「ケタミン」の版間の差分

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== 歴史 ==
== 歴史 ==
 1962年に米国パーク・デービス社によって、麻酔薬フェンサイクリジン(PCP: phencyclidine)の代用物(半減期が短い化合物)として、CI-581(後のケタミン)が合成された。1964年、ミシガン大学のEdward F. Domino博士らが、健常者(囚人)を対象とした臨床試験を実施した。ケタミンもPCP同様、精神病症状を惹起した。またケタミンは悪夢、浮遊感覚(幽体離脱)などの解離症状を引き起こすことに気づき、解離性麻酔薬(dissociative anesthetic)と命名した<ref name=Domino1965><pubmed></pubmed></ref>  <ref name=Domino2010><pubmed></pubmed></ref> (1,2)。現在、世界中で麻酔薬として使用されている。他の麻酔薬と比べて、呼吸抑制などの副作用が低いため、世界保健機関による必須医薬品になっている。1970年代後半から米国の若者の間で乱用され大きな社会問題になり、わが国でも2007年に麻薬指定された。


1962年に米国パーク・デービス社によって、麻酔薬フェンサイクリジン(PCP: phencyclidine)の代用物(半減期が短い化合物)として、CI-581(後のケタミン)が合成された。1964年、ミシガン大学のEdward F. Domino博士らが、健常者(囚人)を対象とした臨床試験を実施した。ケタミンもPCP同様、精神病症状を惹起した。またケタミンは悪夢、浮遊感覚(幽体離脱)などの解離症状を引き起こすことに気づき、解離性麻酔薬(dissociative anesthetic)と命名した<ref name=Domino1965><pubmed></pubmed></ref>  <ref name=Domino2010><pubmed></pubmed></ref> (1,2)。現在、世界中で麻酔薬として使用されている。他の麻酔薬と比べて、呼吸抑制などの副作用が低いため、世界保健機関による必須医薬品になっている。1970年代後半から米国の若者の間で乱用され大きな社会問題になり、わが国でも2007年に麻薬指定された。
== 薬理作用、副作用、代謝 ==
== 薬理作用、副作用、代謝 ==
ケタミンは視床・新皮質を機能的に抑制する一方、辺縁系を活性化する薬理学的特徴を有する。麻酔から覚醒する際に、幻覚、悪夢、浮遊感覚などの症状が観察される。ケタミンの麻酔・鎮痛作用および上記の副作用は、グルタミン酸受容体の一つであるNMDA受容体の拮抗作用によると考えられている<ref name=Domino2010><pubmed></pubmed></ref> (2)。NMDA受容体拮抗薬のヒトにおける精神病惹起作用は、NMDA受容体遮断作用の強さに比例しているため、統合失調症のNMDA受容体機能低下仮説が提唱されている<ref name=D.C.1991><pubmed></pubmed></ref> (3)。またケタミンは、オピオイド受容体、シグマ受容体などにも弱い親和性を有する<ref name=Domino2010><pubmed></pubmed></ref> (2)。ケタミンは肝臓のチトクロームP450によりノルケタミン、ヒドロキシノルケタミン、デヒドロノルケタミンなどに代謝される。ノルケタミンがケタミンの主代謝物である。
ケタミンは視床・新皮質を機能的に抑制する一方、辺縁系を活性化する薬理学的特徴を有する。麻酔から覚醒する際に、幻覚、悪夢、浮遊感覚などの症状が観察される。ケタミンの麻酔・鎮痛作用および上記の副作用は、グルタミン酸受容体の一つであるNMDA受容体の拮抗作用によると考えられている<ref name=Domino2010><pubmed></pubmed></ref> (2)。NMDA受容体拮抗薬のヒトにおける精神病惹起作用は、NMDA受容体遮断作用の強さに比例しているため、統合失調症のNMDA受容体機能低下仮説が提唱されている<ref name=D.C.1991><pubmed></pubmed></ref> (3)。またケタミンは、オピオイド受容体、シグマ受容体などにも弱い親和性を有する<ref name=Domino2010><pubmed></pubmed></ref> (2)。ケタミンは肝臓のチトクロームP450によりノルケタミン、ヒドロキシノルケタミン、デヒドロノルケタミンなどに代謝される。ノルケタミンがケタミンの主代謝物である。
=== 統合失調症モデル ===
 
