「計算論的精神医学」の版間の差分

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 データ駆動型アプローチに対し、[[理論駆動型アプローチ]]の研究では、脳の情報処理プロセスを明示的にモデル化した数理モデル(「生成モデル」とよばれる)を用いる。モデル化の水準や対象に応じて、生物物理学的モデル、[[ニューラル・ネットワークモデル]]、[[強化学習]]モデル、[[ベイズ推論]]モデルなどの生成モデルが用いられる(各モデルの詳細は<ref name=国里愛彦2019>'''国里愛彦, 片平健太郎, 沖村宰, 山下祐一 (2019)'''<br>計算論的精神医学: 情報処理過程から読み解く精神障害, 勁草書房, (東京)</ref> などを参照)。生物物理学的モデルは、[[電気生理学]]研究や[[精神薬理学]]研究で得られた[[ニューロン]]の[[膜電位]]活動や[[シナプス]]動態に関する知見の精緻な数理モデル化を試みる。一方、ニューラル・ネットワークモデルは、脳領域間の相互作用といった神経回路のマクロ的な機能・構造をモデル化する。ニューラル・ネットワークでは、神経回路レベルにおける変化が、回路の出力である行動・症状レベルに対して与える影響について検討されることが多い。ベイズ推論モデルや強化学習モデルは、認知・行動課題によって得られた生体の行動データのモデル化に用いられることが多く、データが生成された背後にある抽象的な演算プロセスの理解に有効である。
 データ駆動型アプローチに対し、[[理論駆動型アプローチ]]の研究では、脳の情報処理プロセスを明示的にモデル化した数理モデル(「生成モデル」とよばれる)を用いる。モデル化の水準や対象に応じて、生物物理学的モデル、[[ニューラル・ネットワークモデル]]、[[強化学習]]モデル、[[ベイズ推論]]モデルなどの生成モデルが用いられる(各モデルの詳細は<ref name=国里愛彦2019>'''国里愛彦, 片平健太郎, 沖村宰, 山下祐一 (2019)'''<br>計算論的精神医学: 情報処理過程から読み解く精神障害, 勁草書房, (東京)</ref> などを参照)。生物物理学的モデルは、[[電気生理学]]研究や[[精神薬理学]]研究で得られた[[ニューロン]]の[[膜電位]]活動や[[シナプス]]動態に関する知見の精緻な数理モデル化を試みる。一方、ニューラル・ネットワークモデルは、脳領域間の相互作用といった神経回路のマクロ的な機能・構造をモデル化する。ニューラル・ネットワークでは、神経回路レベルにおける変化が、回路の出力である行動・症状レベルに対して与える影響について検討されることが多い。ベイズ推論モデルや強化学習モデルは、認知・行動課題によって得られた生体の行動データのモデル化に用いられることが多く、データが生成された背後にある抽象的な演算プロセスの理解に有効である。


 理論駆動型アプローチは、生成モデルにおける変調をシミュレートすることで精神障害の病態をモデル化しようとする「仮説形成的アプローチ」と、実際の観測データを生成モデルで再構成することで、個人や疾患群の潜在的認知・行動特徴を定量的に評価する「計算論的表現型同定」に大別される。仮説形成的アプローチの研究として、例えば、Yamashitaら<ref name=Yamashita2012><pubmed>22666398</pubmed></ref> は、階層的なニューラル・ネットワークモデルを用いた実験で、階層間の機能的断裂が、“自発的な予測誤差”を生じ、この予測誤差が妄想気分や被影響体験といった統合失調症の病的体験を引き起こす可能性を示唆した。計算論的表現型同定の例として、Voonら<ref name=Voon2015><pubmed>24840709</pubmed></ref> は、行動課題の観測データから個人の認知・行動特性を強化学習モデルのパラメータとして定量的に推定し、[[依存症|物質使用障害]]、[[強迫性障害]]の患者などで、[[習慣]]や自動化された行動への固執的な傾向の比重が高くなることを報告した。これらの手法の洗練は、観測不能な潜在的な病態生理の推定を基に、個人ごとの病状評価や治療反応性予測をする新しい精神医療の開発に貢献する可能性がある。
 理論駆動型アプローチは、生成モデルにおける変調をシミュレートすることで精神障害の病態をモデル化しようとする「仮説形成的アプローチ」と、実際の観測データを生成モデルで再構成することで、個人や疾患群の潜在的認知・行動特徴を定量的に評価する「計算論的表現型同定」に大別される。仮説形成的アプローチの研究として、例えば、Yamashitaら<ref name=Yamashita2012><pubmed>22666398</pubmed></ref> は、階層的なニューラル・ネットワークモデルを用いた実験で、階層間の機能的断裂が、“自発的な予測誤差”を生じ、この予測誤差が妄想気分や被影響体験といった統合失調症の病的体験を引き起こす可能性を示唆した。計算論的表現型同定の例として、Voonら<ref name=Voon2015><pubmed>24840709</pubmed></ref> は、行動課題の観測データから個人の認知・行動特性を強化学習モデルのパラメータとして定量的に推定し、[[依存症|物質使用障害]]、[[強迫性障害]]の患者などで、習慣や自動化された行動への固執的な傾向の比重が高くなることを報告した。これらの手法の洗練は、観測不能な潜在的な病態生理の推定を基に、個人ごとの病状評価や治療反応性予測をする新しい精神医療の開発に貢献する可能性がある。


