「生命倫理」の版間の差分

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英語名:bioethics
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<font size="+1">[http://researchmap.jp/read0119296 浅見 昇吾]</font><br>
''上智大学 外国語学部 ドイツ語学科''<br>
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2012年5月14日 原稿完成日:2012年5月28日<br>
担当編集委員:[http://researchmap.jp/tadafumikato 加藤 忠史](独立行政法人理化学研究所 脳科学総合研究センター)<br>
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 生命倫理(バイオエシックス)は、生命に関する倫理的問題を扱う分野であり、医学や医療技術の進歩に伴って、その重要性を増している。自己決定権とそれに基づくインフォームド・コンセントが重要な概念である。学際性を大きな特徴としている。
英語名:bioethics 独:Bioethik 仏:bioéthique
 
同義語:バイオエシックス
 
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 生命倫理は、生命に関する倫理的問題を扱う分野であり、医学や医療技術の進歩に伴って、その重要性を増している。自己決定権とそれに基づくインフォームド・コンセントが重要な概念である。学際性を大きな特徴としている。
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==生命倫理とは==
==生命倫理とは==


 生命倫理(バイオエシックス)とは、文字通り生命に関する倫理的問題を扱う分野であることは間違いない。しかし、扱う範囲はかなり幅広い。生命倫理研究の代表的な機関の一つである[[wikipedia:Georgetown University|ジョージタウン大学]]・[[wikipedia:Kennedy Institute of Ethics|ケネディ倫理研究所]]が編集した『[http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008834440-00 生命倫理百科事典]』の序文によれば、生命倫理とは「学際的状況において様々な倫理的方法論を用いて行う、生命科学と保健医療の道徳的諸次元―道徳的展望、意思決定、行為、政策を含む―に関する体系的研究」(改定第2版)である。また、1992年の[[wikipedia:International Society of Bioethics|国際バイオエシックス学会]]では、生命倫理は「医療や生命科学に関する[[wikipedia:JA:倫理|倫理]]的、[[wikipedia:JA:哲学|哲学]]的、社会的問題や、それに関する問題をめぐり学際的に研究する学問」と定義されている。学際性が大きな特徴であり、哲学、法学、社会政策等々、様々な分野と関係していることがよくわかる。  
 生命倫理(バイオエシックス)とは、文字通り生命に関する倫理的問題を扱う分野であることは間違いない。しかし、扱う範囲はかなり幅広い。生命倫理研究の代表的な機関の一つである[[wikipedia:Georgetown University|ジョージタウン大学]]・[[wikipedia:Kennedy Institute of Ethics|ケネディ倫理研究所]]が編集した『生命倫理百科事典』<ref>'''Stephen G.Post [原編], 生命倫理百科事典翻訳刊行委員会 編'''<br>[http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008834440-00 生命倫理百科事典]<br>''丸善'' 東京, 2007</ref>の序文によれば、生命倫理とは「学際的状況において様々な倫理的方法論を用いて行う、生命科学と保健医療の道徳的諸次元―道徳的展望、意思決定、行為、政策を含む―に関する体系的研究」(改定第2版)である。また、1992年の[[wikipedia:International Society of Bioethics|国際バイオエシックス学会]]では、生命倫理は「医療や生命科学に関する[[wikipedia:JA:倫理|倫理]]的、[[wikipedia:JA:哲学|哲学]]的、社会的問題や、それに関する問題をめぐり学際的に研究する学問」と定義されている。学際性が大きな特徴であり、哲学、法学、社会政策等々、様々な分野と関係していることがよくわかる。


==生命倫理誕生の背景==
==生命倫理誕生の背景==
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 そのため、生命倫理における原則においても、自己決定権や(それに基づく)自律尊重を強く打ち出すタイプのものもあれば、それとは違う方向を目指すものもある。
 そのため、生命倫理における原則においても、自己決定権や(それに基づく)自律尊重を強く打ち出すタイプのものもあれば、それとは違う方向を目指すものもある。


