「液-液相分離」の版間の差分

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{{box|text= 液-液相分離は液体が2つの相に分かれる現象のことをいう。最近では細胞内にあるタンパク質の集合物が液-液相分離によって形成された液滴(ドロプレット)であるという発見が相次いでおり、生命科学と溶液化学の境界領域に新たな研究分野が広がっている。}}
{{box|text= 液-液相分離は液体が2つの相に分かれる現象のことをいう。最近では細胞内にあるタンパク質の集合物が液-液相分離によって形成された液滴(ドロプレット)であるという発見が相次いでおり、生命科学と溶液化学の境界領域に新たな研究分野が広がっている。}}
==液-液相分離と生命現象==
==液-液相分離と生命現象==


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 生命科学の分野では、[[ストレス顆粒]]や[[生殖顆粒]]、核小体などのMLOsが液-液相分離によるものであるとされている<ref name=Brangwynne2013 />。しかし、このような名前が付けられている明確な細胞内構造物だけでなく、一時的に形成されるもっと小さな液-液相分離による集合物も存在するとされ、細胞内でのタンパク質の動的な振る舞いを統合するメカニズムとして注目されている<ref name=Banani2017><pubmed>28225081</pubmed></ref>。また、異常な液-液相分離がタンパク質凝集を引き起こし、[[筋萎縮性側索硬化症]]や[[パーキンソン病]]などの[[神経変性疾患]]の原因となる可能性が示唆されている<ref name=Shin2017><pubmed>28935776</pubmed></ref>。
 生命科学の分野では、[[ストレス顆粒]]や[[生殖顆粒]]、核小体などのMLOsが液-液相分離によるものであるとされている<ref name=Brangwynne2013 />。しかし、このような名前が付けられている明確な細胞内構造物だけでなく、一時的に形成されるもっと小さな液-液相分離による集合物も存在するとされ、細胞内でのタンパク質の動的な振る舞いを統合するメカニズムとして注目されている<ref name=Banani2017><pubmed>28225081</pubmed></ref>。また、異常な液-液相分離がタンパク質凝集を引き起こし、[[筋萎縮性側索硬化症]]や[[パーキンソン病]]などの[[神経変性疾患]]の原因となる可能性が示唆されている<ref name=Shin2017><pubmed>28935776</pubmed></ref>。
 
[[ファイル:Shiraki 液-液相分離 Fig1.png|サムネイル|'''図1 タンパク質を混合したときにできる液滴(ドロプレット)'''<br>50 &micro;Mの卵白リゾチームおよび125 &micro;Mのオボアルブミンを50 mM Tris緩衝液(pH 7)中で混合したときに形成できる液滴。]]
== 原理 ==
== 原理 ==
 液-液相分離は[[熱力学的]]な現象であり、水と油の混合や、2種類のタンパク質溶液の混合、2種類の高分子溶液の混合、塩溶液と高分子溶液の混合、低分子溶液と高分子溶液の混合など、多様な組み合わせによって生じる。
 液-液相分離は[[熱力学的]]な現象であり、水と油の混合や、2種類のタンパク質溶液の混合、2種類の高分子溶液の混合、塩溶液と高分子溶液の混合、低分子溶液と高分子溶液の混合など、多様な組み合わせによって生じる。
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 液-液相分離は主に2つの原理によって生じる。核生成と成長(nucleation and growth)では、[[過飽和]]状態から相分離がはじまる。最初に一定のエネルギー障壁を超えて、小さな液滴が形成される。この核は一定のサイズを超えないと分解してしまうが、それ以上になった核が、周囲の分子を取り込みながら大きくなる。一方、[[スピノーダル分解]]([[Spinodal decomposition]])では、熱力学的に不安定な状態から微小な濃度ゆらぎが自発的に増幅されて、相分離が進行する。核生成のエネルギー障壁が存在しないため、全体的に均一な構造からネットワーク状の構造へと分離が起こる。
 液-液相分離は主に2つの原理によって生じる。核生成と成長(nucleation and growth)では、[[過飽和]]状態から相分離がはじまる。最初に一定のエネルギー障壁を超えて、小さな液滴が形成される。この核は一定のサイズを超えないと分解してしまうが、それ以上になった核が、周囲の分子を取り込みながら大きくなる。一方、[[スピノーダル分解]]([[Spinodal decomposition]])では、熱力学的に不安定な状態から微小な濃度ゆらぎが自発的に増幅されて、相分離が進行する。核生成のエネルギー障壁が存在しないため、全体的に均一な構造からネットワーク状の構造へと分離が起こる。


