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==幻覚と妄想==
==幻覚と妄想==
 錯覚に類似した概念に、幻覚(hallucination)がある。幻覚は外部に対象が存在しない状態で起こる(おもに病的な)知覚であり、錯覚は外部の対象を刺激として引き起こされる(おもに健常な)知覚である。幻覚の例としては、幻肢(phantom limb)<ref>手や足を失った人が存在しないはずの手足をそこに存在するかのように感じる現象。幻影肢ともいう。その部位に痛みを感じることがあり、幻肢痛(phantom limb pain)と呼ばれる。喪失部位は手足以外の身体部位でも起こる。先天的に手や足を持たない人にも幻肢は起こる。</ref><ref>Melzack R. (1990). Phantom limbs and the concept of a neuromatrix. Trends in Neurosciences, 13(3), 88-92. https://doi.org/10.1016/0166-2236(90)90179-E</ref><ref>Hill, A. (1999). Phantom limb pain: A review of the literature on attributes and potential mechanisms.Journal of Pain and Symptom Management, 17(2), 125-142. https://doi.org/10.1016/s0885-3924(98)00136-5</ref><ref>V. S. ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー(著)、山下篤子(訳) (1999). 脳のなかの幽霊 角川書店</ref>、体外離脱体験(out-of-body experience)や自己像幻視(autoscopy)<ref>体外離脱体験は、自分の身体から見る主体が離脱して、別の場所から自分の身体と世界を見ているという体験のことである。自己像幻視は、見る主体は自分の身体に留まったまま、自分の身体とは別の場所(に置かれたビデオカメラのようなもの)から自分の身体を見ているという体験である。</ref><ref>Blanke, O,, Landis, T., Spinelli, L,, & Seeck, M. (2004). Out-of-body experience and autoscopy of neurological origin. Brain, 127(Pt 2), 243-258. https://doi.org/10.1093/brain/awh040</ref>などがある。レビー小体型認知症(dementia with Lewy bodies)では幻視(視覚性の幻覚)を伴うこと<ref>存在しない人、動物、虫などが見えるという症状。具体性が高く、パレイドリアを伴うことも多い。</ref><ref>McKeith, I.G., Dickson, D. W., Lowe, J., Emre, M., O'Brien, J.T., Feldman, H., Cummings, J., Duda, J. E., Lippa, C., Perry, E. K., Aarsland, D., Arai, H., Ballard, C. G., Boeve, B., Burn, D. J., Costa, D., Del Ser, T., Dubois, B., Galasko, D., Gauthier, S., Goetz, C. G., Gomez-Tortosa, E., Halliday, G., Hansen, L. A., Hardy, J., Iwatsubo, T., Kalaria, R. N., Kaufer, D., Kenny, R. A., Korczyn, A., Kosaka, K., Lee, V. M., Lees,  A., Litvan, I., Londos, E., Lopez, O. L., Minoshima, S., Mizuno, Y., Molina, J. A., Mukaetova-Ladinska, E. B., Pasquier, F., Perry, R. H., Schulz, J. B., Trojanowski, J. Q., & Yamada, M. (2005). “Diagnosis and management of dementia with Lewy bodies: third report of the DLB Consortium”. Neurology, 65(12), 1863-1872. https://doi.org/10.1212/01.wnl.0000187889.17253.b1</ref>が知られている。
 錯覚に類似した概念に、幻覚(hallucination)がある。幻覚は外部に対象が存在しない状態で起こる(おもに病的な)知覚であり、錯覚は外部の対象を刺激として引き起こされる(おもに健常な)知覚である。幻覚の例としては、幻肢(phantom limb)<ref>手や足を失った人が存在しないはずの手足をそこに存在するかのように感じる現象。幻影肢ともいう。その部位に痛みを感じることがあり、幻肢痛(phantom limb pain)と呼ばれる。喪失部位は手足以外の身体部位でも起こる。先天的に手や足を持たない人にも幻肢は起こる。</ref><ref>Melzack R. (1990). Phantom limbs and the concept of a neuromatrix. Trends in Neurosciences, 13(3), 88-92. https://doi.org/10.1016/0166-2236(90)90179-E</ref><ref>Hill, A. (1999). Phantom limb pain: A review of the literature on attributes and potential mechanisms.Journal of Pain and Symptom Management, 17(2), 125-142. https://doi.org/10.1016/s0885-3924(98)00136-5</ref><ref>V. S. ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー(著)、山下篤子(訳) (1999). 脳のなかの幽霊 角川書店</ref>、体外離脱体験(out-of-body experience)や自己像幻視(autoscopy)<ref>体外離脱体験は、自分の身体から見る主体が離脱して、別の場所から自分の身体と世界を見ているという体験のことである。自己像幻視は、見る主体は自分の身体に留まったまま、自分の身体とは別の場所(に置かれたビデオカメラのようなもの)から自分の身体を見ているという体験である。</ref><ref>Blanke, O,, Landis, T., Spinelli, L,, & Seeck, M. (2004). Out-of-body experience and autoscopy of neurological origin. Brain, 127(Pt 2), 243-258. https://doi.org/10.1093/brain/awh040</ref>などがある。レビー小体型認知症(dementia with Lewy bodies)<ref>McKeith, I.G., Dickson, D. W., Lowe, J., Emre, M., O'Brien, J.T., Feldman, H., Cummings, J., Duda, J. E., Lippa, C., Perry, E. K., Aarsland, D., Arai, H., Ballard, C. G., Boeve, B., Burn, D. J., Costa, D., Del Ser, T., Dubois, B., Galasko, D., Gauthier, S., Goetz, C. G., Gomez-Tortosa, E., Halliday, G., Hansen, L. A., Hardy, J., Iwatsubo, T., Kalaria, R. N., Kaufer, D., Kenny, R. A., Korczyn, A., Kosaka, K., Lee, V. M., Lees,  A., Litvan, I., Londos, E., Lopez, O. L., Minoshima, S., Mizuno, Y., Molina, J. A., Mukaetova-Ladinska, E. B., Pasquier, F., Perry, R. H., Schulz, J. B., Trojanowski, J. Q., & Yamada, M. (2005). Diagnosis and management of dementia with Lewy bodies: third report of the DLB Consortium. Neurology, 65(12), 1863-1872. https://doi.org/10.1212/01.wnl.0000187889.17253.b1</ref>ではしばしば幻視(視覚性の幻覚)を伴う<ref>存在しない人、動物、虫などが見えるという症状。</ref><ref>NIH National Institute on Aging "What Is Lewy Body Dementia? Causes, Symptoms, and Treatments" https://www.nia.nih.gov/health/what-lewy-body-dementia-causes-symptoms-and-treatments (2023年7月21日アクセス)</ref>。統合失調症(schizopherenia)ではしばしば幻聴(聴覚性の幻覚)<ref>たとえば、「自分の悪口を言っている」といった声(幻声)が聞こえる。</ref><ref>NIMH "Schizophrenia" https://www.nimh.nih.gov/health/topics/schizophrenia (2023年7月21日アクセス)</ref>を伴う。
[[ファイル:NinioextinctionillusionL.jpg|サムネイル|図1 ニニオ・スティーブンスの消失錯視(Ninio-Stevens' extinction illusion)<ref>Ninio, J. & Stevens, K. A. (2000). Variations on the Hermann grid: an extnction illusion. Perception, 29, 1209-1217.</ref>。垂直線・水平線の交点12箇所に黒いドットが描かれているが、周辺視では消えて見える。]]
[[ファイル:NinioextinctionillusionL.jpg|サムネイル|図1 ニニオ・スティーブンスの消失錯視(Ninio-Stevens' extinction illusion)<ref>Ninio, J. & Stevens, K. A. (2000). Variations on the Hermann grid: an extnction illusion. Perception, 29, 1209-1217.</ref>。垂直線・水平線の交点12箇所に黒いドットが描かれているが、周辺視では消えて見える。]]


 錯覚に類似した概念に、妄想(delusion)がある。妄想は「誤った想像、信念あるいは思考」である。根拠のない主観的な想像・信念・思考であり、統合失調症などの病的原因によって起こり、事実の経験や他者からの論理的な説得によって容易に訂正されることがない。誇大妄想、被害妄想、関係妄想などがある。妄想は認知的錯覚に類似しているが、妄想は病的であって、訂正が容易ではない(非可逆的である)という点が、認知的錯覚とは異なる。なお、夢は健常なものであるが、知覚される像は幻覚であるとともに、内容は妄想的である。ただし、明晰夢(lucid dreaming)<ref>Baird, B., Mota-Rolim, S. A., & Dresler, M. (2019). The cognitive neuroscience of lucid dreaming. Neuroscience & Biobehavioral Reviews, 100, 305-323. https://doi.org/10.1016/j.neubiorev.2019.03.008</ref>は妄想的ではないという例外がある。