== さらに詳しく知りたい人のために ==
== さらに詳しく知りたい人のために ==

2021年9月27日 (月) 10:12時点における版

山下祐一
国立精神・神経医療研究センター 神経研究所
DOI:10.14931/bsd.9924 原稿受付日:2021年8月31日 原稿完成日:2021年9月27日
担当編集委員:五味 裕章(NTTコミュニケーション科学基礎研究所 人間情報研究部)

 数理モデルやデータ科学を用いた精神医学の新しい研究領域で、生物学的知見と症状・行動レベルの観察を架橋する説明を提供すると期待されている。精神医学に関連するデータに、機械学習・人工知能技術を適用する、「データ駆動型」アプローチと、狭義の「計算論」あるいは「計算論的神経科学(Computational Neuroscience)」を活用し、精神障害を脳の計算プロセスの変調として理解しようとする「理論駆動型」アプローチに大別される。

ふたつのアプローチ

 計算機性能の飛躍的な向上や、数理科学の発展により、数理・データ科学を用いた研究手法を、精神医学に適用することへの期待が高まっている。例えば、遺伝子・分子、神経・生理、行動・症状の各水準の“ビッグデータ”に対して、数理・データ科学の手法を適用することで、データの中の隠された規則性・関係を見つけ出そうとする「データ駆動型」アプローチとよばれるタイプの研究が盛んに試みられている[1] 。これに対して、外界からの入力を受けて認知・行動を生成するという脳の情報処理過程を、ある種の“計算”ととらえて数式を用いてモデル化するという狭義の「計算論」あるいは「計算論的神経科学(Computational Neuroscience)」を活用し、精神障害をこの計算プロセスの変調として理解しようとするタイプの研究手法は、「理論駆動型」アプローチとよばれる。これらの研究は、「計算論的精神医学(Computational Psychiatry)」と総称されて活発な研究領域を形成し、精神医学研究において重要な位置を占めると目されるようになっている[2]

 計算論的精神医学が注目される理由の一つは、精神障害の病態理解における“水準間の説明のギャップ”が埋まらない、という精神医学の抱える根本問題に対して有効な手立てを与えると期待されているからである。水準間の説明のギャップとは、精神障害に関連する生物学的知見が多数蓄積されているにもかかわらず、それがいかにして行動・症状レベルの変調に至るのかはほとんど明らかにならないという問題のことである。計算論的精神医学は、この異なる水準間を架橋する説明を提供し、精神医学が直面する問題を解決する上で極めて強力な研究方略を提供することが期待されている。

データ駆動型アプローチ

 データ駆動型アプローチを用いた計算論的精神医学研究では、機械学習人工知能(AI)技術などとしても言及される)を用いた手法が主役となる。機械学習とは、大量のデータに対して反復的な計算を繰り返すことで、データの潜在的なパターンを見つけ出す方法の総称で、古典的な回帰モデルから最先端の深層学習まで様々な手法が用いられる。精神医学における応用としては、遺伝子・分子などのオミックスデータ、神経・生理学的データから、精神障害の有無の判別、疾患の予後を予測するような判別・識別モデルを作成するタイプの研究と、クラスタリング手法を用いて、新しい疾患亜型や疾患概念を発見しようとするタイプの研究に大別される。これらを組み合わせて行われる研究もある。

 例えば、Clementzら[3] は、統合失調症統合失調感情障害躁うつ病患者の認知機能評価、眼球運動脳波などの多次元データに次元圧縮による特徴量抽出クラスタリングを組み合わせることで、患者を3つの「バイオタイプ」に分けることを提案した。提案のバイオタイプに基づくと、従来の診断カテゴリーから予測するよりも認知機能や脳構造などの違いをよく反映しているとされた。このような知見の蓄積は、生物学的基盤に基づく新しい精神障害の評価や治療選択への有用性が期待されている。

 データ駆動型の計算論的精神医学研究では、先端的な機械学習手法などを用いて、これまで知られていなかった精神障害の表現型と生物学的異常との関係を明らかにする可能性がある。しかし、機械学習・AIを用いた方法は、解析対象とするデータの背景にあるメカニズムを明示的にモデル化しないため、直接的には脳・神経システムの原理的な理解にはつながらない可能性がある。次節で紹介する理論駆動型アプローチは、この点を補強する理論的仮説の提案が期待される。

