16,040
回編集
細編集の要約なし |
細編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
英語名:emotion 独:Gefühl 仏:émotion | 英語名:emotion 独:Gefühl 仏:émotion | ||
(抄録をお願いいたします) | |||
情動(emotion)は、生体に入力された[[感覚]] | == 情動とは== | ||
情動(emotion)は、生体に入力された[[感覚]]刺激への評価に基づいて生ずる | |||
#生理反応([[自律神経系]]、[[wikipedia:ja:免疫系|免疫系]]、[[wikipedia:ja:内分泌系|内分泌系]]の反応) | |||
#行動反応(接近、回避、攻撃、表情、姿勢など) | |||
#主観的情動体験 | |||
の3要素からなる。この情動は短期的に生じる原初的な感情で、比較的強い反応と定義されており、中長期的にゆるやかに持続する強度の弱い気分(mood)とは区別される。また情動と気分の両者を総称して感情と定義することもある。しかしながら、情動と感情との区別にかかわる厳密な定義はなく、研究領域や研究者間によってその扱いが異なる点に注意が必要である。 | |||
情動の種類は、[[wikipedia:ja:齧歯類|齧歯類]]においてもある程度[[ヒト]]と共通した基盤を有する怒り・恐怖・不安などの基本情動(basic emotion)から、高次の社会的感情(social emotion:嫉妬・困惑・罪悪感・恥など)までの多岐に渡る。 | 情動の種類は、[[wikipedia:ja:齧歯類|齧歯類]]においてもある程度[[ヒト]]と共通した基盤を有する怒り・恐怖・不安などの基本情動(basic emotion)から、高次の社会的感情(social emotion:嫉妬・困惑・罪悪感・恥など)までの多岐に渡る。 | ||
== | ==心理学的理論 == | ||
=== | ===末梢起源説 === | ||
19世紀末、心理学者の[[wikipedia:ja:ウィリアム・ジェームズ|ウィリアム・ジェームズ]](William James)(1894)<ref><pubmed> 8022957 </pubmed></ref>により提唱された情動理論は、[[wikipedia:Carl Lange|カール・ランゲ]](Carl Lange)(1885)の主張を包含したジェームズ-ランゲ説として包括され、今日は「[[情動の末梢起源説]](peripheral theory of emotion)」として広く知られる。ジェームズは[[wikipedia:ja:骨格筋|骨格筋]]と[[wikipedia:ja:内臓|内臓]]の反応に、ランゲは血管循環に注目した点においてその内容は異なるが、彼らに共通するのは、刺激によって引き起こされた身体反応が脳に伝達されて主観的な情動経験(emotional experience)が成立すると主張する点にある。いずれも「悲しいから泣く」のではなく「泣くから悲しくなる」と考えるのである。 | 19世紀末、心理学者の[[wikipedia:ja:ウィリアム・ジェームズ|ウィリアム・ジェームズ]](William James)(1894)<ref name=ref1><pubmed> 8022957 </pubmed></ref>により提唱された情動理論は、[[wikipedia:Carl Lange|カール・ランゲ]](Carl Lange)(1885)の主張を包含したジェームズ-ランゲ説として包括され、今日は「[[情動の末梢起源説]](peripheral theory of emotion)」として広く知られる。ジェームズは[[wikipedia:ja:骨格筋|骨格筋]]と[[wikipedia:ja:内臓|内臓]]の反応に、ランゲは血管循環に注目した点においてその内容は異なるが、彼らに共通するのは、刺激によって引き起こされた身体反応が脳に伝達されて主観的な情動経験(emotional experience)が成立すると主張する点にある。いずれも「悲しいから泣く」のではなく「泣くから悲しくなる」と考えるのである。 | ||
情動の末梢起源説は、情動の中枢起源説 | 情動の末梢起源説は、情動の中枢起源説<ref name=ref1 /><ref name=ref2 />により以下に述べる問題点が指摘され、さらには情動の二要因説<ref name=ref1 /><ref name=ref3 />の登場によっておおよそ淘汰されたかのように見えた。しかしながら近年、[[顔面フィードバック説]](facial feedback theory)や[[ソマティック・マーカー(somatic marker)仮説]]等に見られるように、その理説が一部評価されて点で特徴的である。 | ||
