9,444
回編集
細 (→視覚的な語彙の処理) |
細編集の要約なし |
||
(3人の利用者による、間の5版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
<div align="right"> | |||
<font size="+1"> 岩渕 俊樹、[http://researchmap.jp/inui_toshio 乾 敏郎]</font><br> | |||
''京都大学 大学院情報学研究科''<br> | |||
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2012年5月15日 原稿完成日:2013年2月3日<br> | |||
担当編集委員:[http://researchmap.jp/atsushiiriki 入來 篤史](独立行政法人理化学研究所 脳科学総合研究センター)<br> | |||
</div> | |||
英語名:lexicon 独:Lexikon 仏:lexique | 英語名:lexicon 独:Lexikon 仏:lexique | ||
同義語:語彙目録、心的語彙、心内語彙、心的辞書、心内辞書、心的語彙目録、心内語彙目録、mental lexicon、mental dictionary | 同義語:語彙目録、心的語彙、心内語彙、心的辞書、心内辞書、心的語彙目録、心内語彙目録、mental lexicon、mental dictionary | ||
{{box|text= | |||
脳科学における語彙とは、個人の脳内に[[記憶]]された語に関する知識の総体を指す。一般的な用法と区別するため、単に語彙という代わりに[[wikipedia:Mental lexicon|メンタル・レキシコン]](mental lexicon)という用語を用いることも多い。メンタル・レキシコンには心的語彙、心内語彙、心的辞書、心内辞書など多くの訳語が存在する。 | 脳科学における語彙とは、個人の脳内に[[記憶]]された語に関する知識の総体を指す。一般的な用法と区別するため、単に語彙という代わりに[[wikipedia:Mental lexicon|メンタル・レキシコン]](mental lexicon)という用語を用いることも多い。メンタル・レキシコンには心的語彙、心内語彙、心的辞書、心内辞書など多くの訳語が存在する。 | ||
}} | |||
== 語彙とは == | == 語彙とは == | ||
29行目: | 38行目: | ||
視覚的な認知過程における[[単語優位効果]](word superiority effect)<ref><pubmed> 5811803 </pubmed></ref>も広い意味での文脈効果であるといえる。この効果は以下のようなものである――ある文字列を被験者に瞬間提示したのち、そこに含まれていた文字を2択で判断させる課題を考えてもらいたい。2択の文字が“K”と“D”だとすると、文字列が単語(例.WORDやWORK)の場合にランダム文字列(例.ORWD)の場合よりも正答率が上がる。これは単語という文脈に埋め込まれることで文字の検出率が上昇することを意味する。これが単語優位効果である。 | 視覚的な認知過程における[[単語優位効果]](word superiority effect)<ref><pubmed> 5811803 </pubmed></ref>も広い意味での文脈効果であるといえる。この効果は以下のようなものである――ある文字列を被験者に瞬間提示したのち、そこに含まれていた文字を2択で判断させる課題を考えてもらいたい。2択の文字が“K”と“D”だとすると、文字列が単語(例.WORDやWORK)の場合にランダム文字列(例.ORWD)の場合よりも正答率が上がる。これは単語という文脈に埋め込まれることで文字の検出率が上昇することを意味する。これが単語優位効果である。 | ||
そのほか、ターゲットとなる単語(プローブともいう)の理解が直前に別の単語(プライム)などを提示することによって促進されたり抑制されたりする現象も知られている。これは語彙的[[プライミング効果]](lexical priming effect)と呼ばれるもので、ターゲットに対して語彙判断課題などを行うことで測定する。たとえばプライムとターゲットのあいだに意味的関連がある場合、ターゲットの理解は促進されることが知られている<ref><pubmed> 5134329 </pubmed></ref>。 | |||
=== 語彙アクセスのモデル === | === 語彙アクセスのモデル === | ||
63行目: | 72行目: | ||
最後にLeveltの言語産出モデル<ref><pubmed> 11698690 </pubmed></ref>を紹介する。言語産出過程の具体的な例として、絵画中に描かれた対象が何であるかを呼称する課題を考えてみよう。まず提示された絵に対応する[[概念形成|概念]]が産出すべきメッセージとして活性化される。続いて、このメッセージが対応するレンマ(lemma)を活性化する。レンマとは語彙項目の意味的・統語的な情報である。たとえば英語のHORSEに対応するレンマが活性化されると、それが[[wikipedia:JA:可算名詞|可算名詞]]であること、[[wikipedia:JA:単数形|単数形]]ないし[[wikipedia:JA:複数形|複数形]]であること、といった情報が利用可能となる。ここまでが言語産出における語彙選択(lexical selection)の過程である。選択されたレンマは引き続いて形態的・音韻的に符号化される。たとえばHORSEの複数形は2つの形態素から構成されるものであるが、これらのそれぞれについて<horse> と<iz>のような音韻コード(phonological code)が検索される。音韻コードは音素の系列であり、[[wikipedia:ja:音節|音節]](syllable)へ統合されたり[[wikipedia:ja:強勢|強勢]](stress)パターンが付与されたりといった処理を受ける。