マーの小脳理論

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川人光男
株式会社 国際電気通信基礎技術研究所 脳情報通信総合研究所
DOI:10.14931/bsd.7706 原稿受付日:2018年7月23日 原稿完成日:2018年8月8日
担当編集委員:田中 啓治(独立行政法人理化学研究所 脳科学総合研究センター)

英語名: David Marr’s theory of cerebellum

 David Marrは、1960年代に明らかになった小脳の生理学と解剖学のデータに基づいて、小脳に関する運動学習理論を提案した。プルキンエ細胞の平行線維入力と登上繊維入力の連合による教師あり学習のモデルである。その後の50年間の実験と理論研究の成果に基づいて、再評価を試みる。教師あり運動学習以外のモデルの主要な要素、LTP、プルキンエ細胞が小脳で唯一のシナプス可塑性の座、離散信号によるパターン識別、顆粒細胞層のコドン仮説などは、現在の実験データや主要な理論から考えて、ほぼ否定されるか、もしくは積極的には支持されない。しかし、この理論は小脳の理論と実験研究の進展に大きな影響を及ぼした。

理論の概要

 小脳の神経回路は、神経生理学解剖学の研究により1960年代半ばには概要が解明されたが[1]、その機能を統一的に説明する理論はなかった。

 David Marrは、Giles S Brindleyをメンターとして執筆した博士論文の一部として小脳皮質の理論を提案し、1969年にJournal of Physiology誌に発表した[2]。理論では、小脳皮質の唯一の出力細胞であるプルキンエ細胞への2つの主要な興奮性シナプス入力である平行線維入力と登上線維入力の間に連合的なシナプス可塑性を仮定した。小脳皮質は、苔状線維入力から運動に必要な運動司令を計算することを、上記のシナプス可塑性に基づいて学習する神経回路であると提案した。苔状線維入力は運動の文脈信号を提供し、顆粒細胞でスパース符号化されて、平行線維入力となり、プルキンエ細胞を興奮させる。一方、登上線維入力は、大脳からの運動司令の教師信号を提供し、プルキンエ細胞が、運動の文脈情報から適切な運動司令を連合できるような、教師あり学習が生じていると提案した。

理論の要素の評価

 理論の6つの主要な要素について、詳しく述べるとともに、現在までに得られた実験データや、最近のモデルの進歩から考えて、どのように評価されるかを順に説明する。

運動学習の理論

 小脳皮質が運動学習において重要な役割を果たしていることに関しては、大多数の研究者の合意が得られている[3]。小脳の機能に関する他の主要な仮説、タイミング制御リズム説とも背反するものではないことが理論的に明らかにされてきた[4]

登上線維による教師あり学習

 最近の計算論的神経科学では、学習を教師あり学習、強化学習、教師無し学習に分類する[5]

 ニューロンが教師無し学習を実現しようとすれば、ヘッブ則に基づいてシナプス荷重を変更する必要がある。つまり、シナプスに入力があり、後シナプスニューロンが発火したとき、そのシナプスが選択的に増強される。これが成立するためには、ニューロンが発火したという情報をシナプスまで伝達する必要がある。大脳皮質海馬錐体細胞では、軸索初節から樹状突起の末端部に向けて逆伝搬する活動電位がこの情報伝搬を実現している。

 強化学習は、このヘッブ則に加えて、ドーパミンなどのモノアミンがシナプス可塑性を修飾する機構により実現されている。

 しかし、プルキンエ細胞では樹状突起の分岐が著しいため、樹状突起の末梢側が電気的に大きな負荷になるなどの理由で、活動電位逆伝搬が起きない。また錐体細胞でシナプス前活動と逆伝搬した活動電位の同時性検出を司るNMDA型グルタミン酸受容体が成体のプルキンエ細胞に存在しない。つまり、ヘッブ則を実現することができない。

 その一方で、プルキンエ細胞では登上線維が活動すると、樹状突起で大きな脱分極が引き起こされる。その数十から100ミリ秒程度前に平行線維入力があったスパインでは、代謝型グルタミン酸受容体の活性化を経由してイノシトール3リン酸が数十ミリ秒の時間経過で増加する。脱分極でスパイン内に流入したカルシウムイオンとイノシトール3リン酸増加の同時性検出が、カルシウムを貯蔵している小胞体イノシトール3リン酸受容体で行われる。つまり平行線維入力と数十ミリ秒程度遅れた登上線維入力の同時性が小胞体からのカルシウム誘導カルシウム放出をおこして、スパイン内のカルシウム濃度が数十マイクロモルオーダーで増加し、シナプス特異的、また2種類の興奮性入力の間で連合的にシナプス可塑性が生じる[6][7]

