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北海道大学人間知・脳・AI研究教育センター 島崎秀昭
北海道大学人間知・脳・AI研究教育センター 
神経符号化
神経符号化
<div align="right"> 
<font size="+1">[http://researchmap.jp/shimazaki 島崎秀昭]</font><br>
''北海道大学人間知・脳・AI研究教育センター''<br>
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2021年8月3日 原稿完成日:2021年8月X日<br>
担当編集委員:[https://researchmap.jp/kkitajo 北城 圭一](生理学研究所)<br>
</div>
同義語:神経コード<br>
英:neural coding
英:neural coding
{{box|text= 神経符号化とは、外界の刺激が神経活動に変換・表現され、行動を担う神経活動が生成される過程を指す。刺激・行動と神経活動の関係を記述し、刺激の認識や行動生成を担う神経活動とその機構を同定することで、この過程を明らかにする研究を神経符号化研究(neural coding studies)という。同定された神経活動・機構を神経符号(neural code)と呼ぶ。}}
{{box|text= 神経符号化とは、外界の刺激が神経活動に変換・表現され、行動を担う神経活動が生成される過程を指す。刺激・行動と神経活動の関係を記述し、刺激の認識や行動生成を担う神経活動とその機構を同定することで、この過程を明らかにする研究を神経符号化研究(neural coding studies)という。同定された神経活動・機構を神経符号(neural code)と呼ぶ。}}


==神経符号化とその研究方法==
==神経符号化とその研究方法==
神経符号化は外界の刺激が神経活動に変換・表現され、行動を担う神経活動が生成される過程を指す。刺激の認識や行動生成を担う神経活動とそのメカニズムを同定することで、この過程を明らかにする研究を神経符号化研究という。具体的には、神経系のどの部位のどのタイプの神経細胞のどのような活動が、動物の認識・行動を説明するのに必要かつ十分であるかを明らかにすることで、外界の刺激が神経活動に変換され行動に至る過程を解明することを目指す研究領域である。Johns Hopkins大学のVernon Mountcastleは振動の感覚に関わる受容器を特定する次のような手法で、神経符号化研究の古典的な方法論を確立した<ref name=Mountcastle1972><pubmed>4621505</pubmed></ref><ref name=カンデル2014>日本語版監修 金澤一郎・宮下保司 (2014).<ref>カンデル神経科学第5版 第21章感覚の符号化・第23章触覚 メディカル・サイエンス・インターナショナル社</ref> [Mountcastle 1972; カンデル神経科学2014]。
 神経符号化は外界の刺激が神経活動に変換・表現され、行動を担う神経活動が生成される過程を指す。刺激の認識や行動生成を担う神経活動とそのメカニズムを同定することで、この過程を明らかにする研究を神経符号化研究という。具体的には、神経系のどの部位のどのタイプの神経細胞のどのような活動が、動物の認識・行動を説明するのに必要かつ十分であるかを明らかにすることで、外界の刺激が神経活動に変換され行動に至る過程を解明することを目指す研究領域である。Johns Hopkins大学のVernon Mountcastleは振動の感覚に関わる受容器を特定する次のような手法で、神経符号化研究の古典的な方法論を確立した<ref name=Mountcastle1972><pubmed>4621505</pubmed></ref><ref name=カンデル2014>'''日本語版監修 金澤一郎・宮下保司 (2014).'''<br>カンデル神経科学第5版 第21章感覚の符号化・第23章触覚 メディカル・サイエンス・インターナショナル社</ref> [Mountcastle 1972; カンデル神経科学2014]。


