胚性幹細胞

2012年4月3日 (火) 19:17時点におけるSeijishiozawa (トーク | 投稿記録)による版

 胚性幹細胞(ES 細胞)は、胚盤胞期胚の内部細胞塊(ICM)から樹立される細胞株であり、生体を構成する全ての細胞に分化し得る多分化能(多能性)と、その多分化能及び正常な核型を維持したまま in vitro において無限増殖できる自己複製能を併せ持つ。

マウス ES 細胞

 1981 年、Evans と Kaufman によってマウス ES 細胞(原著では EK 細胞と表記)の樹立が初めて報告された。現在までに、より簡便で効率的なマウス ES 細胞の樹立方法が確立されている。典型的には、胚盤胞期まで発生した胚を、フィーダー細胞と呼ばれる増殖阻止したマウス胎児線維芽細胞層上に播種し、分化抑制因子となる白血病抑制因子(LIF)を添加した培地中で ICM を outgrowth させる。十分に増殖した ICM 由来の細胞塊をガラス毛細管で分離し、トリプシン処理により分散させ新たなフィーダー細胞上に播種する。更に培養することで得られる ES 細胞様の形態を示すコロニーを再び分離し、継代培養により増幅することで樹立される。マウスにおいてはその遺伝的背景により樹立効率が異なり、現在使用される ES 細胞株はそのほとんどが 129 系統に由来するものである。近年では、他の近交系からも樹立が報告されているが、一般的に129 系統から得られる ES 細胞よりも安定性は低いとされる。また、樹立効率には性差があり、マウス ES 細胞の多くはオスの胚に由来する。

 マウス ES 細胞はフィーダー細胞上で培養され、一般的には15~20 % 程度の牛胎児血清あるいは血清代替物と、LIF を添加した培地で行われる。近年、ES 細胞の未分化状態維持機構及び分化開始機構の一端が明らかにされるようになり、これに基づいて ERK 及び GSK3beta を遮断する2つの阻害剤(2i)を培地に加えることで、更に均一で安定な培養を行うことが可能になっている。  未分化状態のマウス ES 細胞は、アルカリフォスファターゼ染色に陽性で、表面抗原である SSEA-1 の発現を認める。また、NANOG, OCT3/4, SOX2 といった転写因子が共発現している。分化抑制因子である LIF を除いた培地中で浮遊培養することで、自発的に分化し、胚様体と呼ばれる三胚葉系の細胞からなる構造体を形成する。また、免疫不全マウスに接種すると、奇形腫(テラトーマ)を形成する。8細胞期胚あるいは胚盤胞期胚に注入することで、個体形成に寄与し、キメラマウスを形成することができる(後述)。  マウス ES 細胞は、初期胚と凝集させ、あるいは注入して子宮に移植することで、その後の個体発生に寄与してキメラマウスを作成することができる。この際、生殖細胞にマウス ES 細胞由来の細胞を持つキメラマウスを得られることがある(Germ line chimera)。このようなキメラマウスを交配し、子孫を得ることで、マウス ES 細胞の遺伝形質を有するマウス個体が得られる。
 この際、遺伝子改変を施したマウス ES 細胞を用いることで、遺伝子改変マウス個体を作出することができる。特に、相同組換え技術を用いてゲノムの特定部位を改変し(標的遺伝子組換え法、ジーンターゲティング)、任意の遺伝子を欠失させたノックアウト・マウス作成は、マウス個体における遺伝子機能を解析する際の標準的な手技になった。また、疾患モデルマウスの作出など生命科学分野で多岐にわたり利用され、2007 年にはこの技術に関する功績により Mario R. Capecchi, Sir Martin J. Evans, Oliver Smithiesの 3 氏にノーベル医学・生理学賞が授与された。
 現在では、単純なノックアウト・マウス作成に加え、Cre や Flp などの部位特異的組換え酵素を応用して、特定の場所及び時期において遺伝子を欠失させる条件付きノックアウト・マウス作成の技術など、遺伝子工学の発達と共に、今なお進展している。

