「錯覚」の版間の差分

59 バイト追加 、 2023年2月17日 (金)
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 錯覚に類似した概念に、幻覚(hallucination)がある。広辞苑第六版<sup>[1]</sup>によれば、幻覚は「対象のない知覚」である。より明確に錯覚との違いを記述すると、幻覚は外部に対象が存在しない状態で起こる病的な知覚であり、錯覚は外部の対象を刺激として引き起こされる健常な知覚である。ただし、「対象のない知覚」ではあるが、幻覚ではなく錯覚とされる現象もある。たとえば、主観的輪郭(subjective contour)やきらめき格子錯視(scintillating grid illusion)が挙げられる。それらを引き起こす文脈刺激は周囲に存在することと、現象は病的ではないことから、一般的にはこれらを幻覚には分類しない。その逆に、「対象はあるのに知覚されない」錯覚というものもある。たとえば、トロクスラー効果(Troxler effect)や消失錯視群(extinction illusions)である。それらも、現象は病的ではないことから、幻覚の仲間に入れない。
 錯覚に類似した概念に、幻覚(hallucination)がある。広辞苑第六版<sup>[1]</sup>によれば、幻覚は「対象のない知覚」である。より明確に錯覚との違いを記述すると、幻覚は外部に対象が存在しない状態で起こる病的な知覚であり、錯覚は外部の対象を刺激として引き起こされる健常な知覚である。ただし、「対象のない知覚」ではあるが、幻覚ではなく錯覚とされる現象もある。たとえば、主観的輪郭(subjective contour)やきらめき格子錯視(scintillating grid illusion)が挙げられる。それらを引き起こす文脈刺激は周囲に存在することと、現象は病的ではないことから、一般的にはこれらを幻覚には分類しない。その逆に、「対象はあるのに知覚されない」錯覚というものもある。たとえば、トロクスラー効果(Troxler effect)や消失錯視群(extinction illusions)である。それらも、現象は病的ではないことから、幻覚の仲間に入れない。


 もう一つ、錯覚に類似した概念に、妄想(delusion)がある。広辞苑第六版によれば、妄想とは「根拠のない主観的な想像や信念。統合失調症などの病的原因によって起こり、事実の経験や論理によっては容易に訂正されることがない」とあり、「誇大―」「被害―」「関係―」と具体的症例が列挙されている。妄想は認知的錯覚に類似しているが、妄想は病的であって、訂正が容易ではない(非可逆的である)という点が異なる。
 もう一つ、錯覚に類似した概念に、妄想(delusion)がある。広辞苑第六版によれば、妄想とは「根拠のない主観的な想像や信念。統合失調症などの病的原因によって起こり、事実の経験や論理によっては容易に訂正されることがない」とあり、「誇大―」「被害―」「関係―」と具体的症例が列挙されている。妄想は認知的錯覚に類似しているが、妄想は病的であって、訂正が容易ではない(非可逆的である)という点が、認知的錯覚とは異なる。


 以上のように、錯覚、幻覚、妄想の三者は学問的には明確に区別できるものであるが、日常用語あるいは一般の辞書類では曖昧に用いられる場合がある。たとえば、研究社 新英和大辞典 第5版<ref>小稲義男(編) (1980). 研究社 新英和大辞典 第5版 研究社</ref>によれば、"illusion"は「1 幻覚、幻影、幻(cf. hallucination) 2 幻想、妄想、迷想、迷い、誤解(delusion) 3 〘心理〙錯覚:an optical~ 錯視」となっていて、錯覚、幻覚、妄想は混同されやすい概念であることがわかる。奇術あるいは手品(magic)がイルージョンと呼ばれることもしばしばであり、奇術と認識されているうちは普通の錯覚の話だが、それが心霊術(spiritualism)として活用されると、イルージョンに超常的な性質が意味づけされることなる。
 以上のように、錯覚、幻覚、妄想の三者は学問的には明確に区別できるものであるが、日常用語あるいは一般の辞書類では曖昧に用いられる場合がある。たとえば、研究社 新英和大辞典 第5版<ref>小稲義男(編) (1980). 研究社 新英和大辞典 第5版 研究社</ref>によれば、"illusion"は「1 幻覚、幻影、幻(cf. hallucination) 2 幻想、妄想、迷想、迷い、誤解(delusion) 3 〘心理〙錯覚:an optical~ 錯視」となっていて、錯覚、幻覚、妄想は混同されやすい概念であることがわかる。奇術あるいは手品(magic)がイルージョンと呼ばれることもしばしばであり、奇術と認識されているうちは普通の錯覚の話だが、それが心霊術(spiritualism)として活用されると、イルージョンに超常的な性質が意味づけされることなる。