 人間の手には圧力・振動・温度などの物理刺激に反応する12種類の受容器がある。特に指先には触覚に関わる4種類の機械受容器がある。表皮にあるマイスネル小体・メルケル受容器 、深皮にあるラフィニ終末・パチニ小体がそれである。これらの受容器は末梢神経細胞の軸索の終末にあり、そのもう一端は脊髄に投射する。脊髄の神経細胞から先は視床を介して体性感覚野に投射があり、我々の触知覚を担っている。4つの受容器は外界からの力の異なる特徴に対して反応し、順応特性が異なる。受容器が特定されているため、触覚に基づく我々の外界の認識がどの機械受容器を介した神経細胞の活動によって担われているかを問うことができる。
 人間の手には圧力・振動・温度などの物理刺激に反応する12種類の受容器がある。特に指先には触覚に関わる4種類の機械受容器がある。表皮にあるマイスネル小体・メルケル受容器 、深皮にあるラフィニ終末・パチニ小体がそれである。これらの受容器は末梢神経細胞の軸索の終末にあり、そのもう一端は脊髄に投射する。脊髄の神経細胞から先は視床を介して体性感覚野に投射があり、我々の触知覚を担っている。4つの受容器は外界からの力の異なる特徴に対して反応し、順応特性が異なる。受容器が特定されているため、触覚に基づく我々の外界の認識がどの機械受容器を介した神経細胞の活動によって担われているかを問うことができる。
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図1 神経符号化研究の概略図。 Johns Hopkins大学Kenneth O Johnson氏による講義ノートより筆者が改変・加筆。
図1 神経符号化研究の概略図。 Johns Hopkins大学Kenneth O Johnson氏による講義ノートより筆者が改変・加筆。


 ここで注意すべきは、神経活動から予測される最適な行動に基づく心理実験課題の成績は実際に動物が行動によって報告した結果に基づく成績と同じである必要はなく、それを上回っていても良いことである。末梢神経等の初期段階で利用可能な情報が意思決定に余すとこなく使用されるとは限らないからである。しかしながら驚くべきことに、いくつかの事例において行動の成績が感覚受容器のパフォーマンスに接近していることが示されている。例えば人間は少なくとも数個の光子があればその報告が可能であると推定されており<ref name=Hecht1942><pubmed>19873316</pubmed></ref> <ref name=Barlow1956><pubmed>13346424</pubmed></ref><ref name=Rieke1998><pubmed>[Hecht 1942; Barlow 1956; Rieke 1998]、これは網膜視細胞の検出限界に近いと考えられている。これらの結果は、中枢神経系が効率的に入力情報を使用して行動を生成していることを示唆している<ref name=Barlow1972><pubmed>4377168</pubmed></ref>[Barlow 1972]。一方、過去の知見に依存しない課題では、末梢神経のパフォーマンスを行動のパフォーマンスが上回ることはない。我々の認識精度の上限は感覚デバイスの精度に制限され、それを上回ることはないからである。
 ここで注意すべきは、神経活動から予測される最適な行動に基づく心理実験課題の成績は実際に動物が行動によって報告した結果に基づく成績と同じである必要はなく、それを上回っていても良いことである。末梢神経等の初期段階で利用可能な情報が意思決定に余すとこなく使用されるとは限らないからである。しかしながら驚くべきことに、いくつかの事例において行動の成績が感覚受容器のパフォーマンスに接近していることが示されている。例えば人間は少なくとも数個の光子があればその報告が可能であると推定されており<ref name=Hecht1942><pubmed>19873316</pubmed></ref><ref name=Barlow1956><pubmed>13346424</pubmed></ref><ref name=Rieke1998>'''Rieke, F.  & Baylor, D. A. (1998)'''<br>Single-photon detection by rod cells of the retina. Reviews of Modern Physics. 70(3):1027</ref>[Hecht 1942; Barlow 1956; Rieke 1998]、これは網膜視細胞の検出限界に近いと考えられている。これらの結果は、中枢神経系が効率的に入力情報を使用して行動を生成していることを示唆している<ref name=Barlow1972><pubmed>4377168</pubmed></ref>[Barlow 1972]。一方、過去の知見に依存しない課題では、末梢神経のパフォーマンスを行動のパフォーマンスが上回ることはない。我々の認識精度の上限は感覚デバイスの精度に制限され、それを上回ることはないからである。


 もちろん、このような古典的な神経符号化研究の手法で行動を担う神経細胞を明快に特定できるのは、行動に必要な信号の通る経路が明らかだからである。これ以外の状況では、たとえ神経細胞から行動を予測できたとしても、行動がその部位の活動に依存すると断定することはできない。そのため損傷実験や電気刺激・光遺伝学による介入実験と組み合わせる事で、行動を担う神経活動を明らかにする事が試みられている。
 もちろん、このような古典的な神経符号化研究の手法で行動を担う神経細胞を明快に特定できるのは、行動に必要な信号の通る経路が明らかだからである。これ以外の状況では、たとえ神経細胞から行動を予測できたとしても、行動がその部位の活動に依存すると断定することはできない。そのため損傷実験や電気刺激・光遺伝学による介入実験と組み合わせる事で、行動を担う神経活動を明らかにする事が試みられている。


