「記憶痕跡」の版間の差分

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 米国の心理学者Karl Lashleyは[[wikipedia:ja:ラット|ラット]]を使った実験で、記憶痕跡の存在について異議を唱えた<ref name=ref2>'''Lashley K.'''<br> In search of the engram. <br>Society of Experimental Biology Symposium 4:454–82. (1950) </ref>。Lashleyはまずラットに[[迷路]]を学習させた後、ラットの[[大脳皮質]]の様々な領域を異なる大きさで取り除いた。するとラットは大脳皮質を取り除かれた分だけ、迷路から抜け出すことが困難になり、大脳皮質の取り除いた領域ではなく、取り除いた割合と迷路の課題を達成する困難さが相関することを示した(図2)。これらの結果を基にLashleyは、「記憶は特定の脳領域に局在して蓄えられるのではなく、大脳皮質全体に分散して蓄えられる。大脳皮質の領域は、お互いに代用可能である。」と述べ、記憶痕跡が本当に存在するのか?という疑問を生じさせた。しかし、Lashleyの行った研究は、その実験系の複雑さゆえに記憶痕跡を発見できなかったと考えられ、Lashleyの実験以降、多くの科学者が記憶痕跡の存在を求め、精力的に研究を行ってきた。
 米国の心理学者Karl Lashleyは[[wikipedia:ja:ラット|ラット]]を使った実験で、記憶痕跡の存在について異議を唱えた<ref name=ref2>'''Lashley K.'''<br> In search of the engram. <br>Society of Experimental Biology Symposium 4:454–82. (1950) </ref>。Lashleyはまずラットに[[迷路]]を学習させた後、ラットの[[大脳皮質]]の様々な領域を異なる大きさで取り除いた。するとラットは大脳皮質を取り除かれた分だけ、迷路から抜け出すことが困難になり、大脳皮質の取り除いた領域ではなく、取り除いた割合と迷路の課題を達成する困難さが相関することを示した(図2)。これらの結果を基にLashleyは、「記憶は特定の脳領域に局在して蓄えられるのではなく、大脳皮質全体に分散して蓄えられる。大脳皮質の領域は、お互いに代用可能である。」と述べ、記憶痕跡が本当に存在するのか?という疑問を生じさせた。しかし、Lashleyの行った研究は、その実験系の複雑さゆえに記憶痕跡を発見できなかったと考えられ、Lashleyの実験以降、多くの科学者が記憶痕跡の存在を求め、精力的に研究を行ってきた。
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 1999年、John Guzowskiのグループは、[[CatFISH]] (cellular compartment analysis of temporal activity by fluorescent in situ hybridization)法を用い、神経活動時に発現が誘導される[[Arc]] ([[activity-regulated cytoskeleton-associated protein]]) [[wikipedia:ja:mRNA|mRNA]]の時間的な細胞内局在変化を指標として記憶痕跡の存在を探索した<ref name=ref3><pubmed>10570490</pubmed></ref>。彼らはまずラットを新規環境に暴露し、その後、再度同じ環境(Context A)もしくは異なる環境(Context B)に暴露した後に、海馬におけるArcの発現およびその細胞内局在を調べた。その結果、新規環境に暴露された時にArcを発現したニューロンは、異なった環境(Context B)ではArcを発現せず、同じ環境(Context A)に再暴露されたときのみ再度Arcを発現することを見出した。すなわち、一度経験した事柄に再度暴露すると、初期の経験依存的に活性化されたニューロンが再活性化することが示された。


 1999年、John Guzowskiのグループは、[[CatFISH]] (cellular compartment analysis of temporal activity by fluorescent in situ hybridization)法を用い、神経活動時に発現が誘導される[[Arc]] ([[activity-regulated cytoskeleton-associated protein]]) [[wikipedia:ja:mRNA|mRNA]]の時間的な細胞内局在変化を指標として記憶痕跡の存在を探索した<ref name=ref3><pubmed>10570490</pubmed></ref>。彼らはまずラットを新規環境に暴露し、その後、再度同じ環境(Context A)もしくは異なる環境(Context B)に暴露した後に、海馬におけるArcの発現およびその細胞内局在を調べた。その結果、新規環境に暴露された時にArcを発現したニューロンは、異なった環境(Context B)ではArcを発現せず、同じ環境(Context A)に再暴露されたときのみ再度Arcを発現することを見出した。すなわち、一度経験した事柄に再度暴露すると、初期の経験依存的に活性化されたニューロンが再活性化することが示された。
