「妄想」の版間の差分

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== 定義 ==
== 定義 ==
   
   
 一般に、妄想 (delusion) とは患者の教育的、文化的、社会的背景に一致しない誤った揺るぎない観念 (idea) ないし信念 (belief) と定義される。妄想と真の信念との相違は、妄想では明らかな反証があっても確信が保持されることによる。ただし、妄想と真の信念と区別は患者が主観的に行いうるものではなく、ある確信が妄想的か否かという判断は外部の観察者によって行われる。すなわち、その内容が非蓋然的(ありそうにない)であることに対する患者の判断が誤っているとされる場合、その確信は妄想とされる[5]。
 一般に、妄想 (delusion) とは患者の教育的、文化的、社会的背景に一致しない誤った揺るぎない観念 (idea) ないし信念 (belief) と定義される。妄想と真の信念との相違は、妄想では明らかな反証があっても確信が保持されることによる。ただし、妄想と真の信念と区別は患者が主観的に行いうるものではなく、ある確信が妄想的か否かという判断は外部の観察者によって行われる。すなわち、その内容が非蓋然的(ありそうにない)であることに対する患者の判断が誤っているとされる場合、その確信は妄想とされる<ref name=ref5>'''針間博彦'''<br>妄想. 樋口輝彦編:今日の精神疾患治療指針<br>''医学書院''、東京、2012</ref>。
 
 [[DSM-5]]<ref name=ref4>'''American Psychiatric Association'''<br>Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders. 5th ed. <br>''Washington DC, APA'', 2013</ref>では、妄想は次のように説明される(1-3の番号は筆者による)


 [[DSM-5]][4]では、妄想は次のように説明される(1-3の番号は筆者による)。
(1)「妄想とは、外部の現実に関する不正確な推論に基づく誤った信念 (belief) であり、他のほとんどの人が信じていることに反しているにもかかわらず、また議論の余地のない明白な証拠や反証にもかかわらず、強固に維持される。その信念はその人の文化や下位文化の他の成員が通常受け入れているものではない(すなわち、宗教的信条ではない)」<br>
(1)「妄想とは、外部の現実に関する不正確な推論に基づく誤った信念 (belief) であり、他のほとんどの人が信じていることに反しているにもかかわらず、また議論の余地のない明白な証拠や反証にもかかわらず、強固に維持される。その信念はその人の文化や下位文化の他の成員が通常受け入れているものではない(すなわち、宗教的信条ではない)」<br>
(2)「誤った信念が価値判断を含む場合、その判断が信用できないほど極端な場合にのみ妄想とみなされる」<br>
(2)「誤った信念が価値判断を含む場合、その判断が信用できないほど極端な場合にのみ妄想とみなされる」<br>
(3)「妄想的確信はときに優格観念から推論されうる(後者の場合、不合理な信念や観念を有しているが、妄想の場合ほど強固に信じていない)」<br>
(3)「妄想的確信はときに優格観念から推論されうる(後者の場合、不合理な信念や観念を有しているが、妄想の場合ほど強固に信じていない)」<br>


 (1)は妄想の定義であり、[[DSM-III]][1] からほぼ不変である。これを要約すれば、妄想は1)強固に維持される誤った信念である、2)不正確な推論に基づく、3)証拠や反証にかかわらず維持される、4)その人の文化的背景に反している、ということによって特徴付けられる。これは、Jaspers, K. [8]による妄想の外的メルクマールである、1. 著しい主観的確実性と尋常でない[[確信度]]、2. 経験にも説得力のある反論にも影響されえない、3. 内容が不可能である、と極めて類似している。すなわち1)は1.に、3)は2.に、4)は部分的に3.に対応していて、2)のみが新たに加えられた指標である。しかし、Jaspersがこの妄想の外的メルクマールを示した後に、発生的了解が不能な真正妄想と、それが可能な妄想様観念の区別を強調しているのに対し、DSMではそうした区別は行なわれていない。
 (1)は妄想の定義であり、[[DSM-III]]<ref name=ref1>'''American Psychiatric Association'''<br>Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders. 3rd ed. <br>''Washington DC, APA'', 1980</ref>からほぼ不変である。これを要約すれば、妄想は1)強固に維持される誤った信念である、2)不正確な推論に基づく、3)証拠や反証にかかわらず維持される、4)その人の文化的背景に反している、ということによって特徴付けられる。これは、Jaspers, K.<ref name=ref8>'''Jaspers,K.'''<BR>Allgemeine Psyhopathologie. 5 Aufl.<BR>''Springer'',Berlin,1948<BR>内村裕之、西丸四方、島崎敏樹ほか(訳)<BR>精神病理学総論<BR>岩波書店、東京、1953</ref>による妄想の外的メルクマールである、1. 著しい主観的確実性と尋常でない[[確信度]]、2. 経験にも説得力のある反論にも影響されえない、3. 内容が不可能である、と極めて類似している。すなわち1)は1.に、3)は2.に、4)は部分的に3.に対応していて、2)のみが新たに加えられた指標である。しかし、Jaspersがこの妄想の外的メルクマールを示した後に、発生的了解が不能な真正妄想と、それが可能な妄想様観念の区別を強調しているのに対し、DSMではそうした区別は行なわれていない。