 Mountcastleらの神経符号化研究では神経活動から刺激の有無を推定する復号化の手法が用いられるが、刺激が神経活動へどのように変換されるかを表す符号化の方式を明らかにする事は神経符号化研究における主要な課題である。神経符号化は神経系における情報の変換と表現を指すともされ<ref name=Perkel1968><pubmed>[Perkel and Bullock 1968]、それぞれ符号化・復号化の手法を用いて情報神経細胞が担う情報を明らかにすることが試みられている。詳しくは次節の符号化・復号化の項目で述べる。近年では入力刺激から意思決定までをいわゆるend-to-endで実装した深層ニューラルネットワークが人間のパフォーマンスを上回ったことから、深層ニューラルネットワークの各層と脳の領野の活動を比較する新しいタイプの神経符号化研究も生まれている<ref name=Yamins2014><pubmed>24812127</pubmed></ref>[Yamins 2014]。  
 Mountcastleらの神経符号化研究では神経活動から刺激の有無を推定する復号化の手法が用いられるが、刺激が神経活動へどのように変換されるかを表す符号化の方式を明らかにする事は神経符号化研究における主要な課題である。神経符号化は神経系における情報の変換と表現を指すともされ<ref name=Perkel1968>'''Perkel, D. H. & Bullock, T. H. (1968).'''<br>Neural coding. Neurosciences Research Program Bulletin</ref>[Perkel and Bullock 1968]、それぞれ符号化・復号化の手法を用いて情報神経細胞が担う情報を明らかにすることが試みられている。詳しくは次節の符号化・復号化の項目で述べる。近年では入力刺激から意思決定までをいわゆるend-to-endで実装した深層ニューラルネットワークが人間のパフォーマンスを上回ったことから、深層ニューラルネットワークの各層と脳の領野の活動を比較する新しいタイプの神経符号化研究も生まれている<ref name=Yamins2014><pubmed>24812127</pubmed></ref>[Yamins 2014]。  


==符号化と復号化==
==符号化と復号化==
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 神経符号化研究では、神経細胞の活動のどの部分に外界の情報が表され、運ばれているのかを特定することが重要な課題になる。この課題に統計モデルを使用することのメリットは、使用するデータの特徴がモデルの十分統計量として厳密に定義される点にある。神経活動のどの特徴が外界に依存し、外界の変化とともに変わるのかについて複数の仮説が考えられる。代表的な例として、単一神経細胞の発火頻度によって刺激が符号化されるとする発火頻度符号化(rate coding)、神経スパイクの時間構造に刺激が符号化されているとする時間的符号化(temporal coding)、相関を伴う神経細胞集団の同時活動に刺激が符号化されているとする集団符号化(population coding)等が挙げられる。これらはそれぞれ符号器としてポアソン過程、非ポアソン過程、多変量ガウス分布/イジングモデル/一般化線形モデルを用いてモデル化することができ、仮説を数学的に明らかな形で取り扱うことができる。次節では、これらのうち神経符号化研究で中心的な役割を担う集団符号化について詳しく述べる。
 神経符号化研究では、神経細胞の活動のどの部分に外界の情報が表され、運ばれているのかを特定することが重要な課題になる。この課題に統計モデルを使用することのメリットは、使用するデータの特徴がモデルの十分統計量として厳密に定義される点にある。神経活動のどの特徴が外界に依存し、外界の変化とともに変わるのかについて複数の仮説が考えられる。代表的な例として、単一神経細胞の発火頻度によって刺激が符号化されるとする発火頻度符号化(rate coding)、神経スパイクの時間構造に刺激が符号化されているとする時間的符号化(temporal coding)、相関を伴う神経細胞集団の同時活動に刺激が符号化されているとする集団符号化(population coding)等が挙げられる。これらはそれぞれ符号器としてポアソン過程、非ポアソン過程、多変量ガウス分布/イジングモデル/一般化線形モデルを用いてモデル化することができ、仮説を数学的に明らかな形で取り扱うことができる。次節では、これらのうち神経符号化研究で中心的な役割を担う集団符号化について詳しく述べる。


