「瞬目反射条件づけ」の版間の差分

編集の要約なし
編集の要約なし
編集の要約なし
9行目: 9行目:
== 瞬目反射条件づけとは==
== 瞬目反射条件づけとは==
 瞬目反射条件づけ(eyeblink classical conditioning; EBCC、EBC)は、古典的条件づけ(パブロフ型条件づけ)の一種であり、記憶・学習の基盤となる神経構造や機構を研究するための行動課題として長年実験心理学や神経生理学の分野で利用されてきた。古典的条件づけは、「本来は生理的な反応を引き起こさない条件刺激(CS ; conditioned stimulus)」と「生理的な反応(無条件反応、UR; unconditioned responses)を引き起こす無条件刺激(US ; unconditioned stimulus)」を組み合わせて繰り返し提示すると、CSを与えただけでURに類似した応答である条件反射(CR ; conditioned responses)が見られるようになる学習形態である。最もよく知られている例はいわゆる“パブロフの犬”であり、CSとしてメトロノームの音を、USとして肉を提示すると、この対刺激によって、音のみで唾液の分泌を出すようになる[1]。瞬目条件づけの場合、通常、聴覚刺激もしくは視覚刺激をCSとし、瞬目を引き起こすUSとしては、角膜や眼瞼への穏やかな空気刺激もしくは電気刺激が用いられる。このCSとUSを組み合わせて何度も繰り返し提示すると、被験動物は、やがてUSに先行してCSのみでまばたきや瞬膜の伸張を起こすようになる。学習の度合いはCRの出現率、すなわちある試行中でCRが出現した試行数の割合によって示される。動物種やパラダイム(後述する)によってその値は大きく異なるものの、ウサギの場合、よく訓練されると非常に高い学習率(90%以上)に到達する。なお、条件づけが成立した後に、USを伴わずCSだけ繰り返し提示するとCRは次第に消失する。これを実験的消去と呼ぶ。しかし、一見完全に消去が起こった場合でも記憶痕跡が消失した訳ではなく、その後CSを呈示するとCRは急速に出現し、最初よりも少ない試行回数で元の学習到達率まで回復する。これを自発的回復と称する。また、マウス、ラット、モルモット、ネコ、サル、そして人間にいたるまで多様なほ乳類種を実験動物種としてその学習メカニズムが研究されてきたことも本学習の特徴的な点である(歴史的に最も集中的に調べられてきた動物種はウサギである。また特殊な標本を利用して、カメなどの非ほ乳類での研究例も存在する) [2] [3] [4]。後述する遅延課題の場合、その学習の記憶痕跡の場が、主に小脳にあることから、とりわけ神経科学の分野で小脳依存性学習もしくは運動学習としてよく分類•記述される。小脳が記憶形成の場であるとの論拠は、主に実験動物の脳損傷実験と小脳疾患患者の臨床例よりもたらされた[5] [6]。また多くのニューラルネットワークモデルによっても瞬目反射条件づけの小脳理論が構築され、行動実験の結果との擦り合わせが図られている。
 瞬目反射条件づけ(eyeblink classical conditioning; EBCC、EBC)は、古典的条件づけ(パブロフ型条件づけ)の一種であり、記憶・学習の基盤となる神経構造や機構を研究するための行動課題として長年実験心理学や神経生理学の分野で利用されてきた。古典的条件づけは、「本来は生理的な反応を引き起こさない条件刺激(CS ; conditioned stimulus)」と「生理的な反応(無条件反応、UR; unconditioned responses)を引き起こす無条件刺激(US ; unconditioned stimulus)」を組み合わせて繰り返し提示すると、CSを与えただけでURに類似した応答である条件反射(CR ; conditioned responses)が見られるようになる学習形態である。最もよく知られている例はいわゆる“パブロフの犬”であり、CSとしてメトロノームの音を、USとして肉を提示すると、この対刺激によって、音のみで唾液の分泌を出すようになる[1]。瞬目条件づけの場合、通常、聴覚刺激もしくは視覚刺激をCSとし、瞬目を引き起こすUSとしては、角膜や眼瞼への穏やかな空気刺激もしくは電気刺激が用いられる。