まず、顔面フィードバック説は、顔面筋肉の変化が主観的な情動体験に先立つこと、すなわち「怒り」ならば「怒り」の情動と対応する顔面筋肉の変化が、[[大脳辺縁系]]や[[脳幹]]・[[視床下部]]などの[[中枢神経系]]にフィードバックされ、その結果「怒り」の主観的体験が生じるとする。もう一方のソマティック・マーカー仮説は、主に自律神経系(autonomic nervous system)からフィードバックされるナイーブな身体感覚が[[前頭前野]] | まず、顔面フィードバック説は、顔面筋肉の変化が主観的な情動体験に先立つこと、すなわち「怒り」ならば「怒り」の情動と対応する顔面筋肉の変化が、[[大脳辺縁系]]や[[脳幹]]・[[視床下部]]などの[[中枢神経系]]にフィードバックされ、その結果「怒り」の主観的体験が生じるとする。もう一方のソマティック・マーカー仮説は、主に自律神経系(autonomic nervous system)からフィードバックされるナイーブな身体感覚が[[前頭前野]]腹内側部<ref name=ref2 /><ref name=ref3 />において表象され、これと外部環境に関する認知の統合が意思決定を最適化すると主張する。両仮説ともにおおよそ共通して上向性の[[自己受容情報]]が情動に及ぼす影響を重視することから、情動の末梢起源説に類するものと考えられている。 | ||
=== | ===中枢起源説 === | ||
ジェームズ-ランゲ説に対する代表的な批判として「[[情動の中枢起源説]](central theory of emotion)」が知られる。この仮説は生理学者の[[wikipedia:Walter Bradford Cannon|ウォルター・ブラッドフォード・キャノン]](Walter Bradford Cannon)によってはじめに提唱され、続けてその仮説を実証した[[wikipedia:Philip Bird|フィリップ・バード]] (Philip Bird)の二名の名前をとって[[キャノン・バード説]]と呼ばれる(Cannon, 1927)。 | ジェームズ-ランゲ説に対する代表的な批判として「[[情動の中枢起源説]](central theory of emotion)」が知られる。この仮説は生理学者の[[wikipedia:Walter Bradford Cannon|ウォルター・ブラッドフォード・キャノン]](Walter Bradford Cannon)によってはじめに提唱され、続けてその仮説を実証した[[wikipedia:Philip Bird|フィリップ・バード]] (Philip Bird)の二名の名前をとって[[キャノン・バード説]]と呼ばれる(Cannon, 1927)。 | ||
23行目: | 31行目: | ||
彼らは、ジェームズ-ランゲ説の問題点として、1)どのような刺激が情動反応を引き起こす刺激内容の記述が不明確であること、2)身体の生理的反応が同様であっても異なる情動が生じること、3)末梢反応の誘発を阻害してもなお情動が誘発される点などを指摘し、情動の主観的体験は、脳にもたらされる身体情報から生じるのではなく、脳における感情的刺激の評価の結果生ずるものと主張した。 | 彼らは、ジェームズ-ランゲ説の問題点として、1)どのような刺激が情動反応を引き起こす刺激内容の記述が不明確であること、2)身体の生理的反応が同様であっても異なる情動が生じること、3)末梢反応の誘発を阻害してもなお情動が誘発される点などを指摘し、情動の主観的体験は、脳にもたらされる身体情報から生じるのではなく、脳における感情的刺激の評価の結果生ずるものと主張した。 | ||
=== | ===二要因説 === | ||
末梢起源説と中枢起源説は、情動の由来の説明について互い対立する一方で、外部刺激による末梢反応が、定式化した情動体験をもたらす考える点で共通する。言い換えるならば、両者の仮説は、同一の身体の生理的変化から異質の情動体験が生じうることを説明できないという弱点を有するのである。こうした批判を基に心理学者の[[wikipedia:Stanley Schachter|スタンレー・シャクター]](Stanley Schachter)と[[wikipedia:Jerome Singer|ジェローム・シンガー]](Jerome Singer)は、[[情動二要因説]](two factor theory of emotion)を提唱した。 | 末梢起源説と中枢起源説は、情動の由来の説明について互い対立する一方で、外部刺激による末梢反応が、定式化した情動体験をもたらす考える点で共通する。言い換えるならば、両者の仮説は、同一の身体の生理的変化から異質の情動体験が生じうることを説明できないという弱点を有するのである。こうした批判を基に心理学者の[[wikipedia:Stanley Schachter|スタンレー・シャクター]](Stanley Schachter)と[[wikipedia:Jerome Singer|ジェローム・シンガー]](Jerome Singer)は、[[情動二要因説]](two factor theory of emotion)を提唱した。 | ||
