「前頭眼窩野」の版間の差分

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== 前頭連合野腹内側部とソマティックマーカー仮説  ==
== 前頭連合野腹内側部とソマティックマーカー仮説  ==


ダマジオはこうした障害のメカニズムについてソマティックマーカー仮説somatic marker hypothesisを提唱している<ref name="ref3"><pubmed>17259643</pubmed></ref>。彼は情動、動機づけには常に「身体的、内臓系の反応」(ソマティック反応)が付随すると考えた。そして(1)前頭連合野腹内側部は外的な刺激とそれに伴う情動、動機づけを連合する場所と考えられる。(2)この連合が成立している場合には、外的な刺激が認知されると、腹内側部でその連合に基づいたソマティック反応を身体、内臓系に生じさせる信号が出るが、その信号は「良い」あるいは「悪い」という価値に従いマークされている。(3)このマーク機能は意思決定を効率的にするように作用する、と考えた。腹内側部に損傷をもつ患者では、外部状況が認知されても通常なら生起するソマティック・マーカーが起こらないため、マーカーがあれば可能であるような迅速、適切な行動が出来なくなると考えるわけである。 アイオワ・ギャンブル課題中に被験者の体に発汗(自律神経の働きからくる)を調べることができる装置をつけておくと、健常者がA, Bのカードを選択しようとする際には、20枚目くらいで発汗量に増加がみられる。20枚目というと、まだA,Bのカードが不利であることは意識化されていない段階であるが、生理的な反応が出ることにより、被験者の意思決定は有利なものになるわけであるが、前頭前野腹内側部損傷患者ではそうした反応が出ないのである。 ダマジオの説は、意思決定における感情の果たす役割や、無意識的判断というものについて神経的基礎を与えるもので、多いに注目を集めているが、実証されているとは言い難く、批判も少なくない。たとえば、ロールズなどは、腹内側部損傷患者が適切な意思決定ができないのは、罰刺激のような負の経験に基づいて反応変容ができない、という前頭眼窩野に見られる消去や逆転学習の障害の反映と解釈すべきとしている[4]。 さらに最近の研究によると、前頭前野腹内側部損傷患者は、確実な情報がないような条件での意思決定場面だけでなく、単純な「好きー嫌い」の判断にも一貫性のないことが示されている。検査対象者に食べ物、有名人、色見本紙につき、6つの中から2つの間でどちらが好きかを何度も尋ねると、この脳部位の損傷患者では、反応の一貫性に乏しく、聞くたびに好みが変化する、というような傾向が見られている[5]。これは、ソマティック・マーカーがないと適切な反応が出来ない、というような事態でなくても、損傷患者の判断に障害が見られることを示し、逆に損傷患者の不確定事態における判断の障害も、こうした好きー嫌いの判断の非一貫性の反映に過ぎない可能性も指摘されている。 ソマティック・マーカー仮説の当否は別としても、情動がからむ意思決定、選択肢間の価値の比較が求められる意思決定に関係して、前頭連合野腹内側部が活性化するとした研究は多い。コーラ(コカ、あるいはペプシ)の好みに関し銘柄を隠して判断させると、この脳部位が活性化したのに対し、銘柄を知らせると、好みの判断に関係して海馬や前頭連合野外側部などが活性化した、という報告がある。また道徳に基づいた社会的行動の適切性の判断にもこの脳部位が活性化するが、特にネガティブな情動を引き起こすような状況での判断で、ポジティブな情動を引き起こすような状況での判断より前頭連合野腹内側部の活性化が大きいことも示されている。  
