「精神科遺伝学」の版間の差分

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精神科遺伝学は精神疾患や精神疾患に関わる心理、社会性、行動などの事象を主な対象とする行動神経遺伝学の分野である。
精神科遺伝学は精神疾患や精神疾患に関わる心理、社会性、行動などの事象を主な研究対象とする行動神経遺伝学の分野である。


== 精神科遺伝学が扱う精神疾患 ==
== 研究対象 ==
すべての精神疾患を対象としているが、統合失調症、気分障害、依存症、認知症、自閉症スペクトラム障害が研究対象になる件数が多い。次いでPTSD、神経性無食欲症、パーソナリティ障害、注意欠陥多動障害などが続く。メンデル遺伝病の一部の症状として精神症状が現れる遺伝病も多くあり、それも対象とする。あるいはそれを手がかりに精神疾患の病態を追求する方法もある。さらに、ヒトの集団の行動の多様性も扱う。また、向精神薬に対する反応性や副作用とゲノム変異との関係も重要な対象となっており、予防法に利用できる遺伝情報に関する研究も進められている。


== 精神科遺伝学の目的 ==
すべての精神疾患を対象としているが、統合失調症、気分障害、依存症、認知症、自閉症スペクトラム障害が研究対象になる件数が多い。次いでPTSD、神経性無食欲症、パーソナリティ障害、注意欠陥多動障害などが続く。メンデル遺伝病の一部の症状として精神症状が現れる遺伝病も多くあり、それも対象とする。あるいはそれを手がかりに精神疾患の病態を追求する方法もある。罹患の有無だけでなく、罹患と関連する解剖学的、生理学的、生化学的所見などのいわゆる内部表現型も重要な研究対象である。パーソナリティなど関係するヒトの性質も対象としている。向精神薬をはじめとする治療に対する反応性と副作用も重要な対象となっており、予防法に利用できる遺伝情報に関する研究も進められている。
精神疾患は程度の差はあるが遺伝要因が部分的に発症に影響を与えており、治療に対する反応性や副作用、予後などにも遺伝要因は関わっていると推測されている。精神疾患にかかわる遺伝要因の検出、その病態関与や予後への関与のメカニズムの解明により、遺伝要因に基づく治療法の改善につなげることを目的とする。


== 遺伝学的に見た精神疾患の特徴 ==
== 目的  ==
遺伝学的には精神疾患やそれに関連する行動などは多くのゲノム多様性や稀な変異と環境要因が発症、経過、治療予後に関係している多因子遺伝に分類され、多因子遺伝の法則が当てはまる。頻度の高い多型が強い影響力を持つことはないことは分かっているが、新生(de novo)突然変異のなかには比較的大きく易罹病性を高めるものがあることも知られている。


== 精神科遺伝学が使う解析法 ==
精神疾患は程度の差はあるが遺伝要因が部分的に発症に影響を与えており、治療に対する反応性や副作用、予後などにも遺伝要因は関わっていると推測されている。関係する遺伝子の同定は病態解明とそれに続く治療法の開発に着実な基礎データとなり、個別化医療につながる。分子レベルからの根拠に基づく予防法、治療法の開発を目的とする。
家系を対象とした分離比分析など遺伝疫学的解析、分子遺伝学的解析など遺伝学的解析で用いられる解析法が精神科遺伝学でも使用される。1980年代に統合失調症や双極性障害の多発家系を対象に制限酵素を使った少ない遺伝マーカーでの連鎖解析が発表され、精神科遺伝学の分野での分子遺伝学の時代のスタートとなった。1990年代の後半から2000年代前半はマイクロサテライトマーカーを用いて家族内複数患者家系を対象に連鎖解析が積極的に行われた。2000年代前半からは連鎖解析の結果を参考にして、連鎖領域の原因遺伝子変異/多様性を追求することにより、関連遺伝子を同定する位置的クローニング法や位置的候補遺伝子法が用いられるようになり、NRG1, DTNBP1, DAOAなどの遺伝子が重要な候補遺伝子として注目された。また、染色体転座と統合失調症、うつ病が連鎖していた会からDISC1がクローニングされた。2000年代後半からGWASの時代になり、2007年のWTCCCによる2000人の症例と3000人のコントロールによる解析結果その幕開けとなった1。続いて、DNAチップで検出できる比較的大きなコピー数変異 (CNV)に注目があつまり、さらにエクソームや全ゲノムリシークエンスが解析され、より低頻度の多型や稀な変異に注目が集まるようになり、民族特異的な変異にも注目が集まるようになった2。
 候補遺伝子解析は1990年代はじめから盛んに実施されている。


