「D-セリン」の版間の差分

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西川 徹
<font size="+1">[http://researchmap.jp/torunishikawa/ 西川 徹]</font><br>
昭和医科大学大学院医科薬理学
''昭和医科大学大学院医科薬理学、京都府立医科大学大学院精神機能病態学 ''<br>
京都府立医科大学大学院精神機能病態学
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2025年6月18日 原稿完成日:2025年5月27日<br>
 
担当編集委員:[http://researchmap.jp/michisukeyuzaki 柚崎 通介](慶應義塾大学 医学部生理学)<br>
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英:<small>D</small>-serine 独:<small>D</small>-Serin 仏:<small>D</small>-sérine <br>
英:<small>D</small>-serine 独:<small>D</small>-Serin 仏:<small>D</small>-sérine <br>
英略称:<small>D</small>-Ser<br>
英略称:<small>D</small>-Ser<br>
別名:<small>D</small>-2-アミノ-3-ヒドロキシプロピオン酸
別名:<small>D</small>-2-アミノ-3-ヒドロキシプロピオン酸<br>
<small>D</small>-2-Amino-3-hydroxypropionic Acid
<small>D</small>-2-Amino-3-hydroxypropionic Acid
• H-D-Ser-OH


{{box|text= <small>D</small>-セリンは、脊椎動物のみならず、環形動物や環形動物にも含有される内在性D体アミノ酸である。哺乳類では、脳優位に存在し、脳においてはNMDA受容体と類似した分布および発達パターンを示す。NMDA受容体の内在性コアゴニストとして作用するとともに、δ型グルタミン酸受容体にも結合し、認知機能、精神・行動等の高次脳機能の発現・制御に重要な役割を果たすと考えられている。<small>D</small>-セリンの合成能を持つセリンラセマーゼおよび分解能をもつD-アミノ酸酸化酵素が同定されているほか、貯蔵、細胞外遊離、取り込みなどの代謝過程の研究が進められている。}}
{{box|text= <small>D</small>-セリンは、脊椎動物のみならず、環形動物や環形動物にも含有される内在性D体アミノ酸である。哺乳類では、脳優位に存在し、脳においてはNMDA型グルタミン酸受容体(NMDA受容体)と類似した分布および発達パターンを示す。NMDA受容体の内在性コアゴニストとして作用するとともに、δ型グルタミン酸受容体にも結合し、認知機能、精神・行動等の高次脳機能の発現・制御に重要な役割を果たすと考えられている。<small>D</small>-セリンの合成能を持つセリンラセマーゼおよび分解能をもつ<small>D</small>-アミノ酸酸化酵素が同定されているほか、貯蔵、細胞外遊離、取り込みなどの代謝過程の研究が進められている。}}
[[ファイル:Nishikawa D-Ser Fig1.png|サムネイル|'''図1. <small>D</small>-セリンの化学構造''']]
== 発見 ==
== 発見 ==
 <small>D</small>-セリンは遊離型として、ミミズ(環形動物)やカイコ(節足動物)の組織に含まれていることが1960年代から知られていたが、脊椎動物では、アミノ酸はL体で占められるというホモキラリテーが定説となっており、1980年代までは遊離体・結合型(タンパク質の成分)ともに検出されることはなかった<ref name=Corrigan1969><pubmed>5774186</pubmed></ref> [1]。1980年代になり、筆者らが統合失調症の新しい治療法を研究する過程で、遊離型<small>D</small>-セリンが哺乳類の脳に恒常的に高濃度で含まれることを見出し、NMDA型グルタミン酸受容体(NMDA受容体)の内在性コアゴニストであることを示唆した<ref name=Nishikawa2022>'''Nishikawa, T., Umino, A., Umino, M. (2022).'''<br>
 <small>D</small>-セリン('''図1''')は遊離型として、ミミズ(環形動物)やカイコ(節足動物)の組織に含まれていることが1960年代から知られていたが、脊椎動物では、アミノ酸はL体で占められるというホモキラリテーが定説となっており、1980年代までは遊離体・結合型(タンパク質の成分)ともに検出されることはなかった<ref name=Corrigan1969><pubmed>5774186</pubmed></ref> [1]。1980年代になり、筆者らが統合失調症の新しい治療法を研究する過程で、遊離型<small>D</small>-セリンが哺乳類の脳に恒常的に高濃度で含まれることを見出し、NMDA型グルタミン酸受容体(NMDA受容体)の内在性コアゴニストであることを示唆した<ref name=Nishikawa2022>'''Nishikawa, T., Umino, A., Umino, M. (2022).'''<br>
<small>D</small>-Serine: Basic Aspects with a Focus on Psychosis. In: Riederer, P., Laux, G., Nagatsu, T., Le, W., Riederer, C. (eds) NeuroPsychopharmacotherapy. pp 495-523, Springer, Cham. [https://doi.org/10.1007/978-3-030-62059-2_470 DOI]</ref> [2]。
<small>D</small>-Serine: Basic Aspects with a Focus on Psychosis. In: Riederer, P., Laux, G., Nagatsu, T., Le, W., Riederer, C. (eds) NeuroPsychopharmacotherapy. pp 495-523, Springer, Cham. [https://doi.org/10.1007/978-3-030-62059-2_470 DOI]</ref> [2]。


