「健忘症候群」の版間の差分

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== 健忘症候群を来す主な疾患  ==
== 健忘症候群を来す主な疾患  ==


 記憶に関係する脳部位の障害による、記憶障害を主症状とする病態を総称して[[健忘症候群]]という。損傷された脳の部位や病変の大きさ、原因疾患により臨床症状はさまざまである(表1)。一般に損傷が優位半球(左半球)の場合は言語性記憶、劣位半球(右半球)の場合は視覚性記憶の障害が優勢となる。また、前脳基底部の障害による健忘と、それ以外の部位すなわち側頭葉や、乳頭体や視床などを含む間脳の障害による健忘のあいだに、質的相違を認めたとする報告もある<ref name=ref11>'''武田克彦、御園生 香'''<br>記憶と前脳基底部.In: 高倉公明、宮本忠雄監修<br>''記憶とその障害の最前線''、メディカル・ビュー社、東京、1998、pp.115-122.</ref>。Damasio <ref name=ref12><pubmed>3977657</pubmed></ref>は、前脳基底部の損傷による健忘の特徴として、①名前や顔などの個別の情報は覚えられるが、それらの統合ができない、②刺激を時間的に正しく配列して記銘することができず、仮にできたとしても適切に想起することができない、③再生課題の成績が手がかり・ヒントによりかなり改善する、としている。前脳基底部から脳内に広く投射するアセチルコリン神経の障害による健忘と、PapezやYakovlevの閉鎖回路の断絶により生じた健忘という機序の違いを鑑みると、両者の健忘に質的相違が存在することは十分考えられる。しかし、両者に特別な違いはないとする報告もあり<ref name=ref13><pubmed>2259428</pubmed></ref>、さらなる検討を要する。  
 損傷された脳の部位や病変の大きさ、原因疾患により臨床症状はさまざまである(表1)。一般に損傷が優位半球(左半球)の場合は言語性記憶、劣位半球(右半球)の場合は[[視覚性記憶]]の障害が優勢となる。また、前脳基底部の障害による健忘と、それ以外の部位すなわち側頭葉や、乳頭体や視床などを含む間脳の障害による健忘のあいだに、質的相違を認めたとする報告もある<ref name=ref11>'''武田克彦、御園生 香'''<br>記憶と前脳基底部<br>In: 高倉公明、宮本忠雄監修 ''記憶とその障害の最前線、メディカル・ビュー社''、東京、1998、pp.115-122.</ref>。Damasio <ref name=ref12><pubmed>3977657</pubmed></ref>は、前脳基底部の損傷による健忘の特徴として、
 
#名前や顔などの個別の情報は覚えられるが、それらの統合ができない。
#刺激を時間的に正しく配列して記銘することができず、仮にできたとしても適切に想起することができない。
#再生課題の成績が手がかり・ヒントによりかなり改善する。
 
 としている。前脳基底部から脳内に広く投射するアセチルコリン神経の障害による健忘と、PapezやYakovlevの閉鎖回路の断絶により生じた健忘という機序の違いを鑑みると、両者の健忘に質的相違が存在することは十分考えられる。しかし、両者に特別な違いはないとする報告もあり<ref name=ref13><pubmed>2259428</pubmed></ref>、さらなる検討を要する。  


 以下、主な疾患について説明する。  
 以下、主な疾患について説明する。  
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=== 視床梗塞/出血  ===
=== 視床梗塞/出血  ===


 視床は脳梗塞、脳出血の好発部位で、その障害によって生じた健忘を視床性健忘という。視床は、血管性認知症のstrategic infarctionの責任病巣の一つで、脳底動脈の遠位部が閉塞すると両側視床が一度に障害され覚醒度の障害、健忘、眼球運動障害を呈する(Top of the basilar syndrome)。視床性健忘は普通、エピソード記憶の障害に限られ、意味記憶や手続き記憶は保たれる。前向性健忘が主体であるが、逆行性健忘も伴うこともある。側頭葉障害での健忘と視床性健忘とでは、前向性健忘の性質が異なるとされる<ref name=ref14>'''佐藤正之、葛原茂樹'''<br>視床性痴呆.神経内科、60: 28-32, 2004.</ref>。すなわち、側頭葉障害の場合には記憶の貯蔵が障害され早い忘却率を示すのに対し、視床性健忘では時間をかけるとかなりの程度まで記憶が可能で忘却率も低いが、記憶した内容の時間的・空間的な文脈が障害される。これは視床性健忘では、記憶の符号化や記銘が主として障害されるのに対し、想起は比較的保たれていることを示唆する。  
 視床は[[wikipedia:ja:脳梗塞|脳梗塞]]、[[wikipedia:ja:脳出血|脳出血]]の好発部位で、その障害によって生じた健忘を視床性健忘という。視床は、血管性認知症のstrategic infarctionの責任病巣の一つで、[[wikipedia:ja:脳底動脈|脳底動脈]]の遠位部が閉塞すると両側視床が一度に障害され覚醒度の障害、健忘、[[眼球運動]]障害を呈する(Top of the basilar syndrome)。視床性健忘は普通、エピソード記憶の障害に限られ、意味記憶や手続き記憶は保たれる。前向性健忘が主体であるが、逆行性健忘も伴うこともある。側頭葉障害での健忘と視床性健忘とでは、前向性健忘の性質が異なるとされる<ref name=ref14>'''佐藤正之、葛原茂樹'''<br>視床性痴呆.神経内科、60: 28-32, 2004.</ref>。すなわち、側頭葉障害の場合には記憶の貯蔵が障害され早い忘却率を示すのに対し、視床性健忘では時間をかけるとかなりの程度まで記憶が可能で忘却率も低いが、記憶した内容の時間的・空間的な文脈が障害される。これは視床性健忘では、記憶の符号化や記銘が主として障害されるのに対し、想起は比較的保たれていることを示唆する。  