== 精神科遺伝学の主な所見 ==
== 遺伝学的に見た精神疾患の特徴  ==
連鎖解析
大家系を用いた解析ではDISC1を除いて特定の原因遺伝子は同定されていない。DISC1に関しては染色体異常から発見されているが、1家系のみであり、遺伝学的証拠としては十分ではない。また、DISC1が連鎖している精神疾患は統合失調症とうつ病である。3
候補遺伝子解析
1,000以上の遺伝子内やその近傍のゲノム多様性と精神疾患の関連解析が実施されている。
ゲノムワイド関連解析
比較的頻度の高い主にSNPを使ったゲノムワイド関連解析が実施されている。
米国のNational Human Genome Research InstituteのGWASに関するデータベース[https://www.genome.gov/26525384#searchForm]によれば、2013年1月現在、統合失調症、気分障害に関するGWASの論文が24にのぼっている。このなかで、一般的に有意な関連とされているP値を示しているSNP数は8論文である。一方、依存症に関しては1編の論文のみであり、有意なSNPは検出されていない。自閉症に関しては6編の論文があり、2編が有意で、有意な関連を示しているのはAlzheimer病では31編の論文があり、6編の論文である。ただ、有意であってもいずれもオッズ比は小さく、比較的頻度の高い多型で大きな関連を示しているものはアルツハイマー病のApoE以外はない。
稀な遺伝子変異
精神疾患の病因に関係する頻度の高い多型はほとんどないらしくGWAS解析では特定の大きな影響力を持つ多様性は検出されていないのに対比して、稀な変異では精神疾患の病因としては関わっている可能性のものが発見されつつある。その代表はCNVである。4


== 精神科臨床に与えた影響 ==
精神疾患やそれに関連する行動のほとんどは多くのゲノム多様性と稀な変異、環境要因が関わっている多因子遺伝に分類される。アルツハイマー病に対するAPOE遺伝子多型、アルコール依存症に対するADH, ALDH多型の他は頻度の高い多型が疾患のリスクに強い影響力を持つことはないことは分かっているが、新生(de novo)突然変異のなかには比較的大きくリスクを高めるものがあることが知られつつある。
診断基準
 
遺伝学的研究成果はDSM-Vの診断基準には大きな影響を与えていないが、今後は影響を与える可能性は残っている。Specifiersのひとつとして遺伝性疾患の記述は増えていくと推測される。例えば、脆弱X症候群による自閉症スペクトラム障害などである。
== 精神科遺伝学の解析法  ==
日常臨床
 
以前より、遺伝負因は精神診断に参考にされてきた。分子遺伝学的研究成果は診断に影響を与えていない。薬理ゲノム学は日常臨床に利用されていくと推測される。
分離比分析などの遺伝疫学的解析や分子遺伝学的解析など一般に遺伝学的解析で用いられる解析法が精神科遺伝学でも使われる。
精神科遺伝学に対する批判
 
これまでの精神科関係の研究費の中で分子遺伝学的研究に費やされた研究費は数%程度で多くはないものの、現時点では日常臨床に影響をあたえるような影響を与えていないことから、費用対効果について批判的に見る目もある5。神経科学としては精神科遺伝学の知見は精神疾患の病態解明に非常に大きな影響をもっているが、それが日常臨床に反映されない限り、その治験が正しいという証明にはならない。
1980年代に統合失調症や双極性障害の多発家系を対象に乏しい遺伝マーカーを使った連鎖解析が発表され、精神科遺伝学の分野における分子遺伝学時代のスタートとなった。
 
1990年代の後半から2000年代前半はマイクロサテライトマーカーを用いて家族内で複数の患者をもつ家系を対象に連鎖解析が積極的に行われた。
 
2000年代前半からは連鎖解析の結果を参考にして、連鎖領域の原因遺伝子変異/多様性を追求することにより、関連遺伝子を同定する位置的クローニング法や位置的候補遺伝子法が用いられるようになり、NRG1, DTNBP1, DAOAなどの遺伝子が統合失調症の新たな候補遺伝子として注目された。これとは別に、統合失調症、うつ病が連鎖していた染色体転座の家系からDISC1がクローニングされた。
 
2000年代後半からゲノムワイド関連解析 (GWAS)の時代になり、2007年のWTCCCによる2000人の症例と3000人のコントロールによる解析の報告が精神科遺伝学のGWAS時代の幕開けとなった1。
 
続いて、SNPチップでも検出できる頻度の低い大きな100 kb以上の大きなコピー数変異 (CNV)のなかに知的発達障害、自閉性障害、統合失調症、双極性障害、てんかんなどのリスクを大きく高めるものがあることが発見され、これまでの精神科遺伝学の分子遺伝学研究の中でも最も意味のあるデータとなった。
 
