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=== 空間記憶と海馬  ===
=== 空間記憶と海馬  ===
 海馬を含む側頭葉内側部の切除手術を受けたH.M.が宣言記憶の障害を示すという報告<ref><pubmed> 13406589 </pubmed></ref>以来、齧歯類を対象とした海馬損傷研究が盛んに行われた。この記憶研究の流れの中で、Tolmanの認知地図の概念はO'Keefe & Nadel (1978)<ref>'''O'Keefe, J. & Nadel, L.'''<br>The hippocampus as a cognitive map.<br>''Oxford University Press'':Oxford, UK: 1978</ref>. によって海馬認知地図仮説へと発展し、海馬が空間認知の神経基盤であると考えられた。海馬認知地図仮説の中で、O'KeefeらはLocaleシステムとTaxonシステムという2つの記憶システムを提案した。Localeシステムは環境の中で自分の位置を特定する、いわゆる認知地図を利用した空間行動を支えるシステムであり、Taxonシステムは特定の手掛りに対する接近行動と回避行動の強化によって駆動されるシステムである。O'Keefe & Conway (1980)<ref>'''O'Keefe, J., & Conway, D.H.'''<br>On the trail of the hippocampal engram.<br>''Oxford University Press''Oxford, UK: 1980</ref>.は、これらのシステムと海馬の関係について検討した。この実験では、Localeシステムを要する課題として①十字型迷路の周辺に分散された複数の手掛りから報酬位置を特定する課題と、Taxonシステムを要する課題として②複数手掛りが報酬走路近くにまとめて配置された課題が設けられ、各システムに及ぼす海馬損傷が検討された。海馬損傷により①の課題の成績が著しく悪化したが、②の課題の成績は手術前よりもむしろ改善された。これにより、Localeシステムに基づく行動は海馬依存的であるが、Taxonシステムに基づく行動は海馬非依存的であることが明らかになった。同様の結論がMorris水迷路を用いたMorris, Garrud, Rawlins & O'Keefe(1982)においても報告されている。プール内の一か所の水面下に隠れたプラットホームの位置をプール周囲の複数の刺激の位置との関係で記憶させる場所課題の学習には海馬損傷の効果があった。しかし、目印刺激のある見える逃避台への接近行動を測定する手掛り課題の学習には海馬損傷の効果がなかった。この効果の分離は、O'Keefe & Conway (1980)による海馬依存的なLocaleシステムと海馬非依存的Taxonシステムの分離に対応するものと考えられる。
 海馬を含む側頭葉内側部の切除手術を受けたH.M.が宣言記憶の障害を示すという報告<ref><pubmed> 13406589 </pubmed></ref>以来、齧歯類を対象とした海馬損傷研究が盛んに行われた。この記憶研究の流れの中で、Tolmanの認知地図の概念はO'Keefe & Nadel (1978)<ref>'''O'Keefe, J. & Nadel, L.'''<br>The hippocampus as a cognitive map.<br>''Oxford University Press'':Oxford, UK: 1978</ref>. によって海馬認知地図仮説へと発展し、海馬が空間認知の神経基盤であると考えられた。海馬認知地図仮説の中で、O'KeefeらはLocaleシステムとTaxonシステムという2つの記憶システムを提案した。Localeシステムは環境の中で自分の位置を特定する、いわゆる認知地図を利用した空間行動を支えるシステムであり、Taxonシステムは特定の手掛りに対する接近行動と回避行動の強化によって駆動されるシステムである。O'Keefe & Conway (1980)<ref>'''O'Keefe, J., & Conway, D.H.'''<br>On the trail of the hippocampal engram.<br>''Oxford University Press''Oxford, UK: 1980</ref>.は、これらのシステムと海馬の関係について検討した。この実験では、Localeシステムを要する課題として①十字型迷路の周辺に分散された複数の手掛りから報酬位置を特定する課題と、Taxonシステムを要する課題として②複数手掛りが報酬走路近くにまとめて配置された課題が設けられ、各システムに及ぼす海馬損傷が検討された。海馬損傷により①の課題の成績が著しく悪化したが、②の課題の成績は手術前よりもむしろ改善された。これにより、Localeシステムに基づく行動は海馬依存的であるが、Taxonシステムに基づく行動は海馬非依存的であることが明らかになった。同様の結論がMorris水迷路を用いたMorris, Garrud, Rawlins & O'Keefe(1982)<ref><pubmed>7088155</pubmed></ref>においても報告されている。プール内の一か所の水面下に隠れたプラットホームの位置をプール周囲の複数の刺激の位置との関係で記憶させる場所課題の学習には海馬損傷の効果があった。しかし、目印刺激のある見える逃避台への接近行動を測定する手掛り課題の学習には海馬損傷の効果がなかった。この効果の分離は、O'Keefe & Conway (1980)による海馬依存的なLocaleシステムと海馬非依存的Taxonシステムの分離に対応するものと考えられる。




=== 場所細胞、頭部方向細胞、格子細胞の発見  ===
=== 場所細胞、頭部方向細胞、格子細胞の発見  ===