このCSとUSを組み合わせて何度も繰り返し提示すると、被験動物は、やがてUSに先行してCSのみでまばたきや瞬膜の伸張を起こすようになる。学習の度合いはCRの出現率、すなわちある試行中でCRが出現した試行数の割合によって示される。動物種やパラダイム(後述する)によってその値は大きく異なるものの、ウサギの場合、よく訓練されると非常に高い学習率(90%以上)に到達する。なお、条件づけが成立した後に、USを伴わずCSだけ繰り返し提示するとCRは次第に消失する。これを実験的消去と呼ぶ。しかし、一見完全に消去が起こった場合でも記憶痕跡が消失した訳ではなく、その後CSを呈示するとCRは急速に出現し、最初よりも少ない試行回数で元の学習到達率まで回復する。これを自発的回復と称する。また、マウス、ラット、モルモット、ネコ、サル、そして人間にいたるまで多様なほ乳類種を実験動物種としてその学習メカニズムが研究されてきたことも本学習の特徴的な点である(歴史的に最も集中的に調べられてきた動物種はウサギである。また特殊な標本を利用して、カメなどの非ほ乳類での研究例も存在する) [2] [3] [4]。後述する遅延課題の場合、その学習の記憶痕跡の場が、主に小脳にあることから、とりわけ神経科学の分野で小脳依存性学習もしくは運動学習としてよく分類•記述される。小脳が記憶形成の場であるとの論拠は、主に実験動物の脳損傷実験と小脳疾患患者の臨床例よりもたらされた[5] [6]。また多くのニューラルネットワークモデルによっても瞬目反射条件づけの小脳理論が構築され、行動実験の結果との擦り合わせが図られている。
  もっとも初期の瞬目反射条件づけの現象についての報告は人間を対象としたもので、1922年の文献まで遡れる[7]。その後、心理学における行動主義の台頭に相まって、多くの重要な心理学的知見が、この瞬目反射条件づけを利用して発見された。例えば、ハンフリーズ効果、すなわち、連続強化よりも部分強化で条件づけられた行動の方が、消去抵抗が強くなるという現象は、瞬目反射条件づけを用いて発見されたものである[8](ちなみに、この効果の発見により、瞬目反射条件づけの実験では通常CSとUSの対提示だけではなく10回に1回程度CSのみ、あるいはさらにUSのみの試行を組み合わせて行うことが多い)。60年代、Isidore Gormezanoによりウサギに対してこの連合学習が導入されて以降は、数多くの実験動物を用いた生理•心理学的研究が実施された[9]。我が国においても、主に人間を用いた瞬目反射条件づけの心理学的研究が盛んに行われていた時期がある[10]。1980年代後半になり、Ronald W. Stantonによって、発達•加齢と学習との相関を調べる目的で、ラットに対して非拘束下での瞬目反射条件づけを可能とする手技が開発された[11]。これは、上瞼の裏側に4本の電極を埋め込み、そのうち2本を眼輪筋のEMGの取得、残る2本をUSとしての電気刺激に用いるものである(図1)。90年代に入ると、この方法論がノックアウトマウスにそのまま適応され、瞬目反射条件づけの行動遺伝学が開始された[12]。特に、小脳のシナプス可塑性である長期抑圧 (Long-term depression; LTD)(後述)と瞬目反射条件づけ遅延課題との関係性が集中的に調べられることになる[12]。こうした行動遺伝学的研究によって、代謝グルタミン酸受容体1型(mGluR1)、PKCγ、GluRδ2、内在性カンナビノイド受容体CB1など多くの分子が小脳LTDと瞬目反射条件づけ遅延課題の双方に必要であることが明らかとなり[13]、前庭動眼反射と同様、瞬目反射条件づけにおいても、LTDが記憶形成の神経基盤であるとの「小脳LTD仮説(後述)」が90年代後半には説得力をもって醸成されていった。今世紀に入り、瞬目反射条件づけ痕跡課題も遺伝子改変マウスに適応され、海馬におけるシナプス可塑性との相関性が示唆されている[13]。さらには、特定の時期かつ特定の神経細胞のみで機能を失活させたミュータントマウスに適用することにより、小脳や海馬における特定のシナプス回路が瞬目反射条件づけの記憶形成や保持に果たす役割も詳らかにされつつある[14] [15] [16]
 