さらにエクソームや全ゲノムリシークエンスを用いて解析され、より低頻度の多型や稀な変異に注目が集まるようになり、民族特異的な変異にも注目が集まるようになっている2。
 
これとは別に候補遺伝子解析は1990年代はじめから盛んに実施されており、ターゲットリシークエンスの時代となり、精力的に研究が進められている。
 
== 精神科遺伝学の主な所見  ==
 
連鎖解析 大家系を用いた解析ではDISC1を除いて特定の原因遺伝子は同定されていない。DISC1に関しては染色体異常から発見されているが、1家系のみであり、遺伝学的証拠としては十分ではない。また、DISC1が連鎖している精神疾患は統合失調症とうつ病である。3 候補遺伝子解析 1,000以上の遺伝子内やその近傍のゲノム多様性と精神疾患の関連解析が実施されている。 ゲノムワイド関連解析 比較的頻度の高い主にSNPを使ったゲノムワイド関連解析が実施されている。 米国のNational Human Genome Research InstituteのGWASに関するデータベース[https://www.genome.gov/26525384#searchForm]によれば、2013年1月現在、統合失調症、気分障害に関するGWASの論文が24にのぼっている。このなかで、一般的に有意な関連とされているP値を示しているSNP数は8論文である。一方、依存症に関しては1編の論文のみであり、有意なSNPは検出されていない。自閉症に関しては6編の論文があり、2編が有意で、有意な関連を示しているのはAlzheimer病では31編の論文があり、6編の論文である。ただ、有意であってもいずれもオッズ比は小さく、比較的頻度の高い多型で大きな関連を示しているものはアルツハイマー病のApoE以外はない。 稀な遺伝子変異 精神疾患の病因に関係する頻度の高い多型はほとんどないらしくGWAS解析では特定の大きな影響力を持つ多様性は検出されていないのに対比して、稀な変異では精神疾患の病因としては関わっている可能性のものが発見されつつある。その代表はCNVである。4
 
== 精神科臨床に与えた影響 ==
 
診断基準 遺伝学的研究成果はDSM-Vの診断基準には大きな影響を与えていないが、今後は影響を与える可能性は残っている。Specifiersのひとつとして遺伝性疾患の記述は増えていくと推測される。例えば、脆弱X症候群による自閉症スペクトラム障害などである。 日常臨床 以前より、遺伝負因は精神診断に参考にされてきた。分子遺伝学的研究成果は診断に影響を与えていない。薬理ゲノム学は日常臨床に利用されていくと推測される。 精神科遺伝学に対する批判 これまでの精神科関係の研究費の中で分子遺伝学的研究に費やされた研究費は数%程度で多くはないものの、現時点では日常臨床に影響をあたえるような影響を与えていないことから、費用対効果について批判的に見る目もある5。神経科学としては精神科遺伝学の知見は精神疾患の病態解明に非常に大きな影響をもっているが、それが日常臨床に反映されない限り、その治験が正しいという証明にはならない。

2013年5月3日 (金) 19:09時点における版

精神科遺伝学は精神疾患や精神疾患に関わる心理、社会性、行動などの事象を主な研究対象とする行動神経遺伝学の分野である。

研究対象

すべての精神疾患を対象としているが、統合失調症、気分障害、依存症、認知症、自閉症スペクトラム障害が研究対象になる件数が多い。次いでPTSD、神経性無食欲症、パーソナリティ障害、注意欠陥多動障害などが続く。メンデル遺伝病の一部の症状として精神症状が現れる遺伝病も多くあり、それも対象とする。あるいはそれを手がかりに精神疾患の病態を追求する方法もある。罹患の有無だけでなく、罹患と関連する解剖学的、生理学的、生化学的所見などのいわゆる内部表現型も重要な研究対象である。パーソナリティなど関係するヒトの性質も対象としている。向精神薬をはじめとする治療に対する反応性と副作用も重要な対象となっており、予防法に利用できる遺伝情報に関する研究も進められている。

目的

精神疾患は程度の差はあるが遺伝要因が部分的に発症に影響を与えており、治療に対する反応性や副作用、予後などにも遺伝要因は関わっていると推測されている。関係する遺伝子の同定は病態解明とそれに続く治療法の開発に着実な基礎データとなり、個別化医療につながる。分子レベルからの根拠に基づく予防法、治療法の開発を目的とする。

遺伝学的に見た精神疾患の特徴

精神疾患やそれに関連する行動のほとんどは多くのゲノム多様性と稀な変異、環境要因が関わっている多因子遺伝に分類される。アルツハイマー病に対するAPOE遺伝子多型、アルコール依存症に対するADH, ALDH多型の他は頻度の高い多型が疾患のリスクに強い影響力を持つことはないことは分かっているが、新生(de novo)突然変異のなかには比較的大きくリスクを高めるものがあることが知られつつある。

