「ケタミン」の版間の差分

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 1970年代後半から1980年代初頭に、米国ではPCPやケタミンの乱用が大きな社会問題になった。これらの薬物乱用者の多くはうつ症状を呈する方が多く、一部の方は、既存のモノアミン系抗うつ薬に効果が無く、即効性抗うつ効果を期待してケタミンを使用する方が居たよう<ref name=Domino2010><pubmed>20693870</pubmed></ref>(2)。このように、一部の医師や研究者は、ケタミンの抗うつ効果に気づいていたが、精神病惹起作用を有する乱用薬物ケタミンが抗うつ薬になるとは思っていたなかったとEdward F. Domino博士は後に語っていた。
 1970年代後半から1980年代初頭に、米国ではPCPやケタミンの乱用が大きな社会問題になった。これらの薬物乱用者の多くはうつ症状を呈する方が多く、一部の方は、既存のモノアミン系抗うつ薬に効果が無く、即効性抗うつ効果を期待してケタミンを使用する方が居たよう<ref name=Domino2010><pubmed>20693870</pubmed></ref>(2)。このように、一部の医師や研究者は、ケタミンの抗うつ効果に気づいていたが、精神病惹起作用を有する乱用薬物ケタミンが抗うつ薬になるとは思っていたなかったとEdward F. Domino博士は後に語っていた。


 2000年にイェール大学のJohn H. Krystal博士らは、うつ病患者を対象としたプラセボ対照二重盲検試験を実施し、ケタミンの抗うつ効果を科学的に証明した<ref name=Berman2000><pubmed>10686270</pubmed></ref> (5)。ケタミン投与後、精神病惹起作用や解離症状が出現し、1時間以内に消失した。その後、抗うつ効果がみられ、投与3日後でも確認された<ref name=Berman2000><pubmed>10686270</pubmed></ref> (5)。当初、この論文は注目されなかったが、2006年に米国精神衛生研究所(NIH/NIMH)のCarlos A. Zarate博士らが、治療抵抗性うつ病患者を対象としたプラセボ対照二重盲検試験を実施し、ケタミンの即効性抗うつ効果と持続(1週間以上)効果を報告した<ref name=Zarate2006><pubmed>16894061</pubmed></ref> (6)。興味深い事に、ケタミンは重度のうつ病患者の希死念慮・自殺願望にも即効性の効果がある事が報告された<ref name=Grunebaum2018><pubmed>29202655</pubmed></ref> (7)。その後、多くの研究グループによりケタミンの抗うつ効果および希死念慮抑制効果は追試された<ref name=Newport2015><pubmed>26423481</pubmed></ref>  <ref name=Kishimoto2016><pubmed>26867988</pubmed></ref><ref name=Wilkinson2018><pubmed>28969441</pubmed></ref> (8-10)。欧米では、ケタミンの抗うつ効果は、気分障害研究の歴史において、過去60年間で最も大きな発見、あるいは精神医学分野ではクロルプロマジン以来の大発見と言われている<ref name=橋本謙二2020a>橋本謙二 (2020). 難治性うつ病治療に対するケタミンへの期待. 医学のあゆみ 275, 495-499.</ref><ref name=橋本謙二2020b>橋本謙二 (2020). 難治性うつ病の画期的治療薬として期待されるケタミン. 精神神経学雑誌 122, 473-480.</ref> (11,12)。しかしながら、ケタミンの問題点(投与直後の精神病惹起作用、解離症状、繰り返し投与による薬物依存など)が解決していないにも関わらず、米国のケタミンクリニックや病院では、難治性うつ病に対してケタミンの適応外使用が日常的に行われている<ref name=Sanacora2017><pubmed>28249076</pubmed></ref> (13)。
 2000年にイェール大学のJohn H. Krystal博士らは、うつ病患者を対象としたプラセボ対照二重盲検試験を実施し、ケタミンの抗うつ効果を科学的に証明した<ref name=Berman2000><pubmed>10686270</pubmed></ref> (5)。ケタミン投与後、精神病惹起作用や解離症状が出現し、1時間以内に消失した。その後、抗うつ効果がみられ、投与3日後でも確認された<ref name=Berman2000><pubmed>10686270</pubmed></ref> (5)。当初、この論文は注目されなかったが、2006年に米国精神衛生研究所(NIH/NIMH)のCarlos A. Zarate博士らが、治療抵抗性うつ病患者を対象としたプラセボ対照二重盲検試験を実施し、ケタミンの即効性抗うつ効果と持続(1週間以上)効果を報告した<ref name=Zarate2006><pubmed>16894061</pubmed></ref> (6)。興味深い事に、ケタミンは重度のうつ病患者の希死念慮・自殺願望にも即効性の効果がある事が報告された<ref name=Grunebaum2018><pubmed>29202655</pubmed></ref> (7)。その後、多くの研究グループによりケタミンの抗うつ効果および希死念慮抑制効果は追試された<ref name=Newport2015><pubmed>26423481</pubmed></ref>  <ref name=Kishimoto2016><pubmed>26867988</pubmed></ref><ref name=Wilkinson2018><pubmed>28969441</pubmed></ref> (8-10)。欧米では、ケタミンの抗うつ効果は、気分障害研究の歴史において、過去60年間で最も大きな発見、あるいは精神医学分野ではクロルプロマジン以来の大発見と言われている<ref name=橋本謙二2020a></ref><ref name=橋本謙二2020b>橋本謙二(2020)<br>難治性うつ病の画期的治療薬として期待されるケタミン<br>精神神経学雑誌 122(6):473-480</ref> (11,12)。しかしながら、ケタミンの問題点(投与直後の精神病惹起作用、解離症状、繰り返し投与による薬物依存など)が解決していないにも関わらず、米国のケタミンクリニックや病院では、難治性うつ病に対してケタミンの適応外使用が日常的に行われている<ref name=Sanacora2017><pubmed>28249076</pubmed></ref> (13)。


