「生物学的精神医学」の版間の差分

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 さて、科学的研究の出発点は、現象の精確な記述にある。1980年にアメリカ精神医学会のタスクフォース(委員長:Robert Spitzer)の編集による、「[[精神障害の診断・統計マニュアル 第3版]]」([[Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, third edition]], [[DSM-Ⅲ]])が公表された。これは、記述的・非理論的立場を徹底させた[[wikipedia:ja:症候学|症候学]]な診断基準であり、精神病理学的な深みに乏しいが、精神疾患分類の国際的枠組みを提供することになった。さらに、1994年の[[DSM-Ⅳ]]では、「[[器質性精神障害]]」という名称は使用されなくなったが、その理由として、「本書の中の他の精神障害が生物学的基礎をもたないというような誤った印象を与えるから」と説明されている。したがって、「器質性精神障害」以外の精神障害においても、生物学的基礎が見いだされる可能性があるという立場である。
 さて、科学的研究の出発点は、現象の精確な記述にある。1980年にアメリカ精神医学会のタスクフォース(委員長:Robert Spitzer)の編集による、「[[精神障害の診断・統計マニュアル 第3版]]」([[Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, third edition]], [[DSM-Ⅲ]])が公表された。これは、記述的・非理論的立場を徹底させた[[wikipedia:ja:症候学|症候学]]な診断基準であり、精神病理学的な深みに乏しいが、精神疾患分類の国際的枠組みを提供することになった。さらに、1994年の[[DSM-Ⅳ]]では、「[[器質性精神障害]]」という名称は使用されなくなったが、その理由として、「本書の中の他の精神障害が生物学的基礎をもたないというような誤った印象を与えるから」と説明されている。したがって、「器質性精神障害」以外の精神障害においても、生物学的基礎が見いだされる可能性があるという立場である。


 20世紀末における生物学的精神医学の立場は、[[wikipedia:Eric R Kandel|Eric R Kandel]](1998)の論文に明確に述べられている。Kandelは、(1) すべての精神活動は、脳の活動に由来する。精神疾病を特徴づける行動障害は、その原因が環境起源であっても、脳機能の障害である。(2) 遺伝子、遺伝子発現、そのタンパク質産物は、脳のニューロン間の相互結合のパタンの重要な決定要因(determinants)である。環境的、発達的要因や学習も、遺伝子発現に変化をもたらすことを通じて、ニューロン結合のパタンの変化を生じ、行動変化として現れる。(3) 精神療法が、長期の行動変化をもたらす場合には、それは、おそらく、学習を通じて、遺伝子発現が変化し、[[シナプス]]結合の強さが変化したからであろう。脳画像技術の進歩により、精神療法の結果を定量的に評価できるようになるであろう、と述べた。実際に、その後の機能画像を用いた研究によれば、[[認知行動療法]]により、[[強迫性障害]]では、亢進していた右[[尾状核]]の代謝が減少し、恐怖では、辺縁系と傍辺縁系の活性が減少し、これらの変化は治療効果と関連すること、そして、同様の変化が[[選択的セロトニン再取り込み阻害薬]]([[SSRI]])でも認められ、精神療法と薬物療法に共通する生物学的機序が示唆された(Linden DEJ, 2006)。                   
 20世紀末における生物学的精神医学の立場は、[[wikipedia:Eric R Kandel|Eric R Kandel]](1998)の論文<ref><pubmed>9545989</pubmed></ref>に明確に述べられている。Kandelは、(1) すべての精神活動は、脳の活動に由来する。精神疾病を特徴づける行動障害は、その原因が環境起源であっても、脳機能の障害である。(2) 遺伝子、遺伝子発現、そのタンパク質産物は、脳のニューロン間の相互結合のパタンの重要な決定要因(determinants)である。環境的、発達的要因や学習も、遺伝子発現に変化をもたらすことを通じて、ニューロン結合のパタンの変化を生じ、行動変化として現れる。(3) 精神療法が、長期の行動変化をもたらす場合には、それは、おそらく、学習を通じて、遺伝子発現が変化し、[[シナプス]]結合の強さが変化したからであろう。脳画像技術の進歩により、精神療法の結果を定量的に評価できるようになるであろう、と述べた。実際に、その後の機能画像を用いた研究によれば、[[認知行動療法]]により、[[強迫性障害]]では、亢進していた右[[尾状核]]の代謝が減少し、恐怖では、辺縁系と傍辺縁系の活性が減少し、これらの変化は治療効果と関連すること、そして、同様の変化が[[選択的セロトニン再取り込み阻害薬]]([[SSRI]])でも認められ、精神療法と薬物療法に共通する生物学的機序が示唆された<ref><pubmed>16520823</pubmed></ref>。                   