 試みに、深層学習の旗手 ChatGPT に「錯覚とは何か」について聞いてみた。ChatGPTは、2022年11月にOpenAIがリリースした対話に特化したWebサービスである。情報を広く収集しているAIなのだから、より一般的な見解が得られる可能性がある。回答は以下のとおりであった(2023年1月8日に筆者が英語で質問し、英語で回答されたものを日本語に翻訳)。''「錯覚とは、感覚的な体験における誤った認識や誤解のことである。どの感覚にも起こる可能性があるが、最も一般的なのは視覚である。錯覚は、物理的な環境、個人の精神状態、あるいは両者の相互作用など、さまざまな要因によって引き起こされる可能性がある。例えば、目の錯覚は、脳が目から受け取った情報を、実際の物理的な世界のあり方とは異なる方法で解釈したときに起こる。その結果、実際には存在しない形や模様が見えるなど、現実のようでいて現実ではない視覚体験をすることがある。また、聴覚、味覚、触覚などにも錯覚が生じることがある。」'' 上述の英和辞典が錯覚を病的なものと明示的に並列させていたことに比べれば、一見健常的なものとしてまとめている。しかし、「現実のようでいて現実ではない視覚体験」という表現で幻覚を暗示している可能性はある。[[ファイル:Rotsnakesstrong6b.jpg|thumb|300px|'''図1 静止画が動いて見える錯視の例。最適化型フレーザー・ウィルコックス錯視を用いた作品「蛇の回転」(北岡, 2003)。円盤がひとりでに回転して見える。明るくてコントラストの高い刺激で錯視は強く、中心視で錯視は弱い。''']]
 試みに、深層学習の旗手 [https://openai.com/blog/chatgpt/ ChatGPT] に「錯覚とは何か」について聞いてみた。ChatGPTは、2022年11月にOpenAIがリリースした対話に特化したWebサービスである。情報を広く収集しているAIなのだから、より一般的な見解が得られる可能性がある。回答は以下のとおりであった(2023年1月8日に筆者が英語で質問し、英語で回答されたものを日本語に翻訳)。''「錯覚とは、感覚的な体験における誤った認識や誤解のことである。どの感覚にも起こる可能性があるが、最も一般的なのは視覚である。錯覚は、物理的な環境、個人の精神状態、あるいは両者の相互作用など、さまざまな要因によって引き起こされる可能性がある。例えば、目の錯覚は、脳が目から受け取った情報を、実際の物理的な世界のあり方とは異なる方法で解釈したときに起こる。その結果、実際には存在しない形や模様が見えるなど、現実のようでいて現実ではない視覚体験をすることがある。また、聴覚、味覚、触覚などにも錯覚が生じることがある。」'' 上述の英和辞典が錯覚を病的なものと明示的に並列させていたことに比べれば、一見健常的なものとしてまとめている。しかし、「現実のようでいて現実ではない視覚体験」という表現で幻覚を暗示している可能性はある。[[ファイル:Rotsnakesstrong6b.jpg|thumb|300px|'''図1 静止画が動いて見える錯視の例。最適化型フレーザー・ウィルコックス錯視を用いた作品「蛇の回転」(北岡, 2003)。円盤がひとりでに回転して見える。明るくてコントラストの高い刺激で錯視は強く、中心視で錯視は弱い。''']]


 錯覚は、対象についての知識と一致しない知覚(あるいは認知)である。ということは、錯覚は、対象からの刺激によって脳内あるいは心に生成した知覚というだけのものではない。その対象についての「客観的」な知識を事前あるいは事後に持っていて、その知識とその知覚を照合する過程が錯覚の成立に必須である。すなわち、同じ刺激で同じ知覚が得られたとしても、ある人にとっては錯覚であり、別の人には普通の知覚であることがある。たとえば、静止画が動いて見える錯視という現象がある(図1)。ある観察者が図1を見て円盤が回転して見えた時、この画像は静止画ではなく動画であると認識すれば、その観察者にとっては知覚された錯視的運動は錯視ではなく、リアルなものである。この画像が「本当は静止画である」という知識と知覚の不一致を認識して初めて錯視なのである。この錯視的運動が知覚されない観察者にとっては、この図はただの静止画であって錯視画像ではないことは言うまでもないが、それは知覚と知識が一致しているからである。ちなみに、この錯視画像を観察中に運動視を司ると考えられる大脳皮質の領域(hMT+)が活性化される証拠がある。
 錯覚は、対象についての知識と一致しない知覚(あるいは認知)である。ということは、錯覚は、対象からの刺激によって脳内あるいは心に生成した知覚というだけのものではない。その対象についての「客観的」な知識を事前あるいは事後に持っていて、その知識とその知覚を照合する過程が錯覚の成立に必須である。すなわち、同じ刺激で同じ知覚が得られたとしても、ある人にとっては錯覚であり、別の人には普通の知覚であることがある。たとえば、静止画が動いて見える錯視という現象がある(図1)。ある観察者が図1を見て円盤が回転して見えた時、この画像は静止画ではなく動画であると認識すれば、その観察者にとっては知覚された錯視的運動は錯視ではなく、リアルなものである。この画像が「本当は静止画である」という知識と知覚の不一致を認識して初めて錯視なのである。この錯視的運動が知覚されない観察者にとっては、この図はただの静止画であって錯視画像ではないことは言うまでもないが、それは知覚と知識が一致しているからである。ちなみに、この錯視画像を観察中に運動視を司ると考えられる大脳皮質の領域(hMT+)が活性化される証拠がある。
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