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 また2007年、Mark Mayfordらのグループは学習に応答して活性化されたニューロンを継続的に標識することが可能な[[トランスジェニックマウス]](TetTagマウス)を作製した(図3A)<ref name=ref4><pubmed>17761885</pubmed></ref>。このマウスを用いて、恐怖経験時に活性化された[[扁桃体]]ニューロンが恐怖記憶想起時にも再活性化されること、さらに再活性化されたニューロンの数は想起された記憶の強さと相関していることを示した。以上のCatFISHとTetTagマウスの2つの実験は、記憶の形成時に活性化したニューロン群(セルアセンブリ)が、記憶想起時において再活性化することを示しており、記憶獲得時に活性化したニューロン群(あるいはその一部)が記憶痕跡として存在することを間接的に示唆している。
 また2007年、Mark Mayfordらのグループは学習に応答して活性化されたニューロンを継続的に標識することが可能な[[トランスジェニックマウス]](TetTagマウス)を作製した(図3A)<ref name=ref4><pubmed>17761885</pubmed></ref>。このマウスを用いて、恐怖経験時に活性化された[[扁桃体]]ニューロンが恐怖記憶想起時にも再活性化されること、さらに再活性化されたニューロンの数は想起された記憶の強さと相関していることを示した。以上のCatFISHとTetTagマウスの2つの実験は、記憶の形成時に活性化したニューロン群(セルアセンブリ)が、記憶想起時において再活性化することを示しており、記憶獲得時に活性化したニューロン群(あるいはその一部)が記憶痕跡として存在することを間接的に示唆している。
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 [[恐怖記憶]]獲得時に活性化するニューロン群では、[[転写調節因子]]である[[CREB]] ([[cAMP response element-binding protein]])活性が高い。さらに、通常恐怖記憶が成立しにくいCREB欠損マウスの扁桃体ニューロンへのCREB過剰発現が、恐怖記憶獲得を回復させるとともに、記憶想起時にCREB過剰発現ニューロンが選択的に再活性化する<ref name=ref5><pubmed>17446403</pubmed></ref>。これらのことを基にして、Sheena JosselynおよびAlcino Silvaのグループは、CREBを過剰発現したニューロンを特異的に不活性化させた後の記憶変化を見ることで、これらのニューロン集団が記憶想起に必要かどうかを検証した<ref name=ref6><pubmed>19286560</pubmed></ref> <ref name=ref7><pubmed>19783993</pubmed></ref>。
 [[恐怖記憶]]獲得時に活性化するニューロン群では、[[転写調節因子]]である[[CREB]] ([[cAMP response element-binding protein]])活性が高い。さらに、通常恐怖記憶が成立しにくいCREB欠損マウスの扁桃体ニューロンへのCREB過剰発現が、恐怖記憶獲得を回復させるとともに、記憶想起時にCREB過剰発現ニューロンが選択的に再活性化する<ref name=ref5><pubmed>17446403</pubmed></ref>。これらのことを基にして、Sheena JosselynおよびAlcino Silvaのグループは、CREBを過剰発現したニューロンを特異的に不活性化させた後の記憶変化を見ることで、これらのニューロン集団が記憶想起に必要かどうかを検証した<ref name=ref6><pubmed>19286560</pubmed></ref> <ref name=ref7><pubmed>19783993</pubmed></ref>。