ダマジオはこうした障害のメカニズムについてソマティックマーカー仮説somatic marker hypothesisを提唱している<ref name="ref3">'''Damasio AR'''<br> Decartes’ Error Grossset/Putnam New York 1994 (日本語訳 「生存する脳」田中三彦 講談社,2000)</ref>。彼は情動、動機づけには常に「身体的、内臓系の反応」(ソマティック反応)が付随すると考えた。そして(1)前頭連合野腹内側部は外的な刺激とそれに伴う情動、動機づけを連合する場所と考えられる。(2)この連合が成立している場合には、外的な刺激が認知されると、腹内側部でその連合に基づいたソマティック反応を身体、内臓系に生じさせる信号が出るが、その信号は「良い」あるいは「悪い」という価値に従いマークされている。(3)このマーク機能は意思決定を効率的にするように作用する、と考えた。腹内側部に損傷をもつ患者では、外部状況が認知されても通常なら生起するソマティック・マーカーが起こらないため、マーカーがあれば可能であるような迅速、適切な行動が出来なくなると考えるわけである。 アイオワ・ギャンブル課題中に被験者の体に発汗(自律神経の働きからくる)を調べることができる装置をつけておくと、健常者がA, Bのカードを選択しようとする際には、20枚目くらいで発汗量に増加がみられる。20枚目というと、まだA,Bのカードが不利であることは意識化されていない段階であるが、生理的な反応が出ることにより、被験者の意思決定は有利なものになるわけであるが、前頭前野腹内側部損傷患者ではそうした反応が出ないのである。 ダマジオの説は、意思決定における感情の果たす役割や、無意識的判断というものについて神経的基礎を与えるもので、多いに注目を集めているが、実証されているとは言い難く、批判も少なくない。たとえば、ロールズなどは、腹内側部損傷患者が適切な意思決定ができないのは、罰刺激のような負の経験に基づいて反応変容ができない、という前頭眼窩野に見られる消去や逆転学習の障害の反映と解釈すべきとしている<ref name="ref4">'''Rolls ET'''<br>The brain and emotion. Oxford Univ Press 1999</ref>。 さらに最近の研究によると、前頭前野腹内側部損傷患者は、確実な情報がないような条件での意思決定場面だけでなく、単純な「好きー嫌い」の判断にも一貫性のないことが示されている。検査対象者に食べ物、有名人、色見本紙につき、6つの中から2つの間でどちらが好きかを何度も尋ねると、この脳部位の損傷患者では、反応の一貫性に乏しく、聞くたびに好みが変化する、というような傾向が見られている<ref name="ref5"><pubmed>17259643</pubmed></ref>。これは、ソマティック・マーカーがないと適切な反応が出来ない、というような事態でなくても、損傷患者の判断に障害が見られることを示し、逆に損傷患者の不確定事態における判断の障害も、こうした好きー嫌いの判断の非一貫性の反映に過ぎない可能性も指摘されている。 ソマティック・マーカー仮説の当否は別としても、情動がからむ意思決定、選択肢間の価値の比較が求められる意思決定に関係して、前頭連合野腹内側部が活性化するとした研究は多い。コーラ(コカ、あるいはペプシ)の好みに関し銘柄を隠して判断させると、この脳部位が活性化したのに対し、銘柄を知らせると、好みの判断に関係して海馬や前頭連合野外側部などが活性化した、という報告がある。また道徳に基づいた社会的行動の適切性の判断にもこの脳部位が活性化するが、特にネガティブな情動を引き起こすような状況での判断で、ポジティブな情動を引き起こすような状況での判断より前頭連合野腹内側部の活性化が大きいことも示されている。  