 神経細胞による符号化の実現を考えるとき、下流の神経細胞がこれらの特徴を読み取ることができるか、すなわち符号化に用いる神経活動の特徴量の変化に応じて下流の神経細胞が活動を変えることができるかを考える必要がある。個々のシナプス前細胞の発火頻度に応じてシナプス後細胞の活動が変化することは容易に実現できるため、発火頻度を神経符号の仮説として採用することが多い。しかし、樹状突起上の電位依存性チャネルによる非線形な応答を考慮すれば、シナプス入力時系列の時間構造や同期的なシナプス入力などの2次以上の統計量に依存してシナプス後細胞が活動することも容易に考えられる。そのため神経細胞によって応答が可能(符号化が可能)な特徴量を実験的・理論的に考察する事が行われてきた<ref name=Diesmann1999><pubmed>10591212</pubmed></ref> <ref name=de la Rocha2007><pubmed>17700699</pubmed></ref>[Diesmann 1999; De La Rocha 2007]。実際、発火頻度符号化以外の符号化方式の存在も報告されており<ref name=Ishikane2005><pubmed>15995702</pubmed></ref> <ref name=Ishikane2005><pubmed>15995702</pubmed></ref>[Ishikane 2005; Jacobs 2009]、神経系は単一の符号化方式を採用するのではなく種や部位により異なる符号化方式が採用されていると考えられている。
 神経細胞による符号化の実現を考えるとき、下流の神経細胞がこれらの特徴を読み取ることができるか、すなわち符号化に用いる神経活動の特徴量の変化に応じて下流の神経細胞が活動を変えることができるかを考える必要がある。個々のシナプス前細胞の発火頻度に応じてシナプス後細胞の活動が変化することは容易に実現できるため、発火頻度を神経符号の仮説として採用することが多い。しかし、樹状突起上の電位依存性チャネルによる非線形な応答を考慮すれば、シナプス入力時系列の時間構造や同期的なシナプス入力などの2次以上の統計量に依存してシナプス後細胞が活動することも容易に考えられる。そのため神経細胞によって応答が可能(符号化が可能)な特徴量を実験的・理論的に考察する事が行われてきた<ref name=Diesmann1999><pubmed>10591212</pubmed></ref><ref name=delaRocha2007><pubmed>17700699</pubmed></ref>[Diesmann 1999; De La Rocha 2007]。実際、発火頻度符号化以外の符号化方式の存在も報告されており<ref name=Ishikane2005><pubmed>15995702</pubmed></ref><ref name=Jacobs2009><pubmed>19297621</pubmed></ref>[Ishikane 2005; Jacobs 2009]、神経系は単一の符号化方式を採用するのではなく種や部位により異なる符号化方式が採用されていると考えられている。


 神経符号化研究では、神経活動から刺激や行動の意図等を推定する復号器を構築・適用することで神経細胞が保持する情報を明らかにすることが行われる。復号器の構築方法には2通りの方法がある。一つ目は復号器を神経細胞の活動から直接的に作る方法である。例として、神経活動の重み付け線形和によって刺激を推定する線形モデルが挙げられる。この方法の拡張として、刺激の分布として指数分布族を用い、その期待値を連結関数を通して神経細胞活動の線形和で表す一般化線形モデルがある。これらは確率モデルp(y|x、w)を直接構成する方法である。二つ目の方法は、符号化で用いたモデルを使用し、符号器のパラメータ推定として刺激を推定する方法である。例えば、符号器を用いた尤度関数を使って刺激の最尤推定を行うことは復号化にあたる。この方法は刺激に対して事前分布を仮定することで、ベイズの定理を用いた事後分布による刺激の推定に一般化される。
 神経符号化研究では、神経活動から刺激や行動の意図等を推定する復号器を構築・適用することで神経細胞が保持する情報を明らかにすることが行われる。復号器の構築方法には2通りの方法がある。一つ目は復号器を神経細胞の活動から直接的に作る方法である。例として、神経活動の重み付け線形和によって刺激を推定する線形モデルが挙げられる。この方法の拡張として、刺激の分布として指数分布族を用い、その期待値を連結関数を通して神経細胞活動の線形和で表す一般化線形モデルがある。これらは確率モデルp(y|x、w)を直接構成する方法である。二つ目の方法は、符号化で用いたモデルを使用し、符号器のパラメータ推定として刺激を推定する方法である。例えば、符号器を用いた尤度関数を使って刺激の最尤推定を行うことは復号化にあたる。この方法は刺激に対して事前分布を仮定することで、ベイズの定理を用いた事後分布による刺激の推定に一般化される。
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\end{equation}
\end{equation}