 もっとも初期の瞬目反射条件づけの現象についての報告は人間を対象としたもので、1922年の文献まで遡れる[7]。その後、心理学における行動主義の台頭に相まって、多くの重要な心理学的知見が、この瞬目反射条件づけを利用して発見された。例えば、ハンフリーズ効果、すなわち、連続強化よりも部分強化で条件づけられた行動の方が、消去抵抗が強くなるという現象は、瞬目反射条件づけを用いて発見されたものである[8](ちなみに、この効果の発見により、瞬目反射条件づけの実験では通常CSとUSの対提示だけではなく10回に1回程度CSのみ、あるいはさらにUSのみの試行を組み合わせて行うことが多い)。60年代、Isidore Gormezanoによりウサギに対してこの連合学習が導入されて以降は、数多くの実験動物を用いた生理•心理学的研究が実施された[9]。我が国においても、主に人間を用いた瞬目反射条件づけの心理学的研究が盛んに行われていた時期がある[10]。1980年代後半になり、Ronald W. Stantonによって、発達•加齢と学習との相関を調べる目的で、ラットに対して非拘束下での瞬目反射条件づけを可能とする手技が開発された[11]。これは、上瞼の裏側に4本の電極を埋め込み、そのうち2本を眼輪筋のEMGの取得、残る2本をUSとしての電気刺激に用いるものである(図1)。90年代に入ると、この方法論がノックアウトマウスにそのまま適応され、瞬目反射条件づけの行動遺伝学が開始された[12]。特に、小脳のシナプス可塑性である長期抑圧 (Long-term depression; LTD)(後述)と瞬目反射条件づけ遅延課題との関係性が集中的に調べられることになる[12]。こうした行動遺伝学的研究によって、代謝グルタミン酸受容体1型(mGluR1)、PKCγ、GluRδ2、内在性カンナビノイド受容体CB1など多くの分子が小脳LTDと瞬目反射条件づけ遅延課題の双方に必要であることが明らかとなり[13]、前庭動眼反射と同様、瞬目反射条件づけにおいても、LTDが記憶形成の神経基盤であるとの「小脳LTD仮説(後述)」が90年代後半には説得力をもって醸成されていった。今世紀に入り、瞬目反射条件づけ痕跡課題も遺伝子改変マウスに適応され、海馬におけるシナプス可塑性との相関性が示唆されている[13]。さらには、特定の時期かつ特定の神経細胞のみで機能を失活させたミュータントマウスに適用することにより、小脳や海馬における特定のシナプス回路が瞬目反射条件づけの記憶形成や保持に果たす役割も詳らかにされつつある[14] [15] [16]
 
[[ファイル:MouseEBCC.jpg|サムネイル|300px|右|'''図1. 非拘束動物における瞬目反射条件づけ'''<br>フリームービングの実験動物で瞬目反射条件づけを可能とする手術法の概念図を示している。ラットやマウスを対象として開発された技法であるが、現在はウサギを含め多くの実験動物種における主流の方法論である。上瞼の裏に4本の電極を埋め込み、そのうち2本が眼輪筋のEMGの取得、残る2本がUSとしての電気刺激のために用いられる。電極は頭部に取り付けられた着脱可能なコネクタを介して、筋電計に繋がれる。]]


