「社会脳」の版間の差分

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 人間が社会的存在である以上、脳神経科学の究極の目的が人間の理解だとすれば、[[wikipedia:JA:ヒト|ヒト]]を対象とした研究はもちろん、ヒトを対象にしない脳神経科学も程度の差はあれ、すべて”social”なneuroscienceであり、社会脳研究ともいえる。したがって、広義の社会脳研究においては、特定の部位やシステム、方法論に限定するものではない。とはいえ、現在の広義の社会脳研究に至るまでの転機となるポイントを紹介していく。
<font size="+1">[http://researchmap.jp/psy 高橋 英彦]</font><br>
''京都大学 大学院 医学研究科 ''<br>
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2012年4月9日 原稿完成日:2012年5月27日<br>
担当編集委員:[http://researchmap.jp/tadafumikato 加藤 忠史](独立行政法人理化学研究所 脳科学総合研究センター)<br>
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英語名:social brain 独:soziale Gehirn 仏:cerveau social
 社会脳という言葉が浸透したのは、1990年にアメリカの生理学者Leslie Brothers<ref name=ref1>'''Brothers L.'''<br>The social brain: A project for integrating primate behavior and neurophysiology in a new domain.<br>''Concepts in neuroscience.'' 1990; 1, 27-51.</ref>がsocial brainという言葉を使用し、社会認知能力に特に重要な部位として[[扁桃体]]と[[眼窩前頭野]]と[[側頭葉]]をあげたのがひとつの転機と考えられる。その後の[[損傷研究]]や[[非侵襲的脳機能画像研究]]で、扁桃体は[[情動認知]]、眼窩前頭野は[[意思決定]]、側頭葉下面は[[相貌認知]]に重要であることわかってきた。


{{box|text= 1990年にBrothersが、[[社会的認知能力]]に重要な部位として、[[扁桃体]]、[[眼窩前頭野]]、[[側頭葉]]を挙げたことを契機に用いられるようになった用語<ref name=ref1>'''Brothers L.'''<br>The social brain: A project for integrating primate behavior and neurophysiology in a new domain.<br>''Concepts in Neuroscience.'' 1990; 1, 27-51.</ref>。その意味するところは時代と共に変遷しているが、概ね、社会的行動に関わる脳構造とその研究を指している。}}
 ヒトにおいては、脳は体重の約2%にすぎないのに体全体で使われるエネルギーの約20%も消費する。このような高コストの器官が進化するには、それだけの理由が必要である。イギリスのRobin Dunberは全脳に対する新皮質の割合を霊長類の種間で比較した。その結果、新皮質の割合と相関があったのは生態的要因ではなく、集団のグループサイズという社会的要因であることを見出し、霊長類の新皮質の進化は集団生活、社会的環境に適応するために進化したという社会脳仮説を1998年に発表した<ref name=ref2>'''Dunbar RIM.'''<br>The social brain hypothesis.<br>''Evolutionary Anthropology.'' 1998; 6: 178-190.</ref>。この実証的な以前から、イギリスのNicholas Humphreyらによって大型の霊長類の知能は社会的な状況に適応するために進化してきたのではないかと議論されていた<ref name=ref3>'''Humphrey N'''<br>in Growing Points in Ethology: The social function of intellect, eds Bateson PPG.,<br>Hinde RA (Cambridge University Press, Cambridge,), 1976, pp 303–317.</ref>。
 
 脳神経科学の究極の目的が人間の理解だとすれば、人間が社会的存在である以上、[[wikipedia:JA:ヒト|ヒト]]を対象とした研究はもちろん、ヒトを対象にしない脳神経科学も程度の差はあれ、すべて”social”なneuroscienceであり、社会脳研究ともいえる。したがって、広義の社会脳研究においては、特定の部位やシステム、方法論に限定するものではない。とはいえ、現在の広義の社会脳研究に至るまでの転機となるポイントを紹介していく。
 