精神科遺伝学の解析法

分離比分析などの遺伝疫学的解析や分子遺伝学的解析など一般に遺伝学的解析で用いられる解析法が精神科遺伝学でも使われる。

1980年代に統合失調症や双極性障害の多発家系を対象に乏しい遺伝マーカーを使った連鎖解析が発表され、精神科遺伝学の分野における分子遺伝学時代のスタートとなった。

1990年代の後半から2000年代前半はマイクロサテライトマーカーを用いて家族内で複数の患者をもつ家系を対象に連鎖解析が積極的に行われた。

2000年代前半からは連鎖解析の結果を参考にして、連鎖領域の原因遺伝子変異/多様性を追求することにより、関連遺伝子を同定する位置的クローニング法や位置的候補遺伝子法が用いられるようになり、NRG1, DTNBP1, DAOAなどの遺伝子が統合失調症の新たな候補遺伝子として注目された。これとは別に、統合失調症、うつ病が連鎖していた染色体転座の家系からDISC1がクローニングされた。

2000年代後半からゲノムワイド関連解析 (GWAS)の時代になり、2007年のWTCCCによる2000人の症例と3000人のコントロールによる解析の報告が精神科遺伝学のGWAS時代の幕開けとなった1。

続いて、SNPチップでも検出できる頻度の低い大きな100 kb以上の大きなコピー数変異 (CNV)のなかに知的発達障害、自閉性障害、統合失調症、双極性障害、てんかんなどのリスクを大きく高めるものがあることが発見され、これまでの精神科遺伝学の分子遺伝学研究の中でも最も意味のあるデータとなった。

さらにエクソームや全ゲノムリシークエンスを用いて解析され、より低頻度の多型や稀な変異に注目が集まるようになり、民族特異的な変異にも注目が集まるようになっている2。

これとは別に候補遺伝子解析は1990年代はじめから盛んに実施されており、ターゲットリシークエンスの時代となり、精力的に研究が進められている。

精神科遺伝学の主な所見

連鎖解析 大家系を用いた解析ではDISC1を除いて特定の原因遺伝子は同定されていない。DISC1に関しては染色体異常から発見されているが、1家系のみであり、遺伝学的証拠としては十分ではない。また、DISC1が連鎖している精神疾患は統合失調症とうつ病である。3 候補遺伝子解析 1,000以上の遺伝子内やその近傍のゲノム多様性と精神疾患の関連解析が実施されている。 ゲノムワイド関連解析 比較的頻度の高い主にSNPを使ったゲノムワイド関連解析が実施されている。 米国のNational Human Genome Research InstituteのGWASに関するデータベース[1]によれば、2013年1月現在、統合失調症、気分障害に関するGWASの論文が24にのぼっている。このなかで、一般的に有意な関連とされているP値を示しているSNP数は8論文である。一方、依存症に関しては1編の論文のみであり、有意なSNPは検出されていない。自閉症に関しては6編の論文があり、2編が有意で、有意な関連を示しているのはAlzheimer病では31編の論文があり、6編の論文である。ただ、有意であってもいずれもオッズ比は小さく、比較的頻度の高い多型で大きな関連を示しているものはアルツハイマー病のApoE以外はない。 稀な遺伝子変異 精神疾患の病因に関係する頻度の高い多型はほとんどないらしくGWAS解析では特定の大きな影響力を持つ多様性は検出されていないのに対比して、稀な変異では精神疾患の病因としては関わっている可能性のものが発見されつつある。その代表はCNVである。4

精神科臨床に与えた影響

診断基準 遺伝学的研究成果はDSM-Vの診断基準には大きな影響を与えていないが、今後は影響を与える可能性は残っている。Specifiersのひとつとして遺伝性疾患の記述は増えていくと推測される。例えば、脆弱X症候群による自閉症スペクトラム障害などである。 日常臨床 以前より、遺伝負因は精神診断に参考にされてきた。分子遺伝学的研究成果は診断に影響を与えていない。薬理ゲノム学は日常臨床に利用されていくと推測される。 精神科遺伝学に対する批判 これまでの精神科関係の研究費の中で分子遺伝学的研究に費やされた研究費は数%程度で多くはないものの、現時点では日常臨床に影響をあたえるような影響を与えていないことから、費用対効果について批判的に見る目もある5。神経科学としては精神科遺伝学の知見は精神疾患の病態解明に非常に大きな影響をもっているが、それが日常臨床に反映されない限り、その治験が正しいという証明にはならない。