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記憶痕跡とは、20世紀初頭にドイツの生物学者 Richard Semonにより唱えられた言葉である。Donald Hebbの細胞集成体(セルアセンブリ、cell assembly)仮説によると、記憶は脳内にある特定のニューロン集団(セルアセンブリ)として符号化されて蓄えられる(アンサンブル・コーディング、ensemble coding)と想定している[1] | 記憶痕跡とは、20世紀初頭にドイツの生物学者 Richard Semonにより唱えられた言葉である。Donald Hebbの細胞集成体(セルアセンブリ、cell assembly)仮説によると、記憶は脳内にある特定のニューロン集団(セルアセンブリ)として符号化されて蓄えられる(アンサンブル・コーディング、ensemble coding)と想定している[1]。すなわち、学習時に活性化した特定のニューロンのセットという形で脳のなかに残った物理的な痕跡が「記憶痕跡」である(図1)。以下に述べるように、現在ではこの仮説は実験的な証拠を基に、大筋において支持されている。 | ||
外界から情報(刺激)を得たときに、脳内ではさまざまな組み合わせのニューロンの間で回路(circuit)が形成される。このような情報獲得時の機能的な回路形成は、外界からの情報を得た際に活動したニューロン間のシナプス伝達効率の上昇により起こると考えられている。ニューロン間の信号の受け渡しの場のシナプスにおいて観察される経験依存的な伝達効率の上昇現象である長期増強(long-term potentiation, LTP,図1A)は、シナプス可塑性の代表例であるが、その誘導と保持の過程の機構が記憶の形成と保持の機構と類似する。また、LTPに異常を示す変異マウスにおいて、記憶の獲得や保持に異常が認められ、さらに、記憶形成時に実際にLTPが観察されたことから、LTPは記憶のシナプスレベルでの素過程であると考えられている。このようにしてシナプス伝達が増強したニューロンセットが活動することにより記憶の想起が行われる(図1B)。すなわち、外界から得られた情報が、場所や経験などから想起することができる「記憶の痕跡」として脳に残されていることを意味している。しかし記憶痕跡の仮説は概念に過ぎないのか、あるいは脳内のニューロンの物理的なネットワークとして存在するのか、さらに、具体的にどの脳領域に記憶痕跡が存在するのかについてははっきりしていなかった。 | |||
一方、米国の心理学者Karl Lashleyはラットを使った実験で、記憶痕跡の存在について異議を唱えた[2]。Lashleyはまずラットに迷路を学習させた後、ラットの大脳皮質の様々な領域を異なる大きさで取り除いた。するとラットは大脳皮質を取り除かれた分だけ、迷路から抜け出すことが困難になり、大脳皮質の取り除いた領域ではなく、取り除いた割合と迷路の課題を達成する困難さが相関することを示した(図2)。これらの結果を基にLashleyは、「記憶は特定の脳領域に局在して蓄えられるのではなく、大脳皮質全体に分散して蓄えられる。大脳皮質の領域は、お互いに代用可能である。」と述べ、記憶痕跡が本当に存在するのか?という疑問を生じさせた。しかし、Lashleyの行った研究は、その実験系の複雑さゆえに記憶痕跡を発見できなかったと考えられ、Lashleyの実験以降、多くの科学者が記憶痕跡の存在を求め、精力的に研究を行ってきた。 | 一方、米国の心理学者Karl Lashleyはラットを使った実験で、記憶痕跡の存在について異議を唱えた[2]。Lashleyはまずラットに迷路を学習させた後、ラットの大脳皮質の様々な領域を異なる大きさで取り除いた。するとラットは大脳皮質を取り除かれた分だけ、迷路から抜け出すことが困難になり、大脳皮質の取り除いた領域ではなく、取り除いた割合と迷路の課題を達成する困難さが相関することを示した(図2)。これらの結果を基にLashleyは、「記憶は特定の脳領域に局在して蓄えられるのではなく、大脳皮質全体に分散して蓄えられる。大脳皮質の領域は、お互いに代用可能である。」と述べ、記憶痕跡が本当に存在するのか?という疑問を生じさせた。しかし、Lashleyの行った研究は、その実験系の複雑さゆえに記憶痕跡を発見できなかったと考えられ、Lashleyの実験以降、多くの科学者が記憶痕跡の存在を求め、精力的に研究を行ってきた。 | ||
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(執筆者: 鈴木章円、大川宜昭、井ノ口馨 担当編集者:河西春郎) | (執筆者: 鈴木章円、大川宜昭、井ノ口馨 担当編集者:河西春郎) |
2013年4月24日 (水) 14:10時点における版
英語名:Memory Engram 独:Gedächtnis Engramm 仏:Mémoire Engramme
同義語:エングラム(engram)
