「カプグラ症候群」の版間の差分

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 カプグラ症候群とは、近親者などが瓜二つの偽物と入れ替わったと確信する妄想であり、1923年にCapgras. J. とReboul-Lachoux. J.<ref name=ref8>'''Capgras, J. and Reboul-Lachaux, J.'''<br>L’illusions des sosies dans un délire systématisé chronique.<br>Bull. Soc. Clin. Méd. Ment. ii, 6-16.,1923.</ref>によって報告された。近年では、カプグラ症候群、[[フレゴリの錯覚]]、[[相互変身妄想]]および[[自己分身症候群]]が妄想性人物誤認症候群の亜型としてまとめられている。カプグラ症候群は[[妄想型統合失調症]]に多いが、[[認知症]]や[[頭部外傷]]で見られることもある。成因論的には、1960年代までは対象の妄想的否認や感情的判断などと言った心因を重視する見解が支配的であったが、1970年代以降、器質因を重視する立場が出現し、[[知覚]]や[[相貌認知障害|相貌認知の障害]]として解釈しようとする立場が優勢となっている。[[大脳]]の右半球や[[前頭葉]]の病変との関連が指摘され、カプグラ症候群を[[認知心理学的]]に説明する仮説も提唱されている。}}
 カプグラ症候群とは、近親者などが瓜二つの偽物と入れ替わったと確信する妄想であり、1923年にCapgras. J. とReboul-Lachoux. J.<ref name=ref8>'''Capgras, J. and Reboul-Lachaux, J.'''<br>L’illusions des sosies dans un délire systématisé chronique.<br>Bull. Soc. Clin. Méd. Ment. ii, 6-16.,1923.</ref>によって報告された。近年では、カプグラ症候群、[[フレゴリ症候群]]、[[相互変身妄想]]および[[自己分身症候群]]が妄想性人物誤認症候群の亜型としてまとめられている。カプグラ症候群は[[妄想型統合失調症]]に多いが、[[認知症]]や[[頭部外傷]]で見られることもある。成因論的には、1960年代までは対象の妄想的否認や感情的判断などと言った心因を重視する見解が支配的であったが、1970年代以降、器質因を重視する立場が出現し、[[知覚]]や[[相貌認知障害|相貌認知の障害]]として解釈しようとする立場が優勢となっている。[[大脳]]の右半球や[[前頭葉]]の病変との関連が指摘され、カプグラ症候群を[[認知心理学的]]に説明する仮説も提唱されている。}}


== 概念 ==
== 概念 ==
 カプグラ症候群とは、友人や配偶者、両親その他近親者などが、瓜二つの外見の別人に入れ替わってしまったと誤認する[[妄想]]である。誤認の対象は人物以外にも場所、物体、時間など様々なものがある。症状は一過性であることもあれば、繰り返し出現することもある。これは「症候群」という独立した臨床単位ではなく、多様な病態を背景にして出現する1症状にすぎないとする立場からは、カプグラ妄想(Capgras delusion)、カプグラ現象、カプグラ症状、ソジーの錯覚などと呼ばれる。1970年代以降、カプグラ症候群に関する報告が急速に増加し、かつて考えられたほど稀な病態ではないと考えられている。当初は女性に多いとされたが、1936年にMurray, J.R.<ref name=ref36>'''Murray, J.R.'''<br>A case of Capgras' syndrome in the male.<br>''J. Ment. Sci.'', 82 ; 63-66, 1936. S60</ref>が男性例を報告し、現在では性差について諸説がある。カプグラ症候群の病態や成因についてはいまだ見解が一致しておらず、この現象が妄想なのか[[認知障害]]なのか議論がある。
 カプグラ症候群とは、友人や配偶者、両親その他近親者などが、瓜二つの外見の別人に入れ替わってしまったと誤認する[[妄想]]である。誤認の対象は人物以外にも場所、物体、時間など様々なものがある。症状は一過性であることもあれば、繰り返し出現することもある。これは「症候群」という独立した臨床単位ではなく、多様な病態を背景にして出現する一症状にすぎないとする立場からは、カプグラ妄想(Capgras delusion)、カプグラ現象、カプグラ症状、ソジーの錯覚などと呼ばれる。1970年代以降、カプグラ症候群に関する報告が急速に増加し、かつて考えられたほど稀な病態ではないと考えられている。当初は女性に多いとされたが、1936年にMurray, J.R.<ref name=ref36>'''Murray, J.R.'''<br>A case of Capgras' syndrome in the male.<br>''J. Ment. Sci.'', 82 ; 63-66, 1936. S60</ref>が男性例を報告し、現在では性差について諸説がある。カプグラ症候群の病態や成因についてはいまだ見解が一致しておらず、この現象が妄想なのか[[認知障害]]なのか議論がある。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
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 Capgras らが最初の報告の中で「[[知覚]]の錯覚ではなく感情判断の結果である」と述べて以来、カプグラ症候群は対象の[[妄想的否認]]や感情的判断の問題とされてきた<ref name=ref43 />。木村ら<ref name=ref29>'''木村敏、坂敬一、山村靖ほか'''<br>族否認症候群について<br>''精神経誌''、70 ; 1085-1109, 1968.</ref>は、カプグラ症候群を妄想主題と規定し、受動的な愛の要求の挫折が自己の来歴の妄想的改変と自己および他者の意味変更を余儀なくすると述べた。西田ら<ref name=ref37>'''西田博文、奥村幸夫'''<br>Capgras症状と継子妄想<br>精神経誌、81 : 649-665, 1979. </ref>は、乳幼児期の対人知覚様式への[[退行]]がカプグラ現象を成立させるとみなした。カプグラ症候群における誤認の対象が重要な人物に限定されるという対象の選択性は、疫学的にも支持され、既婚者の74.6%が配偶者を、未婚者の82.8% が両親を替玉とみなした<ref name=ref30><pubmed>3521582</pubmed></ref>。
 Capgras らが最初の報告の中で「[[知覚]]の錯覚ではなく感情判断の結果である」と述べて以来、カプグラ症候群は対象の[[妄想的否認]]や感情的判断の問題とされてきた<ref name=ref43 />。木村ら<ref name=ref29>'''木村敏、坂敬一、山村靖ほか'''<br>族否認症候群について<br>''精神経誌''、70 ; 1085-1109, 1968.</ref>は、カプグラ症候群を妄想主題と規定し、受動的な愛の要求の挫折が自己の来歴の妄想的改変と自己および他者の意味変更を余儀なくすると述べた。西田ら<ref name=ref37>'''西田博文、奥村幸夫'''<br>Capgras症状と継子妄想<br>精神経誌、81 : 649-665, 1979. </ref>は、乳幼児期の対人知覚様式への[[退行]]がカプグラ現象を成立させるとみなした。カプグラ症候群における誤認の対象が重要な人物に限定されるという対象の選択性は、疫学的にも支持され、既婚者の74.6%が配偶者を、未婚者の82.8% が両親を替玉とみなした<ref name=ref30><pubmed>3521582</pubmed></ref>。