理論駆動型アプローチ

 データ駆動型アプローチに対し、理論駆動型アプローチの研究では、脳の情報処理プロセスを明示的にモデル化した数理モデル(「生成モデル」とよばれる)を用いる。モデル化の水準や対象に応じて、生物物理学的モデル、ニューラル・ネットワークモデル強化学習モデル、ベイズ推論モデルなどの生成モデルが用いられる(各モデルの詳細は[4] などを参照)。生物物理学的モデルは、電気生理学研究や精神薬理学研究で得られたニューロン膜電位活動やシナプス動態に関する知見の精緻な数理モデル化を試みる。一方、ニューラル・ネットワークモデルは、脳領域間の相互作用といった神経回路のマクロ的な機能・構造をモデル化する。ニューラル・ネットワークでは、神経回路レベルにおける変化が、回路の出力である行動・症状レベルに対して与える影響について検討されることが多い。ベイズ推論モデルや強化学習モデルは、認知・行動課題によって得られた生体の行動データのモデル化に用いられることが多く、データが生成された背後にある抽象的な演算プロセスの理解に有効である。

 理論駆動型アプローチは、生成モデルにおける変調をシミュレートすることで精神障害の病態をモデル化しようとする「仮説形成的アプローチ」と、実際の観測データを生成モデルで再構成することで、個人や疾患群の潜在的認知・行動特徴を定量的に評価する「計算論的表現型同定」に大別される。仮説形成的アプローチの研究として、例えば、Yamashitaら[5] は、階層的なニューラル・ネットワークモデルを用いた実験で、階層間の機能的断裂が、“自発的な予測誤差”を生じ、この予測誤差が妄想気分や被影響体験といった統合失調症の病的体験を引き起こす可能性を示唆した。計算論的表現型同定の例として、Voonら[6] は、行動課題の観測データから個人の認知・行動特性を強化学習モデルのパラメータとして定量的に推定し、物質使用障害強迫性障害の患者などで、習慣や自動化された行動への固執的な傾向の比重が高くなることを報告した。これらの手法の洗練は、観測不能な潜在的な病態生理の推定を基に、個人ごとの病状評価や治療反応性予測をする新しい精神医療の開発に貢献する可能性がある。

さらに詳しく知りたい人のために

 データ駆動型アプローチの研究手法は、機械学習に関する入門書や先端手法の解説を参照のこと。幅広い精神疾患への機械学習・AI技術の適用事例については、文献[1] で網羅的にレビューされている。理論駆動型アプローチについては、各生成モデルの入門向け解説から精神疾患研究への適用事例までカバーした入門書[4] がある。計算論的表現型同定に関連する手法については文献[7] に詳しい。個別の具体的研究事例や領域の動向については、計算論的精神医学研究論文データベースCPSYMAP database (RRID: SCR_018942) [8] で把握することができる。CPSYMAPは、計算論的精神医学の論文が神経科学、精神医学、数理モデルの観点でタグ付けされており、2次元マップ上でタグに沿って研究領域の状況を可視化することができる。

参考文献

  1. 1.0 1.1 Shatte, A.B.R., Hutchinson, D.M., & Teague, S.J. (2019).
    Machine learning in mental health: a scoping review of methods and applications. Psychological medicine, 49(9), 1426-1448. [PubMed:30744717] [WorldCat] [DOI]
  2. Redish AD, Gorden JA. Eds. (2016)
    Computational Psychiatry: New Perspectives on Mental Illness. MIT Press.
  3. Clementz, B.A., Sweeney, J.A., Hamm, J.P., Ivleva, E.I., Ethridge, L.E., Pearlson, G.D., ..., & Tamminga, C.A. (2016).
    Identification of Distinct Psychosis Biotypes Using Brain-Based Biomarkers. The American journal of psychiatry, 173(4), 373-84. [PubMed:26651391] [PMC] [WorldCat] [DOI]
  4. 4.0 4.1 国里愛彦, 片平健太郎, 沖村宰, 山下祐一 (2019)
    計算論的精神医学: 情報処理過程から読み解く精神障害, 勁草書房, (東京)
  5. Yamashita, Y., & Tani, J. (2012).
    Spontaneous prediction error generation in schizophrenia. PloS one, 7(5), e37843. [PubMed:22666398] [PMC] [WorldCat] [DOI]
  6. Voon, V., Derbyshire, K., Rück, C., Irvine, M.A., Worbe, Y., Enander, J., ..., & Bullmore, E.T. (2015).
    Disorders of compulsivity: a common bias towards learning habits. Molecular psychiatry, 20(3), 345-52. [PubMed:24840709] [PMC] [WorldCat] [DOI]
  7. 片平健太郎 (2018).
    行動データの計算論モデリング- 強化学習モデルを例として-.オーム社
  8. Kato, A., Kunisato, Y., Katahira, K., Okimura, T., & Yamashita, Y. (2020).
    Computational Psychiatry Research Map (CPSYMAP): A New Database for Visualizing Research Papers. Frontiers in psychiatry, 11, 578706. [PubMed:33343418] [PMC] [WorldCat] [DOI]