このように復号器を符号化のモデルから作成する方法を2段階法(two step approach)と呼ぶ<ref name=Brown2004><pubmed>15114358</pubmed></ref>[Brown 2004]。
 このように復号器を符号化のモデルから作成する方法を2段階法(two step approach)と呼ぶ<ref name=Brown2004><pubmed>15114358</pubmed></ref>[Brown 2004]。


 外界の刺激がスムーズに変化するなど、時系列になんらかの仮定をする場合、神経活動は状態空間モデルで記述される。状態空間モデルに基づく刺激の推定は、ベイズ推定を逐次的に行う逐次ベイズ推定技術を用いて解くことができる。Brownらはラットの海馬神経細胞の場所細胞の活動からラットの位置をデコードする方法として、符号器として点過程を用い、事前分布として位置が線形の状態遷移すると仮定した2段階法を用いて、海馬場所細胞のスパイク時系列からラットの位置のスムーズなデコーディングを初めて実現した<ref name=Brown2004><pubmed>15114358</pubmed></ref>[Brown 1998]。神経スパイクに対するこのような非ガウスのフィルタリング技術はブレーン・マシーン・インターフェースやブレーン・コンピュータ・インターフェースと呼ばれる神経補綴技術の基盤技術として幅広く使用されている。
 外界の刺激がスムーズに変化するなど、時系列になんらかの仮定をする場合、神経活動は状態空間モデルで記述される。状態空間モデルに基づく刺激の推定は、ベイズ推定を逐次的に行う逐次ベイズ推定技術を用いて解くことができる。Brownらはラットの海馬神経細胞の場所細胞の活動からラットの位置をデコードする方法として、符号器として点過程を用い、事前分布として位置が線形の状態遷移すると仮定した2段階法を用いて、海馬場所細胞のスパイク時系列からラットの位置のスムーズなデコーディングを初めて実現した<ref name=Brown2004><pubmed>15114358</pubmed></ref>[Brown 1998]。神経スパイクに対するこのような非ガウスのフィルタリング技術はブレーン・マシーン・インターフェースやブレーン・コンピュータ・インターフェースと呼ばれる神経補綴技術の基盤技術として幅広く使用されている。
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 神経細胞は集団で情報を符号化していると考えられるため、集団としての符号化方式を明らかにする事は神経符号化研究の中でも特に重要な課題になっている。神経細胞集団のどのような特徴によって情報が伝えられるかは、発火頻度による符号化と発火頻度以外の特徴量、特に同期的な活動(相関構造)による符号化も考慮する二つの立場がある。ここではより基本的な発火頻度に基づく集団符号化研究について紹介する。
 神経細胞は集団で情報を符号化していると考えられるため、集団としての符号化方式を明らかにする事は神経符号化研究の中でも特に重要な課題になっている。神経細胞集団のどのような特徴によって情報が伝えられるかは、発火頻度による符号化と発火頻度以外の特徴量、特に同期的な活動(相関構造)による符号化も考慮する二つの立場がある。ここではより基本的な発火頻度に基づく集団符号化研究について紹介する。


==神経細胞の活動による刺激の弁別課題==
===神経細胞の活動による刺激の弁別課題===
 集団符号化に対する重要な知見は少数の神経細胞の活動記録から得られている。サルMT野にあり、物体が特定の方向に動く時に反応する神経細胞を用いた実験結果が有名である<ref name=Britten1992><pubmed>1464765</pubmed></ref>[Britten 1992]。ランダムドットモーション視覚刺激をサルに提示し、ランダムに動くドットの何パーセントかが共通して特定の方向もしくはその反対方向を動くようにする。この向きは後で示すように同時に記録している運動方向選択性を有する神経細胞の選好方向もしくはその反対方向を使用する。このような条件で、Brittenらはどちら向きにドットの流れがあるかをサルに報告させ、共通して動くドットの割合を0%から100%まで変更したときの正答率を測定することで心理測定関数を得た。
 集団符号化に対する重要な知見は少数の神経細胞の活動記録から得られている。サルMT野にあり、物体が特定の方向に動く時に反応する神経細胞を用いた実験結果が有名である<ref name=Britten1992><pubmed>1464765</pubmed></ref>[Britten 1992]。ランダムドットモーション視覚刺激をサルに提示し、ランダムに動くドットの何パーセントかが共通して特定の方向もしくはその反対方向を動くようにする。この向きは後で示すように同時に記録している運動方向選択性を有する神経細胞の選好方向もしくはその反対方向を使用する。このような条件で、Brittenらはどちら向きにドットの流れがあるかをサルに報告させ、共通して動くドットの割合を0%から100%まで変更したときの正答率を測定することで心理測定関数を得た。


