「生命倫理」の版間の差分

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 しかし、[[wikipedia:JA:ヨーロッパ|ヨーロッパ]]の生命倫理の研究者が[[wikipedia:JA:EU|EU]]の[[wikipedia:JA:ヨーロッパ委員会|ヨーロッパ委員会]]に対して提言した[[wikipedia:JA:欧州・地中海パートナーシップ|バルセロナ宣言]]は、やや異なる方向を目指している。バルセロナ宣言では、「自律」は治療や実験に与えられる「許可」という意味でのみ理解されてはならないと言われる。そして、自律にはさまざまな限界があることを明確に宣言しているうえ、「他者への配慮の文脈にある自律」の概念を提唱している。また、[[wikipedia:JA:生物学|生物学]]的な意味で[[wikipedia:JA:ヒト|ヒト]]であれば、「尊厳」をもつと主張するとともに、人間の有限性と人間の生のもろさを強調している。バルセロナ宣言はビーチャムとチルドレスの4原則と比べると、自己決定権や自律を弱く解釈し、新しい生命倫理原則を提示しているのである。
 しかし、[[wikipedia:JA:ヨーロッパ|ヨーロッパ]]の生命倫理の研究者が[[wikipedia:JA:EU|EU]]の[[wikipedia:JA:ヨーロッパ委員会|ヨーロッパ委員会]]に対して提言した[[wikipedia:JA:欧州・地中海パートナーシップ|バルセロナ宣言]]は、やや異なる方向を目指している。バルセロナ宣言では、「自律」は治療や実験に与えられる「許可」という意味でのみ理解されてはならないと言われる。そして、自律にはさまざまな限界があることを明確に宣言しているうえ、「他者への配慮の文脈にある自律」の概念を提唱している。また、[[wikipedia:JA:生物学|生物学]]的な意味で[[wikipedia:JA:ヒト|ヒト]]であれば、「尊厳」をもつと主張するとともに、人間の有限性と人間の生のもろさを強調している。バルセロナ宣言はビーチャムとチルドレスの4原則と比べると、自己決定権や自律を弱く解釈し、新しい生命倫理原則を提示しているのである。


 このような理論的背景を考慮しながら、脳科学と生命倫理の関係も検討していく必要があるだろう。近年の脳科学の発展は目覚ましく、幾つもの病気や障害の治療や改善が見込まれるが、脳科学の発展は様々な生命倫理上の問題を投げかけている。例えば、脳科学の発展によって、我々の思考プロセスが外からチェックできるようになり、嘘の発見、感情の読み取りなどに用いられるとしたら、我々のプライバシーをどこまで保護すべきなのかという問題が生じる。[[wikipedia:JA:プライバシー権|プライバシー権]]は、アメリカでは[[wikipedia:JA:堕胎|堕胎]]の権利の承認の際にも使われるものであり、生命倫理における重要なテーマである。もちろん、[[脳]]の中を覗いて良いのか、覗いて良いとしてもどのような場合にそれが許されるのか、脳を覗いて手にしたデータはどう管理されるべきかなど、多くの問題が残るし、そもそも脳の中を読み取ることと、当該の人の自律や尊厳や統合性(integrity)とを折り合わせることができるのかは、難しい問題である。
 このような理論的背景を考慮しながら、脳科学と生命倫理の関係も検討していく必要があるだろう。近年の脳科学の発展は目覚ましく、幾つもの病気や障害の治療や改善が見込まれるが、脳科学の発展は様々な生命倫理上の問題を投げかけている。例えば、脳科学の発展によって、我々の思考プロセスを外から知ることができるようになり、嘘の発見、感情の読み取りなどに用いられるとしたら、我々のプライバシーをどこまで保護すべきなのかという問題が生じる。[[wikipedia:JA:プライバシー権|プライバシー権]]は、アメリカでは[[wikipedia:JA:堕胎|堕胎]]の権利の承認の際にも使われるものであり、生命倫理における重要なテーマである。もちろん、[[脳]]の中を覗いて良いのか、覗いて良いとしてもどのような場合にそれが許されるのか、脳を覗いて手にしたデータはどう管理されるべきかなど、多くの問題が残るし、そもそも脳の中を読み取ることと、当該の人の自律や尊厳や統合性(integrity)とを折り合わせることができるのかは、難しい問題である。


 また、脳の膨大なプロセスが意識にのぼらない形で進んでいることも明らかになりつつある。[[感覚]]や[[知覚]]などの領域に限らず、人間の意志決定や意識的な選択の場面においても、脳の無意識的な処理が重要な役割を演じていることが判明しつつあるのである。このことは、人間が自由意志をもつことの否定にもつながりかねない問題である。事実、脳科学に携わる科学者のなかには、自由意志を否定する者が少なくない。自由意志をもっているという実感は否定しないが、客観的には自由意志は存在しないというのである。もちろん、科学者、哲学者に限らず、様々な形で自由意志を弁護する者も少なくはない。自由意志の範囲をかなり狭めることで自由意志を救おうとする者もいれば、自由意志を否定していると思われる実験への解釈の仕方に疑念を差し挟む者もいる。脳のプロセスを多面的で多層的なものと考えることで自由意志を救おうとする者もいれば、道徳の言語や理論は脳科学の言語や理論に還元され得ないと考えることで自由意志を救おうとする者も、[[wikipedia:JA:量子力学|量子力学]]における非決定性とつなげて自由を守ろうとする者もいる。
 また、脳の膨大なプロセスが意識にのぼらない形で進んでいることも明らかになりつつある。[[感覚]]や[[知覚]]などの領域に限らず、人間の意志決定や意識的な選択の場面においても、脳の無意識的な処理が重要な役割を演じていることが判明しつつあるのである。このことは、人間が自由意志をもつことの否定にもつながりかねない問題である。事実、脳科学に携わる科学者のなかには、自由意志を否定する者が少なくない。自由意志をもっているという実感は否定しないが、客観的には自由意志は存在しないというのである。もちろん、科学者、哲学者に限らず、様々な形で自由意志を弁護する者も少なくはない。自由意志の範囲をかなり狭めることで自由意志を救おうとする者もいれば、自由意志を否定していると思われる実験への解釈の仕方に疑念を差し挟む者もいる。脳のプロセスを多面的で多層的なものと考えることで自由意志を救おうとする者もいれば、道徳の言語や理論は脳科学の言語や理論に還元され得ないと考えることで自由意志を救おうとする者も、[[wikipedia:JA:量子力学|量子力学]]における非決定性とつなげて自由を守ろうとする者もいる。