 例えば、ジョージタウン大学・ケネディ倫理研究所のビーチャムとチルドレスは『[http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010331177-00 生命医学倫理]』(初版1979年)を刊行し、生命倫理の4原則を提示した。その4原則とは、「自律尊重原理」「無危害原理」「仁恵原理」「正義原理」である。この4原則は硬直したものではなく、自らの原則の適用範囲に限界があり、原則が当てはまらないケース、例外的な状況があることを認めているし、原則同士で対立するケースも当然も認めている。しかしながら、自律尊重を強く打ち出すとともに、自律を理解する際に、他者に危害を加えない限り自分の好むことを行える自己決定のことを自律として解釈している部分が多いと言えるだろう。
 例えば、ジョージタウン大学・ケネディ倫理研究所のビーチャムとチルドレスは『生命医学倫理』(初版1979年)<ref>'''Beauchamp, Tom L, Childress, James F 著, 立木教夫, 足立智孝 監訳'''<br>[http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010331177-00 生命医学倫理]<br>''麗澤大学出版会'', 柏, 2009</ref>を刊行し、生命倫理の4原則を提示した。その4原則とは、「自律尊重原理」「無危害原理」「仁恵原理」「正義原理」である。この4原則は硬直したものではなく、自らの原則の適用範囲に限界があり、原則が当てはまらないケース、例外的な状況があることを認めているし、原則同士で対立するケースも当然認めている。しかしながら、自律尊重を強く打ち出すとともに、自律を理解する際に、他者に危害を加えない限り自分の好むことを行える自己決定のことを自律として解釈している部分が多いと言えるだろう。


 しかし、[[wikipedia:JA:ヨーロッパ|ヨーロッパ]]の生命倫理の研究者が[[wikipedia:JA:EU|EU]]の[[wikipedia:JA:ヨーロッパ委員会|ヨーロッパ委員会]]に対して提言した[[wikipedia:JA:欧州・地中海パートナーシップ|バルセロナ宣言]]は、やや異なる方向を目指している。バルセロナ宣言では、「自律」は治療や実験に与えられる「許可」という意味でのみ理解されてはならないと言われる。そして、自律にはさまざまな限界があることを明確に宣言しているうえ、「他者への配慮の文脈にある自律」の概念を提唱している。また、[[wikipedia:JA:生物学|生物学]]的な意味で[[wikipedia:JA:ヒト|ヒト]]であれば、「尊厳」をもつと主張するとともに、人間の有限性と人間の生のもろさを強調している。バルセロナ宣言はビーチャムとチルドレスの4原則と比べると、自己決定権や自律を弱く解釈し、新しい生命倫理原則を提示しているのである。
 しかし、[[wikipedia:JA:ヨーロッパ|ヨーロッパ]]の生命倫理の研究者が[[wikipedia:JA:EU|EU]]の[[wikipedia:JA:ヨーロッパ委員会|ヨーロッパ委員会]]に対して提言した[[wikipedia:JA:欧州・地中海パートナーシップ|バルセロナ宣言]]は、やや異なる方向を目指している。バルセロナ宣言では、「自律」は治療や実験に与えられる「許可」という意味でのみ理解されてはならないと言われる。そして、自律にはさまざまな限界があることを明確に宣言しているうえ、「他者への配慮の文脈にある自律」の概念を提唱している。また、[[wikipedia:JA:生物学|生物学]]的な意味で[[wikipedia:JA:ヒト|ヒト]]であれば、「尊厳」をもつと主張するとともに、人間の有限性と人間の生のもろさを強調している。バルセロナ宣言はビーチャムとチルドレスの4原則と比べると、自己決定権や自律を弱く解釈し、新しい生命倫理原則を提示しているのである。
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 また、脳科学の発展は、脳の特定部位の役割を明らかにしただけでなく、脳が大きな柔軟性をもっていることも明らかにしているため、ここから人間の自由を守ろうという方向もある。脳の特定部位が損傷を受けても、その部位が担っていた機能を脳の他の部位が引き受けることができるし、体のあり方がかわるだけで脳のあり方がかわることも明らかになりつつある。このことは、外部から脳のあり方やプロセスに影響を与えられる可能性を示していることになり、脳が一方的に心身のプロセスを支配しているのではないとも考えられる。いずれにしても、脳科学が、自由意志の位置づけの再検討、つまり責任能力や倫理的判断の土台となるものの位置づけの再検討、我々の人間観の再検討を迫っているのである。
 また、脳科学の発展は、脳の特定部位の役割を明らかにしただけでなく、脳が大きな柔軟性をもっていることも明らかにしているため、ここから人間の自由を守ろうという方向もある。脳の特定部位が損傷を受けても、その部位が担っていた機能を脳の他の部位が引き受けることができるし、体のあり方がかわるだけで脳のあり方がかわることも明らかになりつつある。このことは、外部から脳のあり方やプロセスに影響を与えられる可能性を示していることになり、脳が一方的に心身のプロセスを支配しているのではないとも考えられる。いずれにしても、脳科学が、自由意志の位置づけの再検討、つまり責任能力や倫理的判断の土台となるものの位置づけの再検討、我々の人間観の再検討を迫っているのである。