== 学習パラダイムとしての利点と独自性 ==
== 学習パラダイムとしての利点と独自性 ==
21行目: 23行目:
 前述したように、瞬目反射条件づけではUSの開始前にCSが提示されるが、この学習には、主に両刺激の時間特性の違いによって、遅延(delay)課題と痕跡(trace)課題の2種類の行動パラダイムが存在する(図2)。遅延課題は、CSとUSに時間的な重なりがあり、かつ同時に終了するようなパラダイムである(図2A)。一方、痕跡課題では、CSが終了してからUSが提示される。言いかえれば、痕跡課題では、CSとUSの間に無刺激の期間(痕跡間隔)が挿入される(図2B)。両課題ともその記憶獲得に小脳が必要であるが、痕跡課題においては、その痕跡間隔が十分に大きい場合、記憶の獲得に小脳に加えて海馬が必須となる。例えば、ウサギやマウスでは痕跡間隔が500 ms以上の場合、ラットでは250 ms以上の場合、痕跡課題が海馬依存性学習になることが示されている[16] [17] [18]。なお、遅延課題の場合、海馬を除去しても学習は成立するが、海馬ニューロンの活動を電気的に、あるいはスコポラミンの投与などで薬理学的に撹乱させると、CRの獲得が遅くなることが知られている[19]。従って、遅延課題の成立に海馬は不要であるものの、海馬の異常は遅延課題に影響を与えるという意味において両者は関連性を持っているわけである。実際70年代までは、遅延課題を対象とした研究でも、小脳より海馬ニューロン活動との関連が興味の中心とされていた。小脳と遅延課題との関係が実験的に検討され始めたのは80年代になってからである。ところで、小脳は痕跡課題においても必要であると先述したが、小脳皮質のシナプス可塑性に障害を持つノックアウトマウスや小脳皮質の唯一の出力細胞であるプルキンエ細胞(PC)が消失したpcd (Purkinje cell deficient) マウスでは、痕跡課題の学習能力が正常に保たれていることが発見されてから、痕跡課題には小脳皮質は必須ではないという同意が得られつつある[20] [21]。つまり、小脳核は、遅延、痕跡両課題に必須であるものの、小脳皮質は遅延課題のみで重要な役割を担っている可能性がある。
 前述したように、瞬目反射条件づけではUSの開始前にCSが提示されるが、この学習には、主に両刺激の時間特性の違いによって、遅延(delay)課題と痕跡(trace)課題の2種類の行動パラダイムが存在する(図2)。遅延課題は、CSとUSに時間的な重なりがあり、かつ同時に終了するようなパラダイムである(図2A)。一方、痕跡課題では、CSが終了してからUSが提示される。言いかえれば、痕跡課題では、CSとUSの間に無刺激の期間(痕跡間隔)が挿入される(図2B)。両課題ともその記憶獲得に小脳が必要であるが、痕跡課題においては、その痕跡間隔が十分に大きい場合、記憶の獲得に小脳に加えて海馬が必須となる。例えば、ウサギやマウスでは痕跡間隔が500 ms以上の場合、ラットでは250 ms以上の場合、痕跡課題が海馬依存性学習になることが示されている[16] [17] [18]。なお、遅延課題の場合、海馬を除去しても学習は成立するが、海馬ニューロンの活動を電気的に、あるいはスコポラミンの投与などで薬理学的に撹乱させると、CRの獲得が遅くなることが知られている[19]。従って、遅延課題の成立に海馬は不要であるものの、海馬の異常は遅延課題に影響を与えるという意味において両者は関連性を持っているわけである。実際70年代までは、遅延課題を対象とした研究でも、小脳より海馬ニューロン活動との関連が興味の中心とされていた。小脳と遅延課題との関係が実験的に検討され始めたのは80年代になってからである。ところで、小脳は痕跡課題においても必要であると先述したが、小脳皮質のシナプス可塑性に障害を持つノックアウトマウスや小脳皮質の唯一の出力細胞であるプルキンエ細胞(PC)が消失したpcd (Purkinje cell deficient) マウスでは、痕跡課題の学習能力が正常に保たれていることが発見されてから、痕跡課題には小脳皮質は必須ではないという同意が得られつつある[20] [21]。つまり、小脳核は、遅延、痕跡両課題に必須であるものの、小脳皮質は遅延課題のみで重要な役割を担っている可能性がある。


[[ファイル:MouseEBCC.jpg|サムネイル|300px|右|'''図2. タイトル'''<br>図の説明をお願いいたします。]]
[[ファイル:MouseEBCC.jpg|サムネイル|300px|右|'''図1. 非拘束動物における瞬目反射条件づけ'''<br>フリームービングの実験動物で瞬目反射条件づけを可能とする手術法の概念図を示している。ラットやマウスを対象として開発された技法であるが、現在はウサギを含め多くの実験動物種における主流の方法論である。上瞼の裏に4本の電極を埋め込み、そのうち2本が眼輪筋のEMGの取得、残る2本がUSとしての電気刺激のために用いられる。電極は頭部に取り付けられた着脱可能なコネクタを介して、筋電計に繋がれる。]]


== 瞬目反射条件づけの神経回路とLTD仮説 ==
== 瞬目反射条件づけの神経回路とLTD仮説 ==
120

回編集