 ここでも神経符号化研究の方法論に従い、行動の成績と神経活動に基づく弁別課題の成績を比較する。すなわち、この課題を遂行中のサルのMT野から神経細胞活動を記録し、神経細胞の発火頻度から刺激(運動方向)の弁別を行う。驚くべきことに、このようにして得られた少数の神経細胞の活動に基づく弁別課題の成績は、行動成績に匹敵する。すなわち、この課題における動物の最終的な意思決定と行動は、MT野の多数の神経細胞の活動をもとにしていると考えられるのにもかかわらず、ごく僅かなMT野の神経細胞の活動によって説明されてしまう。電気生理実験による細胞外記録で記録される神経細胞は相当程度ランダムに選択されていることを考えれば、この事実はどのMT野神経細胞をとってきても行動を説明できること、すなわち行動に必要な情報はどのMT野神経細胞にも存在し、同じ情報が多数の神経細胞にシェアされていることを意味している。このような情報符号化方式を冗長符号化(redundant coding)という。
 ここでも神経符号化研究の方法論に従い、行動の成績と神経活動に基づく弁別課題の成績を比較する。すなわち、この課題を遂行中のサルのMT野から神経細胞活動を記録し、神経細胞の発火頻度から刺激(運動方向)の弁別を行う。驚くべきことに、このようにして得られた少数の神経細胞の活動に基づく弁別課題の成績は、行動成績に匹敵する。すなわち、この課題における動物の最終的な意思決定と行動は、MT野の多数の神経細胞の活動をもとにしていると考えられるのにもかかわらず、ごく僅かなMT野の神経細胞の活動によって説明されてしまう。電気生理実験による細胞外記録で記録される神経細胞は相当程度ランダムに選択されていることを考えれば、この事実はどのMT野神経細胞をとってきても行動を説明できること、すなわち行動に必要な情報はどのMT野神経細胞にも存在し、同じ情報が多数の神経細胞にシェアされていることを意味している。このような情報符号化方式を冗長符号化(redundant coding)という。


==チューニング関数と相関構造==
===チューニング関数と相関構造===
冗長符号化が実現されているという仮定のもとで次に問題となるのは、どのような神経活動によって、冗長性が実現されているのかという問題である。ZoharyらはMT野神経細胞が0。2程度の正の相関係数を示すことから、これが冗長性を生むと考えた<ref name=Zohary1994><pubmed>8022482</pubmed></ref>。例えば独立な神経細胞が2つあり、2つの発火頻度の平均値を刺激の推定量として使う場合、推定値の変動(分散)は1つの場合の半分になる。独立な神経細胞の5つの発火頻度の平均値で推定する場合は変動が5分の1になる。神経細胞の数を増やしていけば、推定値の変動を0に近くなるまでどこまでも小さくしていける。すなわち、神経細胞の数が多いほど推定精度は高くなる。ところが神経細胞の活動が正の相関を持つときには、推定精度に限界が生じる。MT野神経細胞集団のように相関係数が0。2である場合には、どんなに神経細胞の数を大きくしても、推定値の分散は1つの神経細胞の推定揺らぎの5分の1までしか小さくできない。刺激弁別の精度が神経細胞数の増加とともに一定の値に収束し、独立の場合よりずっと小さくなるのは冗長な符号化の一例となっている。
 冗長符号化が実現されているという仮定のもとで次に問題となるのは、どのような神経活動によって、冗長性が実現されているのかという問題である。ZoharyらはMT野神経細胞が0。2程度の正の相関係数を示すことから、これが冗長性を生むと考えた<ref name=Zohary1994><pubmed>8022482</pubmed></ref>。例えば独立な神経細胞が2つあり、2つの発火頻度の平均値を刺激の推定量として使う場合、推定値の変動(分散)は1つの場合の半分になる。独立な神経細胞の5つの発火頻度の平均値で推定する場合は変動が5分の1になる。神経細胞の数を増やしていけば、推定値の変動を0に近くなるまでどこまでも小さくしていける。すなわち、神経細胞の数が多いほど推定精度は高くなる。ところが神経細胞の活動が正の相関を持つときには、推定精度に限界が生じる。MT野神経細胞集団のように相関係数が0。2である場合には、どんなに神経細胞の数を大きくしても、推定値の分散は1つの神経細胞の推定揺らぎの5分の1までしか小さくできない。刺激弁別の精度が神経細胞数の増加とともに一定の値に収束し、独立の場合よりずっと小さくなるのは冗長な符号化の一例となっている。


