「生命倫理」の版間の差分

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 また、脳科学の発展は、脳の特定部位の役割を明らかにしただけでなく、脳が大きな柔軟性をもっていることも明らかにしているため、ここから人間の自由を守ろうという方向もある。脳の特定部位が損傷を受けても、その部位が担っていた機能を脳の他の部位が引き受けることができるし、体のあり方がかわるだけで脳のあり方がかわることも明らかになりつつある。このことは、外部から脳のあり方やプロセスに影響を与えられる可能性を示していることになり、脳が一方的に心身のプロセスを支配しているのではないとも考えられる。いずれにしても、脳科学が、自由意志の位置づけの再検討、つまり責任能力や倫理的判断の土台となるものの位置づけの再検討、我々の人間観の再検討を迫っているのである。
 また、脳科学の発展は、脳の特定部位の役割を明らかにしただけでなく、脳が大きな柔軟性をもっていることも明らかにしているため、ここから人間の自由を守ろうという方向もある。脳の特定部位が損傷を受けても、その部位が担っていた機能を脳の他の部位が引き受けることができるし、体のあり方がかわるだけで脳のあり方がかわることも明らかになりつつある。このことは、外部から脳のあり方やプロセスに影響を与えられる可能性を示していることになり、脳が一方的に心身のプロセスを支配しているのではないとも考えられる。いずれにしても、脳科学が、自由意志の位置づけの再検討、つまり責任能力や倫理的判断の土台となるものの位置づけの再検討、我々の人間観の再検討を迫っているのである。


 さらに、脳科学の成果を特定の能力を高めるために使おうという試みもあり、これも我々の人間観や社会観の再検討を促している。例えば、頭をよくする薬(スマートドラッグ)を使用することはどこまで許されるかという問題、治療の域を超えた能力の増強(エンハンスメント)が人間には許されるかという問題が生じている。治療とエンハンスメントの区別は徐々に難しくなってきていて、どこまで人間の能力を変更ないし改造して良いのかは、判断の難しい問題となっている。ここでも、脳科学は生命倫理に関する様々な問題を投げかけているのである。
 さらに、脳科学の成果を特定の能力を高めるために使おうという試みもあり、これも我々の人間観や社会観の再検討を促している。例えば、頭をよくする薬(スマートドラッグ)を使用することはどこまで許されるかという問題、治療の域を超えた能力の増強(エンハンスメント)が人間には許されるかという問題が生じている。治療とエンハンスメントの区別は徐々に難しくなってきていて、どこまで人間の能力を変更ないし改造して良いのかは、判断の難しい問題となっている。また、脳科学の発展によって数多くの人間がエンハンスメントを享受できるようになれば、能力等の平均値が以前よりも格段にあがり、エンハンスメントの基準自体が変わることになり、さらなるエンハンスメントを求めることにもなる。このことを繰り返していけば、今の人間(像)とはまったく異なる人間(像)が生み出されるだろう。事実、エンハンスメントによって今の人間とはまったく異なる「超人類」を生み出そうと真剣に考える思想家や科学者もいる。今の人間や人類を否定するような考えには与さない思想家や科学者が多いが、何が現在の人間の本質的な事柄か、何が人間の特徴かについては意見が分かれている。ここでも、脳科学は生命倫理に関する様々な問題を投げかけている。
 
 このような脳神経倫理で取り上げられる問題はいずれも、自己決定権、インフォームド・コンセント、自律といった生命倫理固有の問題と密接に結び付いていることは確かだろうが、上述のように自己決定権やインフォームド・コンセントや自律にどの程度の重要性を与えるのかについては様々な立場があり、今後も議論が必要であろう。
 
 しかし、先端医療技術の発展と共に、生命倫理が様々な場面で行政的判断の根拠としての役割を担いつつあることは間違いないだろう。この意味で、生命倫理は、ガバナンスあるいはバイオポリティクスといった領域ともつながっていかざるを得ないだろう。


(執筆者:浅見昇吾 担当編集委員:加藤忠史)
(執筆者:浅見昇吾 担当編集委員:加藤忠史)