「生命倫理」の版間の差分
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さらに、脳科学の成果を特定の能力を高めるために使おうという試みもあり、これも我々の人間観や社会観の再検討を促している。例えば、頭をよくする薬(スマートドラッグ)を使用することはどこまで許されるかという問題、治療の域を超えた能力の増強(エンハンスメント)が人間には許されるかという問題が生じている。治療とエンハンスメントの区別は徐々に難しくなってきていて、どこまで人間の能力を変更ないし改造して良いのかは、判断の難しい問題となっている。また、脳科学の発展によって数多くの人間がエンハンスメントを享受できるようになれば、能力等の平均値が以前よりも格段にあがり、エンハンスメントの基準自体が変わることになり、さらなるエンハンスメントを求めることにもなる。このことを繰り返していけば、今の人間(像)とはまったく異なる人間(像)が生み出されるだろう。事実、エンハンスメントによって今の人間とはまったく異なる「超人類」を生み出そうと真剣に考える思想家や科学者もいる。今の人間や人類を否定するような考えには与さない思想家や科学者が多いが、何が現在の人間の本質的な事柄か、何が人間の特徴かについては意見が分かれている。ここでも、脳科学は生命倫理に関する様々な問題を投げかけている。 | さらに、脳科学の成果を特定の能力を高めるために使おうという試みもあり、これも我々の人間観や社会観の再検討を促している。例えば、頭をよくする薬(スマートドラッグ)を使用することはどこまで許されるかという問題、治療の域を超えた能力の増強(エンハンスメント)が人間には許されるかという問題が生じている。治療とエンハンスメントの区別は徐々に難しくなってきていて、どこまで人間の能力を変更ないし改造して良いのかは、判断の難しい問題となっている。また、脳科学の発展によって数多くの人間がエンハンスメントを享受できるようになれば、能力等の平均値が以前よりも格段にあがり、エンハンスメントの基準自体が変わることになり、さらなるエンハンスメントを求めることにもなる。このことを繰り返していけば、今の人間(像)とはまったく異なる人間(像)が生み出されるだろう。事実、エンハンスメントによって今の人間とはまったく異なる「超人類」を生み出そうと真剣に考える思想家や科学者もいる。今の人間や人類を否定するような考えには与さない思想家や科学者が多いが、何が現在の人間の本質的な事柄か、何が人間の特徴かについては意見が分かれている。ここでも、脳科学は生命倫理に関する様々な問題を投げかけている。 | ||
このように、脳科学において、さまざまな新しい倫理的課題が生まれていることから、生命倫理において、脳神経倫理が独立した一分野をなしつつある。一方で、このような脳神経倫理で取り上げられる問題はいずれも、自己決定権、インフォームド・コンセント、自律といった生命倫理固有の問題と密接に結び付いているとして、脳神経倫理を生命倫理の中で統合的に捉えるべきとの立場もある。しかしながら、上述のように自己決定権やインフォームド・コンセントや自律にどの程度の重要性を与えるのかについても様々な立場があり、一定した見解には至っていない。 | |||
とはいえ、先端医療技術の発展と共に、生命倫理が様々な場面で行政的判断の根拠としての役割を担いつつあることは間違いない。この意味で、生命倫理は、ガバナンスあるいはバイオポリティクスといった領域ともつながっていかざるを得ないだろう。 | |||
==参考文献== | ==参考文献== | ||
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(執筆者:浅見昇吾 担当編集委員:加藤忠史) | (執筆者:浅見昇吾 担当編集委員:加藤忠史) |
2012年5月28日 (月) 06:40時点における版
英語名:bioethics 独:Bioethik 仏:bioéthique
同義語:バイオエシックス
生命倫理は、生命に関する倫理的問題を扱う分野であり、医学や医療技術の進歩に伴って、その重要性を増している。自己決定権とそれに基づくインフォームド・コンセントが重要な概念である。学際性を大きな特徴としている。
生命倫理とは
生命倫理(バイオエシックス)とは、文字通り生命に関する倫理的問題を扱う分野であることは間違いない。しかし、扱う範囲はかなり幅広い。生命倫理研究の代表的な機関の一つであるジョージタウン大学・ケネディ倫理研究所が編集した『生命倫理百科事典』[1]の序文によれば、生命倫理とは「学際的状況において様々な倫理的方法論を用いて行う、生命科学と保健医療の道徳的諸次元―道徳的展望、意思決定、行為、政策を含む―に関する体系的研究」(改定第2版)である。また、1992年の国際バイオエシックス学会では、生命倫理は「医療や生命科学に関する倫理的、哲学的、社会的問題や、それに関する問題をめぐり学際的に研究する学問」と定義されている。学際性が大きな特徴であり、哲学、法学、社会政策等々、様々な分野と関係していることがよくわかる。
