「自由エネルギー原理」の版間の差分

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==問題点と展望==
==問題点と展望==
 数理的には、変分自由エネルギーを最小化するエージェントがベイズ推論や学習を実行できること自体はよく知られた事実である。しかし、それが脳の仕組みとして生物学的に正しいかは別の問題である。自由エネルギー原理は抽象度の高い理論であり、その神経基盤に関しては未だ議論が続いている。通常は、隠れ状態とパラメータの事後分布は、神経活動とシナプス結合強度がそれぞれ符号化していると考えられており、その妥当性に関する証拠も蓄積されつつある(Bastos et al., 2012)。一つには、大脳皮質の局所回路の解剖学的特性(Haeusler and Maass, 2007)と階層的予測符号化モデル(Friston, 2008)の比較により、検証可能な理論予測行われている。皮質浅層の神経活動の周波数は高く、皮質深層の神経活動の周波数は低いことから、前者が予測誤差を、後者が期待値をそれぞれ符号化していることが示唆されている。しかしこれらの議論は、予測符号化モデルの妥当性に関するものであり、自由エネルギー原理の妥当性の証拠としては間接的であることに注意されたい。脳の基本単位である神経細胞の活動やシナプス結合の可塑性が、どのような仕組みで変分自由エネルギーの最小化に寄与し、システムとしてベイズ推論や学習を実現しているのかに関しては、その神経基盤が何であるかはまだ十分に解明されているとは言えない。
 数理的には、変分自由エネルギーを最小化するエージェントがベイズ推論や学習を実行できること自体はよく知られた事実である。しかし、それが脳の仕組みとして生物学的に正しいかは別の問題である。自由エネルギー原理は抽象度の高い理論であり、その神経基盤に関しては未だ議論が続いている。通常は、隠れ状態とパラメータの事後分布は、神経活動とシナプス結合強度がそれぞれ符号化していると考えられており、その妥当性に関する証拠も蓄積されつつある(Bastos et al., 2012)。一つには、大脳皮質の局所回路の解剖学的特性(Haeusler and Maass, 2007)と階層的予測符号化モデル(Friston, 2008)の比較により、検証可能な理論予測行われている。皮質浅層の神経活動の周波数は高く、皮質深層の神経活動の周波数は低いことから、前者が予測誤差を、後者が期待値をそれぞれ符号化していることが示唆されている。しかしこれらの議論は、予測符号化モデルの妥当性に関するものであり、自由エネルギー原理の妥当性の証拠としては間接的であることに注意されたい。脳の基本単位である神経細胞やシナプス結合の活動や可塑性が、どのような仕組みで変分自由エネルギーの最小化を行い、システムとしてベイズ推論や学習を実現しているのかに関しては、その神経基盤が何であるかはまだ十分に解明されているとは言えない。


 一方で、理論的考察により自由エネルギー原理の普遍性を示す研究も行われている。一般に、生物とその周囲の環境が区別されることは、内部状態と外部状態を統計的に分離するマルコフブランケット(Markov blanket)の存在を示唆する。システムが(非平衡)定常状態に達したとき、生物の内部状態の条件付き期待値は、外部状態に関する事後確率を表現していると見なすことができる(Friston, 2013; Friston, 2019; Parr et al., 2020)。このことは、いかなる(非平衡)定常状態も、何らかのベイズ推論を実現していると解釈できることを意味する。あるいは、完備類定理(complete class theorem)(Wald, 1947; Brown, 1981; Berger, 2013)によれば、エージェントが何らかのコスト関数を最小化しているとき、エージェントの挙動をベイズ推論の観点から説明できる事前分布とベイズ的コスト関数の組が少なくとも1つは存在する。これは、生物あるいは脳がベイズ推論を行うエージェントとして振る舞うという仮説は実験的に反証できない(自明に正しい)かもしれないことを意味する(Daunizeau et al., 2010)。この性質は、自由エネルギー原理の実験的検証を設計する際に問題になると考える人もいるかもしれないが、この性質こそが脳の理論を構築する上での重要な長所であると見ることもできる。最近の理論研究においては、古典的な神経活動やシナプス可塑性の方程式を導くような神経生理学的に妥当なコスト関数と、部分観測マルコフ決定過程の下での変分自由エネルギーが数理的に等価であることが示されている(Isomura et al., 2022)。これらの数理的な性質は、脳が自由エネルギー原理に従っていると見なすことができることを示唆している。
 一方で、理論的考察により自由エネルギー原理の普遍性を示す研究も行われている。一般に、生物とその周囲の環境が区別されることは、内部状態と外部状態を統計的に分離するマルコフブランケット(Markov blanket)の存在を示唆する。システムが(非平衡)定常状態に達したとき、生物の内部状態の条件付き期待値は、外部状態に関する事後確率を表現していると見なすことができる(Friston, 2013; Friston, 2019; Parr et al., 2020)。このことは、いかなる(非平衡)定常状態も、何らかのベイズ推論を実現していると解釈できることを意味する。あるいは、完備類定理(complete class theorem)(Wald, 1947; Brown, 1981; Berger, 2013)によれば、エージェントが何らかのコスト関数を最小化しているとき、エージェントの挙動をベイズ推論の観点から説明できる事前分布とベイズ的コスト関数の組が少なくとも1つは存在する。これは、生物あるいは脳がベイズ推論を行うエージェントとして振る舞うという仮説は実験的に反証できない(自明に正しい)かもしれないことを意味する(Daunizeau et al., 2010)。この性質は、自由エネルギー原理の実験的検証を設計する際に問題になると考える人もいるかもしれないが、この性質こそが脳の理論を構築する上での重要な長所であると見ることもできる。最近の理論研究においては、古典的な神経活動やシナプス可塑性の方程式を導くような神経生理学的に妥当なコスト関数と、部分観測マルコフ決定過程の下での変分自由エネルギーが数理的に等価であることが示されている(Isomura et al., 2022)。これらの数理的な性質は、脳が自由エネルギー原理に従っていると見なすことができることを示唆している。