 錯覚に類似した概念に、妄想(delusion)がある。妄想は「誤った想像、信念あるいは思考」である。根拠のない主観的な想像・信念・思考であり、統合失調症などの病的原因によって起こり、事実の経験や他者からの論理的な説得によって容易に訂正されることがない。誇大妄想、被害妄想、関係妄想などがある。妄想は認知的錯覚に類似しているが、妄想は病的であって、訂正が容易ではない(非可逆的である)という点が、認知的錯覚とは異なる。なお、夢は健常なものであるが、知覚される像は幻覚であるとともに、内容は妄想的である。ただし、明晰夢(lucid dreaming)<ref>Baird, B., Mota-Rolim, S. A., & Dresler, M. (2019). The cognitive neuroscience of lucid dreaming. Neuroscience & Biobehavioral Reviews, 100, 305-323. https://doi.org/10.1016/j.neubiorev.2019.03.008</ref>は妄想的ではないという例外がある。


ただし、外部に対象のない知覚ではあるが、幻覚ではなく錯覚とされる現象もある。一例として、主観的輪郭(subjective contour)<ref>Kanizsa, G. (1976). Subjective Contours. Scientific American, 234(4), 48-53.</ref>がある。それらを引き起こす文脈刺激が周囲に存在することと、現象は誰にでも起きることから、一般的にはこれらを幻覚には分類しない。その逆に、対象はあるのに知覚されない錯覚という現象もある。たとえば、トロクスラー効果(Troxler effect)<ref>Clarke, F.J.J. (1960). A Study of Troxler's Effect, Optica Acta: International Journal of Optics, 7(3), 219-236,</ref>などの消失錯視群(extinction illusions)(図1)である。
 外部に対象のない知覚ではあるが、幻覚ではなく錯覚とされる現象もある。一例として、主観的輪郭(subjective contour)<ref>Kanizsa, G. (1976). Subjective Contours. Scientific American, 234(4), 48-53.</ref>がある。それらを引き起こす文脈刺激が周囲に存在することと、現象は誰にでも起きることから、一般的にはこれらを幻覚には分類しない。その逆に、対象はあるのに知覚されない錯覚という現象もある。たとえば、トロクスラー効果(Troxler effect)<ref>Clarke, F.J.J. (1960). A Study of Troxler's Effect, Optica Acta: International Journal of Optics, 7(3), 219-236,</ref>などの消失錯視群(extinction illusions)(図1)である。


 以上のように、錯覚、幻覚、妄想の三者は学問的には明確に区別できるものであるが、日常用語や一般の辞書類、あるいは科学的研究においても、それらの区別は必ずしも明確ではない。たとえば、研究社 新英和大辞典 第5版<ref>小稲義男(編) (1980). 研究社 新英和大辞典 第5版 研究社</ref>によれば、"illusion"は「1 幻覚、幻影、幻(cf. hallucination) 2 幻想、妄想、迷想、迷い、誤解(delusion) 3 〘心理〙錯覚:an optical~ 錯視」となっていて、錯覚、幻覚、妄想は混同されやすい概念であることがわかる。[[ファイル:Rotsnakesstrong6b.jpg|thumb|300px|図2 静止画が動いて見える錯視の例。最適化型フレーザー・ウィルコックス錯視を用いた作品[https://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/ 「蛇の回転」]<ref>Kitaoka, A. (2017). The Fraser-Wilcox illusion and its extension. A. G. Shapiro and D. Todorović (Eds.), The Oxford Compendium of Visual Illusions, Oxford University Press, pp. 500-511.</ref>。円盤がひとりでに回転して見える。中心視で錯視は弱い。]]
 以上のように、錯覚、幻覚、妄想の三者は学問的には区別されているものであるが、日常用語や一般の辞書類、あるいは科学的研究においても、それらの区別は必ずしも明確ではない。たとえば、研究社 新英和大辞典 第5版<ref>小稲義男(編) (1980). 研究社 新英和大辞典 第5版 研究社</ref>によれば、"illusion"は「1 幻覚、幻影、幻(cf. hallucination) 2 幻想、妄想、迷想、迷い、誤解(delusion) 3 〘心理〙錯覚:an optical~ 錯視」となっていて、錯覚、幻覚、妄想は混同されやすい概念であることがわかる。
[[ファイル:Rotsnakesstrong6b.jpg|thumb|300px|図2 静止画が動いて見える錯視の例。最適化型フレーザー・ウィルコックス錯視を用いた作品[https://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/ 「蛇の回転」]<ref>Kitaoka, A. (2017). The Fraser-Wilcox illusion and its extension. A. G. Shapiro and D. Todorović (Eds.), The Oxford Compendium of Visual Illusions, Oxford University Press, pp. 500-511.</ref>。円盤がひとりでに回転して見える。中心視で錯視は弱い。]]


==錯覚における知識の役割==
==錯覚における知識の役割==
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