生命倫理誕生の背景
こうした生命倫理という分野を生み出すきっかけとなったものは、下記の三つにまとめることができると思われる。
ナチズムによる残虐な人体実験が世界に衝撃を与え、それに対する反省から、ニュールンベルク綱領が生まれ、被験者の自発的同意等々、医学的実験を行う際の条件や原則が提示された。この流れは、1964年のヘルシンキ宣言(世界医師会)、1973年の患者の権利章典(アメリカ病院協会)、1981年の患者の権利に関するリスボン宣言(世界医師会)等々へと引き継がれていく。
また、自由主義の発展とともに、個人の権利意識も強くなり、自分のことは自分で決めるべきだという考え方が台頭していく。それと密接に結び付く形で、医療を行う側は、患者へ様々な説明を行い、治療や手術に対する承諾書や許諾書をとるようになっていく。医師たちがこのようなプロセスをおろそかにすれば、医事訴訟で莫大な損害賠償を要求されることにもなる。
この二つの流れの中で、自己決定権(とそれに基づくインフォームド・コンセント)が生命倫理の重要な概念として定着していく。
さらに、医学及び医療技術の進歩も生命倫理という分野の台頭に大きな役割を果たしていく。かつては、多くの場合、生命をできるだけ長く伸ばすことが医療の目的だったと言って過言ではない。平均余命が短かったのである。しかし、医学や医療技術の大きな進歩が状況を変えていく。検査器具や検査技術の発達、新しい薬や新しい手術の開発、新しい治療法の開発、遺伝子関連技術の発達、臓器移植の技術の進歩、人工臓器の発達、クローン関連の技術、ES細胞やiPS細胞の研究の進展等々が、保険制度の整備や栄養状況の改善等々と相まって平均余命を飛躍的に伸ばすとともに、人生の様々な場面で今までにない新たな選択に人々を直面させ、新しい考察を人々に強いることになっていった。
自己決定権をめぐる議論
このような発展からは、自己決定権の必要性が意識されるだけでなく、自己決定権に対する疑念も生まれてきている。少なくとも、自己決定権は万能ではなく、自己決定権がどこまで通用するのか、あるいは自己決定権をどこまで認めるべきかを吟味すべきだという考え方も出てきている。例えば、きょうだいの一方が重篤な遺伝病の有無を調べるために遺伝子診断を受けようとするが、もう一方がそのようなことは知りたくないのでそれに反対するということが考えられる。きょうだいの一方が遺伝子診断をしてしまえば、かなり似ている遺伝子をもつもう一方も、自分の遺伝子のことを知りたくなくても知ってしまうからである。このような場合、一方の自己決定ですべてを決めることができるかどうかは微妙な問題であろう。
そのため、生命倫理における原則においても、自己決定権や(それに基づく)自律尊重を強く打ち出すタイプのものもあれば、それとは違う方向を目指すものもある。
例えば、ジョージタウン大学・ケネディ倫理研究所のビーチャムとチルドレスは『生命医学倫理』(初版1979年)[2]を刊行し、生命倫理の4原則を提示した。その4原則とは、「自律尊重原理」「無危害原理」「仁恵原理」「正義原理」である。この4原則は硬直したものではなく、自らの原則の適用範囲に限界があり、原則が当てはまらないケース、例外的な状況があることを認めているし、原則同士で対立するケースも当然も認めている。しかしながら、自律尊重を強く打ち出すとともに、自律を理解する際に、他者に危害を加えない限り自分の好むことを行える自己決定のことを自律として解釈している部分が多いと言えるだろう。
しかし、ヨーロッパの生命倫理の研究者がEUのヨーロッパ委員会に対して提言したバルセロナ宣言は、やや異なる方向を目指している。バルセロナ宣言では、「自律」は治療や実験に与えられる「許可」という意味でのみ理解されてはならないと言われる。そして、自律にはさまざまな限界があることを明確に宣言しているうえ、「他者への配慮の文脈にある自律」の概念を提唱している。また、生物学的な意味でヒトであれば、「尊厳」をもつと主張するとともに、人間の有限性と人間の生のもろさを強調している。バルセロナ宣言はビーチャムとチルドレスの4原則と比べると、自己決定権や自律を弱く解釈し、新しい生命倫理原則を提示しているのである。
脳科学と生命倫理