 まず、Josselynらは、CREBを過剰発現したニューロンを不活性化させるため、“[[iDTR]] (inducible diphtheria toxin receptor)マウス”と名付けられたトランスジェニックマウスの扁桃体に[[wikipedia:ja:単純ヘルペスウィルス|単純ヘルペスウィルス]]([[wikipedia:ja:単純ヘルペスウイルス|herpes simplex virus]]: HSV)ベクターによりCREB-creを発現し、[[cre]]活性により[[loxP]]で挟まれたSTOP配列を抜き出すことでCREBが過剰発現したニューロン内にDTR(ジフテリア毒素受容体)を発現させた。その後、[[wikipedia:ja:ジフテリア毒素|ジフテリア毒素]]を投与することで細胞死を誘導し、CREBを過剰発現したニューロン群の選択的除去を行った(図3B)<ref name=ref6 />。同様に、Silvaらは、HSVによりCREBと[[AlstR]]([[アラトスタチン受容体]])を注入し、両者をニューロンに発現させた。そして、アラトスタチンを投与することで、CREBを発現する神経細胞を不活性化させた(図3C)<ref name=ref7 />。どちらの場合においても、ジフテリア毒素またはアラトスタチン投与により扁桃体依存的な恐怖記憶の想起が阻害された。これらにより、恐怖記憶の発現時に活性化される扁桃体ニューロン群(セルアセンブリ)が、記憶痕跡に重要な役割を担っていることが示唆された。
 まず、Josselynらは、CREBを過剰発現したニューロンを不活性化させるため、“[[iDTR]] (inducible diphtheria toxin receptor)マウス”と名付けられたトランスジェニックマウスの扁桃体に[[wikipedia:ja:単純ヘルペスウィルス|単純ヘルペスウィルス]]([[wikipedia:ja:単純ヘルペスウイルス|herpes simplex virus]]: HSV)ベクターによりCREB-creを発現し、[[cre]]活性により[[loxP]]で挟まれたSTOP配列を抜き出すことでCREBが過剰発現したニューロン内にDTR(ジフテリア毒素受容体)を発現させた。その後、[[wikipedia:ja:ジフテリア毒素|ジフテリア毒素]]を投与することで細胞死を誘導し、CREBを過剰発現したニューロン群の選択的除去を行った(図3B)<ref name=ref6 />。同様に、Silvaらは、HSVによりCREBと[[AlstR]]([[アラトスタチン受容体]])を注入し、両者をニューロンに発現させた。そして、アラトスタチンを投与することで、CREBを発現する神経細胞を不活性化させた(図3C)<ref name=ref7 />。どちらの場合においても、ジフテリア毒素またはアラトスタチン投与により扁桃体依存的な恐怖記憶の想起が阻害された。これらにより、恐怖記憶の発現時に活性化される扁桃体ニューロン群(セルアセンブリ)が、記憶痕跡に重要な役割を担っていることが示唆された。
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 2012年、[[wikipedia:ja:利根川進|利根川進]]のグループは、[[オプトジェネティックス]]([[光遺伝学]])法を用いて、特定のニューロン群の活性を制御することで記憶痕跡の物理的存在を示した<ref name=ref8><pubmed>22441246</pubmed></ref> (図4)。彼らはまず[[海馬]]の[[歯状回]]のニューロンが活性化状態になると[[チャネルロドプシン]](ChR)を発現するトランスジェニックマウスを作製した。光照射するとチャネルロドプシンのチャネルが開き、[[wikipedia:ja:カチオン|カチオン]]を細胞内に流入させる。光照射という人為的な操作でニューロンを脱分極(活動)させることができる。彼らは、[[マウス]]に恐怖条件付けを行って恐怖記憶を形成させた時に活性化したニューロン群特異的にチャネルロドプシンを発現させた。次にマウスをまったく別の環境に暴露し、光照射によりチャネルロドプシンを発現しているニューロン群のみを選択的に活性化すると、マウスが恐怖を感じた時に示す、すくみ行動(フリージング)を引き起こさせることができることを発見した。すなわち、人為的な操作によって恐怖記憶を想起させることに成功し、記憶が学習時に活性化した特定のニューロン群(セルアセンブリ)に割り付けられて符号化されていることが示された。
 2012年、[[wikipedia:ja:利根川進|利根川進]]のグループは、[[オプトジェネティックス]]([[光遺伝学]])法を用いて、特定のニューロン群の活性を制御することで記憶痕跡の物理的存在を示した<ref name=ref8><pubmed>22441246</pubmed></ref> (図4)。彼らはまず[[海馬]]の[[歯状回]]のニューロンが活性化状態になると[[チャネルロドプシン]](ChR)を発現するトランスジェニックマウスを作製した。光照射するとチャネルロドプシンのチャネルが開き、[[wikipedia:ja:カチオン|カチオン]]を細胞内に流入させる。光照射という人為的な操作でニューロンを脱分極(活動)させることができる。彼らは、[[マウス]]に恐怖条件付けを行って恐怖記憶を形成させた時に活性化したニューロン群特異的にチャネルロドプシンを発現させた。次にマウスをまったく別の環境に暴露し、光照射によりチャネルロドプシンを発現しているニューロン群のみを選択的に活性化すると、マウスが恐怖を感じた時に示す、すくみ行動(フリージング)を引き起こさせることができることを発見した。すなわち、人為的な操作によって恐怖記憶を想起させることに成功し、記憶が学習時に活性化した特定のニューロン群(セルアセンブリ)に割り付けられて符号化されていることが示された。