 このような現代の発生工学技術における中心的な貢献と共に、マウス ES 細胞の持つ多分化能は、各種体細胞及び生殖細胞の分化・発生メカニズムを研究するためのツールとしても広く利用されてきた。
 マウス ES 細胞は LIF を除いた培地中で浮遊培養することで分化し、胚様体と呼ばれる三胚葉系の様々な分化細胞からなる構造体を形成する。この分化は自発的でランダムであるが、培養系を調整することで、目的の細胞系譜へと分化させることも可能である。このような培養系を用いることで、生体内では研究が難しい、初期の胚発生過程における細胞分化を in vitro において再現することができる。この系を用い、細胞の分化過程に関わる遺伝子、必要な成長因子や下流のシグナル伝達などについての詳細な解析が可能になった。

ヒト ES 細胞

 1998 年、ウィスコンシン州立大学の James Thomson らによってヒト ES 細胞株が樹立された。当初、マウス ES 細胞と同様に LIF を添加した培地中で樹立されたが、その後の研究から、ヒト ES 細胞に対しては LIF は効果的でなく、bFGF 及び ActivinA が自己複製を促進することが明らかにされた。また、コロニーの形態もマウスと異なり、平坦な形態を示す。
 ヒト ES 細胞はマウス ES 細胞と比較して増殖が遅く、不安定で分化しやすい傾向にある。また、トリプシン処理に対して感受性が高く、単一細胞にまで分散させると速やかにアポトーシスが誘導される。そのため、継代の際には穏やかなトリプシン処理条件あるいは物理的処理によってコロニーを数個から十数個の細胞塊として扱う必要があるなど、マウス ES 細胞と比較して扱いが難しい。  マウス ES 細胞と同様に三胚葉系への分化能を持ち、in vitro において胚様体を形成し、免疫不全マウスへの接種により奇形腫を形成することができる。アルカリフォスファターゼ染色に陽性を示すが、SSEA1 は発現せず、代わりに SSEA3, SSEA4, TRA1-60 及び TRA1-81 を発現する。  ヒト ES 細胞株樹立以降、現在に到るまでこのヒト ES 細胞の、医療への応用に焦点を絞った研究が盛んに行われるようになった。ヒト ES 細胞からの in vitro分化誘導系を応用すれば、特定の細胞を大量に得ることが可能であると考えられ、細胞移植医療において必要な細胞の革新的なソースになると期待される。例えば、神経幹細胞のような、生体からは充分量を採取することができない細胞を誘導し、現在治療法の確立していない脊髄損傷や各種の神経変性疾患に対して、細胞移植によって損傷あるいは変性した組織の修復を図り、治療を行うといった再生医療が可能になる。
 しかしながら、ヒト ES 細胞の元となるヒトの胚盤胞期胚を得ることは容易でなく、またヒト胚に侵襲を加えることに対する社会的な抵抗感があることが問題になった。更に、移植を目指す場合、組織適合抗原の不一致による拒絶反応を防ぐため、患者と同一の組織適合抗原を持ったヒト ES 細胞が必要となるという問題がある。この問題を回避するアイデアとして、核移植技術を用いて患者体細胞からクローン胚を作成し、ES 細胞を樹立することで、オーダーメイドの ES 細胞(ntES 細胞)を作成することが検討された。しかし、この方法には大量のヒト未受精卵子が必要である上に、もし子宮に移植すればクローン人間誕生に繋がる可能性がゼロとは言えず、そのようなヒト胚を作成・使用することへの危険性が指摘された。更に、ヒト ntES 細胞を作成したとする論文が捏造であったこともこの研究を減速させる大きな要因となった。現在も正常な核型を持つヒト ntES 細胞株は得られていない。
 このような背景のなか、体細胞に遺伝子導入することによって ES 細胞に近い性質を持った、人工多能性幹(iPS)細胞を作成する技術が開発され、ES 細胞を使用することによる問題点の多くを解決すると期待されている。しかしながら、iPS 細胞は人工的な操作によって得られる細胞であり、ES 細胞との類似性の厳密な検討が必要であるが、ヒト ES 細胞自体の性質はマウス ES 細胞ほど明らかでなく、ヒト ES 細胞研究と並行して推進することが必須である。