記憶痕跡とは、20世紀初頭にドイツの生物学者 Richard Semonにより唱えられた言葉である。Donald Hebbの細胞集成体(セルアセンブリ、cell assembly)仮説によると、記憶は脳内にある特定のニューロン集団(セルアセンブリ)として符号化されて蓄えられる(アンサンブル・コーディング、ensemble coding)と想定している[1]。すなわち、学習時に活性化した特定のニューロンのセットという形で脳のなかに残った物理的な痕跡が「記憶痕跡」である(図1)。以下に述べるように、現在ではこの仮説は実験的な証拠を基に、大筋において支持されている。
外界から情報(刺激)を得たときに、脳内ではさまざまな組み合わせのニューロンの間で回路(circuit)が形成される。このような情報獲得時の機能的な回路形成は、外界からの情報を得た際に活動したニューロン間のシナプス伝達効率の上昇により起こると考えられている。ニューロン間の信号の受け渡しの場のシナプスにおいて観察される経験依存的な伝達効率の上昇現象である長期増強(long-term potentiation, LTP,図1A)は、シナプス可塑性の代表例であるが、その誘導と保持の過程の機構が記憶の形成と保持の機構と類似する。また、LTPに異常を示す変異マウスにおいて、記憶の獲得や保持に異常が認められ、さらに、記憶形成時に実際にLTPが観察されたことから、LTPは記憶のシナプスレベルでの素過程であると考えられている。このようにしてシナプス伝達が増強したニューロンセットが活動することにより記憶の想起が行われる(図1B)。すなわち、外界から得られた情報が、場所や経験などから想起することができる「記憶の痕跡」として脳に残されていることを意味している。しかし記憶痕跡の仮説は概念に過ぎないのか、あるいは脳内のニューロンの物理的なネットワークとして存在するのか、さらに、具体的にどの脳領域に記憶痕跡が存在するのかについてははっきりしていなかった。
一方、米国の心理学者Karl Lashleyはラットを使った実験で、記憶痕跡の存在について異議を唱えた[2]。Lashleyはまずラットに迷路を学習させた後、ラットの大脳皮質の様々な領域を異なる大きさで取り除いた。するとラットは大脳皮質を取り除かれた分だけ、迷路から抜け出すことが困難になり、大脳皮質の取り除いた領域ではなく、取り除いた割合と迷路の課題を達成する困難さが相関することを示した(図2)。これらの結果を基にLashleyは、「記憶は特定の脳領域に局在して蓄えられるのではなく、大脳皮質全体に分散して蓄えられる。大脳皮質の領域は、お互いに代用可能である。」と述べ、記憶痕跡が本当に存在するのか?という疑問を生じさせた。しかし、Lashleyの行った研究は、その実験系の複雑さゆえに記憶痕跡を発見できなかったと考えられ、Lashleyの実験以降、多くの科学者が記憶痕跡の存在を求め、精力的に研究を行ってきた。 1999年、John Guzowskiのグループは、CatFISH (cellular compartment analysis of temporal activity by fluorescent in situ hybridization)法を用い、神経活動時に発現が誘導されるArc (activity-regulated cytoskeleton-associated protein) mRNAの時間的な細胞内局在変化を指標として記憶痕跡の存在を探索した[3]。彼らはまずラットを新規環境に暴露し、その後、再度同じ環境(Context A)もしくは異なる環境(Context B)に暴露した後に、海馬におけるArcの発現およびその細胞内局在を調べた。その結果、新規環境に暴露された時にArcを発現したニューロンは、異なった環境(Context B)ではArcを発現せず、同じ環境(Context A)に再暴露されたときのみ再度Arcを発現することを見出した。すなわち、一度経験した事柄に再度暴露すると、初期の経験依存的に活性化されたニューロンが再活性化することが示された。
また2007年、Mark Mayfordらのグループは学習に応答して活性化されたニューロンを継続的に標識することが可能なトランスジェニックマウス(TetTagマウス)を作製した(図3A)[4]。このマウスを用いて、恐怖経験時に活性化された扁桃体ニューロンが恐怖記憶想起時にも再活性化されること、さらに再活性化されたニューロンの数は想起された記憶の強さと相関していることを示した。以上のCatFISHとTetTagマウスの2つの実験は、記憶の形成時に活性化したニューロン群(セルアセンブリ)が、記憶想起時において再活性化することを示しており、記憶獲得時に活性化したニューロン群(あるいはその一部)が記憶痕跡として存在することを間接的に示唆している。