==== 抗うつ作用におけるNMDA受容体の役割 ====
==== 抗うつ作用におけるNMDA受容体の役割 ====
<u>(編集部コメント:「抗うつ作用機序」の一つですので、抗うつ作用機序のところとまとめられてはと思います。)</u>
 ケタミンの主の薬理作用は、グルタミン酸受容体の一つであるNMDA受容体の拮抗作用であることから、多くの研究者はケタミンの抗うつ作用はNMDA受容体の拮抗作用と信じており、海外の幾つかの製薬企業がNMDA受容体拮抗薬を開発した。しかしながら、ケタミン以外のNMDA受容体拮抗薬は、うつ病患者においてケタミン様の強力は抗うつ効果を示さず、開発中止に追い込まれた<ref name=Hashimoto2019><pubmed>31215725</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020><pubmed>32224141</pubmed></ref><ref name=Yang2019><pubmed>31699965</pubmed></ref> (14-16)。興味深い事に、強力で選択性の高いNMDA受容体拮抗薬(+)-MK-801 (dizocilpine)は、うつ病患者において抗うつ効果を示さなかった<ref name=Hashimoto2020><pubmed>32224141</pubmed></ref> (15)。さらに、これまで実施されたケタミンの臨床試験結果から、ケタミン投与後の解離症状は、ケタミンの抗うつ効果には関連無いことが判ってきた。以上の事から、筆者らはケタミンの抗うつ効果におけるNMDA受容体拮抗作用以外の関与を考える必要性を提唱した<ref name=Hashimoto2019><pubmed>31215725</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020><pubmed>32430328</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020><pubmed>32224141</pubmed></ref><ref name=Yang2019><pubmed>31699965</pubmed></ref>  <ref name=橋本謙二2020c><pubmed>橋本謙二 (2020)<br>NMDA受容体はケタミンの抗うつ効果に関係しているか?<br>臨床精神薬理 23, 787-792.</pubmed></ref> (14-18)。
 ケタミンの主の薬理作用は、グルタミン酸受容体の一つであるNMDA受容体の拮抗作用であることから、多くの研究者はケタミンの抗うつ作用はNMDA受容体の拮抗作用と信じており、海外の幾つかの製薬企業がNMDA受容体拮抗薬を開発した。しかしながら、ケタミン以外のNMDA受容体拮抗薬は、うつ病患者においてケタミン様の強力は抗うつ効果を示さず、開発中止に追い込まれた<ref name=Hashimoto2019><pubmed>31215725</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020><pubmed>32224141</pubmed></ref><ref name=Yang2019><pubmed>31699965</pubmed></ref> (14-16)。興味深い事に、強力で選択性の高いNMDA受容体拮抗薬(+)-MK-801 (dizocilpine)は、うつ病患者において抗うつ効果を示さなかった<ref name=Hashimoto2020><pubmed>32224141</pubmed></ref> (15)。さらに、これまで実施されたケタミンの臨床試験結果から、ケタミン投与後の解離症状は、ケタミンの抗うつ効果には関連無いことが判ってきた。以上の事から、筆者らはケタミンの抗うつ効果におけるNMDA受容体拮抗作用以外の関与を考える必要性を提唱した<ref name=Hashimoto2019><pubmed>31215725</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020><pubmed>32430328</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020><pubmed>32224141</pubmed></ref><ref name=Yang2019><pubmed>31699965</pubmed></ref>  <ref name=橋本謙二2020c><pubmed>橋本謙二 (2020)<br>NMDA受容体はケタミンの抗うつ効果に関係しているか?<br>臨床精神薬理 23, 787-792.</pubmed></ref> (14-18)。


