限局性恐怖症
平野好幸、清水栄司
千葉大学子どものこころの発達教育研究センター
英:specific phobia 独:spezifische Phobien 仏:phobie spécifique
同義語:特定の恐怖症、特異的(個別的)恐怖症、単一恐怖症
限局性恐怖症(ICD-10では「特異的(個別的)恐怖症」という訳語)は、特定の状況や対象(恐怖刺激)に限定された、著しい恐怖または不安の出現を特徴とする不安症である。高所恐怖症や動物恐怖症が最も一般的であるが、複数の恐怖刺激を持つことが多い。また、10~30%の例では数年~数十年症状が続き、他の不安症、うつ病、物質関連障害などの発症のきっかけとなりうるため、曝露療法などの早期の対処が望まれる。
[1] 1
歴史的推移
古代ギリシャで編纂されたヒポクラテス全集(Hippocratic Corpus)には、医師が診療した2名の男性患者が紹介されており、これが文献上の最初の症例である。一人目はニカノールという名の男で、昼でなく、夜の宴会で笛(アウロスという名の二本管の木製の縦笛)を吹く少女(flute girls:当時のアウロス奏者は奴隷階級でしばしば売春業を兼ねていた)に対する恐怖症であった。二人目はダモクレスという男で、高所と橋に対する恐怖症であった[2]2。このような「病的な恐怖(morbid fear)」は後にphobiaと名付けられるが、その語源は、ポボス(Phobos, フォボス)というギリシャ神話の恐怖の神である[3]3。前述のヒポクラテス全集の2症例からおよそ500年後の古代ローマのAulus Cornelius Celsusが、狂犬病のウイルス感染による恐水症状に対してhydrophobiaと名付けたのが最初のphobiaの使用である。
近代に入り、1909年、Sigmund Freudは、馬恐怖の5歳の「少年ハンス」の精神分析を報告した[4]4(p. 10)。後に「神経症」を分類する中で、「恐怖(神経)症」という概念を取り入れ、これが現在の限局性恐怖症に相当すると考えられる。
米国の精神障害の診断と統計マニュアル(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, DSM)の歴史的変遷をたどると、第1版(DSM-I, 1952)[5]5で「恐怖反応(phobic reaction)」、第2版(DSM-II, 1968)[6]6で「恐怖神経症(phobic neurosis)」であったが、「神経症」の概念が廃止された第III版(DSM-III, 1980)[7]7で「単一恐怖(simple phobia)」、第IV版(DSM-IV, 1994)[8]8で「特定の恐怖症(specific phobia)」となり、現在の第5版(DSM-5, 2013)[9]9で日本語名が変更され、「限局性恐怖症(specific phobia)」とされた[10]10。
診断
DSM-5[9]9による診断基準は表1の通りである。
A. 特定の対象や状況(例えば飛行、高所、動物、注射、血を見ること)に対する激しい恐怖や不安(子どもでは、泣き叫ぶ、癇癪、すくみ、まといつきで表現されることもある)がある。 |
2021年1月 平野好幸訳
限局性恐怖症は恐怖刺激に基づいて表2の5つに分類される。
1. 動物(例:犬、蛇、クモ、昆虫) |
鑑別診断
正常な生活の一部であり著しい問題を引き起こさない程度にある恐怖と区別すべきである。また、表3の精神疾患との鑑別が必要である。
広場恐怖症(複数の状況に恐怖を感じるか) |
併存症
広場恐怖症、社交不安症、パニック症、強迫症、心的外傷後ストレス障害、気分変調症、うつ病、全般不安症、注意欠如・多動症、間欠爆発症、アルコール依存症といった他の精神疾患と併存する[11]11。
病態生理
恐怖あるいは不安は、動物が危険(脅威)を察知した時に起こる感情であり、その際自律神経系は交感神経系優位となる身体反応(動悸、呼吸数の増加、発汗等)を引き起こす。これは、生理学的には、「闘争か逃走か反応(fight or flight response)[12]12」と呼ばれ、動悸を起こすことで体中に酸素の豊富な血液を送って、まさに今、敵と闘ったり逃げたりすることができるようにする準備であると考えられる。怒りは「闘う」攻撃行動に、不安は「逃げる」逃走行動に、恐怖は「動かない(動けない)」すくみ行動に関連する感情と分類できるかもしれない。このような交感神経系が優位になっている状態を指して、緊張した状態と呼び、反対に副交感神経系が優位になっている状態をリラックスした状態、安心した状態と呼びうる。
限局性恐怖症は、学習理論の中の恐怖条件づけ(fear conditioning)理論[13]13によって説明されうる。恐怖条件づけは、恐怖を感じることが正常であるような嫌悪刺激(無条件刺激: unconditioned stimulus, US)と本来、恐怖とは無関係であるはずの音や光、状況等の中性刺激(条件刺激: conditioned stimulus, CS)が同時に提示されることで形成され、形成後には、条件刺激のみの提示で、恐怖反応(response, R)を示すようになる。マウスなどの動物モデルでは、恐怖反応は、freezing(すくみ、動けない状態)として客観的に観察され、別々の刺激の関係を学習している(連合学習)ことがわかる。このように獲得された恐怖条件づけが過剰に長期間、維持されることが、限局性恐怖症の病態に関係すると考えられている。