 さらに、脳科学の成果を特定の能力を高めるために使おうという試みもあり、これも我々の人間観や社会観の再検討を促している。例えば、頭をよくする薬(スマートドラッグ)を使用することはどこまで許されるかという問題、治療の域を超えた能力の増強(エンハンスメント)が人間には許されるかという問題が生じている。治療とエンハンスメントの区別は徐々に難しくなってきていて、どこまで人間の能力を変更ないし改造して良いのかは、判断の難しい問題となっている。ここでも、脳科学は生命倫理に関する様々な問題を投げかけているのである。
 さらに、脳科学の成果を特定の能力を高めるために使おうという試みもあり、これも我々の人間観や社会観の再検討を促している。例えば、頭をよくする薬(スマートドラッグ)を使用することはどこまで許されるかという問題、治療の域を超えた能力の増強(エンハンスメント)が人間には許されるかという問題が生じている。治療とエンハンスメントの区別は徐々に難しくなってきていて、どこまで人間の能力を変更ないし改造して良いのかは、判断の難しい問題となっている。また、脳科学の発展によって数多くの人間がエンハンスメントを享受できるようになれば、能力等の平均値が以前よりも格段にあがり、エンハンスメントの基準自体が変わることになり、さらなるエンハンスメントを求めることにもなる。このことを繰り返していけば、今の人間(像)とはまったく異なる人間(像)が生み出されるだろう。事実、エンハンスメントによって今の人間とはまったく異なる「超人類」を生み出そうと真剣に考える思想家や科学者もいる。今の人間や人類を否定するような考えには与さない思想家や科学者が多いが、何が現在の人間の本質的な事柄か、何が人間の特徴かについては意見が分かれている。ここでも、脳科学は生命倫理に関する様々な問題を投げかけている。
 
 このように、脳科学において、さまざまな新しい倫理的課題が生まれていることから、生命倫理において、脳神経倫理が独立した一分野をなしつつある。一方で、このような脳神経倫理で取り上げられる問題はいずれも、自己決定権、インフォームド・コンセント、自律といった生命倫理固有の問題と密接に結び付いているとして、脳神経倫理を生命倫理の中で統合的に捉えるべきとの立場もある。しかしながら、上述のように自己決定権やインフォームド・コンセントや自律にどの程度の重要性を与えるのかについても様々な立場があり、一定した見解には至っていない。
 
 とはいえ、先端医療技術の発展と共に、生命倫理が様々な場面で行政的判断の根拠としての役割を担いつつあることは間違いない。この意味で、生命倫理は、ガバナンスあるいはバイオポリティクスといった領域ともつながっていかざるを得ないだろう。


(執筆者:浅見昇吾 担当編集委員:加藤忠史)
==参考文献==
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