 NMDA受容体遮断薬が統合失調症と区別し難い精神症状を引き起こすことに基づいて、同受容体の機能低下が推測されている<ref name=Nishikawa2022 /> <ref name=Uno2019><pubmed>30666759</pubmed></ref> [2,3]。これらの精神症状には、既存の治療薬(抗精神病薬)が効果的な陽性症状だけでなく、改善が困難な陰性症状や認知機能障害が含まれる。そこで、本症の新規治療法を開発するため、NMDA受容体機能を促進する同受容体グリシン調節部位の作動薬(図2:グルタミン酸結合部位の作動薬のような高濃度での細胞傷害性がない)として知られていた<small>D</small>-セリンと、その血液脳関門の透過性向上を目的として合成した脂肪酸化合物をラットに投与したところ、いずれもNMDA受容体遮断薬による統合失調症の動物モデルとされる異常行動が抑制された。これらの抑制効果は、NMDA受容体グリシン調節部位の選択的拮抗薬により減弱することや、脂肪酸化合物はグリシン調節部位に結合したなかったことより、脂肪酸とのエステル結合が分解して遊離された<small>D</small>-セリンがグリシン調節部位に作用する可能性が示唆された。その検証を、キラルアミノ酸を分離定量可能な高速液体クロマトグラフィー(HPLC)、gas chromatograph(GC)、gas chromatograph-mass spectrometer(GC-MS)法等で行った結果、上記の脂肪酸化合物を投与していない動物の脳(大脳新皮質)において<small>D</small>-セリンが検出され、germ-freeラットでも濃度が同等であることから、哺乳類の脳に細菌由来ではない内在性<small>D</small>-セリンが存在することがわかった<ref name=Hashimoto1992><pubmed>1730289</pubmed></ref><ref name=Hashimoto1993><pubmed>8419554</pubmed></ref> [4, 5]。
 NMDA受容体遮断薬が統合失調症と区別し難い精神症状を引き起こすことに基づいて、同受容体の機能低下が推測されている<ref name=Nishikawa2022 /> <ref name=Uno2019><pubmed>30666759</pubmed></ref> [2,3]。これらの精神症状には、既存の治療薬(抗精神病薬)が効果的な陽性症状だけでなく、改善が困難な陰性症状や認知機能障害が含まれる。そこで、本症の新規治療法を開発するため、NMDA受容体機能を促進する同受容体グリシン調節部位の作動薬('''図2''':グルタミン酸結合部位の作動薬のような高濃度での細胞傷害性がない)として知られていた<small>D</small>-セリンと、その血液脳関門の透過性向上を目的として合成した脂肪酸化合物をラットに投与したところ、いずれもNMDA受容体遮断薬による統合失調症の動物モデルとされる異常行動が抑制された。これらの抑制効果は、NMDA受容体グリシン調節部位の選択的拮抗薬により減弱することや、脂肪酸化合物はグリシン調節部位に結合したなかったことより、脂肪酸とのエステル結合が分解して遊離された<small>D</small>-セリンがグリシン調節部位に作用する可能性が示唆された。その検証を、キラルアミノ酸を分離定量可能な高速液体クロマトグラフィー(HPLC)、gas chromatograph(GC)、gas chromatograph-mass spectrometer(GC-MS)法等で行った結果、上記の脂肪酸化合物を投与していない動物の脳(大脳新皮質)において<small>D</small>-セリンが検出され、germ-freeラットでも濃度が同等であることから、哺乳類の脳に細菌由来ではない内在性<small>D</small>-セリンが存在することがわかった<ref name=Hashimoto1992><pubmed>1730289</pubmed></ref><ref name=Hashimoto1993><pubmed>8419554</pubmed></ref> [4, 5]。