 (2)は妄想と誤判断との区別であり、(3)は妄想と優格観念との区別である。DSM-III、III-R[2]では「妄想は優格観念からも区別することができる」と説明され、妄想の「あるかないか」という性質が強調された。だが[[DSM-IV]] [3]では一転して、優格観念との区別は困難であるとされ、その根拠として、(2)と(3)の間に「妄想的確信は連続体上に生じる」という文言が追加された。DSM-5では、こうした考え方がさらに推し進められ、「妄想は優格観念から推論される」という表現に至っている。
 (2)は妄想と誤判断との区別であり、(3)は妄想と優格観念との区別である。DSM-III、III-R<ref name=ref2>'''American Psychiatric Association'''<BR>Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders. 3rd Ed, Revised. <BR>''Washington DC, APA'', 1987</ref>では「妄想は優格観念からも区別することができる」と説明され、妄想の「あるかないか」という性質が強調された。だが[[DSM-IV]]<ref name=ref3>'''American Psychiatric Association'''<BR>Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders. 4th Ed, Text Revision, <BR>''Washington DC, APA'', 2000.</ref>では一転して、優格観念との区別は困難であるとされ、その根拠として、(2)と(3)の間に「妄想的確信は連続体上に生じる」という文言が追加された。DSM-5では、こうした考え方がさらに推し進められ、「妄想は優格観念から推論される」という表現に至っている。


 まとめると、DSM-5ではJaspersによる妄想の外的メルクマールが採用され、妄想は正常な観念や信念とは質的に異なるという視点に立っている一方、妄想性の思考と非妄想性の思考の相違は確信の強度にあり、両者の間に明確な区別がないことも示唆しており、妄想の定義に矛盾が生じている。
 まとめると、DSM-5ではJaspersによる妄想の外的メルクマールが採用され、妄想は正常な観念や信念とは質的に異なるという視点に立っている一方、妄想性の思考と非妄想性の思考の相違は確信の強度にあり、両者の間に明確な区別がないことも示唆しており、妄想の定義に矛盾が生じている。