これらの処理を音韻的符号化(phonological encoding)という。このプロセスの出力は抽象的な音韻表象であり、音韻語(phonological word)と呼ばれる。音韻語は音声的符号化(phonetic encoding)の過程を経て[[wikipedia:ja:調音|調音]]スコア(articulatory score)として出力される。最後にこの調音スコアの指示に基づいて調音器官(舌や唇など)が動かされ、実際に音声が発せられる。 | 最後にLeveltの言語産出モデル<ref><pubmed> 11698690 </pubmed></ref>を紹介する。言語産出過程の具体的な例として、絵画中に描かれた対象が何であるかを呼称する課題を考えてみよう。まず提示された絵に対応する[[概念形成|概念]]が産出すべきメッセージとして活性化される。続いて、このメッセージが対応するレンマ(lemma)を活性化する。レンマとは語彙項目の意味的・統語的な情報である。たとえば英語のHORSEに対応するレンマが活性化されると、それが[[wikipedia:JA:可算名詞|可算名詞]]であること、[[wikipedia:JA:単数形|単数形]]ないし[[wikipedia:JA:複数形|複数形]]であること、といった情報が利用可能となる。ここまでが言語産出における語彙選択(lexical selection)の過程である。選択されたレンマは引き続いて形態的・音韻的に符号化される。たとえばHORSEの複数形は2つの形態素から構成されるものであるが、これらのそれぞれについて<horse> と<iz>のような音韻コード(phonological code)が検索される。音韻コードは音素の系列であり、[[wikipedia:ja:音節|音節]](syllable)へ統合されたり[[wikipedia:ja:強勢|強勢]](stress)パターンが付与されたりといった処理を受ける。これらの処理を音韻的符号化(phonological encoding)という。このプロセスの出力は抽象的な音韻表象であり、音韻語(phonological word)と呼ばれる。音韻語は音声的符号化(phonetic encoding)の過程を経て[[wikipedia:ja:調音|調音]]スコア(articulatory score)として出力される。最後にこの調音スコアの指示に基づいて調音器官(舌や唇など)が動かされ、実際に音声が発せられる。 | ||
== | ==神経基盤== | ||
近年 [[Voxel based morphometry]] を用いた実験により、語彙量の多い人ほど左[[縁上回]]の[[灰白質]]密度が高いというデータが報告されている<ref><pubmed> 18418473 </pubmed></ref>。しかしながら、この事実は語彙情報のすべてがこの部位に表象されているということを意味しない。長年の[[失語症]]研究で語彙処理に関連する障害は数多く報告されてきたが、損傷部位によって障害される機能はさまざまである。以下では語彙が脳内でどのように処理されるかについて簡単に述べる。 | 近年 [[Voxel based morphometry]] を用いた実験により、語彙量の多い人ほど左[[縁上回]]の[[灰白質]]密度が高いというデータが報告されている<ref><pubmed> 18418473 </pubmed></ref>。しかしながら、この事実は語彙情報のすべてがこの部位に表象されているということを意味しない。長年の[[失語症]]研究で語彙処理に関連する障害は数多く報告されてきたが、損傷部位によって障害される機能はさまざまである。以下では語彙が脳内でどのように処理されるかについて簡単に述べる。 | ||
91行目: | 100行目: | ||
一方で、動作動詞の理解は視覚や運動といったモダリティ固有の神経回路には依存しないという研究も存在する<ref><pubmed> 21486297 </pubmed></ref>。これによると、単語の意味は左側頭葉、左[[頭頂葉]]および左[[前頭前野]]のモダリティ非依存な神経システムにおいて理解される。また[[意味認知症]](semantic dementia)の研究に基づき、モダリティに依存しない意味情報のハブが側頭葉前部にあるという提案も為されている<ref><pubmed> 18026167 </pubmed></ref>。 | 一方で、動作動詞の理解は視覚や運動といったモダリティ固有の神経回路には依存しないという研究も存在する<ref><pubmed> 21486297 </pubmed></ref>。これによると、単語の意味は左側頭葉、左[[頭頂葉]]および左[[前頭前野]]のモダリティ非依存な神経システムにおいて理解される。また[[意味認知症]](semantic dementia)の研究に基づき、モダリティに依存しない意味情報のハブが側頭葉前部にあるという提案も為されている<ref><pubmed> 18026167 </pubmed></ref>。 | ||
しかし現時点において、上述した2つの立場のいずれかを棄却するような決定的な証拠はない。[[意味記憶]] | しかし現時点において、上述した2つの立場のいずれかを棄却するような決定的な証拠はない。[[意味記憶]]が[[前頭葉]]、側頭葉、[[頭頂葉]]といった広い領域に分散して表現されていることはおそらく確かであるが、意味の表象や処理に関する詳細な脳内機構については更なる研究の進展を待たねばならない。 | ||
= 関連項目 | == 関連項目 == | ||
*[[言語]] | *[[言語]] | ||
101行目: | 110行目: | ||
*[[失読症]] | *[[失読症]] | ||
= 参考文献 = | == 参考文献 == | ||
<references /> | <references /> | ||