 社会脳という言葉が浸透したのは、1990年にアメリカの生理学者Leslie Brothers<ref name=ref1 />がsocial brainという言葉を使用し、社会認知能力に特に重要な部位として扁桃体と眼窩前頭野と側頭葉をあげたのがひとつの転機と考えられる。その後の[[損傷研究]]や[[非侵襲的脳機能画像研究]]で、扁桃体は[[情動認知]]、眼窩前頭野は[[意思決定]]、側頭葉下面は[[相貌認知]]に重要であることわかってきた。
 
 ヒトにおいては、脳は体重の約2%にすぎないのに体全体で使われるエネルギーの約20%も消費する。このような高コストの器官が進化するには、それだけの理由が必要である。イギリスのRobin Dunberは全脳に対する新皮質の割合を霊長類の種間で比較した。その結果、新皮質の割合と相関があったのは生態的要因ではなく、集団のグループサイズという社会的要因であることを見出し、霊長類の新皮質の進化は集団生活、社会的環境に適応するために進化したという社会脳仮説を1998年に発表した<ref name=ref2>'''Dunbar RIM.'''<br>The social brain hypothesis.<br>''Evolutionary Anthropology.'' 1998; 6: 178-190.</ref>。この実証的な報告以前から、イギリスのNicholas Humphreyらによって大型の霊長類の知能は社会的な状況に適応するために進化してきたのではないかと議論されていた<ref name=ref3>'''Humphrey N'''<br>in Growing Points in Ethology: The social function of intellect, eds Bateson PPG.,<br>Hinde RA (Cambridge University Press, Cambridge,), 1976, pp 303–317.</ref>。


 その後、1990年代後半から2000年前後にかけて非侵襲的脳機能画像を用いた、他人のこころを読み取るのに重要な能力である心の理論に関する研究が進み、[[内側前頭前野]]や[[側頭頭頂移行部]]([[後側上側頭溝]])も社会脳の重要な一部であることがわかってきた<ref name=ref4><pubmed>10576727</pubmed></ref>。さらに1996年にイタリアの[[wikipedia:Giacomo Rizzolatti|Giacomo Rizzolatti]]らによって、サルにおいて[[ミラーニューロン]]が発見され、その後、ヒトでも[[前頭葉]]から[[頭頂葉]]にかけてミラーニューロンシステムが確認された。ミラーニューロンシステムも他者の意図の理解などにかかわるとされ、社会脳研究で精力的に研究されているテーマである<ref name=ref5><pubmed>15217330</pubmed></ref>。
 その後、1990年代後半から2000年前後にかけて非侵襲的脳機能画像を用いた、他人のこころを読み取るのに重要な能力である心の理論に関する研究が進み、[[内側前頭前野]]や[[側頭頭頂移行部]]([[後側上側頭溝]])も社会脳の重要な一部であることがわかってきた<ref name=ref4><pubmed>10576727</pubmed></ref>。さらに1996年にイタリアの[[wikipedia:Giacomo Rizzolatti|Giacomo Rizzolatti]]らによって、サルにおいて[[ミラーニューロン]]が発見され、その後、ヒトでも[[前頭葉]]から[[頭頂葉]]にかけてミラーニューロンシステムが確認された。ミラーニューロンシステムも他者の意図の理解などにかかわるとされ、社会脳研究で精力的に研究されているテーマである<ref name=ref5><pubmed>15217330</pubmed></ref>。