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esketamine
esketamine


 米国Johnson & Johnson社は、NMDA受容体への親和性が強い(S)-ケタミンの鼻腔内投与を難治性うつ病患者の追加投与として開発した。2016年に治療抵抗性うつ病患者に対する(S)-ケタミン(0.2 and 0.4 mg/kg)の静脈投与によるプラセボ対照二重盲検試験が報告された。(S)-ケタミンは即効性抗うつ効果を示したが、副作用の出現も大きかった<ref name=Singh2016><pubmed>26707087</pubmed></ref>(19)。その後、J&J社は、(S)-ケタミンの鼻腔内投与を難治性うつ病患者の追加投与として開発し、2019年に米国およびヨーロッパで承認された<ref name=Jauhar2019><pubmed>31548292</pubmed></ref><ref name=Kim2019><pubmed>31116916</pubmed></ref> (20,21)。しかしながら、副作用の問題から、(S)-ケタミンはリスク評価軽減戦略(Risk Evaluation and Mitigation Strategies, REMS)の下で使用しなければならなく、患者は点鼻薬を医師の診察室や医療機関において、自分で投与できるが、自宅に持って帰る事は禁止されている<ref name=橋本謙二2020b><pubmed>橋本謙二 (2020). 難治性うつ病の画期的治療薬として期待されるケタミン. 精神神経学雑誌 122, 473-480.
 米国Johnson & Johnson社は、NMDA受容体への親和性が強い(S)-ケタミンの鼻腔内投与を難治性うつ病患者の追加投与として開発した。2016年に治療抵抗性うつ病患者に対する(S)-ケタミン(0.2 and 0.4 mg/kg)の静脈投与によるプラセボ対照二重盲検試験が報告された。(S)-ケタミンは即効性抗うつ効果を示したが、副作用の出現も大きかった<ref name=Singh2016><pubmed>26707087</pubmed></ref>(19)。その後、J&J社は、(S)-ケタミンの鼻腔内投与を難治性うつ病患者の追加投与として開発し、2019年に米国およびヨーロッパで承認された<ref name=Jauhar2019><pubmed>31548292</pubmed></ref><ref name=Kim2019><pubmed>31116916</pubmed></ref> (20,21)。しかしながら、副作用の問題から、(S)-ケタミンはリスク評価軽減戦略(Risk Evaluation and Mitigation Strategies, REMS)の下で使用しなければならなく、患者は点鼻薬を医師の診察室や医療機関において、自分で投与できるが、自宅に持って帰る事は禁止されている<ref name=橋本謙二2020b></ref> (12)。さらに(S)-ケタミンの抗うつ効果に関する問題点も指摘されている<ref name=Horowitz2020><pubmed>32456714</pubmed></ref><ref name=Turner2019><pubmed>31680014</pubmed></ref>(22,23)。
</pubmed></ref> (12)。さらに(S)-ケタミンの抗うつ効果に関する問題点も指摘されている<ref name=Horowitz2020><pubmed>32456714</pubmed></ref><ref name=Turner2019><pubmed>31680014</pubmed></ref>(22,23)。


==== (R)-ケタミン ====
==== (R)-ケタミン ====
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(<u>編集部コメント:副作用はまとめて1箇所に書いて頂ければと思います</u>)
(<u>編集部コメント:副作用はまとめて1箇所に書いて頂ければと思います</u>)