== 統合失調症モデル ==
ミシガン大学のEdward F. Domino博士らは、PCPやケタミンをヒトに投与すると統合失調症と酷似した症状が出現することを報告した<ref name=Domino2010><pubmed></pubmed></ref><ref name=Domino1965><pubmed></pubmed></ref> (1,2)。その後、米国でPCPの乱用が問題になった際、PCP使用者は、統合失調症と酷似した症状を有することから、統合失調症のPCPモデルが提唱された<ref name=D.C.1991><pubmed></pubmed></ref> (3)。1994年にイェール大学のJohn H. Krystal博士らは、ケタミンを健常者に投与すると、統合失調症の全ての症状(陽性症状、陰性症状、認知機能障害)を引き起こすことを報告した<ref name=Krystal1994><pubmed></pubmed></ref> (4)。米国では、健常者にケタミンを投与して統合失調症様の症状を引き起こし、脳での生化学的変化や候補薬剤(抗精神病薬)の評価に幅広く使用されている。後述するが、ケタミンは治療抵抗性うつ病の治療に適応外使用されているが、うつ病患者の認知機能障害を悪化させず、逆に改善する作用がある。以上の事から、ヒトの認知機能に対するケタミンの作用は、今後、詳細に検討する必要がある。
ミシガン大学のEdward F. Domino博士らは、PCPやケタミンをヒトに投与すると統合失調症と酷似した症状が出現することを報告した<ref name=Domino2010><pubmed></pubmed></ref><ref name=Domino1965><pubmed></pubmed></ref> (1,2)。その後、米国でPCPの乱用が問題になった際、PCP使用者は、統合失調症と酷似した症状を有することから、統合失調症のPCPモデルが提唱された<ref name=D.C.1991><pubmed></pubmed></ref> (3)。1994年にイェール大学のJohn H. Krystal博士らは、ケタミンを健常者に投与すると、統合失調症の全ての症状(陽性症状、陰性症状、認知機能障害)を引き起こすことを報告した<ref name=Krystal1994><pubmed></pubmed></ref> (4)。米国では、健常者にケタミンを投与して統合失調症様の症状を引き起こし、脳での生化学的変化や候補薬剤(抗精神病薬)の評価に幅広く使用されている。後述するが、ケタミンは治療抵抗性うつ病の治療に適応外使用されているが、うつ病患者の認知機能障害を悪化させず、逆に改善する作用がある。以上の事から、ヒトの認知機能に対するケタミンの作用は、今後、詳細に検討する必要がある。
=== 抗うつ作用 ===
1970年代後半から1980年代初頭に、米国ではPCPやケタミンの乱用が大きな社会問題になった。これらの薬物乱用者の多くはうつ症状を呈する方が多く、一部の方は、既存のモノアミン系抗うつ薬に効果が無く、即効性抗うつ効果を期待してケタミンを使用する方が居たよう<ref name=Domino2010><pubmed></pubmed></ref> (2)。このように、一部の医師や研究者は、ケタミンの抗うつ効果に気づいていたが、精神病惹起作用を有する乱用薬物ケタミンが抗うつ薬になるとは思っていたなかったとEdward F. Domino博士は後に語っていた。


