「セルアセンブリ」の版間の差分

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|text= 1940年代後半にカナダの心理学者[[D.O.Hebb]]により定義された脳内(主として[[大脳皮質]]内)において単一の[[知覚]]・記憶対象の表現に関与する機能的な細胞の集団。Hebbの著作である”Organization of Behavior”の邦訳においては「[[細胞集成体]]」と命名された。異なる知覚対象の入力に対しては、発達前または学習前の構造化されていない細胞間の結合を反映してネットワークの統計的・物理的特性として異なる細胞集団の活動が生じる。Hebbは、互いに時間的相関を持って発火する細胞間には[[シナプス]]結合を強化する機構([[ヘッブシナプス]])が存在することを仮定し、[[知覚]]対象の繰り返しの入力により、同時に[[発火]]活動を上昇させる細胞集団の選択と固定化が自己組織化されると考えた。これは、初期には物理的特性として選択された細胞集団が、[[学習]]により特定の知覚・[[記憶]]対象と機能的に因果関係を形成すると言う情報[[符号化]]原理を提唱した点に大きな意義がある。セルアセンブリを構成する細胞は発火活動の相関により同定されるが、相関を定義する時間スケールにより、心理学的な時間スケール(数百ミリ秒)での平均発火率の相関に基づくセルアセンブリと数ミリ秒以下の[[スパイク]]発火タイミングの時間相関に基づくセルアセンブリに大別され、それぞれが独立に研究対象となっている。近年は、複数細胞のスパイク活動の同時計測([[多細胞活動同時記録]]、マルチニューロンレコーディング)の技術的発展により、セルアセンブリの実験的検証が可能となっている。
|text= 1940年代後半にカナダの心理学者Donald O.Hebbにより定義された脳内(主として[[大脳皮質]]内)において単一の[[知覚]]・記憶対象の表現に関与する機能的な細胞の集団。Hebbの著作である”Organization of Behavior”の邦訳においては「[[細胞集成体]]」と命名された。発達前または知覚対象の学習前の脳のネットワークにおいては、異なる知覚対象の入力に対する機能的な構造が存在せず、ネットワーク結合の統計的・物理的な特性のみに従って、“機能的な意味”を持たずに細胞集団の活動が生じる。Hebbは、互いに時間的相関を持って発火する細胞間には[[シナプス]]結合を強化する機構([[ヘッブシナプス]])が存在することを仮定し、[[知覚]]対象の繰り返しの入力により、同時に[[発火]]活動を上昇させる細胞集団の選択と固定化が自己組織化されると考えた。これは、初期には物理的特性として選択された細胞集団が、[[学習]]により特定の知覚・[[記憶]]対象と機能的に因果関係を形成すると言う情報[[符号化]]原理を提唱した点に大きな意義がある。セルアセンブリを構成する細胞は発火活動の相関により同定されるが、相関を定義する時間スケールにより、心理学的な時間スケール(数百ミリ秒)での平均発火率の相関に基づくセルアセンブリと数ミリ秒以下の[[スパイク]]発火タイミングの時間相関に基づくセルアセンブリに大別され、それぞれが独立に研究対象となっている。近年は、複数細胞のスパイク活動の同時計測([[多細胞活動同時記録]]、マルチニューロンレコーディング)の技術的発展により、セルアセンブリの実験的検証が可能となっている。
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== 歴史的経緯およびその概念 ==
== 歴史的経緯およびその概念 ==


 脳で行われる情報処理の機能を単一細胞のレベルで検討するか、複数の細胞の集団(セルアセンブリ)のレベルで検討するかは、20世紀初頭の神経細胞の発見以来継続する議論である。歴史的には、脳科学の黎明期における脳の全体論と局在論の議論と共通する論理構造を持っていると思われる。記述レベルの変遷はあるが、全体論と局在論は常に交互に時代のパラダイムとして登場している。脳の構成要素([[領野]]、[[ニューロン]]、[[イオンチャンネル]]、[[伝達物質]]、[[wikipedia:ja:遺伝子|遺伝子]]など)の詳細が不明な状態では、想像力が必要となるため全体論的な枠組みが必然となる。一方、脳の構成要素の詳細が実験的に明らかとなると、その物理的実体を中心として機能を議論するために局在論が主流となる。そして、この構成要素のレベルだけでは解明できない新たな現象が明らかとなり、新たな記述レベルでの全体論が再登場する。60年代の[[wikipedia:Vernon Benjamin Mountcastle|Mountcastle]]や[[wikipedia:David H. Hubel|Hubel]] & [[wikipedia:Torsten Wiesel|Wiesel]]の機能的に特殊化した単一細胞の発見により局在論が主流となり、Hebbのセルアセンブリの概念は忘れられていたが、近年の神経ネットワークを対象とする研究への移行に伴って再登場している。
 脳で行われる情報処理の機能を単一細胞のレベルで検討するか、複数の細胞の集団(セルアセンブリ)のレベルで検討するかは、20世紀初頭の神経細胞の発見以来継続する議論である。歴史的には、脳科学の黎明期における脳の全体論と局在論の議論と共通する論理構造を持っていると思われる。記述レベルの変遷はあるが、全体論と局在論は常に交互に時代のパラダイムとして登場している。脳の構成要素([[領野]]、[[ニューロン]]、[[イオンチャンネル]]、[[伝達物質]]、[[wikipedia:ja:遺伝子|遺伝子]]など)の詳細が不明な状態では、想像力が必要となるため全体論的な枠組みが必然となる。一方、脳の構成要素の詳細が実験的に明らかとなると、その物理的実体を中心として機能を議論するために局在論が主流となる。そして、この構成要素のレベルだけでは解明できない新たな現象が明らかとなり、新たな記述レベルでの全体論が再登場する。50年代後半から60年代の[[wikipedia:Vernon Benjamin Mountcastle|Mountcastle]]や[[wikipedia:David H. Hubel|Hubel]] & [[wikipedia:Torsten Wiesel|Wiesel]]の機能的に特殊化した単一細胞の発見により局在論が主流となり、Hebbのセルアセンブリの概念は忘れられていたが、近年の神経ネットワークを対象とする研究への移行に伴って再登場している。