[[ファイル:Shiraki 液-液相分離 Fig2.png|サムネイル|'''図2. 2種類の物質を混合したときの相図のイメージ図'''<br>A. デキストランとポリエチレングリコール。<br>B. ATPとポリリン酸。<br>C. オボアルブミンとリゾチーム]]
== 液-液相分離と相図 ==
== 液-液相分離と相図 ==


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 ATPとポリリン酸の相図の概略を'''図2B'''に示す<ref name=Nobeyama2023 />。[[カチオン]]が存在するときのATPとポリリン酸の相図は島のような形になり、島の内側はATPとポリリン酸が高濃度含まれた液滴が観察されるが、島の外側は相分離しない領域になる。相図を見ると明らかなように、ポリリン酸をある一定の濃度に固定したとき、ATPの濃度を増加させていくとある濃度以上で液-液相分離が生じて液滴が観察されるが、さらにATPを加えていくと意外にもふたたび単一相になる。ATPとポリリン酸のように、互いに親和性のある成分が相互作用して液-液相分離が生じる現象を[[会合的相分離|会合的(associative)相分離]]という。
 ATPとポリリン酸の相図の概略を'''図2B'''に示す<ref name=Nobeyama2023 />。[[カチオン]]が存在するときのATPとポリリン酸の相図は島のような形になり、島の内側はATPとポリリン酸が高濃度含まれた液滴が観察されるが、島の外側は相分離しない領域になる。相図を見ると明らかなように、ポリリン酸をある一定の濃度に固定したとき、ATPの濃度を増加させていくとある濃度以上で液-液相分離が生じて液滴が観察されるが、さらにATPを加えていくと意外にもふたたび単一相になる。ATPとポリリン酸のように、互いに親和性のある成分が相互作用して液-液相分離が生じる現象を[[会合的相分離|会合的(associative)相分離]]という。


 [[リゾチーム]]と[[オボアルブミン]]の相図の概略を図2Cに示す<ref name=Nobeyama2024 />。この相図はATPとポリリン酸の相図に似ており、リゾチームとオボアルブミンは親和性があるために液-液相分離が生じる。液-液相分離が生じたときの濃厚相には、'''図1'''にみられるように液滴のような形状になることが多い。また、低濃度のリゾチームと高濃度のオボアルブミンの領域では、液滴ではなく不定形の凝集体が観察される。タンパク質の凝集体の形成はふつう不可逆であり、イオンを加えたり温度を上げたりしても溶けないことが多い。
 [[リゾチーム]]と[[オボアルブミン]]の相図の概略を'''図2C'''に示す<ref name=Nobeyama2024 />。この相図はATPとポリリン酸の相図に似ており、リゾチームとオボアルブミンは親和性があるために液-液相分離が生じる。液-液相分離が生じたときの濃厚相には、'''図1'''にみられるように液滴のような形状になることが多い。また、低濃度のリゾチームと高濃度のオボアルブミンの領域では、液滴ではなく不定形の凝集体が観察される。タンパク質の凝集体の形成はふつう不可逆であり、イオンを加えたり温度を上げたりしても溶けないことが多い。


 相分離は他にもさまざまな種類がある。[[ブロックコポリマー]]などの高分子で見られる、ナノメートルからマイクロメートルスケールで生じる相分離を[[ミクロ相分離]]という<ref name=Leibler1980>'''Leibler, L. (1980).'''<br>Theory of microphase separation in block copolymers. Macromolecules, 13(6), 1602-1617.</ref>。ミクロ相分離は通常のマクロ相分離とは異なり、完全に相分離せず、特定のナノ構造を形成するのが特徴である。
 相分離は他にもさまざまな種類がある。[[ブロックコポリマー]]などの高分子で見られる、ナノメートルからマイクロメートルスケールで生じる相分離を[[ミクロ相分離]]という<ref name=Leibler1980>'''Leibler, L. (1980).'''<br>Theory of microphase separation in block copolymers. Macromolecules, 13(6), 1602-1617.</ref>。ミクロ相分離は通常のマクロ相分離とは異なり、完全に相分離せず、特定のナノ構造を形成するのが特徴である。