 一方、[[ICD-10]] [14]では妄想は定義されていない。だがWHOが別に用意した用語集[13]の中では、「現実とも、また患者の背景や文化が有する社会的に共有された信念とも一致しない、誤った訂正不能な確信ないし判断」と定義される。この定義は、「不正確な推論に基づく」という指標がないことを除けば、DSM-5のものと基本的に同一である。用語集では、続けて「一次妄想は、患者の生活史・パーソナリティから本質的に了解不能である。二次妄想は心理学的に了解可能であり、病的および他の精神状態、たとえば感情障害や猜疑心から生じる。1908年にBimbaumに、また1913年にJaspersによって真正妄想と妄想様観念との区別が行われた。後者は過度に保持される誤判断にすぎない」と記載され、DSMとは異なり、了解可能性による一次妄想(真正妄想)と二次妄想(妄想様観念)との区別に触れている。ICD-10のテキストの中では、この区別は直接に触れられていないが、統合失調症の診断基準の中に、真正妄想の一形態である妄想[[知覚]]が挙げられている。
 一方、[[ICD-10]]<ref name=ref14>'''World Health Organization'''<BR>The ICD-10 Classification of Mental and Behavioural Disorders; Clinical descriptions and diagnostic guidelines. <BR>''WHO, Geneva'', 1992<BR>(融道男,中根允文,小見山実ら訳<BR>ICD-10 精神および行動の障害—臨床記述と診断ガイドライン、新訂版<BR>医学書院、東京、2005.)</ref>では妄想は定義されていない。だがWHOが別に用意した用語集<ref name=ref13>'''World Health Organization'''<BR>Lexicon of psychiatric and mental health terms. 2nd ed,<BR>''Geneva, WHO'', 1994</ref>の中では、「現実とも、また患者の背景や文化が有する社会的に共有された信念とも一致しない、誤った訂正不能な確信ないし判断」と定義される。この定義は、「不正確な推論に基づく」という指標がないことを除けば、DSM-5のものと基本的に同一である。用語集では、続けて「一次妄想は、患者の生活史・パーソナリティから本質的に了解不能である。二次妄想は心理学的に了解可能であり、病的および他の精神状態、たとえば感情障害や猜疑心から生じる。1908年にBimbaumに、また1913年にJaspersによって真正妄想と妄想様観念との区別が行われた。後者は過度に保持される誤判断にすぎない」と記載され、DSMとは異なり、了解可能性による一次妄想(真正妄想)と二次妄想(妄想様観念)との区別に触れている。ICD-10のテキストの中では、この区別は直接に触れられていないが、統合失調症の診断基準の中に、真正妄想の一形態である妄想[[知覚]]が挙げられている。


== 分類 ==
== 分類 ==
[5]
<ref name=ref5 />


===妄想の形式===
===妄想の形式===
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{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
|+ 表1.Schneiderの1級症状 [7 ]
|+ 表1.Schneiderの1級症状<ref name=ref7>'''針間博彦,岡田直大'''<BR>シュナイダーの1級症状について.妄想の臨床<BR>''新興医学出版社''、東京、p98-110,2013</ref>
|-
|-
| '''・3種の幻声'''<br>  考想化声、言い合う形の幻声、自身の行動と共に発言する幻声
| '''・3種の幻声'''<br>  考想化声、言い合う形の幻声、自身の行動と共に発言する幻声
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===DSM-5における妄想の分類====
===DSM-5における妄想の分類====
[6]
<ref name=ref6>'''針間博彦'''<BR>今日の操作的診断基準における妄想.妄想の臨床<BR>''新興医学出版社''、東京、p45-56,2013</ref>


 DSM-5では、妄想は内容によって表2のように下位分類されるが、形式による下位分類は行なわれていない。すなわち、一次妄想(真正妄想)と二次妄想(妄想様観念)は区別されず、したがって一次妄想である妄想気分、妄想着想、妄想知覚という区別は言及されていない。以下、関係妄想、気分に一致する/しない妄想、奇異な妄想に若干の注釈を加える。
 DSM-5では、妄想は内容によって表2のように下位分類されるが、形式による下位分類は行なわれていない。すなわち、一次妄想(真正妄想)と二次妄想(妄想様観念)は区別されず、したがって一次妄想である妄想気分、妄想着想、妄想知覚という区別は言及されていない。以下、関係妄想、気分に一致する/しない妄想、奇異な妄想に若干の注釈を加える。