しかし、この考え方には大きな欠点がある。複数の神経細胞の活動の平均値を刺激の推定量とすることに意味があるのは、それら複数の神経細胞が刺激に対して全く同じように応答している場合のみである。すなわち、刺激と神経細胞の平均発火頻度との関係を表すチューニング関数(応答関数・活性化関数)が同じ神経細胞集団に対してのみ、発火頻度の平均値を推定量とすることに意味がある。しかし、一般には刺激の推定精度を議論するのに平均発火率の揺らぎを使用する妥当性はない。次に示すように、集団活動による刺激の推定精度は神経細胞間の相関だけで決められるわけではなく、個々の神経細胞のチューニング関数と相関構造の関係が重要な役割を担うことが明らかになっている<ref name=Averbeck2006><pubmed>16760916</pubmed></ref>
 しかし、この考え方には大きな欠点がある。複数の神経細胞の活動の平均値を刺激の推定量とすることに意味があるのは、それら複数の神経細胞が刺激に対して全く同じように応答している場合のみである。すなわち、刺激と神経細胞の平均発火頻度との関係を表すチューニング関数(応答関数・活性化関数)が同じ神経細胞集団に対してのみ、発火頻度の平均値を推定量とすることに意味がある。しかし、一般には刺激の推定精度を議論するのに平均発火率の揺らぎを使用する妥当性はない。次に示すように、集団活動による刺激の推定精度は神経細胞間の相関だけで決められるわけではなく、個々の神経細胞のチューニング関数と相関構造の関係が重要な役割を担うことが明らかになっている<ref name=Averbeck2006><pubmed>16760916</pubmed></ref>[Averbeck 2006]。
[Averbeck 2006]。


図2 2つの神経細胞の場合のシグナル相関とノイズ相関の関係 (A) チューニング関数が正のシグナル相関を持つ場合、正の2次相関により刺激の弁別が難しくなる。(B) チューニング関数が負のシグナル相関を持つ場合、正の2次相関は刺激の弁別に影響しない。
'''図2. 2つの神経細胞の場合のシグナル相関とノイズ相関の関係'''<br>'''(A)''' チューニング関数が正のシグナル相関を持つ場合、正の2次相関により刺激の弁別が難しくなる。<br>'''(B)''' チューニング関数が負のシグナル相関を持つ場合、正の2次相関は刺激の弁別に影響しない。


 図2A、 Bの左のパネルは2つの神経細胞が類似したチューニング関数を持つ場合と性質の大きく異なるチューニング関数を持つ場合を示している。一方では、刺激が強くなると2つの神経細胞の発火頻度がともに大きくなる。他方では、2つのうち1つの神経細胞は刺激が強くなると発火頻度が小さくなる性質を持つ。2つの神経細胞の応答を各神経細胞の発火頻度を軸とする2次元の平面に描いたものが図2A、Bの右パネルにある点線である。同様のチューニング関数の場合、2次元上の応答曲線は正の傾きを持つ。一方、反対のチューニング関数を持つ場合、応答曲線は負の傾きを持つ。このチューニング関数の相関をシグナル相関という。弱い刺激に対する応答の代表としてS1、強い刺激に対する応答としてS2の2点が描ける。
 '''図2A、B'''の左のパネルは2つの神経細胞が類似したチューニング関数を持つ場合と性質の大きく異なるチューニング関数を持つ場合を示している。一方では、刺激が強くなると2つの神経細胞の発火頻度がともに大きくなる。他方では、2つのうち1つの神経細胞は刺激が強くなると発火頻度が小さくなる性質を持つ。2つの神経細胞の応答を各神経細胞の発火頻度を軸とする2次元の平面に描いたものが図2A、Bの右パネルにある点線である。同様のチューニング関数の場合、2次元上の応答曲線は正の傾きを持つ。一方、反対のチューニング関数を持つ場合、応答曲線は負の傾きを持つ。このチューニング関数の相関をシグナル相関という。弱い刺激に対する応答の代表としてS1、強い刺激に対する応答としてS2の2点が描ける。