 相分離が進むときに[[粘弾性効果]]によってネットワーク状構造など異常な形態が形成されることがある。このような相分離を[[粘弾性相分離|粘弾性(Viscoelastic)相分離]]という<ref name=Tanaka2000>Tanaka, H. (2000).<br>Viscoelastic phase separation. Journal of Physics: Condensed Matter, 12(15), R207.</ref>。
 相分離が進むときに[[粘弾性効果]]によってネットワーク状構造など異常な形態が形成されることがある。このような相分離を[[粘弾性相分離|粘弾性(Viscoelastic)相分離]]という<ref name=Tanaka2000>'''Tanaka, H. (2000).'''<br>Viscoelastic phase separation. Journal of Physics: Condensed Matter, 12(15), R207.</ref>。


 相分離の進行によって状態が変わるケースとして、例えば、一部の成分が[[結晶化]]し、それによって相分離が進行する[[結晶化誘起相分離]]や、小さな分子や[[コロイド]]粒子が除去されることで、残りの成分が相分離する[[枯渇相分離]]、化学反応が進行するにつれて組成が変化し、ある時点で相分離が起きる[[反応誘起相分離]]などもある。
 相分離の進行によって状態が変わるケースとして、例えば、一部の成分が[[結晶化]]し、それによって相分離が進行する[[結晶化誘起相分離]]や、小さな分子や[[コロイド]]粒子が除去されることで、残りの成分が相分離する[[枯渇相分離]]、化学反応が進行するにつれて組成が変化し、ある時点で相分離が起きる[[反応誘起相分離]]などもある。
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 液滴は流動性を持つことが特徴である。観察対象の顆粒状タンパク質集合物が液滴であるかを判別するには、接触時に融合するかどうかを確認するのが簡便である。液滴の中には、1秒もあれば完全に融合してしまうほど柔らかいものも存在する<ref name=Sakakibara2023><pubmed>37291907</pubmed></ref>。一方で、接触しても融合しない場合、その集合物は液滴ではなく凝集体であると判断できる。
 液滴は流動性を持つことが特徴である。観察対象の顆粒状タンパク質集合物が液滴であるかを判別するには、接触時に融合するかどうかを確認するのが簡便である。液滴の中には、1秒もあれば完全に融合してしまうほど柔らかいものも存在する<ref name=Sakakibara2023><pubmed>37291907</pubmed></ref>。一方で、接触しても融合しない場合、その集合物は液滴ではなく凝集体であると判断できる。


 液滴の流動性を定量する方法として、[[光褪色後蛍光回復法]]([[fluorescence recovery after photobleaching]], [[FRAP]])が広く用いられている<ref name=Sprague2005><pubmed>15695095</pubmed></ref>。この手法では、液滴の一部分にレーザーを照射して蛍光を褪色させ、その後の蛍光回復速度から分子の流動性を計測する。細胞内の液滴では、蛍光の回復が秒から分のオーダーの現象として観察されることが多い。ただし、観察対象が液体の性質を持つのか、固体に近い性質を持つのかを蛍光回復の速度論的解析だけで判断するのは難しいとの見解もあり<ref name=McSwiggen2019><pubmed>31594803</pubmed></ref>、慎重な解釈が求められる。
 液滴の流動性を定量する方法として、[[光褪色後蛍光回復法]]([[fluorescence recovery after photobleaching]], [[FRAP]])が広く用いられている<ref name=Sprague2005><pubmed>15695095</pubmed></ref>。この手法では、液滴の一部分にレーザー光を照射して蛍光を褪色させ、その後の蛍光回復速度から分子の流動性を計測する。細胞内の液滴では、蛍光の回復が秒から分のオーダーの現象として観察されることが多い。ただし、観察対象が液体の性質を持つのか、固体に近い性質を持つのかを蛍光回復の速度論的解析だけで判断するのは難しいとの見解もあり<ref name=McSwiggen2019><pubmed>31594803</pubmed></ref>、慎重な解釈が求められる。


