奇な物体、他方には見本と同じ物体を置く。新奇な物体の下の窪みに報酬があり、サルが新奇な物体を選択することが正反応である。この物体をずらすと報酬を獲得することができる。Mishkin (1979)は、この課題を用いて、マカクザルの海馬と扁桃体を含む頭葉内側部の損傷の効果を検討した。その結果、見本試行と選択試行の遅延時間が10秒以内である場合、この課題の遂行に損傷の影響はなかったが、それよりも長い遅延時間が挿入されると、その時間依存的に課題の正答率が低くなった。後に同研究者によって損傷の精度を高めて追試が行われた結果、この障害は海馬や扁桃体単独の損傷では生じず、むしろそれらの近辺領域にある嗅皮質の損傷が障害を引き起こしたことが明らかになった(Murray & Mishkin, 1998)。したがって、海馬と嗅皮質は物体の記憶に関して異なる役割を担っており、物体の記憶には海馬ではなく嗅皮質が重要な役割を担うと考えられる。

齧歯類の遅延非見本合わせ課題

ラットやマウスにとっては迷路での走路選択のように全身運動を伴うDNMS課題が適しているだろう。Aggleton (1985)は、霊長類で使用されたDNMS課題(Mishkin, 1979)と同じ実験パラダイムをY迷路装置で実施できるようアレンジした。この課題では、Y迷路の走路先端には、模様や材質の異なる目標箱が挿入されている。さらに、箱には異なる物体が設置され、ラットにこれを探索させる。最初の試行では、物体の入っていない箱の置かれた走路からスタートさせ、残る2走路を選択させる。これら2走路には同一の箱と物体が設置され、いずれを選択しても報酬が与えられる。これが最初の見本試行となる。動物が走路を選択すると、20秒間そのまま箱内部に留め置かれ、この遅延期間中に次の選択走路となる2走路の箱が入れ替えられる。一方は先の選択と同じ物体の入った箱が設置され、他方には異なる物体の入った箱が設置される。遅延後の選択試行では、動物が見本で選択した物体と異なる新奇な物体の置かれた箱に入ることが正反応で、そこで報酬が与えられる。見本と同じ物体の置かれた箱に入ったならば誤反応とされ、報酬は与えられない。正反応の場合、その試行は次の試行の見本試行となる。誤反応の場合は、もう一度同じ選択肢で試行を繰り返す。その場合を除いて、セッション内で同じ物体ペアーを繰り返し使用しない。ただし、時間的に十分に間隔のあいたセッション間では繰り返して用いられることもある。Aggleton & Rawlins (1989)は、ラットの側頭葉内側部の複合損傷がこの課題の遂行に及ぼす効果を検討した。その効果は上述のサルで報告されたものと一致し、扁桃体の単独損傷では遂行障害が生じないが、海馬および扁桃体の複合的損傷は、この課題の遂行障害をもたらした。

実施上の注意点

DNMS課題では、典型的には自由摂食時の体重の80%から85%になるように基準を設けて、動因操作を行う必要がある。ただし、基準が適切でない場合、過活動や反応抑制ができなくなり、課題遂行に悪影響を及ぼす。このため、基準は課題の習得の程度に応じて調節する必要がある。  動物がある左右の特定の一方向ばかりを選択する傾向(サイドバイアス)を形成しないよう注意する必要がある。セッションの中に、矯正試行を挿入し、左右どちらの選択肢も選択する機会を設けることで、サイドバイアスを防ぐことができる。 DNMSの障害が物体認知記憶の失敗によると結論付ける前に、いくつかの他の可能性を考慮しなければならない。例えば、過活動、ストレス反応の変化、反応抑制の問題がDNMSの遂行を妨害する非特異的な効果をもつ可能性がある。損傷実験においては、手術後の回復期間を十分に設け、テスト前に遅延を挿入しない条件で再訓練を行うことも必要だろう。

物体認知の神経基盤

 これまで、海馬が物体認知には重要でないことが、各課題での損傷実験から示されている。一方、周嗅領皮質が物体認知には重要であると言われている。これは、視覚刺激が繰り返し提示されたときにおこる周嗅領皮質でのシングルユニット反応やc-fosの発現とも一致している(Aggleton and Brown, 1999)。物体認知記憶の神経基盤の研究は、他の脳部位やサーキットに関しても検討されているが、物体認知の脳内基盤を特定するには至っていない(Mumby, 2005)。