=== ヘルペス脳炎  ===
=== ヘルペス脳炎  ===


 [[単純ヘルペスウイルス]](HSV)による脳炎で、成人発症の脳炎の約20%を占め、1型(HSV-1)が大部分である。HSV-1は、空気や唾液の接触で伝播し、初感染の後は[[三叉神経節]]に潜伏する。何年も後に再活性化し[[wikipedia:JA:口唇ヘルペス|口唇ヘルペス]]を生じ、三叉神経を介して脳底部の[[wikipedia:JA:髄膜|髄膜]]に到達し、側頭葉や前頭葉眼窩面で脳炎を起こす。HSV-1による脳炎の25%は、初回の直接感染で生じる。動物実験の結果から、[[嗅神経]]を介して感染し前頭葉眼窩面や側頭葉に到達すると考えられている。急性に発熱、頭痛、意識障害が進行し、後遺症を残すこともある。クリューバー-ビューシー症候群(Klüver-Bucy syndrome)は両側側頭葉前部を切除されたサルの動物実験での行動異常として報告されたが、ヘルペス脳炎でも認めることがある。口唇傾向、馴化、視覚失認、性欲亢進、異食などを呈し、ヒトの場合特に前二者が目立つことが多い。  
 [[wikipedia:ja:単純ヘルペスウイルス|単純ヘルペスウイルス]](HSV)による脳炎で、成人発症の脳炎の約20%を占め、1型(HSV-1)が大部分である。HSV-1は、空気や唾液の接触で伝播し、初感染の後は[[三叉神経節]]に潜伏する。何年も後に再活性化し[[wikipedia:JA:口唇ヘルペス|口唇ヘルペス]]を生じ、三叉神経を介して脳底部の[[wikipedia:JA:髄膜|髄膜]]に到達し、側頭葉や前頭葉眼窩面で脳炎を起こす。HSV-1による脳炎の25%は、初回の直接感染で生じる。動物実験の結果から、[[嗅神経]]を介して感染し前頭葉眼窩面や側頭葉に到達すると考えられている。急性に発熱、頭痛、意識障害が進行し、後遺症を残すこともある。クリューバー-ビューシー症候群(Klüver-Bucy syndrome)は両側側頭葉前部を切除されたサルの動物実験での行動異常として報告されたが、ヘルペス脳炎でも認めることがある。口唇傾向、馴化、視覚失認、性欲亢進、異食などを呈し、ヒトの場合特に前二者が目立つことが多い。  


=== 前脳基底部損傷(前交通動脈瘤破裂)  ===
=== 前脳基底部損傷(前交通動脈瘤破裂)  ===
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=== 一過性全健忘(Transient global amnesia, TGA)  ===
=== 一過性全健忘(Transient global amnesia, TGA)  ===


 [[一過性全健忘]](TGA)とは、一過性に強い前向性健忘と、さまざまな程度の逆行性健忘を生じる病態で、通常は24時間以内に元通りになる。発作の間の記憶は戻らないこともある。患者は一見正常に活動しているように見えるが、当惑し同じ質問を何度もする。“何かいつもと違う状態が自分に生じている”という病識はある。原因は不明であるが海馬の一過性虚血、てんかん、静脈灌流異常などの可能性が指摘されている。  
 [[一過性全健忘]](TGA)とは、一過性に強い前向性健忘と、さまざまな程度の逆行性健忘を生じる病態で、通常は24時間以内に元通りになる。発作の間の記憶は戻らないこともある。患者は一見正常に活動しているように見えるが、当惑し同じ質問を何度もする。“何かいつもと違う状態が自分に生じている”という病識はある。原因は不明であるが海馬の一過性虚血、てんかん、静脈灌流異常などの可能性が指摘されている。


== まとめ  ==
== まとめ  ==