== タンパク質の液-液相分離 ==
== タンパク質の液-液相分離 ==
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== 残された課題 ==
== 残された課題 ==
 細胞内では[[DNA]]の[[修復]]や、[[遺伝子]]の[[転写]]、タンパク質への[[翻訳]]、[[シグナル伝達]]の制御、[[自然免疫]]の応答、機能の区画化や基質の貯蔵、環境の変化への応答など、生命科学においても重要な機能が液-液相分離と関連していることが2019年頃までに次々に明らかにされてきてきた<ref name=Fiddian-Green1975><pubmed>2019</pubmed></ref>。その結果、[[翻訳後修飾]]のようにごくわずかな[[化学修飾]]がなぜ遺伝子の転写などの生命現象を引き起こすのか、なぜ危険なプリオンが種を超えて存在しているのか、固有の構造を形成しない天然変性領域を持つ天然変性タンパク質がなぜこれだけたくさん存在するのか、細胞内にはATPがなぜmMのオーダーで存在しているのか、代謝の連続的な反応はどのように生じるのかなど、分子を研究するだけでは理解が困難だった現象に対して解答を与えられるようになった<ref name=Fiddian-Green1975 />。
 細胞内では[[DNA]]の[[修復]]や、[[遺伝子]]の[[転写]]、タンパク質への[[翻訳]]、[[シグナル伝達]]の制御、[[自然免疫]]の応答、機能の区画化や基質の貯蔵、環境の変化への応答など、生命科学においても重要な機能が液-液相分離と関連していることが2019年頃までに次々に明らかにされてきてきた<ref name=白木2019>'''白木賢太郎 (2019).'''<br>『相分離生物学』東京化学同人</ref>。その結果、[[翻訳後修飾]]のようにごくわずかな[[化学修飾]]がなぜ遺伝子の転写などの生命現象を引き起こすのか、なぜ危険なプリオンが種を超えて存在しているのか、固有の構造を形成しない天然変性領域を持つ天然変性タンパク質がなぜこれだけたくさん存在するのか、細胞内にはATPがなぜmMのオーダーで存在しているのか、代謝の連続的な反応はどのように生じるのかなど、分子を研究するだけでは理解が困難だった現象に対して解答を与えられるようになった<ref name=白木2019 />。


 これから生命科学の液-液相分離の研究を進めるにあたり、計測機器の発展と、既存の理論との整合が期待される<ref name=Gardos1976><pubmed>2021</pubmed></ref>。これまでの生命科学は、分子を対象とした研究が主流であり、タンパク質の立体構造を高精度に測定し、どのような分子種が細胞内に存在するのかを網羅的に分析するという手法が発達してきた。一方、今後は分子集合物をターゲットにした計測手法や、細胞の中にある分子の非破壊での計測手法の開発が期待されている。現在、細胞内の液-液相分離の研究で最も広く使われている計測技術は、[[蛍光タンパク質]]ラベルによる[[超高解像度蛍光顕微鏡]]での観察だが、非染色・非破壊で計測できる[[ラマン散乱法]]や[[赤外分光法]]などの計測技術の技術革新が期待される。
 これから生命科学の液-液相分離の研究を進めるにあたり、計測機器の発展と、既存の理論との整合が期待される<ref name=白木2021>'''白木賢太郎編 (2021).'''<br>『相分離生物学の全貌』東京化学同人</ref>。これまでの生命科学は、分子を対象とした研究が主流であり、タンパク質の立体構造を高精度に測定し、どのような分子種が細胞内に存在するのかを網羅的に分析するという手法が発達してきた。一方、今後は分子集合物をターゲットにした計測手法や、細胞の中にある分子の非破壊での計測手法の開発が期待されている。現在、細胞内の液-液相分離の研究で最も広く使われている計測技術は、[[蛍光タンパク質]]ラベルによる[[超高解像度蛍光顕微鏡]]での観察だが、非染色・非破壊で計測できる[[ラマン散乱法]]や[[赤外分光法]]などの計測技術の技術革新が期待される。


 理論としては、細胞内に起こるいわゆる生物学的な液-液相分離が、試験管の中で観察できるポリマーなどの液-液相分離とどのような点で類似しており、どのような点で相違するのかについて、まだ明確でない点が多い。液-液相分離が起こることによってタンパク質がどのように活性化されたり不活化されたりするのか、または基質となる物質の蓄積がタンパク質の機能にどのような影響を及ぼすのかについても、明確には理解されていない。
 理論としては、細胞内に起こるいわゆる生物学的な液-液相分離が、試験管の中で観察できるポリマーなどの液-液相分離とどのような点で類似しており、どのような点で相違するのかについて、まだ明確でない点が多い。液-液相分離が起こることによってタンパク質がどのように活性化されたり不活化されたりするのか、または基質となる物質の蓄積がタンパク質の機能にどのような影響を及ぼすのかについても、明確には理解されていない。