 まとめると、理論で提案された教師あり学習は、プルキンエ細胞の電気生理と分子神経科学および最近のモデル研究からも支持されている。

長期増強か長期抑圧か

 Marrは、平行線維入力と登上線維入力が同時に興奮すると、活動した平行線維シナプスが増強されると提案した。ほぼ同時期に、Albus伊藤正男は、シナプスが減弱すると提案した[8][9]。実験的に後者が正しいことが示された[10]。計算論的には、同じ教師あり学習とは言っても、登上線維入力が教師信号を与えるのであれば長期増強が、誤差信号を与えるのであれば長期抑圧が理論的には必要となる。計算論的には、登上線維入力が誤差信号を与えているので、小脳皮質単独では運動制御を学習できないし、遂行もできないと結論できる。つまり、小脳以外に運動制御の主体があり、その不完全性を補足する役割しか果たし得ないと、シナプス可塑性と登上線維入力の情報から結論できる。この計算論的観点からすると、長期増強か長期抑圧かの違いは大きいといえる。

プルキンエ細胞が唯一のシナプス可塑性の座

 Marrは、小脳では、プルキンエ細胞の平行線維入力に唯一のシナプス可塑性があると提案したが、プルキンエ細胞上の抑制性シナプス、小脳皮質の分子層介在ニューロン、顆粒細胞、小脳核細胞にもシナプス可塑性があることが明らかになった[11]。しかし、異なるニューロン種での学習の能力を比較するためには、可塑性を有するシナプスの数を比較する必要がある。

 プルキンエ細胞の総数は1千5百万で、一細胞あたり平行線維シナプスが80万個あるから、シナプス総数は十兆である。顆粒細胞は5百億個あるが、シナプス数は4.5であるから、シナプス総数は2千億で、プルキンエ細胞のシナプス総数より、二桁少ない。ゴルジ細胞バスケット細胞はプルキンエ細胞より数が少なく、しかも細胞が小さいのでシナプス総数は三桁以上少ない。星状細胞の数はプルキンエ細胞の10倍程度あるが、著しく小さいのでシナプス数も少ない。小脳核細胞は数百万個程度しかない。従って、プルキンエ細胞は小脳の他の種類のニューロンを全て集めても、2桁シナプス数が多いことになる。

 学習機械の自由度は、パラメータの数で決まり、数が多いとそれだけ複雑な問題を解けることになる。定量的には、小脳の学習能力の殆どがプルキンエ細胞に由来すると考えられる。

離散信号によるパターン識別

 小脳は教師あり学習をしていると認めるとする。機械学習の教師ありアルゴリズムの目的は分類回帰に大別される。前者は信号パターンを複数のクラスに分類する事が目的である。一方、回帰では入力信号パターンから、ある関数によって計算される連続値の出力を近似することが目的である。分類と回帰は、それぞれ離散と連続の計算問題を機械学習、つまりパラメータ推定で解決すると整理できる。

 Marrは、小脳の役割は分類に対応する連合学習であると特徴付けたが、その後の神経科学のデータや理論は、むしろ回帰であることを示している[12][13][14][15]

 具体的には、例えば、サル追従眼球運動中の傍片葉プルキンエ細胞の瞬時発火頻度は、運動のキネマティクスや運動司令をよく表している[12][13]。また、小脳内部モデル理論では、運動制御対象の順モデルや逆モデルが学習で獲得されると提案するが、これは回帰問題である[14][15]

顆粒細胞層のコドン表現

 教師ありのシナプス可塑性により、運動学習が行われると言う可能性は、Brindleyがすでに言及していたので、Marrの小脳理論の最も独創的な部分は、顆粒細胞によるコドン表現である。

 小脳顆粒細胞はヒトでは500億個あり、脳内の他の全ての種類の神経細胞の総和より多い。4から5個の小さな樹状突起を持ち、同じ数の苔状線維から興奮性シナプス入力を受ける。顆粒細胞の総数は苔状線維の総数の200倍である。コドン仮説では、4から5本の苔状線維のうち、ある特定の組み合わせが興奮したときにのみ顆粒細胞が発火すると考える。現在の計算理論から考えると、コドン仮説はごく少数の顆粒細胞のみが発火するという意味でスパース符号化、苔状線維の符号から200倍の数の顆粒細胞の空間に拡張した符号化 expansion codingと言える。