 2005年、前後より社会的行動の神経基盤を理解しようとする社会脳研究が興隆してきたのには、[[fMRI]]などの非侵襲的脳機能画像の隆盛や認知・心理パラダイムの進歩により、情動、意思決定、意識といったこれまで脳科学に馴染みにくく、むしろ[[wikipedia:JA:心理学|心理学]]、[[wikipedia:JA:経済学|経済学]]、[[wikipedia:JA:哲学|哲学]]などの[[wikipedia:JA:人文社会|人文社会]]の学問で扱ってきた領域が、脳神経科学と融合してきた背景があるように思われる。特に、[[wikipedia:JA:行動経済学|行動経済学]]と脳神経科学が融合し、経済的な意思決定にとどまらず、社会的意思決定にかかわる神経基盤を理解しようとする神経経済学の発展は目覚ましい<ref name=ref><pubmed>16400140</pubmed></ref>。こうした状況を受けて、2006年に[[wikipedia:Social Neuroscience|Social Neuroscience]]と [[wikipedia:Social Cognitive and Affective Neuroscience|Social Cognitive and Affective Neuroscience]]という2誌も刊行され、[[wikipedia:Society for Social Neuroscience|Society for Social Neuroscience]]と[[wikipedia:Social and Affective Neuroscience Society|Social and Affective Neuroscience Society]]というそれぞれの関連学会も設立された。これらの雑誌の編集委員もヒトを対象とした脳科学者だけでなく、動物を用いる研究者、心理学者、経済学者、哲学者、臨床医など多岐にわたり、掲載される論文も多岐にわたっている。
 2005年、前後より社会的行動の神経基盤を理解しようとする社会脳研究が興隆してきたのには、[[fMRI]]などの非侵襲的脳機能画像の流布や認知・心理パラダイムの進歩により、情動、意思決定、意識といったこれまで脳科学に馴染みにくく、むしろ[[wikipedia:JA:心理学|心理学]]、[[wikipedia:JA:経済学|経済学]]、[[wikipedia:JA:哲学|哲学]]などの[[wikipedia:JA:人文社会|人文社会]]の学問で扱ってきた領域が、脳神経科学と融合してきた背景があるように思われる。特に、[[wikipedia:JA:行動経済学|行動経済学]]と脳神経科学が融合し、経済的な意思決定にとどまらず、社会的意思決定にかかわる神経基盤を理解しようとする神経経済学の発展は目覚ましい<ref name=ref><pubmed>16400140</pubmed></ref>。こうした状況を受けて、2006年に[[wikipedia:Social Neuroscience|Social Neuroscience]]と [[wikipedia:Social Cognitive and Affective Neuroscience|Social Cognitive and Affective Neuroscience]]という2誌も刊行され、[[wikipedia:Society for Social Neuroscience|Society for Social Neuroscience]]と[[wikipedia:Social and Affective Neuroscience Society|Social and Affective Neuroscience Society]]というそれぞれの関連学会も設立された。これらの雑誌の編集委員もヒトを対象とした脳科学者だけでなく、動物を用いる研究者、心理学者、経済学者、哲学者、臨床医など多岐にわたり、掲載される論文も多岐にわたっている。


 このように社会脳研究が対象とする、脳部位、システム、方法論などは年々、拡大してきており、初めに述べたように、もはや特定の研究分野にとどまらない。しかし、これまでは仮想的な状況で一個体の脳情報を計測することが主流であった。今後、実際の社会的状況で複数の個体の脳情報を計測していくことが、社会脳研究の重要な方向性になるであろう。
 このように社会脳研究が対象とする、脳部位、システム、方法論などは年々、拡大してきており、初めに述べたように、もはや特定の研究分野にとどまらない。しかし、これまでは仮想的な状況で一個体の脳情報を計測することが主流であった。今後、実際の社会的状況で複数の個体の脳情報を計測していくことが、社会脳研究の重要な方向性になるであろう。


==関連項目==
*[[ミラーニューロン]]
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==


<references/>
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(執筆者:高橋英彦  担当編集委員:加藤忠史)

2012年4月11日 (水) 09:39時点における版

 人間が社会的存在である以上、脳神経科学の究極の目的が人間の理解だとすれば、ヒトを対象とした研究はもちろん、ヒトを対象にしない脳神経科学も程度の差はあれ、すべて”social”なneuroscienceであり、社会脳研究ともいえる。したがって、広義の社会脳研究においては、特定の部位やシステム、方法論に限定するものではない。とはいえ、現在の広義の社会脳研究に至るまでの転機となるポイントを紹介していく。

 社会脳という言葉が浸透したのは、1990年にアメリカの生理学者Leslie Brothers[1]がsocial brainという言葉を使用し、社会認知能力に特に重要な部位として扁桃体眼窩前頭野側頭葉をあげたのがひとつの転機と考えられる。その後の損傷研究非侵襲的脳機能画像研究で、扁桃体は情動認知、眼窩前頭野は意思決定、側頭葉下面は相貌認知に重要であることわかってきた。