 海馬が空間認知の神経基盤であることは、海馬の神経細胞の活動を記録する電気生理学的研究によっても支持された。その先駆的研究は、O'Keefe & Dostrovsky (1971)によるユニット記録研究である。彼らは自由探索中のラットの海馬神経細胞の活動を記録し、ラットが空間の特定の領域を横切るのに同期して高頻度で発火する細胞の存在を報告した。これがいわゆる場所細胞である。場所細胞の発見により、O'Keefeは2014年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。場所細胞に関する研究は電気生理学の技術の洗練化とともに発展し、数多くの成果を上げた。Wilson & McNaughton (1993)により、同時に100個以上の神経細胞を記録することのできる多電極記録法が開発され、ラットが特定の位置に来ると複数の神経細胞が同時発火する相関的発火が生じることも明らかになった。また、Lever, C.らはラットの脳に4チャンネルの記録電極を挿入し、一定箇所から3か月間という長期の記録に成功した(Lever, Wills, Cacucci, Burgess, & O'Keefe, 2002)。この実験では、円形広場と正方形の広場の中でラットが探索行動をしている間に、CA1野の場所細胞がどのように場所フィールドを形成していくかを継続的に観察した。探索1日目には、円形広場でも正方形の広場でも共通した場所フィールドが形成されるが、5日目には1日目の場所フィールドが崩れ、一方の空間を探索しているときに発火していた場所細胞が他方の空間では発火しなくなったり、それぞれの空間で異なる場所フィールドが形成された。探索21目には、環境の違いに応じた場所フィールドの違いが顕著になり、ラットをホームケージに戻し数週間の遅延を置いた71日目にもこの傾向が維持された。このことは、CA1野の神経細胞が地理的な特徴に基づいて空間を弁別し、長期間記憶していることを示唆した。
 海馬が空間認知の神経基盤であることは、海馬の神経細胞の活動を記録する電気生理学的研究によっても支持された。その先駆的研究は、O'Keefe & Dostrovsky (1971)<ref><pubmed>5124915</pubmed></ref>によるユニット記録研究である。彼らは自由探索中のラットの海馬神経細胞の活動を記録し、ラットが空間の特定の領域を横切るのに同期して高頻度で発火する細胞の存在を報告した。これがいわゆる場所細胞である。場所細胞の発見により、O'Keefeは2014年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。場所細胞に関する研究は電気生理学の技術の洗練化とともに発展し、数多くの成果を上げた。Wilson & McNaughton (1993)<ref><pubmed>8351520 </pubmed></ref>により、同時に100個以上の神経細胞を記録することのできる多電極記録法が開発され、ラットが特定の位置に来ると複数の神経細胞が同時発火する相関的発火が生じることも明らかになった。また、Lever, C.らはラットの脳に4チャンネルの記録電極を挿入し、一定箇所から3か月間という長期の記録に成功した<ref><pubmed>11882899</pubmed></ref>。この実験では、円形広場と正方形の広場の中でラットが探索行動をしている間に、CA1野の場所細胞がどのように場所フィールドを形成していくかを継続的に観察した。探索1日目には、円形広場でも正方形の広場でも共通した場所フィールドが形成されるが、5日目には1日目の場所フィールドが崩れ、一方の空間を探索しているときに発火していた場所細胞が他方の空間では発火しなくなったり、それぞれの空間で異なる場所フィールドが形成された。探索21目には、環境の違いに応じた場所フィールドの違いが顕著になり、ラットをホームケージに戻し数週間の遅延を置いた71日目にもこの傾向が維持された。このことは、CA1野の神経細胞が地理的な特徴に基づいて空間を弁別し、長期間記憶していることを示唆した。
 空間情報を符号化する細胞は場所細胞だけではない。海馬および視床前核群において頭部方向細胞が発見された(Taube, 1998)。この細胞は、動物が環境の中のどの位置にいるかに関わらず、動物がある特定の方向に向いた場合に発火するという特徴をもつ。すなわち、方位依存的な発火をする細胞である。この他に、空間の座標情報を表象する格子細胞も海馬に隣接する内側嗅内皮質で発見された(Witter & Moser. 2006)。この発見に寄与したMoser夫妻はO'keefeによる場所細胞の発見と並んでノーベル生理学医学賞の受賞を受けた。1つの場所細胞が空間の中で一か所だけに発火ピークを持つのに対して、格子細胞は複数のピークをもち、発火位置は空間全体に方眼を描くように配置される。こういった場所細胞、頭部方向細胞、格子細胞によってもたらせる情報により、動物は空間の表象を築くと考えられる。
 空間情報を符号化する細胞は場所細胞だけではない。海馬および視床前核群において頭部方向細胞が発見された<ref><pubmed>9643555 </pubmed></ref>。この細胞は、動物が環境の中のどの位置にいるかに関わらず、動物がある特定の方向に向いた場合に発火するという特徴をもつ。すなわち、方位依存的な発火をする細胞である。この他に、空間の座標情報を表象する格子細胞も海馬に隣接する内側嗅内皮質で発見された(Witter & Moser. 2006)。この発見に寄与したMoser夫妻はO'keefeによる場所細胞の発見と並んでノーベル生理学医学賞の受賞を受けた。1つの場所細胞が空間の中で一か所だけに発火ピークを持つのに対して、格子細胞は複数のピークをもち、発火位置は空間全体に方眼を描くように配置される。こういった場所細胞、頭部方向細胞、格子細胞によってもたらせる情報により、動物は空間の表象を築くと考えられる。




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