一方、臨床的に治療として用いられる認知行動療法の一技法である曝露療法(exposure therapy)は、恐怖条件づけが獲得された後でも、条件刺激が毎回のように繰り返し提示され続け、同時にUSが提示されることが全くなければ、恐怖の消去(fear extinction)が起こることを利用している。脳生理学的には、人を含む動物が恐怖を感じる際、重要な役割を担うのは扁桃体であり[14]14、音のようなきっかけとなる刺激に対する恐怖記憶(cued fear)は、扁桃体に依存する。一方、場所(文脈)に対する恐怖記憶(contextual fear)は、海馬に依存する。また、ネコの視床下部の電気刺激によって攻撃と逃走を誘発することができることから、視床下部が本能的な攻撃行動につながる怒りや逃走行動につながる不安・恐怖と関係していることも知られている。
限局性恐怖症の対象となる恐怖はまた、生得的な(生まれながらに備わっている)ものと、経験(学習)によるものがあるとされる[15]15。神経生物学的には、生得的な病的恐怖の持続のメカニズムについては、ノルエピネフリンの感作(鋭敏化)がGABA作動性抑制を減少させ、扁桃体の活動閾値の減少と過剰な興奮性を引きおこすことに加え、恐怖の持続に扁桃体の馴化の減少が関与しているとされる。また、経験による病的恐怖の持続のメカニズムについては、グルココルチコイドによって引き起こされる扁桃体のメタ可塑性(Metaplasticity, 過剰あるいは抑制された長期増強を引き起こす、神経細胞集団のシナプス可塑性閾値の動的制御)による恐怖獲得が促進されることに加え、恐怖の持続に扁桃体の消去獲得の微小回路におけるセロトニン神経系とエンドカンナビノイドシステムの異常が関与しているとされる。
治療
限局性恐怖症では、恐怖の対象や状況を回避することで苦痛を緩和できるため治療を受ける患者の割合は少ないが、回避できない場合等に治療が求められる。心理療法(精神療法)としては認知行動療法が用いられる。中でも、曝露療法、または脱感作が、古くから用いられている。曝露療法は、患者が自らの意思で段階的に恐怖刺激に直面し、その間の不安感の減少を自覚し、恐怖刺激への接触を自信が持てる成功体験として学習することを反復練習し、恐怖刺激への馴化(慣れ)を生じさせていくものである。ごくまれに、恐怖刺激への曝露を、1回のセッションで長時間集中的に実施する方法も用いられる[16][17]17,18。またバーチャルリアリティ(仮想現実)技術を利用した曝露療法も行われている[18]19が、その長期的な有効性の評価はあまり行われていない。
薬物療法は、通常推奨されることはない。が、医師の判断によっては、強い不安に対して、短期間に限って選択的セロトニン受容体再取り込み阻害薬(SSRI)やベンゾジアゼピン系抗不安薬が処方されることがある[19]16。
曝露療法の増強薬の研究
あくまでも研究のごく初期段階ではあるが、曝露療法の治療効果を増強する薬物の投与が検討されている。抗生物質であるD-サイクロセリンは、NMDA(N-メチル-D-アスパラギン酸)受容体作動薬として作用し、恐怖記憶の消去を促進すると考えられ、高所恐怖症の患者にバーチャルリアリティ曝露療法を行う前にD-サイクロセリンを投与することで、プラセボと比較して効果が改善することが報告された[20]20。また、コルチゾールの経口投与も曝露療法の有効性を高めることが報告された[21][22]21,22。以上の曝露療法の効果増強薬の検討は、研究の初期レベルであり、一致しない結果の報告もあり、十分なエビデンスがあるとは言えないことに留意されたい。
疫学
生涯有病率は3~15%(中央値は7.2%)であり、国によって大きく異なるが1、米国での有病率の割合は、アジア人やラテン系アメリカ人では、非ラテン系白人、アフリカ系アメリカ人、アメリカ先住民より低い[23]23。日本における生涯有病率は3.4%、12ヵ月有病率は2.3%であり、遷延性の高さを反映している[24]24。生涯有病率の性差では、女性では男性よりも生涯有病率が高い。その理由に明白な証拠はないものの、女性には育児を行う年代にも初発のピークがみられることから[1][25]1,25、危険を忌避する行動が生存に適していた可能性がある。生涯有病率の国別比較では、低所得の国では、高所得の国よりも低い傾向があった(それぞれ5.7%と8.1%)[26]26。対象となる恐怖は、動物、高所、閉所、飛行、水、血液、嵐の順に多かった[1][27]1,27。
多くの患者は恐怖症の発症について特定の理由を思い出すことができない。発症年齢は二峰性を示すが、通常小児期早期に始まり、大多数は10歳前に発症する(中央値は7~11歳の間)。ほとんどが青年期までに発症するが、いずれの年齢においても発症する可能性がある23。女性においては、中年期と老年期にもピークを示す[1][25]1,25。心的外傷的経験の結果として発症する場合(例えば窒息)は、どんな年齢でもその経験に近い出来事の後にほとんど常に生じる[23]23。航空機、閉所等の状況性の限局性恐怖症は、嵐、水等の自然環境、動物、血液・注射・負傷を恐怖刺激とする限局性恐怖症より、発症年齢が遅い傾向にある。成人期まで持続した恐怖症では、大多数の人で寛解しない傾向がある。
危険因子としては、女性、離婚または死別、18歳未満の早婚、教育歴の低さなどが考えられている[1][27][28]1,27,28。また、否定的感情、行動抑制といった気質要因、親の過保護、親の喪失、身体的または性的虐待、恐怖の対象や状況との否定的または心的外傷的な経験といった環境要因がある[23]23。双子研究のメタ解析では、約30%(動物32%、状況25%、血液・注射・負傷33%)の平均遺伝率を持つことから、遺伝的要因が存在する可能性がある[29]29。
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