 1971年、Weston, M. J.<ref name=ref45 />は、頭部外傷後の[[せん妄]]状態においてカプグラ症候群が出現した症例を報告した。以降、カプグラ症候群における器質的要因の関与が主張されるようになった。[[脳器質性障害]]による人物や事物の同定障害に[[相貌失認]]<ref name=ref5>'''Bodamer, J.'''<br>Die Prosopagnosie (Die Agnosie des Physiognomie erkennens). <br>''Arch. Psychiat. Nervenkr.'', 179 ; 6-53, 1947.</ref>と重複錯誤記憶<ref name=ref40>'''Pick. A.'''<br>Zur Casuistik der Erinnerungstäuschungen. <br>''Arch. Psychiatr. Nervenkr.'', 6 ; 568-574, 1876. </ref>があるが、カプグラ現象とこれらの障害との関連や、脳の機能的離断との関連を明らかにすることによって、カプグラ現象の神経学的基盤が研究された。1980年代には、重複記憶錯誤を妄想的人物誤認症候群に含める著者もいた。
 1971年、Weston, M. J.<ref name=ref45 />は、頭部外傷後の[[せん妄]]状態においてカプグラ症候群が出現した症例を報告した。以降、カプグラ症候群における器質的要因の関与が主張されるようになった。[[脳器質性障害]]による人物や事物の同定障害に[[相貌失認]]<ref name=ref5>'''Bodamer, J.'''<br>Die Prosopagnosie (Die Agnosie des Physiognomie erkennens). <br>''Arch. Psychiat. Nervenkr.'', 179 ; 6-53, 1947.</ref>と重複錯誤記憶<ref name=ref40>'''Pick. A.'''<br>Zur Casuistik der Erinnerungstäuschungen. <br>''Arch. Psychiatr. Nervenkr.'', 6 ; 568-574, 1876. </ref>がある。カプグラ現象とこれらの障害との関連や、脳の機能的離断との関連が研究されていくにつれ、カプグラ現象の神経学的基盤に関する仮説が提唱されるようになった。1980年代には、重複記憶錯誤を妄想的人物誤認症候群に含める著者もいた。


 1988年、Anderson<ref name=ref2><pubmed>3273156</pubmed></ref>は相貌失認とカプグラ現象という二つの病態において、顔の形態的知覚情報と感情的意味情報の統合不全において生じる葛藤が、二次的な妄想的合理化を生むという仮説を提示した。1990年、Ellis, H.D. とYoung, A.W.<ref name=ref18><pubmed>2224375</pubmed></ref>はBauer, R.M.<ref name=ref3>'''Bauer, R.M.'''<br>The cognitive psychophysiology of prosopagnosia. In<br>(ed.) , Ellis, H., Jeeves, M. et al. Aspects of Face Processing. <br>''Martinus Nijhoff, Dordrecht'', 1986. </ref>の相貌認知に係わる神経機構仮説を援用することによって、Andersonの仮説を説明した。国内においても、1980年代以降は器質的要因が注目され、[[老年期認知症]]や[[前頭葉]]・[[側頭葉]]病変などの脳器質性障害を基盤として生じる人物誤認現象が報告されている。
 1988年、Anderson<ref name=ref2><pubmed>3273156</pubmed></ref>は相貌失認とカプグラ現象という二つの病態において、顔の形態的知覚情報と感情的意味情報の統合不全において生じる葛藤が、二次的な妄想的合理化を生むという仮説を提示した。1990年、Ellis, H.D. とYoung, A.W.<ref name=ref18><pubmed>2224375</pubmed></ref>はBauer, R.M.<ref name=ref3>'''Bauer, R.M.'''<br>The cognitive psychophysiology of prosopagnosia. In<br>(ed.) , Ellis, H., Jeeves, M. et al. Aspects of Face Processing. <br>''Martinus Nijhoff, Dordrecht'', 1986. </ref>の相貌認知に係わる神経機構仮説を援用することによって、Andersonの仮説を説明した。国内においても、1980年代以降は器質的要因が注目され、[[老年期認知症]]や[[前頭葉]]・[[側頭葉]]病変などの脳器質性障害を基盤として生じる人物誤認現象が報告されている。