このような理論的背景を考慮しながら、脳科学と生命倫理の関係も検討していく必要があるだろう。近年の脳科学の発展は目覚ましく、幾つもの病気や障害の治療や改善が見込まれるが、脳科学の発展は様々な生命倫理上の問題を投げかけている。例えば、脳科学の発展によって、我々の思考プロセスを外から知ることができるようになり、嘘の発見、感情の読み取りなどに用いられるとしたら、我々のプライバシーをどこまで保護すべきなのかという問題が生じる。プライバシー権は、アメリカでは堕胎の権利の承認の際にも使われるものであり、生命倫理における重要なテーマである。もちろん、脳の中を覗いて良いのか、覗いて良いとしてもどのような場合にそれが許されるのか、脳を覗いて手にしたデータはどう管理されるべきかなど、多くの問題が残るし、そもそも脳の中を読み取ることと、当該の人の自律や尊厳や統合性(integrity)とを折り合わせることができるのかは、難しい問題である。
また、脳の膨大なプロセスが意識にのぼらない形で進んでいることも明らかになりつつある。感覚や知覚などの領域に限らず、人間の意志決定や意識的な選択の場面においても、脳の無意識的な処理が重要な役割を演じていることが判明しつつあるのである。このことは、人間が自由意志をもつことの否定にもつながりかねない問題である。事実、脳科学に携わる科学者のなかには、自由意志を否定する者が少なくない。自由意志をもっているという実感は否定しないが、客観的には自由意志は存在しないというのである。もちろん、科学者、哲学者に限らず、様々な形で自由意志を弁護する者も少なくはない。自由意志の範囲をかなり狭めることで自由意志を救おうとする者もいれば、自由意志を否定していると思われる実験への解釈の仕方に疑念を差し挟む者もいる。脳のプロセスを多面的で多層的なものと考えることで自由意志を救おうとする者もいれば、道徳の言語や理論は脳科学の言語や理論に還元され得ないと考えることで自由意志を救おうとする者も、量子力学における非決定性とつなげて自由を守ろうとする者もいる。
また、脳科学の発展は、脳の特定部位の役割を明らかにしただけでなく、脳が大きな柔軟性をもっていることも明らかにしているため、ここから人間の自由を守ろうという方向もある。脳の特定部位が損傷を受けても、その部位が担っていた機能を脳の他の部位が引き受けることができるし、体のあり方がかわるだけで脳のあり方がかわることも明らかになりつつある。このことは、外部から脳のあり方やプロセスに影響を与えられる可能性を示していることになり、脳が一方的に心身のプロセスを支配しているのではないとも考えられる。いずれにしても、脳科学が、自由意志の位置づけの再検討、つまり責任能力や倫理的判断の土台となるものの位置づけの再検討、我々の人間観の再検討を迫っているのである。
さらに、脳科学の成果を特定の能力を高めるために使おうという試みもあり、これも我々の人間観や社会観の再検討を促している。例えば、頭をよくする薬(スマートドラッグ)を使用することはどこまで許されるかという問題、治療の域を超えた能力の増強(エンハンスメント)が人間には許されるかという問題が生じている。治療とエンハンスメントの区別は徐々に難しくなってきていて、どこまで人間の能力を変更ないし改造して良いのかは、判断の難しい問題となっている。また、脳科学の発展によって数多くの人間がエンハンスメントを享受できるようになれば、能力等の平均値が以前よりも格段にあがり、エンハンスメントの基準自体が変わることになり、さらなるエンハンスメントを求めることにもなる。このことを繰り返していけば、今の人間(像)とはまったく異なる人間(像)が生み出されるだろう。事実、エンハンスメントによって今の人間とはまったく異なる「超人類」を生み出そうと真剣に考える思想家や科学者もいる。今の人間や人類を否定するような考えには与さない思想家や科学者が多いが、何が現在の人間の本質的な事柄か、何が人間の特徴かについては意見が分かれている。ここでも、脳科学は生命倫理に関する様々な問題を投げかけている。
このように、脳科学において、さまざまな新しい倫理的課題が生まれていることから、生命倫理において、脳神経倫理が独立した一分野をなしつつある。一方で、このような脳神経倫理で取り上げられる問題はいずれも、自己決定権、インフォームド・コンセント、自律といった生命倫理固有の問題と密接に結び付いているとして、脳神経倫理を生命倫理の中で統合的に捉えるべきとの立場もある。しかしながら、上述のように自己決定権やインフォームド・コンセントや自律にどの程度の重要性を与えるのかについても様々な立場があり、一定した見解には至っていない。
とはいえ、先端医療技術の発展と共に、生命倫理が様々な場面で行政的判断の根拠としての役割を担いつつあることは間違いない。この意味で、生命倫理は、ガバナンスあるいはバイオポリティクスといった領域ともつながっていかざるを得ないだろう。
参考文献
(執筆者:浅見昇吾 担当編集委員:加藤忠史)