{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
|+ 表2.DSM-5における妄想の分類 [4]
|+ 表2.DSM-5における妄想の分類<ref name=ref4 />
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| 被害妄想 誇大妄想 嫉妬妄想 被愛妄想 関係妄想 身体妄想 混合型<br>
| 被害妄想 誇大妄想 嫉妬妄想 被愛妄想 関係妄想 身体妄想 混合型<br>
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====気分に一致する/しない妄想====
====気分に一致する/しない妄想====
 DSM-IIIから-5までとICD-10(DCR)[15]では、気分障害に伴う精神病症状は、気分に一致するか否かが特定される。躁病エピソードに伴う幻覚や妄想は、その内容(主題)が誇大的なものであれば気分に一致し、うつ病エピソードに伴う幻覚や妄想は、その内容が微小的、自己非難であれば気分に一致するとされる。DSM-III、III-Rでは気分に一致しない幻声は、統合失調症の特徴的症状Aのうち一つあれば十分なものに含まれたが、[[DSM-IV-TR]]以降はこの要件が削除され、いかなる幻覚や妄想が存在しても、気分エピソード中であれば気分障害と診断されることになった。一方、ICD-10(DCR)では、幻覚妄想が統合失調症状(統合失調症の全般基準G1(1))であれば、気分に一致する/しないにかかわらず、気分障害は除外される。
 DSM-IIIから-5までとICD-10(DCR)<ref name=ref15>'''World Health Organization'''<BR>The ICD-10 Classification of Mental and Behavioural Disorders; Diagnostic criteria for research. <BR>''WHO'', Geneva, 1993<BR> (中根允文,岡崎祐士,藤原妙子ら訳<BR>ICD-10 精神および行動の障害—DCR研究用診断基準、新訂版<BR>''医学書院''、東京、2008.)</ref>では、気分障害に伴う精神病症状は、気分に一致するか否かが特定される。躁病エピソードに伴う幻覚や妄想は、その内容(主題)が誇大的なものであれば気分に一致し、うつ病エピソードに伴う幻覚や妄想は、その内容が微小的、自己非難であれば気分に一致するとされる。DSM-III、III-Rでは気分に一致しない幻声は、統合失調症の特徴的症状Aのうち一つあれば十分なものに含まれたが、[[DSM-IV-TR]]以降はこの要件が削除され、いかなる幻覚や妄想が存在しても、気分エピソード中であれば気分障害と診断されることになった。一方、ICD-10(DCR)では、幻覚妄想が統合失調症状(統合失調症の全般基準G1(1))であれば、気分に一致する/しないにかかわらず、気分障害は除外される。
  
  
====奇異な妄想====
====奇異な妄想====
 [[操作的診断基準]]における「奇異な妄想」は、Research Diagnostic Criteria(RDC) [11]に端を発する。妄想が奇異であるとは、DSM-5では「その人の文化が物理的にありえないと見なす現象に関するもの」と定義される。   
 [[操作的診断基準]]における「奇異な妄想」は、Research Diagnostic Criteria(RDC)<ref name=ref11>'''Spitzer R, Endicott J, Robins E.'''<BR>Research Diagnostic Criteria (RDC) for a Selected Group of Functional Disorders.<BR>''New York: New York State Psychiatric Institute, Biometrics Research''; 1975.</ref>に端を発する。妄想が奇異であるとは、DSM-5では「その人の文化が物理的にありえないと見なす現象に関するもの」と定義される。   


 DSM-IIIの作成に中心的役割を果たしたSpitzer, R, L. [12]によれば、奇異な妄想という概念は、Kraepelinが早発性痴呆(統合失調症)における妄想を「無意味性」という概念で規定し、またJaspersがそれを「了解不能」とみなしたことに由来するという。DSM-III以降、考想伝播、考想吹入、考想奪取、および感情・衝動・行動の領域における他者によるさせられ体験・被影響体験(被支配妄想delusion of controlと呼ばれる)は、すべて奇異な妄想に含まれる。
 DSM-IIIの作成に中心的役割を果たしたSpitzer, R, L.<ref name=ref12><PUBMED>8494062</PUBMED></ref>によれば、奇異な妄想という概念は、Kraepelinが早発性痴呆(統合失調症)における妄想を「無意味性」という概念で規定し、またJaspersがそれを「了解不能」とみなしたことに由来するという。DSM-III以降、考想伝播、考想吹入、考想奪取、および感情・衝動・行動の領域における他者によるさせられ体験・被影響体験(被支配妄想delusion of controlと呼ばれる)は、すべて奇異な妄想に含まれる。


 ICD-10では「奇異な妄想」という語は用いられていないが、統合失調症の全般基準(1)(d)「文化的に不適切でまったくありえない持続的妄想」は、DSMによる奇異な妄想の定義に一致する。ただし、考想伝播、考想吹入、考想奪取など考想被影響体験は(1)(a)に、また被支配妄想、被影響妄想は(1)(b)に含められおり、DSMとは異なり、これらを奇異な妄想に含めていない。
 ICD-10では「奇異な妄想」という語は用いられていないが、統合失調症の全般基準(1)(d)「文化的に不適切でまったくありえない持続的妄想」は、DSMによる奇異な妄想の定義に一致する。ただし、考想伝播、考想吹入、考想奪取など考想被影響体験は(1)(a)に、また被支配妄想、被影響妄想は(1)(b)に含められおり、DSMとは異なり、これらを奇異な妄想に含めていない。