2000年にイェール大学のJohn H. Krystal博士らは、うつ病患者を対象としたプラセボ対照二重盲検試験を実施し、ケタミンの抗うつ効果を科学的に証明した<ref name=Berman2000><pubmed></pubmed></ref> (5)。ケタミン投与後、精神病惹起作用や解離症状が出現し、1時間以内に消失した。その後、抗うつ効果がみられ、投与3日後でも確認された<ref name=Berman2000><pubmed></pubmed></ref> (5)。当初、この論文は注目されなかったが、2006年に米国精神衛生研究所(NIH/NIMH)のCarlos A. Zarate博士らが、治療抵抗性うつ病患者を対象としたプラセボ対照二重盲検試験を実施し、ケタミンの即効性抗うつ効果と持続(1週間以上)効果を報告した<ref name=Zarate2006><pubmed></pubmed></ref> (6)。興味深い事に、ケタミンは重度のうつ病患者の希死念慮・自殺願望にも即効性の効果がある事が報告された<ref name=Grunebaum2018><pubmed></pubmed></ref> (7)。その後、多くの研究グループによりケタミンの抗うつ効果および希死念慮抑制効果は追試された<ref name=Newport2015><pubmed></pubmed></ref>  <ref name=Kishimoto2016><pubmed></pubmed></ref><ref name=Wilkinson2018><pubmed></pubmed></ref> (8-10)。欧米では、ケタミンの抗うつ効果は、気分障害研究の歴史において、過去60年間で最も大きな発見、あるいは精神医学分野ではクロルプロマジン以来の大発見と言われている<ref name=橋本謙二2020-11>橋本謙二 (2020). 難治性うつ病治療に対するケタミンへの期待. 医学のあゆみ 275, 495-499. </ref><ref name=橋本謙二2020-12>橋本謙二 (2020). 難治性うつ病の画期的治療薬として期待されるケタミン. 精神神経学雑誌 122, 473-480. </ref> (11,12)。しかしながら、ケタミンの問題点(投与直後の精神病惹起作用、解離症状、繰り返し投与による薬物依存など)が解決していないにも関わらず、米国のケタミンクリニックや病院では、難治性うつ病に対してケタミンの適応外使用が日常的に行われている<ref name=Sanacora2017><pubmed></pubmed></ref> (13)。
== 抗うつ作用 ==
 1970年代後半から1980年代初頭に、米国ではPCPやケタミンの乱用が大きな社会問題になった。これらの薬物乱用者の多くはうつ症状を呈する方が多く、一部の方は、既存のモノアミン系抗うつ薬に効果が無く、即効性抗うつ効果を期待してケタミンを使用する方が居たよう<ref name=Domino2010><pubmed></pubmed></ref> (2)。このように、一部の医師や研究者は、ケタミンの抗うつ効果に気づいていたが、精神病惹起作用を有する乱用薬物ケタミンが抗うつ薬になるとは思っていたなかったとEdward F. Domino博士は後に語っていた。
 
 2000年にイェール大学のJohn H. Krystal博士らは、うつ病患者を対象としたプラセボ対照二重盲検試験を実施し、ケタミンの抗うつ効果を科学的に証明した<ref name=Berman2000><pubmed></pubmed></ref> (5)。ケタミン投与後、精神病惹起作用や解離症状が出現し、1時間以内に消失した。その後、抗うつ効果がみられ、投与3日後でも確認された<ref name=Berman2000><pubmed></pubmed></ref> (5)。当初、この論文は注目されなかったが、2006年に米国精神衛生研究所(NIH/NIMH)のCarlos A. Zarate博士らが、治療抵抗性うつ病患者を対象としたプラセボ対照二重盲検試験を実施し、ケタミンの即効性抗うつ効果と持続(1週間以上)効果を報告した<ref name=Zarate2006><pubmed></pubmed></ref> (6)。興味深い事に、ケタミンは重度のうつ病患者の希死念慮・自殺願望にも即効性の効果がある事が報告された<ref name=Grunebaum2018><pubmed></pubmed></ref> (7)。その後、多くの研究グループによりケタミンの抗うつ効果および希死念慮抑制効果は追試された<ref name=Newport2015><pubmed></pubmed></ref>  <ref name=Kishimoto2016><pubmed></pubmed></ref><ref name=Wilkinson2018><pubmed></pubmed></ref> (8-10)。欧米では、ケタミンの抗うつ効果は、気分障害研究の歴史において、過去60年間で最も大きな発見、あるいは精神医学分野ではクロルプロマジン以来の大発見と言われている<ref name=橋本謙二2020-11>橋本謙二 (2020). 難治性うつ病治療に対するケタミンへの期待. 医学のあゆみ 275, 495-499. </ref><ref name=橋本謙二2020-12>橋本謙二 (2020). 難治性うつ病の画期的治療薬として期待されるケタミン. 精神神経学雑誌 122, 473-480. </ref> (11,12)。しかしながら、ケタミンの問題点(投与直後の精神病惹起作用、解離症状、繰り返し投与による薬物依存など)が解決していないにも関わらず、米国のケタミンクリニックや病院では、難治性うつ病に対してケタミンの適応外使用が日常的に行われている<ref name=Sanacora2017><pubmed></pubmed></ref> (13)。


=== 抗うつ作用におけるNMDA受容体の役割 ===
=== 抗うつ作用におけるNMDA受容体の役割 ===