 ヒトにおいては、脳は体重の約2%にすぎないのに体全体で使われるエネルギーの約20%も消費する。このような高コストの器官が進化するには、それだけの理由が必要である。イギリスのRobin Dunberは全脳に対する新皮質の割合を霊長類の種間で比較した。その結果、新皮質の割合と相関があったのは生態的要因ではなく、集団のグループサイズという社会的要因であることを見出し、霊長類の新皮質の進化は集団生活、社会的環境に適応するために進化したという社会脳仮説を1998年に発表した[2]。この実証的な以前から、イギリスのNicholas Humphreyらによって大型の霊長類の知能は社会的な状況に適応するために進化してきたのではないかと議論されていた[3]

 その後、1990年代後半から2000年前後にかけて非侵襲的脳機能画像を用いた、他人のこころを読み取るのに重要な能力である心の理論に関する研究が進み、内側前頭前野側頭頭頂移行部後側上側頭溝)も社会脳の重要な一部であることがわかってきた[4]。さらに1996年にイタリアのGiacomo Rizzolattiらによって、サルにおいてミラーニューロンが発見され、その後、ヒトでも前頭葉から頭頂葉にかけてミラーニューロンシステムが確認された。ミラーニューロンシステムも他者の意図の理解などにかかわるとされ、社会脳研究で精力的に研究されているテーマである[5]

 2005年、前後より社会的行動の神経基盤を理解しようとする社会脳研究が興隆してきたのには、fMRIなどの非侵襲的脳機能画像の流布や認知・心理パラダイムの進歩により、情動、意思決定、意識といったこれまで脳科学に馴染みにくく、むしろ心理学経済学哲学などの人文社会の学問で扱ってきた領域が、脳神経科学と融合してきた背景があるように思われる。特に、行動経済学と脳神経科学が融合し、経済的な意思決定にとどまらず、社会的意思決定にかかわる神経基盤を理解しようとする神経経済学の発展は目覚ましい[6]。こうした状況を受けて、2006年にSocial NeuroscienceSocial Cognitive and Affective Neuroscienceという2誌も刊行され、Society for Social NeuroscienceSocial and Affective Neuroscience Societyというそれぞれの関連学会も設立された。これらの雑誌の編集委員もヒトを対象とした脳科学者だけでなく、動物を用いる研究者、心理学者、経済学者、哲学者、臨床医など多岐にわたり、掲載される論文も多岐にわたっている。

 このように社会脳研究が対象とする、脳部位、システム、方法論などは年々、拡大してきており、初めに述べたように、もはや特定の研究分野にとどまらない。しかし、これまでは仮想的な状況で一個体の脳情報を計測することが主流であった。今後、実際の社会的状況で複数の個体の脳情報を計測していくことが、社会脳研究の重要な方向性になるであろう。

参考文献

  1. Brothers L.
    The social brain: A project for integrating primate behavior and neurophysiology in a new domain.
    Concepts in neuroscience. 1990; 1, 27-51.
  2. Dunbar RIM.
    The social brain hypothesis.
    Evolutionary Anthropology. 1998; 6: 178-190.
  3. Humphrey N
    in Growing Points in Ethology: The social function of intellect, eds Bateson PPG.,
    Hinde RA (Cambridge University Press, Cambridge,), 1976, pp 303–317.
  4. Frith, C.D., & Frith, U. (1999).
    Interacting minds--a biological basis. Science (New York, N.Y.), 286(5445), 1692-5. [PubMed:10576727] [WorldCat] [DOI]
  5. Rizzolatti, G., & Craighero, L. (2004).
    The mirror-neuron system. Annual review of neuroscience, 27, 169-92. [PubMed:15217330] [WorldCat] [DOI]
  6. Camerer, C.F., & Fehr, E. (2006).
    When does "economic man" dominate social behavior? Science (New York, N.Y.), 311(5757), 47-52. [PubMed:16400140] [WorldCat] [DOI]


(執筆者:高橋英彦  担当編集委員:加藤忠史)