== 化学的性質 ==
== 化学的性質 ==
 1個のアミノ基と1個のカルボニル基をもつ<small>D</small>-αアミノ酸で、中性アミノ酸に分類される('''図1''')。水溶性。
 1個のアミノ基と1個のカルボニル基をもつ<small>D</small>-αアミノ酸で、中性アミノ酸に分類される。水溶性。
実験に用いるときは、市販の標品が1.5~1%の<small>L</small>-セリンを含んでいることや、<small>D</small>-[<sup>3</sup>H]-セリンは保存中に組織に非特異的な結合を起こす分解物ができることがあるので、それを除くため使用前にイオン交換樹脂で再精製を要することに注意が必要である。
実験に用いるときは、市販の標品が1.5~1%の<small>L</small>-セリンを含んでいることや、<small>D</small>-[<sup>3</sup>H]-セリンは保存中に組織に非特異的な結合を起こす分解物ができることがあるので、それを除くため使用前にイオン交換樹脂で再精製を要することに注意が必要である。


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== 代謝 ==
== 代謝 ==
 種々の<small>D</small>体アミノ酸は哺乳類の腸内細菌で産生されることが知られているが、<small>D</small>-セリンは、無菌ラットまたはマウスの脳や腎臓<ref name=Hashimoto1993 /><ref name=Nagata1992><pubmed>1346751</pubmed></ref> [5, 8]においても組織中濃度は変化が見られないことから、生合成される内在性アミノ酸と考えられる(図2)。
 種々の<small>D</small>体アミノ酸は哺乳類の腸内細菌で産生されることが知られているが、<small>D</small>-セリンは、無菌ラットまたはマウスの脳や腎臓<ref name=Hashimoto1993 /><ref name=Nagata1992><pubmed>1346751</pubmed></ref> [5, 8]においても組織中濃度は変化が見られないことから、生合成される内在性アミノ酸と考えられる。
=== 生合成 ===
=== 生合成 ===
 <small>L</small>-セリンを<small>D</small>-セリンに変換するセリンラセマーゼが同定された<ref name=Wolosker1999a><pubmed>9892700</pubmed></ref><ref name=Wolosker1999b><pubmed>10557334</pubmed></ref> [9,10]。本酵素遺伝子の欠損マウスの脳組織では<small>D</small>-セリン濃度が9〜22%に減少するため<ref name=Basu2009><pubmed>19065142</pubmed></ref><ref name=Horio2011><pubmed>21906644</pubmed></ref><ref name=Labrie2009><pubmed>19483194</pubmed></ref><ref name=Miyoshi2012><pubmed>22990841</pubmed></ref> [11,12,13,14]、セリンラセマーゼが<small>D</small>-セリンの主要な生合成酵素と考えられている。<small>L</small>-セリンの合成酵素であるホスホグリセリン酸デヒドロゲナーゼ(phosphoglycerate dehydrogenase,Phgdh)の遺伝子をアストログリア特異的に欠損するマウスでは、セリンラセマーゼ欠損マウスと同程度の<small>D</small>-セリン濃度の減少が認められることより<ref name=Yang2010><pubmed>20966073</pubmed></ref> [15]、セリンラセマーゼはアストログリアから供給される<small>L</small>-セリンから<small>D</small>-セリンを合成している可能性が高い。
 <small>L</small>-セリンを<small>D</small>-セリンに変換するセリンラセマーゼが同定された<ref name=Wolosker1999a><pubmed>9892700</pubmed></ref><ref name=Wolosker1999b><pubmed>10557334</pubmed></ref> [9,10]。本酵素遺伝子の欠損マウスの脳組織では<small>D</small>-セリン濃度が9〜22%に減少するため<ref name=Basu2009><pubmed>19065142</pubmed></ref><ref name=Horio2011><pubmed>21906644</pubmed></ref><ref name=Labrie2009><pubmed>19483194</pubmed></ref><ref name=Miyoshi2012><pubmed>22990841</pubmed></ref> [11,12,13,14]、セリンラセマーゼが<small>D</small>-セリンの主要な生合成酵素と考えられている。<small>L</small>-セリンの合成酵素であるホスホグリセリン酸デヒドロゲナーゼ(phosphoglycerate dehydrogenase,Phgdh)の遺伝子をアストログリア特異的に欠損するマウスでは、セリンラセマーゼ欠損マウスと同程度の<small>D</small>-セリン濃度の減少が認められることより<ref name=Yang2010><pubmed>20966073</pubmed></ref> [15]、セリンラセマーゼはアストログリアから供給される<small>L</small>-セリンから<small>D</small>-セリンを合成している可能性が高い。
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 細胞外<small>D</small>-セリンの放出の分子細胞機構については結論が得られていないが、神経活動に応じたシナプス小胞の開口によって放出される神経伝達物質とは異なると推測されている。すなわち、in vivoの実験系では、細胞外液中<small>D</small>-セリン濃度は、脱分極刺激により低下し、神経伝導遮断や細胞外カルシウムの除去を行っても減少しない<ref name=Hashimoto1995b /> [20]。さらに、in vitroの条件下では<small>D</small>-セリンのシナプス小胞に含まれる物質の放出阻害薬の影響を受けない<ref name=Kartvelishvily2006 /> [19]。これらに対して、グリアの活動を抑制する薬剤で減少する<ref name=Kanematsu2006><pubmed>16736231</pubmed></ref><ref name=Henneberger2010><pubmed>20075918</pubmed></ref> [21,22]。これらの所見は、細胞外の<small>D</small>-セリンの放出にはニューロンおよびグリアの双方の活動が影響することを示唆しているが、放出細胞は未同定である。細胞外液中の<small>D</small>-セリン濃度の調節については、AMPA型グルタミン酸受容体<ref name=Ishiwata2008><pubmed>23298512</pubmed></ref> [23]、P2X7プリン受容体―pannexin複合体<ref name=Pan2015><pubmed>25630251</pubmed></ref> [24]、GABA<sub>A</sub>受容体<ref name=Umino2017><pubmed>28824371</pubmed></ref> [25]等の関与が報告されている。
 細胞外<small>D</small>-セリンの放出の分子細胞機構については結論が得られていないが、神経活動に応じたシナプス小胞の開口によって放出される神経伝達物質とは異なると推測されている。すなわち、in vivoの実験系では、細胞外液中<small>D</small>-セリン濃度は、脱分極刺激により低下し、神経伝導遮断や細胞外カルシウムの除去を行っても減少しない<ref name=Hashimoto1995b /> [20]。さらに、in vitroの条件下では<small>D</small>-セリンのシナプス小胞に含まれる物質の放出阻害薬の影響を受けない<ref name=Kartvelishvily2006 /> [19]。これらに対して、グリアの活動を抑制する薬剤で減少する<ref name=Kanematsu2006><pubmed>16736231</pubmed></ref><ref name=Henneberger2010><pubmed>20075918</pubmed></ref> [21,22]。これらの所見は、細胞外の<small>D</small>-セリンの放出にはニューロンおよびグリアの双方の活動が影響することを示唆しているが、放出細胞は未同定である。細胞外液中の<small>D</small>-セリン濃度の調節については、AMPA型グルタミン酸受容体<ref name=Ishiwata2008><pubmed>23298512</pubmed></ref> [23]、P2X7プリン受容体―pannexin複合体<ref name=Pan2015><pubmed>25630251</pubmed></ref> [24]、GABA<sub>A</sub>受容体<ref name=Umino2017><pubmed>28824371</pubmed></ref> [25]等の関与が報告されている。
 