 動物を用いた前臨床研究も生物学的精神医学と密接な関連を有する。[[ナルコレプシー]]については、遺伝性[[wikipedia:ja:イヌ|イヌ]]ナルコレプシーの原因が、[[オレキシン]](orexin)[[2受容体]]の変異であることが判明したことなどから、研究が進展し、ナルコレプシー患者の約90%では、脊髄液のオレキシンA濃度が測定限界以下に低下すること、患者の死後脳では、視床外側野のオレキシン神経細胞数が10%以下に著減していることが見いだされ、ナルコレプシーの病因として、遺伝子の塩基配列に異常はないようであるが、[[覚醒]]性神経であるオレキシン神経系に障害のあることが明らかにされた。
 動物を用いた前臨床研究も生物学的精神医学と密接な関連を有する。[[ナルコレプシー]]については、遺伝性[[wikipedia:ja:イヌ|イヌ]]ナルコレプシーの原因が、[[オレキシン]](orexin)[[2受容体]]の変異であることが判明したことなどから、研究が進展し、ナルコレプシー患者の約90%では、脊髄液のオレキシンA濃度が測定限界以下に低下すること、患者の死後脳では、視床外側野のオレキシン神経細胞数が10%以下に著減していることが見いだされ、ナルコレプシーの病因として、遺伝子の塩基配列に異常はないようであるが、[[覚醒]]性神経であるオレキシン神経系に障害のあることが明らかにされた。


 [[wikipedia:ja:げっ歯類|げっ歯類]]を用いて、幼若期の一定時間の[[母子分離ストレス]]等により、成長後も視床下部-下垂体-副腎皮質(HPA)系の機能亢進が持続し、海馬の神経細胞数が減少することが示された。HPA系の亢進による過剰の[[コルチコステロイド]]は、[[セロトニン受容体]]の発現を減少させ、[[海馬]]の神経細胞の減少を引き起こし得る(glucocorticoid cascade hypothesis)。幼若期に母親との接触が濃くない[[wikipedia:ja:ラット|ラット]]では、グルココルチコイド受容体遺伝子の[[プロモーター]]領域の[[メチル化]]が亢進し、この[[エピジェネティック]]な機構により、初期のストレスの影響が成長後も持続すると考えられている(Champagne FA & Curley JP, 2005)。また、ストレスにより、辺縁系の[[脳由来神経栄養因子]](brain-derived neurotrophic factor, BDNF)の発現が減少し、抗うつ薬は、BDNFを増加させ、海馬の神経細胞新生を促進することが示されている。
 [[wikipedia:ja:げっ歯類|げっ歯類]]を用いて、幼若期の一定時間の[[母子分離ストレス]]等により、成長後も視床下部-下垂体-副腎皮質(HPA)系の機能亢進が持続し、海馬の神経細胞数が減少することが示された。HPA系の亢進による過剰の[[コルチコステロイド]]は、[[セロトニン受容体]]の発現を減少させ、[[海馬]]の神経細胞の減少を引き起こし得る(glucocorticoid cascade hypothesis)。幼若期に母親との接触が濃くない[[wikipedia:ja:ラット|ラット]]では、グルココルチコイド受容体遺伝子の[[プロモーター]]領域の[[メチル化]]が亢進し、この[[エピジェネティック]]な機構により、初期のストレスの影響が成長後も持続すると考えられている<ref><pubmed>16260130</pubmed></ref>。また、ストレスにより、辺縁系の[[脳由来神経栄養因子]](brain-derived neurotrophic factor, BDNF)の発現が減少し、抗うつ薬は、BDNFを増加させ、海馬の神経細胞新生を促進することが示されている。


 [[オキシトシン]]は、9つのアミノ酸から構成される[[下垂体]][[後葉]][[ホルモン]]であるが、オキシトシン欠損マウスでは、社会的行動の障害が示され、オキシトシンは、社会的きずなの形成に関与していることが示唆されている。自閉症児の血漿オキシトシンは、対照の約半分と有意に低下していることから、経鼻的オキシトシン療法の臨床試験が行われている。
 [[オキシトシン]]は、9つのアミノ酸から構成される[[下垂体]][[後葉]][[ホルモン]]であるが、オキシトシン欠損マウスでは、社会的行動の障害が示され、オキシトシンは、社会的きずなの形成に関与していることが示唆されている。自閉症児の血漿オキシトシンは、対照の約半分と有意に低下していることから、経鼻的オキシトシン療法の臨床試験が行われている。