恐怖記憶獲得時に活性化するニューロン群では、転写調節因子であるCREB (cAMP response element-binding protein)活性が高い。さらに、通常恐怖記憶が成立しにくいCREB欠損マウスの扁桃体ニューロンへのCREB過剰発現が、恐怖記憶獲得を回復させるとともに、記憶想起時にCREB過剰発現ニューロンが選択的に再活性化する[5]。これらのことを基にして、Sheena JosselynおよびAlcino Silvaのグループは、CREBを過剰発現したニューロンを特異的に不活性化させた後の記憶変化を見ることで、これらのニューロン集団が記憶想起に必要かどうかを検証した[6, 7]。
まず、Josselynらは、CREBを過剰発現したニューロンを不活性化させるため、“iDTR (inducible diphtheria toxin receptor)マウス”と名付けられたトランスジェニックマウスの扁桃体に単純ヘルペスウィルス(herpes simplex virus: HSV)によりCREB-cre vectorを注入し、cre活性によりloxPで挟まれたSTOP配列を抜き出すことでCREBが過剰発現したニューロン内にDTR(ジフテリア毒素受容体)を発現させた。その後、DT(ジフテリア毒素)を投与することで細胞死を誘導し、CREBを過剰発現したニューロン群の選択的除去を行った(図3B)[6]。同様に、Silvaらは、HSVによりCREBとAlstR(アラトスタチン受容体)を注入し、両者をニューロンに発現させた。そして、AL(アラトスタチン)を投与することで、CREBを発現する神経細胞を不活性化させた(図3C)[7]。どちらの場合においても、DTまたはAL投与により扁桃体依存的な恐怖記憶の想起が阻害された。これらにより、恐怖記憶の発現時に活性化される扁桃体ニューロン群(セルアセンブリ)が、記憶痕跡に重要な役割を担っていることが示唆された。
2012年、利根川進のグループは、オプトジェネティックス(光遺伝学)法を用いて、特定のニューロン群の活性を制御することで記憶痕跡の物理的存在を示した[8] (図4)。彼らはまず海馬の歯状回のニューロンが活性化状態になるとチャネルロドプシン(ChR)を発現するトランスジェニックマウスを作製した。光照射するとChRのチャネルが開き、カチオンを細胞内に流入させる。光照射という人為的な操作でニューロンを脱分極(活動)させることができる。彼らは、マウスに恐怖条件付けを行って恐怖記憶を形成させた時に活性化したニューロン群特異的にChRを発現させた。次にマウスをまったく別の環境に暴露し、光照射によりChRを発現しているニューロン群のみを選択的に活性化すると、マウスが恐怖を感じた時に示す、すくみ行動(フリージング)を引き起こさせることができることを発見した。すなわち、人為的な操作によって恐怖記憶を想起させることに成功し、記憶が学習時に活性化した特定のニューロン群(セルアセンブリ)に割り付けられて符号化されていることが示された。
このように、多くのニューロンの中から、一部のニューロン群が各記憶イベントに対応し活性化することで記憶痕跡が形成される(アンサンブル・コーディング)ことが示される一方で、どのようにしてこれらのニューロン群が選択されたのかについては、不明の点が多い。扁桃体の多くのニューロンが感覚入力を受け得るにもかかわらず、一部のニューロンのみが恐怖記憶獲得に依存した質的変化を示す。前述したように、恐怖記憶獲得に関わるニューロン群の選択性とCREB活性は正相関する[5]。CREBを過剰発現したニューロンでは、興奮性や、記憶獲得時のシナプス伝達効率の変化率が大きいことが報告されている[7]。これらのことは、学習時にCREB活性が高いニューロンが選択的にその記憶に関するセルアセンブリに取り込まれることを示唆している。
一方、利根川らは2010年に、海馬ニューロン群の時間的発火順序が、実際の空間体験以前の休息時または睡眠時に先行し観察されることを報告した[9]。この現象は、予演(preplay)と名付けられ、休息中ないし睡眠中の脳内では、さまざまな海馬ニューロン集団を時間的順列にあらかじめ組織化しており、類似した新しい空間的体験が将来起こった際の符号化に役立っていることを示唆している。これらの報告は、アンサンブル・コーディングにおける記憶痕跡ニューロン群の選択機構を知るためのヒントを与えるものであるが、どのニューロン群が次なる記憶痕跡となるかを予測できるようになるには、今後、さらなる多くの角度からの研究が必要である。
最後に、何十年にわたり研究対象とされてきた記憶痕跡は、上記のように近年の研究によって、その実体が明らかにされつつある。今後は、神経活動やニューロンの機能変化を可視化する技術、そして、in vivo live imagingなどの生体内シグナルを検出する技術の進歩により、直接、そして、タイムリーに脳内の記憶痕跡の形成から消失までを観察できる日が来るだろう。同時に、記憶の質的変化との相関を検証することで、記憶というダイナミックでとらえようのないものと思われていたものを、物理科学的n実体としてより深く検証することが出来るようになると考える。
参考文献
(執筆者: 鈴木章円、大川宜昭、井ノ口馨 担当編集者:河西春郎)