マウス ES 細胞及びヒト ES 細胞は共に、着床前の初期胚から得られる細胞株であり、高い分化能と自己増殖能を持つ。しかし、ヒト ES 細胞樹立以降、マウス ES 細胞との違いについても明らかにされてきた。マウス ES 細胞は白血病抑制因子(LIF)に応答して自己複製するのに対し、ヒト ES 細胞は LIF には応答せず、塩基性線維芽細胞増殖因子(bFGF,FGF-2)及びアクチビン A に応答して自己複製するとされる。また、形成されるコロニー形態がマウスでは立体的に盛り上がったドーム状であるが、ヒト ES 細胞においては平坦なコロニーを形成する他、メスの細胞においては、マウスでは両方の X 染色体が活性化状態にあるのに対し、ヒト ES 細胞では片側の X 染色体が不活性化している状態にあるといった違いがある。このような特徴において、マウス以外の哺乳類から得られる ES 細胞はほとんどがヒト ES 細胞様であり、“マウス型”ES 細胞はラットにおいて特殊な条件下で樹立した ES 細胞のみである。マウス ES 細胞が持つキメラ個体の形成能、Germ line chimera の形成能は、マウス ES 細胞を定義する重要な性質の一つであるが、サル ES 細胞を用いた実験結果から、“ヒト型”ES 細胞ではこの能力は失われているか、著しく低いと考えられている。
 このような違いが ES 細胞における種差であるのか、マウス ES 細胞とヒト ES 細胞では異なる発生ステージにある細胞であることに由来するのかは不明である。2007 年にはマウスにおいて着床後の胚から、エピブラスト幹細胞(EpiS 細胞)と呼ばれる新たな胚性多能性幹細胞株が樹立された。この細胞は、平坦なコロニーを形成し、bFGF やアクチビン A によって自己複製が促進され、メスの細胞では片側の X 染色体が不活性化されているというヒト ES 細胞に類似した性質を有している。また、この細胞ではキメラ形成能がほとんど失われている。これらのことから、ヒトや他の動物における“ES 細胞”は実際にはマウス EpiS 細胞に相当する細胞であり、マウス ES 細胞よりも後期の発生ステージにあると考えられるようになっている。しかし、直接的にこの仮説を証明する報告は未だ無く、更なる検証が必要である。
 現在では、マウス ES 細胞を Naïve state(あるいは ground state)、ヒト ES 細胞やマウス EpiS 細胞のような細胞を Primed state の多能性幹細胞として便宜上区別されているが、明確な定義ではない。これらの細胞における更なる研究に基づく胚性多能性幹細胞の分類が望まれる。
 いずれにせよ、ヒトや他の動物の ES 細胞はマウスと同様、胚盤胞期の胚から得られるにも関わらず、何故 Naïve state の ES 細胞が得られないのかは不明である。Austin Smith らは、マウス EpiS 細胞に転写因子 Klf4 を強制発現することで、キメラ形成能を持った ES 細胞へと戻すことに初めて成功しており、現在までに同様の活性を有する遺伝子が複数同定されている。2009 年、Jaenisch らの研究グループは、ヒト ES 細胞に同様に転写因子を導入し、2i 及び Forskolin を添加した培地中で培養することで、いくつかの特徴においてマウス ES 細胞に似た性質を持つヒト ES 細胞を誘導することに成功した。これが真の naïve state にあるかは更なる研究が必要であるが、ヒトではその個体形成能を検討することはできない。そのため、他の哺乳類、特にヒトに近い霊長類を用いた再現が望まれる。
 primed state のヒト ES/iPS 細胞は、マウス ES/iPS 細胞に比べ、株間あるいはクローン間における性質の不均一性が大きく、分化能に違いがある。医療への応用を目指す場合、このような不均一性を持った細胞の利用は難しく、均一な性質の多能性幹細胞の樹立が望まれる。より未熟な状態にあると考えられる naïve state のヒト ES/iPS 細胞を効率的に誘導できれば、均一な性質を持った多能性幹細胞株の樹立が可能になり、この問題の解決に繋がると期待される。
 また、他の動物種においても、naïve stateの多能性幹細胞が作成されれば、マウス以外の動物において発生工学技術による遺伝子改変動物作成に応用可能であり、有用である。