 チューニング関数は各刺激の強さに対する神経細胞の平均発火頻度であり、実際には発火頻度は試行毎に異なる発火頻度が生成される。2つの神経細胞がある場合はこの生成は相関を伴うことがある。例えば、神経細胞の活動が正の相関を持つ場合には、一方の神経細胞が高い発火頻度を示した時にもう一方も高い発火頻度を示す。ある刺激が与えられたもとでの相関(共分散)をノイズ相関と呼ぶ。図2の右パネルの楕円は、刺激S1とS2が与えられた時に、神経活動が正の相関を持つ場合にサンプルが従う同時確率分布の等高線を描いており、その大きさはノイズの強さを表す。
 チューニング関数は各刺激の強さに対する神経細胞の平均発火頻度であり、実際には発火頻度は試行毎に異なる発火頻度が生成される。2つの神経細胞がある場合はこの生成は相関を伴うことがある。例えば、神経細胞の活動が正の相関を持つ場合には、一方の神経細胞が高い発火頻度を示した時にもう一方も高い発火頻度を示す。ある刺激が与えられたもとでの相関(共分散)をノイズ相関と呼ぶ。図2の右パネルの楕円は、刺激S1とS2が与えられた時に、神経活動が正の相関を持つ場合にサンプルが従う同時確率分布の等高線を描いており、その大きさはノイズの強さを表す。


 相関を伴う同時活動からS1とS2を弁別しようとするとき、2つの分布がなるべく重ならない状態であることが望ましい。そのような状態は当然、発火頻度の分散が小さい場合に実現されるが、ここでは個々の発火頻度の変動のレベルは一定とする(楕円の面積は変わらないとする)。このような時、ノイズ相関がどのように分布の重なりに影響を与えるかはシグナル相関に依存する。例えば図2Aにあるように、2つの神経細胞が正のシグナル相関を持つ場合、正のノイズ相関があると分布の重なりは大きくなり弁別が難しくなる。もし負のノイズ相関を示す場合、分布の重なりは小さくなり弁別が容易になる。一方図2Bにあるように、2つの神経細胞が負のシグナル相関を持つ場合、正の相関があると分布の重なりは小さくなり弁別が容易になる。もし負のノイズ相関があると分布の重なりは大きくなり弁別が難しくなる。すなわち、シグナル相関と反対のノイズ相関を持っている方が弁別は容易になる。一般に集団活動による刺激の弁別/推定の精度は神経細胞間の相関だけで決められるわけではなく、弁別/推定の方法と個々の神経細胞のチューニング関数および相関構造の関係において決まってくる。そのため神経細胞集団の正の相関活動が必ずしも推定に悪影響を与えるわけではない。これらの関係はKenneth O Johnsonによって初めて数学的に示された<ref name=Johnson1980><pubmed>7411183</pubmed></ref>[Johnson 1980]。
 相関を伴う同時活動からS1とS2を弁別しようとするとき、2つの分布がなるべく重ならない状態であることが望ましい。そのような状態は当然、発火頻度の分散が小さい場合に実現されるが、ここでは個々の発火頻度の変動のレベルは一定とする(楕円の面積は変わらないとする)。このような時、ノイズ相関がどのように分布の重なりに影響を与えるかはシグナル相関に依存する。例えば図2Aにあるように、2つの神経細胞が正のシグナル相関を持つ場合、正のノイズ相関があると分布の重なりは大きくなり弁別が難しくなる。もし負のノイズ相関を示す場合、分布の重なりは小さくなり弁別が容易になる。一方図2Bにあるように、2つの神経細胞が負のシグナル相関を持つ場合、正の相関があると分布の重なりは小さくなり弁別が容易になる。もし負のノイズ相関があると分布の重なりは大きくなり弁別が難しくなる。すなわち、シグナル相関と反対のノイズ相関を持っている方が弁別は容易になる。一般に集団活動による刺激の弁別/推定の精度は神経細胞間の相関だけで決められるわけではなく、弁別/推定の方法と個々の神経細胞のチューニング関数および相関構造の関係において決まってくる。そのため神経細胞集団の正の相関活動が必ずしも推定に悪影響を与えるわけではない。これらの関係はKenneth O. Johnsonによって初めて数学的に示された<ref name=Johnson1980><pubmed>7411183</pubmed></ref>[Johnson 1980]。


==冗長性を生む相関構造の探索==
==冗長性を生む相関構造の探索==