== 前頭眼窩野と感情障害  ==
== 前頭眼窩野と感情障害  ==


前頭眼窩野の損傷患者ではうつ病になるリスクが高いことが知られているが、うつ病はこの脳部位がもつ情動・動機づけ制御機能が適切に働かないことと関係していると考えられる。うつ病患者ではこの脳部位の体積が減少していることが知られている。一方、安静時の脳代謝や脳血流量を調べると、この脳部位の活動がうつ病患者では増加していること、適切な治療がされるとこの増加がなくなることが示されている。この活動の増加は、うつ病患者がくよくよ考えることに関係しているとも考えられる。  情動・動機づけ制御機能に障害が考えられるものに「社会病質」Psychopathyもある。これは他人の痛みを感じることがなく、他者に暴力的な反応をしても罪の意識を感じず、同じ犯罪を繰り返し行う行動傾向を指す。社会病質者では、前頭眼窩野の活動性が(うつ病)と違って低いが、この脳部位の損傷で社会病質者になるという報告はない。社会病質者の多くには扁桃核に障害があり、その結果として前頭眼窩野の働きに障害が出ると考えらえている。  前頭眼窩野の情動・動機づけ機能は神経伝達物質のドーパミン,セロトニン、ノルエピネフリン,GABA(ガンマアミノ酪酸)などによって支えられている。その中でセロトニンはこの脳部位の情動機能を支えるのに最も重要な神経伝達物質である。PET研究によると、うつ病は前頭眼窩野のセロトニンの働きの異常が関係していると考えられる。うつ病治療に用いられる薬物の多くは前頭眼窩野のセロトニンの働きを高めるように作用する。 トリプトファン(たんぱく質に含まれるアミノ酸)はセロトニンの前駆物質であるが、このトリプトファン成分だけ除去した食事を実験的に続けると、回復していたうつ症状がぶり返す場合があることが知られている。健常人にトリプトファンを除去した食事をしてもらうと、前頭眼窩野の損傷患者で見られるように、攻撃的傾向が増したり、逆転学習の障害が見られたりする。サルにおいてセロトニンを神経伝達物質とするニューロンは、長期の報酬予測の制御に関係していることも知られている。人では、実験的にトリプトファンを欠乏させると短期的思考が多くなり、過剰にすると長期予測の割合が増すという報告もある。うつ病患者では、特に前頭眼窩野の脳内セロトニン低下により長期予測機能が低下しており、結果として目先のことしか考えられないという短期的思考になり、将来に希望が持てなくなるという仮説も提示されている<ref name="ref4">'''Rolls ET'''<br>The brain and emotion. Oxford Univ Press 1999</ref>。
前頭眼窩野の損傷患者ではうつ病になるリスクが高いことが知られているが、うつ病はこの脳部位がもつ情動・動機づけ制御機能が適切に働かないことと関係していると考えられる。うつ病患者ではこの脳部位の体積が減少していることが知られている。一方、安静時の脳代謝や脳血流量を調べると、この脳部位の活動がうつ病患者では増加していること、適切な治療がされるとこの増加がなくなることが示されている。この活動の増加は、うつ病患者がくよくよ考えることに関係しているとも考えられる。  情動・動機づけ制御機能に障害が考えられるものに「社会病質」Psychopathyもある。これは他人の痛みを感じることがなく、他者に暴力的な反応をしても罪の意識を感じず、同じ犯罪を繰り返し行う行動傾向を指す。社会病質者では、前頭眼窩野の活動性が(うつ病)と違って低いが、この脳部位の損傷で社会病質者になるという報告はない。社会病質者の多くには扁桃核に障害があり、その結果として前頭眼窩野の働きに障害が出ると考えらえている。  前頭眼窩野の情動・動機づけ機能は神経伝達物質のドーパミン,セロトニン、ノルエピネフリン,GABA(ガンマアミノ酪酸)などによって支えられている。その中でセロトニンはこの脳部位の情動機能を支えるのに最も重要な神経伝達物質である。PET研究によると、うつ病は前頭眼窩野のセロトニンの働きの異常が関係していると考えられる。うつ病治療に用いられる薬物の多くは前頭眼窩野のセロトニンの働きを高めるように作用する。 トリプトファン(たんぱく質に含まれるアミノ酸)はセロトニンの前駆物質であるが、このトリプトファン成分だけ除去した食事を実験的に続けると、回復していたうつ症状がぶり返す場合があることが知られている。健常人にトリプトファンを除去した食事をしてもらうと、前頭眼窩野の損傷患者で見られるように、攻撃的傾向が増したり、逆転学習の障害が見られたりする。サルにおいてセロトニンを神経伝達物質とするニューロンは、長期の報酬予測の制御に関係していることも知られている。人では、実験的にトリプトファンを欠乏させると短期的思考が多くなり、過剰にすると長期予測の割合が増すという報告もある。うつ病患者では、特に前頭眼窩野の脳内セロトニン低下により長期予測機能が低下しており、結果として目先のことしか考えられないという短期的思考になり、将来に希望が持てなくなるという仮説も提示されている。


<references /><br>  
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その他 前頭眼窩野に関する参考書


文献 1)Lhermitte F. 'Utilization behaviour' and its relation to lesions of the frontal lobes. Brain 1983, 106:237-255.
1) Cerebral Cortex Special Issue The Mysterious Orbitofrontal Cortex (2000) 10 (3)  
 
2)Toversky A. Kahneman D. Judgment under uncertainty: Heuristics and biases. Science 1974, 185: 1124-1131.
 
3)Damasio AR Decartes’ Error Grossset/Putnam New York 1994 (日本語訳 「生存する脳」田中三彦 講談社,2000)
 
4)Rolls ET The brain and emotion. Oxford Univ Press 1999.
 
5)Fellows LK, Farah MJ. The Role of Ventromedial Prefrontal Cortex in Decision Making: Judgment under Uncertainty or Judgment Per Se? Cerebral Cortex 2007 17: 2669-2674.
 
その他 前頭眼窩野に関する参考書 1) Cerebral Cortex Special Issue The Mysterious Orbitofrontal Cortex (2000) 10 (3)  


2) Schoenbaum G et al. (Eds) Critical Contributions of the Orbitofrontal Cortex to Behavior (Annals of the New York Academy of Sciences) Wiley-Blackwell 2011  
2) Schoenbaum G et al. (Eds) Critical Contributions of the Orbitofrontal Cortex to Behavior (Annals of the New York Academy of Sciences) Wiley-Blackwell 2011  
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