[[ファイル:Nishikawa D-Ser Fig2.png|サムネイル|'''図2. GluN1/GluN2型NMDA受容体'''<br>Gly, Glu, SRR, DAO, Poly, PCP]]
=== 受容体結合 ===
=== 受容体結合 ===
 グルタミン酸受容体のうち、NMDA受容体(GluN1/GluN2型('''図2''')およびGluN1/GluN3型)に結合する<ref name=Danysz1998><pubmed>9860805</pubmed></ref><ref name=Matsui1995><pubmed>7790891</pubmed></ref><ref name=Chatterton2002><pubmed>11823786</pubmed></ref> [26,27,28]、またδ受容体GluD1およびGluD2にも結合する<ref name=Naur2007><pubmed>17715062</pubmed></ref> [29](生理機能参照)。
 グルタミン酸受容体のうち、NMDA受容体(GluN1/GluN2型('''図2''')およびGluN1/GluN3型)に結合する<ref name=Danysz1998><pubmed>9860805</pubmed></ref><ref name=Matsui1995><pubmed>7790891</pubmed></ref><ref name=Chatterton2002><pubmed>11823786</pubmed></ref> [26,27,28]、またδ受容体GluD1およびGluD2にも結合する<ref name=Naur2007><pubmed>17715062</pubmed></ref> [29](生理機能参照)。
=== 取り込み ===
=== 取り込み ===
 <small>D</small>-セリンに特異的な輸送体は同定されていない。ナトリウム非依存性中性アミノ酸輸送体のAsc-1(Na<sup>+</sup>-independent alanine-serine-cysteine transporter 1)<ref name=Fukasawa2000><pubmed>10734121</pubmed></ref>
 <small>D</small>-セリンに特異的な輸送体は同定されていない。ナトリウム非依存性中性アミノ酸輸送体のAsc-1(Na<sup>+</sup>-independent alanine-serine-cysteine transporter 1)<ref name=Fukasawa2000><pubmed>10734121</pubmed></ref>

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