 これによって、複数の顆粒細胞が同時に興奮する文脈の数を著しく減らし、小脳皮質の入出力の間の連想記憶の学習を、複数の文脈(入力)の間での干渉を減らして行えると考えた。

 最近10年間で覚醒あるいは行動下の動物で顆粒細胞から細胞内記録パッチクランプをする事が可能になり、様々な小脳部位と感覚入力に対する顆粒細胞の応答が調べられた。その結果、コドン仮説はほぼ否定されたという主張もある[[16]

 まず、顆粒細胞は、一つの苔状線維の発火だけで高頻度の発火が可能で、出力の発火頻度は入力の発火頻度とほぼ線形の関係にある[17][18][19]。発火があるかないかの0−1表現ではなく、例えばシナプス入力頻度から頭部回転速度が再現されることなどからもわかるように、瞬時発火頻度で情報を符号化していることが分かった[19][20]

 それではコドン仮説は、理論的にも全く無意味なのだろうか。一概にそうとも言い切れない。上記の実験データは、前庭系皮膚感覚などの一種類のモダリティだけを直接受ける系統発生的に古い小脳部位か、もしくは除脳標本を用いて得られている。

 石川太郎らは、単一の顆粒細胞に体性感覚聴覚視覚の異なるモダリティを伝える、大脳皮質由来と思われる苔状線維入力が収束している例を発見し、組み合わせ刺激の場合の発火頻度が非線形性を示すことを明らかにした[21]

 苔状線維の起始細胞からプルキンエ細胞までの前向きの神経回路は浅い3層神経回路となっている。舟橋賢一は、中間層、つまり顆粒細胞の数が十分大きく、シナプスの加重を自由に取れるなら任意の関数を近似できることを数学的に証明した[22]。この関数近似能力は、非線形特性を持つ運動制御対象の逆モデルや順モデルを獲得するために必要となる計算能力である。顆粒細胞のシナプス可塑性に制限があるなら、この近似能力をあげるためには、複数の入力の組み合わせからなる様々な非線形関数が顆粒細胞でランダムに用意されている必要がある。

 0−1表現ではなく瞬時発火頻度表現で、分類ではなく回帰、連想記憶の容量ではなく内部モデルの精度の違いはあるとはいえ、理論の本質的な精神は生き残っていると言えるのかもしれない。

 最近のMRIを用いたヒト小脳の灰白質と入力線維束の定量的測定から、外側小脳と虫部では苔状線維から顆粒細胞の数の拡大率が違うことが明らかになった。外側小脳の灰白質の体積は、虫部の体積の11.4倍である[23]。顆粒細胞の数は灰白質の体積に比例していると考えられるので、外側小脳は虫部よりも顆粒細胞数が11.4倍あることになる。一方、脊髄小脳経路と複数の大脳皮質−−小脳経路の体積が計測され、計測範囲では脊髄小脳経路の長さは、大脳−小脳経路の長さの半分以下である[24]。神経束の断面積は体積を長さで割って求めることが出来るので、上記の計測データから、大脳小脳経路の断面積は脊髄小脳経路の2.8倍以下であると推定できる。苔状線維の太さが一様であると仮定すれば、外側小脳の苔状線維の本数は虫部の2.8倍以下と推定される。つまり、外側部の苔状線維:顆粒細胞の拡大率が200倍だとして、虫部のそれは200*2.8/11.4=49倍以下であると推定される。非常に大きな拡大率は、多次元の入力の任意な組み合わせの神経表現を必要とする系統発生的に新しい大脳小脳に特有である可能性が有る。必ずしもそのような難しい計算を必要としない脊髄小脳では拡大率が1/4、前庭小脳ではさらに低い可能性もある。

 コドン仮説に反する実験データが、主には除脳標本麻酔下、そして系統発生的に古い小脳から得られていることを考えると、理論の本質は系統発生的に新しい小脳の自然な条件では生き残っていると言える。

小脳研究に与えたインパクト

 小脳研究に与えたインパクトは、理論に対しても実験に対しても大きかったが、Marrが視覚の計算理論の研究に転じ、夭折したことから、支持する側からも、反対する側からもその予測が皮相的に取り扱われる嫌いがあったことは否めない。コドン仮説などはその典型である。Marrの理論が提案されてから五十年が経過し、理論の要素を現在の実験データと計算理論に照らし合わせて、丁寧に再評価する時期に来ていると思われる。

関連項目

参考文献

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The Cerebellum as a Neuronal Machine.
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