29行目: | 37行目: | ||
情動二要因説において、情動は、[[知覚]]された非特異的な[[覚醒]](arousal)を、自身を取り巻く状況についての情報や既存の知識に基づいて解釈するという二つの要因によって生じるとされる。その具体例として、心理学者の[[wikipedia:Jerome Singer|ドナル・ドダットン]](Donald Dutton)と[[wikipedia:Arthur Aron|アーサー・アロン]](Arthur Aron)により示された「[[つり橋効果]]」が有名である。これは高所にあるつり橋を渡る際の生理的反応(不安に伴う[[心拍数]]の増加等)を、ともにつり橋を渡る異性への恋愛感情として誤って解釈・理解(帰属)しがちであるというものである。生理的な覚醒状態が同様であっても、その原因に対する帰属の結果に応じて、異なる情動が生じうる。 | 情動二要因説において、情動は、[[知覚]]された非特異的な[[覚醒]](arousal)を、自身を取り巻く状況についての情報や既存の知識に基づいて解釈するという二つの要因によって生じるとされる。その具体例として、心理学者の[[wikipedia:Jerome Singer|ドナル・ドダットン]](Donald Dutton)と[[wikipedia:Arthur Aron|アーサー・アロン]](Arthur Aron)により示された「[[つり橋効果]]」が有名である。これは高所にあるつり橋を渡る際の生理的反応(不安に伴う[[心拍数]]の増加等)を、ともにつり橋を渡る異性への恋愛感情として誤って解釈・理解(帰属)しがちであるというものである。生理的な覚醒状態が同様であっても、その原因に対する帰属の結果に応じて、異なる情動が生じうる。 | ||
== | ==神経科学的基盤 == | ||
=== | === パペッツの情動回路 === | ||
感覚器官より入力された外界の情報は、脳において分析・統合され、情動体験へと結びつく。神経解剖学者の[[wikipedia:James Papez|ジェームス・パペッツ]](James Papez)により提唱された「[[ | 感覚器官より入力された外界の情報は、脳において分析・統合され、情動体験へと結びつく。神経解剖学者の[[wikipedia:James Papez|ジェームス・パペッツ]](James Papez)により提唱された「[[パペッツの情動回路]]」は、情動に関わる仮説として古くから知られる<ref name=ref2>'''Papez, J. W.'''<br>A proposed mechanism of emotion.<br>''Archives of Neurology and Psychiatry'', 38, 725-743.1937</ref>。ここでは、[[視床]]をはじめとして、視床下部(hypothalamus)、[[海馬]](hippocampus)、[[帯状皮質]](cingulate cortex)により形成される神経回路が情動を生ずると考える。「パペッツの情動回路」が注目された後、齧歯類、[[wikipedia:ja:霊長類|霊長類]]に関する研究の積み重ねとともに、近年は、[[機能的核磁気共鳴装置]](fMRI: Functional magnetic resonance imaging)や[[陽電子断層撮像法]](PET: Positron emission tomography)等のヒトを対象とした神経イメージング法(Neuro-imaging)による成果を基に、[[扁桃体]](amygdala)や[[島]](insula)、[[腹内側前頭前野]](ventro medial prefrontal cortex: VMPFC)などの脳領域と情動の関わりが注目されている。 | ||
=== 情動と扁桃体 === | === 情動と扁桃体 === | ||
