「記憶固定化」の版間の差分

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 [[てんかん]]治療のために海馬を含む両内側側頭葉の切除を受けた故Henry Gustav Molaison氏(手術当時は27歳、生前はH.M.氏と呼ばれた)の術後経過の観察から[[遠隔記憶]]の存在が示唆された<ref><pubmed>12201637</pubmed></ref> 。彼は手術後、ある種の記憶で新しいことを覚えることのできない順行性[[健忘]]と、手術の数年前までの記憶の想起[[逆行性健忘]]の症状を示した。しかしながら、少年期の記憶は障害を受けなかった。このことから、海馬は記憶を一時的に保存する部位であり、時間経過とともに記憶の責任領域は海馬から他の脳領域に変遷することが明らかになった。このような過程は“システムレベルの固定化”と呼ばれており、学習からの時間間隔が短い時点での記憶を“[[近時記憶]]”、システムレベルの固定化を経たような学習後長時間を経た記憶を“遠隔記憶(マウスでは数週間以上、ヒトでは数年から数十年以上を経たもの)”と呼ぶ<ref><pubmed>23770492</pubmed></ref>  (図1)(注:遠隔記憶は長期記憶の一種である)。
 [[てんかん]]治療のために海馬を含む両内側側頭葉の切除を受けた故Henry Gustav Molaison氏(手術当時は27歳、生前はH.M.氏と呼ばれた)の術後経過の観察から[[遠隔記憶]]の存在が示唆された<ref><pubmed>12201637</pubmed></ref> 。彼は手術後、ある種の記憶で新しいことを覚えることのできない順行性[[健忘]]と、手術の数年前までの記憶の想起[[逆行性健忘]]の症状を示した。しかしながら、少年期の記憶は障害を受けなかった。このことから、海馬は記憶を一時的に保存する部位であり、時間経過とともに記憶の責任領域は海馬から他の脳領域に変遷することが明らかになった。このような過程は“システムレベルの固定化”と呼ばれており、学習からの時間間隔が短い時点での記憶を“[[近時記憶]]”、システムレベルの固定化を経たような学習後長時間を経た記憶を“遠隔記憶(マウスでは数週間以上、ヒトでは数年から数十年以上を経たもの)”と呼ぶ<ref><pubmed>23770492</pubmed></ref>  (図1)(注:遠隔記憶は長期記憶の一種である)。
実験動物においても、例えば恐怖条件付け文脈学習課題において、恐怖記憶自体は脳内に残っているにも関わらず、記憶の海馬依存性が時間とともに失われていく<ref><pubmed>1585183</pubmed></ref> 。すなわち、記憶が保存されている脳領域は海馬から大脳皮質に変遷する。
実験動物においても、例えば恐怖条件付け文脈学習課題において、恐怖記憶自体は脳内に残っているにも関わらず、記憶の海馬依存性が時間とともに失われていく<ref><pubmed>1585183</pubmed></ref> 。すなわち、記憶が保存されている脳領域は海馬から大脳皮質に変遷する。
 近年、成体の脳でも、特に海馬において、神経細胞の新生が起きていることが示されている。海馬の神経新生を促進したり抑制すると海馬からの記憶の移行がそれぞれ早くなったり遅くなったりすることが明らかとなった<ref><pubmed>19914173</pubmed></ref> 。海馬が常に新たな記憶獲得能を保持するために、古い記憶を他の脳領域に移行させるシステムレベルの固定化が必要なのではないかと考えられている。海馬の神経新生は、加齢やストレスで減少する<ref><pubmed>24552281</pubmed></ref> とともに、その減少は物覚えを悪くする要因にもなりうる。一方で、ストレスフリーの環境やエクササイズ等は神経新生を促進する<ref><pubmed>25715908</pubmed></ref> 。これらの知見から、神経新生を促進することで海馬の記憶容量保持機構の効率を上昇させ記憶形成を良くすることができる可能性が考えられる。
== 鮮烈な体験による些細な出来事の記憶の固定化:シナプスタグ・行動タグ ==
 記憶は、固定化の間に損なわれたり強化されたりする可能性があるが、この不安定な状態の存在は、記憶を新しい経験と統合する方法として進化させてきた可能性を示唆している<ref><pubmed>10634773</pubmed></ref> 。些細な出来事と鮮烈な出来事が短い間隔で生じた場合、本来忘却される些細な経験(短期記憶)が長期記憶へと固定化されることがある<ref><pubmed>23840541</pubmed></ref><ref><pubmed>9020352</pubmed></ref><ref><pubmed>25607357</pubmed></ref> 。これは「行動タグ」と呼ばれ、動物に備わる記憶固定化の変法である。行動タグは「シナプスタグ」機構を行動レベルで模倣する現象として発見された。
 1997年、FreyとMorrisは急性海馬スライスを用いて、CA1の独立した2つのシェーファー側枝を刺激する2経路実験(two-pathway protocol)によって、独立した2つの入力が同じ神経細胞の異なるシナプスに収束した場合の各経路に誘導されたLTPに対する効果を検討した<ref><pubmed>9020352</pubmed></ref> 。彼らは、弱いテタヌス刺激によって誘導され数時間で減退するearly-phase LTP (E-LTP)は、異なる経路から同じ神経細胞集団に短い時間間隔(1時間以内)でlate-phase LTP (L-LTP)を誘導する強い入力が入ることで、新規タンパク質合成依存的に数時間から一日以上持続するL-LTPに固定化されることを示した。この結果から、弱いテタヌス刺激によって、タグがセッティングされたシナプスは、時間限定的かつ新規タンパク質合成依存的な神経可塑性関連遺伝子群(plasticity-related proteins; PRPs)のリクルート(ハイジャック)を経て安定化するという「シナプスタグ仮説」が提唱された(図3)。シナプスタグ機構は、L-LTPの入力特異性を保証すると共に、記憶を正確に脳内に保存する仕組みであると考えられる<ref><pubmed>19443779</pubmed></ref> 。
 2007年、Violaのグループは、ラットを用いてシナプスタグ機構を行動レベルで模倣する現象の存在を探索し、短期記憶のみが形成される学習と新規環境提示が短い時間間隔で生じた場合、短期記憶が長期記憶へと新規タンパク質合成依存的に固定化されることを示した。この結果は、行動レベルでシナプスタグ仮説を模倣する「行動タグ」の存在と新奇環境提示が記憶痕跡を安定化するためのPRPsを提供すること示唆している。さらに、行動タグは新規環境提示との組み合わせにより、抑制性回避学習課題の他にも海馬依存性課題である恐怖条件付け文脈記憶課題、新奇物体認知記憶課題、新奇物体位置課題においても観察されている<ref><pubmed>19706547</pubmed></ref><ref><pubmed>24429424</pubmed></ref><ref><pubmed>20962282</pubmed></ref><ref><pubmed>27477539</pubmed></ref> 。また、行動タグはヒトにおいても観察されている<ref><pubmed>23840541</pubmed></ref><ref><pubmed>25607357</pubmed></ref> 。
 異なる脳領域に依存する学習課題同士の間では行動タグは成立しない<ref><pubmed>19706547</pubmed></ref> 。さらに、海馬依存的な二つの学習課題同士の間で行動タグが成立する場合、記憶痕跡細胞の重複が重要である<ref><pubmed>27477539</pubmed></ref> 。すなわち、同一の神経細胞が些細な経験と新規環境の両方の記憶痕跡を担っている必要があり、このことは行動タグがシナプスタグ機構を用いていることを示唆している。