 ケタミンはうつ病患者において即効性抗うつ作用および希死念慮低下作用を示すが、ケタミンの副作用は臨床応用を考えた場合、解決すべき大きな課題である。精神病惹起作用の指標である運動量亢進作用、プレパルス抑制障害、場所嗜好性試験、前頭皮質におけるパルブアルブミン陽性細胞の低下は、(S)-ケタミンの単回投与および繰り返し投与で起きるが、(R)-ケタミンでは起きなかった<ref name=Yang2015><pubmed>26327690</pubmed></ref>  <ref name=Chang2019><pubmed>31034852</pubmed></ref><ref name=Yang2016><pubmed>27043274</pubmed></ref> (25,28,29)。 (S)-ケタミンや(R,S)-ケタミンの投与では、ラット脳梁膨大後部皮質における熱ストレス蛋白(神経障害マーカー)の誘導が起きるが、(R)-ケタミンの投与では起きなかった<ref name=Tian2018><pubmed>30030125</pubmed></ref> (30)。浜松ホトニクス社との無麻酔サルPETを用いた研究から、(R)-ケタミンの静脈投与は、ドパミンD2受容体に影響を与えないが、(S)-ケタミンの静脈投与はドパミンD2受容体を有意に低下することを報告した<ref name=Hashimoto2017><pubmed>27091456</pubmed></ref> (31)。この結果は、(S)-ケタミン投与により、前シナプスからドパミン放出が起きていることを示しており、ヒトにおける(S)-ケタミン静脈投与後の精神病惹起作用および解離症状<ref name=Singh2016><pubmed>26707087</pubmed></ref> (19)と関連していると思われる。このように、ケタミンの副作用は、主にNMDA受容体が関与していることから、NMDA受容体への親和性が低い(R)-ケタミンは(R,S)-ケタミンや(S)-ケタミンより副作用の少ない安全な抗うつ薬として期待される<ref name=橋本謙二2020a><pubmed>橋本謙二 (2020)<br>難治性うつ病治療に対するケタミンへの期待<br>医学のあゆみ 275, 495-499.</pubmed></ref><ref name=橋本謙二2020b><pubmed>橋本謙二 (2020)<br>難治性うつ病の画期的治療薬として期待されるケタミン<br>精神神経学雑誌 122, 473-480.
 ケタミンはうつ病患者において即効性抗うつ作用および希死念慮低下作用を示すが、ケタミンの副作用は臨床応用を考えた場合、解決すべき大きな課題である。精神病惹起作用の指標である運動量亢進作用、プレパルス抑制障害、場所嗜好性試験、前頭皮質におけるパルブアルブミン陽性細胞の低下は、(S)-ケタミンの単回投与および繰り返し投与で起きるが、(R)-ケタミンでは起きなかった<ref name=Yang2015><pubmed>26327690</pubmed></ref>  <ref name=Chang2019><pubmed>31034852</pubmed></ref><ref name=Yang2016><pubmed>27043274</pubmed></ref> (25,28,29)。 (S)-ケタミンや(R,S)-ケタミンの投与では、ラット脳梁膨大後部皮質における熱ストレス蛋白(神経障害マーカー)の誘導が起きるが、(R)-ケタミンの投与では起きなかった<ref name=Tian2018><pubmed>30030125</pubmed></ref> (30)。浜松ホトニクス社との無麻酔サルPETを用いた研究から、(R)-ケタミンの静脈投与は、ドパミンD2受容体に影響を与えないが、(S)-ケタミンの静脈投与はドパミンD2受容体を有意に低下することを報告した<ref name=Hashimoto2017><pubmed>27091456</pubmed></ref> (31)。この結果は、(S)-ケタミン投与により、前シナプスからドパミン放出が起きていることを示しており、ヒトにおける(S)-ケタミン静脈投与後の精神病惹起作用および解離症状<ref name=Singh2016><pubmed>26707087</pubmed></ref> (19)と関連していると思われる。このように、ケタミンの副作用は、主にNMDA受容体が関与していることから、NMDA受容体への親和性が低い(R)-ケタミンは(R,S)-ケタミンや(S)-ケタミンより副作用の少ない安全な抗うつ薬として期待される<ref name=橋本謙二2020a><pubmed>橋本謙二 (2020)<br>難治性うつ病治療に対するケタミンへの期待<br>医学のあゆみ 275, 495-499.</pubmed></ref><ref name=橋本謙二2020b></ref>  
</pubmed></ref>  


 1997年に健常者を対象としたケタミン異性体の報告がスイスから発表された。この論文では、(S)-ケタミンは健常者において精神病惹起作用や解離症状を引き起こすが、同じ投与量の(R)-ケタミンはこのような症状を引き起こさず、逆にリラックスな症状をもたらしたことを報告した<ref name=Vollenweider1997><pubmed>9088882</pubmed></ref>(32)。このようにケタミンの副作用は、主に(S)-ケタミンが寄与しており、(R)-ケタミンの寄与は低いと報告されている<ref name=Zanos2018><pubmed>29945898</pubmed></ref> (33)。
 1997年に健常者を対象としたケタミン異性体の報告がスイスから発表された。この論文では、(S)-ケタミンは健常者において精神病惹起作用や解離症状を引き起こすが、同じ投与量の(R)-ケタミンはこのような症状を引き起こさず、逆にリラックスな症状をもたらしたことを報告した<ref name=Vollenweider1997><pubmed>9088882</pubmed></ref>(32)。このようにケタミンの副作用は、主に(S)-ケタミンが寄与しており、(R)-ケタミンの寄与は低いと報告されている<ref name=Zanos2018><pubmed>29945898</pubmed></ref> (33)。