知覚された刺激が生体にとって安全で報酬的あるか、あるいは脅威をもたらすものか否かを速やかに評価することは適応上欠かせない<ref>'''LeDoux, J. E.'''<br>The emotional brain: the mysterious underpinnings of emotional life.<br>New York: Simon and Schuster.1996</ref>。こうした感覚刺激に対する基本的な価値判断を行うのが、[[側頭葉]]内側部の上内側縁の左右に位置する扁桃体である。扁桃体は、異なる機能をもった複数の亜核(主には中心核、内側核、皮質核、基底核内側核、基底核外側)から構成され、情動的刺激を検出・評価するとともに、[[顔面神経]]と[[三叉神経]]を介した顔の表情筋の出力にも関わる。 | 知覚された刺激が生体にとって安全で報酬的あるか、あるいは脅威をもたらすものか否かを速やかに評価することは適応上欠かせない<ref name=ref3>'''LeDoux, J. E.'''<br>The emotional brain: the mysterious underpinnings of emotional life.<br>New York: Simon and Schuster.1996</ref>。こうした感覚刺激に対する基本的な価値判断を行うのが、[[側頭葉]]内側部の上内側縁の左右に位置する扁桃体である。扁桃体は、異なる機能をもった複数の亜核(主には中心核、内側核、皮質核、基底核内側核、基底核外側)から構成され、情動的刺激を検出・評価するとともに、[[顔面神経]]と[[三叉神経]]を介した顔の表情筋の出力にも関わる。 | ||
==== 情動刺激の検出・評価 ==== | ==== 情動刺激の検出・評価 ==== | ||
扁桃体と情動機能に深い関わりがあることを示した例として、[[wikipedia:Heinrich Klüver|ハインリッヒ・クリューバー]](Heinrich Klüver)と[[wikipedia:Paul Bucy|ポール・ビューシー]](Paul Bucy)により見出された[[クリューバー・ビューシー症候群]]( | 扁桃体と情動機能に深い関わりがあることを示した例として、[[wikipedia:Heinrich Klüver|ハインリッヒ・クリューバー]](Heinrich Klüver)と[[wikipedia:Paul Bucy|ポール・ビューシー]](Paul Bucy)により見出された[[クリューバー・ビューシー症候群]](Klüver-Bucy syndrome)が知られる。彼らは扁桃体を含む両側側頭葉の切除されたサルが、恐れをはじめとする基本的情動反応を欠き、本来[[サル]]にとっての脅威刺激である[[wikipedia:ja:ヘビ|ヘビ]]や[[wikipedia:ja:クモ|クモ]]への恐怖反応を示さず、むしろそれらを手づかみし口にもってゆく口唇傾向や対象を選ばない[[食欲]]、[[性行動]]の異常を観察した。 | ||
その後の動物実験、損傷脳研究)<ref><pubmed> 7990957 </pubmed></ref>、ヒトを対象とした神経イメージング研究)<ref><pubmed> 9549487 </pubmed></ref><ref><pubmed> 14741673 </pubmed></ref>等においても、扁桃体がクモ、ヘビ、恐怖表情などの個体への脅威を示すシグナルの検出にかかわることがほぼ一貫して見出されている。この他にも扁桃体は、関与の程度は少ないものの他者の幸福情動を検出し<ref><pubmed> 12791983 </pubmed></ref>、外向性などの個人要因をも修飾しうるように、扁桃体は、基本情動の検出・認識、出力の基礎を成すものと考えられている。 | その後の動物実験、損傷脳研究)<ref><pubmed> 7990957 </pubmed></ref>、ヒトを対象とした神経イメージング研究)<ref><pubmed> 9549487 </pubmed></ref><ref><pubmed> 14741673 </pubmed></ref>等においても、扁桃体がクモ、ヘビ、恐怖表情などの個体への脅威を示すシグナルの検出にかかわることがほぼ一貫して見出されている。この他にも扁桃体は、関与の程度は少ないものの他者の幸福情動を検出し<ref><pubmed> 12791983 </pubmed></ref>、外向性などの個人要因をも修飾しうるように、扁桃体は、基本情動の検出・認識、出力の基礎を成すものと考えられている。 | ||
68行目: | 76行目: | ||
*[[感情]] | *[[感情]] | ||
*[[ | *[[パペッツの情動回路]] | ||
*[[機能的核磁気共鳴装置]] | *[[機能的核磁気共鳴装置]] | ||
*[[扁桃体]] | *[[扁桃体]] |