 複数の神経細胞が何らかの特性に関して共通性を持つ場合には、これらの細胞集団をセルアセンブリと定義することが可能である。共通性を定義する特性は、解剖学的な結合様式(例えば、特定の領野からの投射を受けている細胞全体など)である場合も考えられる。解剖学的な特性から定義されたセルアセンブリに関しては、シナプス結合の[[可塑性]]の時間スケールは心理学的な時間スケール(数百ミリ秒)より十分に長いという前提の下では、集団を構成する細胞メンバーは固定化された静的なものであると考える。しかし、現在の神経科学において、セルアセンブリは単に解剖学的な結合特性からではなく、機能的な特性に共通性を持つ細胞集団の概念として使用されることが一般的である。この意味でのセルアセンブリの概念を最初に提案したのはD.O.Hebb <ref name=ref1>'''Donald O. Hebb'''<br>The organization of behavior – a neuropsychological theory.<br>John Wiley & Sons Inc. 1949. </ref>であると考えられる。
 複数の神経細胞が何らかの特性に関して共通性を持つ場合には、これらの細胞集団をセルアセンブリと定義することが可能である。共通性を定義する特性は、解剖学的な結合様式(例えば、特定の領野からの投射を受けている細胞全体など)である場合も考えられる。解剖学的な特性から定義されたセルアセンブリに関しては、シナプス結合の[[可塑性]]の時間スケールは心理学的な時間スケール(数百ミリ秒)より十分に長いという前提の下では、集団を構成する細胞メンバーは固定化された静的なものであると考える。しかし、現在の神経科学において、セルアセンブリは単に解剖学的な結合特性からではなく、機能的な特性に共通性を持つ細胞集団の概念として使用されることが一般的である。この意味でのセルアセンブリの概念を最初に提案したのはD.O.Hebb <ref name=ref1>'''Donald O. Hebb'''<br>The organization of behavior – a neuropsychological theory.<br>John Wiley & Sons Inc. 1949. </ref>であると考えられる。
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==  セルアセンブリの実験的検証 ==
==  セルアセンブリの実験的検証 ==


 Hebbがセルアセンブリの概念を提唱した当時は、皮質内の単一細胞の[[細胞外記録]]が技術的限界であったため、セルアセンブリの存在の実験的検証は不可能であった。単一細胞の活動記録技術が確立し、脳の異なる領野において個々の細胞が外界刺激変数に対して高度に特殊化した反応特性を示すことが発見されると、情報処理の機能を単一細胞レベルで議論する研究が中心となった。例えば、[[Lettvin]]らの著名な論文”What frog’s eye tells to brain”やMountcastleやHubel & Wieselらの機能的に特化した細胞の構成による[[コラム構造]]などの発見である。
 Hebbがセルアセンブリの概念を提唱した当時は、皮質内の単一細胞の[[細胞外記録]]が技術的限界であったため、セルアセンブリの存在の実験的検証は不可能であった。単一細胞の活動記録技術が確立し、脳の異なる領野において個々の細胞が外界刺激変数に対して高度に特殊化した反応特性を示すことが発見されると、情報処理の機能を単一細胞レベルで議論する研究が中心となった。例えば、[[Lettvin]]らの著名な論文 "What the frog's eye tells the frog's brain”やMountcastleやHubel & Wieselらの機能的に特化した細胞の構成による[[コラム構造]]などの発見である。


 しかし、単一細胞の発火率という一変数だけでは表現の自由度が足りず(例えば、[[視覚皮質]]の[[方位選択性]]細胞の発火率の変化だけから刺激方位の変化とコントラストの変化の両方を復号化することは不可能である)、異なる反応特性を示す細胞集団によるポピュレーション平均または活動プロファイルという情報表現形式(集団符号化)が検討される必要が生じた。また、刺激に対する単一試行の細胞活動には大きな確率的変動性 (variability) が存在することから、同一または類似した反応特性を示す細胞集団に渡るアンサンブル平均による神経反応の信頼性の向上の必要性が議論されている。
 しかし、単一細胞の発火率という一変数だけでは表現の自由度が足りず(例えば、[[視覚皮質]]の[[方位選択性]]細胞の発火率の変化だけから刺激方位の変化とコントラストの変化の両方を復号化することは不可能である)、異なる反応特性を示す細胞集団によるポピュレーション平均または活動プロファイルという情報表現形式(集団符号化)が検討される必要が生じた。また、刺激に対する単一試行の細胞活動には大きな確率的変動性 (variability) が存在することから、同一または類似した反応特性を示す細胞集団に渡るアンサンブル平均による神経反応の信頼性の向上の必要性が議論されている。