精神科遺伝学

提供:脳科学辞典
2013年5月3日 (金) 23:46時点におけるTadaoarinami (トーク | 投稿記録)による版

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精神科遺伝学は精神疾患や精神疾患に関わる心理、社会性、行動などの事象を主な研究対象とする行動神経遺伝学の分野である。

研究対象

すべての精神疾患を対象としているが、統合失調症、気分障害、依存症、認知症、自閉症スペクトラム障害が研究対象になる件数が多い。次いで心的外傷後ストレス障害、神経性無食欲症、パーソナリティ障害、注意欠陥多動障害などが続く。メンデル遺伝病の一部の症状として精神症状が現れる遺伝病も多くあり、それも対象とする。あるいはそれを手がかりに精神疾患の病態を追求する方法もある。罹患の有無だけでなく、罹患と関連する解剖学的、生理学的、生化学的所見などのいわゆる内部表現型も重要な研究対象である。パーソナリティや嗜好なども対象としている。向精神薬をはじめとする治療に対する反応性と副作用も重要な対象となっており、予防法に利用できる遺伝情報に関する研究も進められている。

目的

精神疾患は程度の差はあるが遺伝要因が部分的に発症に影響を与えており、治療に対する反応性や副作用、予後などにも遺伝要因は関わっていると推測されている。関係する遺伝子の同定は病態解明とそれに続く合理的な治療法の開発に必要な基礎データとなり、個別化医療につながる。分子レベルからの根拠に基づく予防法、治療法の開発を目的とする。

遺伝学的に見た精神疾患の特徴

精神疾患やそれに関連する行動のほとんどは多くのゲノム多様性と稀な変異、環境要因が関わっている多因子遺伝に分類される。アルツハイマー病に対するAPOE遺伝子多型、アルコール依存症に対するADH, ALDH多型の他は頻度の高い多型が疾患のリスクに強い影響力を持つことはないことは分かっているが、頻度の低い変異、とくに、新生(de novo)突然変異のなかには比較的大きくリスクを高めるものがあることが知られつつある。

歴史

分子遺伝学的解析ができる以前から分離比分析などの遺伝疫学的解析は精神疾患を対象に数多く行われ、双生児研究や養子研究など活発に行われてきた。遺伝疫学や分子遺伝学的解析など一般に遺伝学的解析で用いられる解析法が精神科遺伝学でも使われる。精神科遺伝学の国際的な学会としてThe International Society of Psychiatric Genetics (ISPG)www.ispg.netが1992年に組織され、研究の推進のみならず、社会の教育啓蒙活動、倫理問題の整備を目的に、毎年大会が米国とそれ以外の国とで交互に開催されている。

1980年代に統合失調症や双極性障害の多発家系を対象に乏しい遺伝マーカーを使った連鎖解析が発表され、精神科遺伝学の分野における分子遺伝学時代のスタートとなった。

1990年代の後半から2000年代前半はマイクロサテライトマーカーを用いて家族内で複数の患者をもつ家系を対象に連鎖解析が積極的に行われた。

2000年代前半からは連鎖解析の結果を参考にして、連鎖領域の原因遺伝子変異/多様性を追求することにより、関連遺伝子を同定する位置的クローニング法や位置的候補遺伝子法が用いられるようになり、NRG1, DTNBP1, DAOAなどの遺伝子が統合失調症の新たな候補遺伝子として注目された。これとは別に、統合失調症、うつ病が連鎖していた染色体転座の家系からDISC1がクローニングされた。

2000年代後半からゲノムワイド関連解析 (GWAS)の時代になり、2007年のWellcome Trust Case Control Consortiumによる2000人の症例と3000人のコントロールによる解析の報告が精神科遺伝学のGWAS時代の幕開けとなった1。2010年代になるとGWASは万単位の被験者を対象とするようになっている。続いて、SNPチップでも検出できる頻度の低い大きな100 kb以上の大きなコピー数変異 (CNV)のなかに知的発達障害、自閉性障害、統合失調症、双極性障害、てんかんなどのリスクを大きく高めるものがあることが発見され、これまで得られた精神科遺伝学の分子遺伝学研究成果の中で最も確実な発見となった。

2010年代はエクソームや全ゲノムリシークエンスなどによりより解析が容易になった低頻度の多型や稀な変異に注目が集まるようになり、民族特異的な変異にも注目が集まるようになっている2。

候補遺伝子解析は1990年代はじめから盛んに実施されており、ターゲットリシークエンスの時代となり、精力的に研究が進められている。

精神科遺伝学の主な所見

遺伝学的研究は連鎖解析が基本であるが、統合失調症とうつ病の大家系を用いた解析ではDISC1を除いて根拠のある原因遺伝子は同定されていない。そのDISC1に関しても、1家系のみでの所見であり、遺伝学的証拠としては十分ではない。3

候補遺伝子解析 1,000以上の遺伝子内やその近傍のゲノム多様性と精神疾患の関連解析が実施されている。

ゲノムワイド関連解析 比較的頻度の高い主にSNPを使ったゲノムワイド関連解析が実施されている。 米国のNational Human Genome Research InstituteのGWASに関するデータベース[1]によれば、2013年1月現在、統合失調症、気分障害に関するGWASの論文が24にのぼっている。このなかで、一般的に有意な関連とされているP値を示しているSNP数は8論文である。一方、依存症に関しては1編の論文のみであり、有意なSNPは検出されていない。自閉症に関しては6編の論文があり、2編が有意で、有意な関連を示しているのはAlzheimer病では31編の論文があり、6編の論文である。ただ、有意であってもいずれもオッズ比は小さく、比較的頻度の高い多型で大きな関連を示しているものはアルツハイマー病のApoE以外はない。

精神疾患の病因に関係する頻度の高い多型はほとんどないらしくGWAS解析では特定の大きな影響力を持つ多様性は検出されていないのに対比して、稀な変異では精神疾患の病因に大きく寄与している可能性のものが発見されつつある。その代表はCNVである。4

精神科臨床に与えた影響

診断基準に関しては、遺伝学的研究成果はDSM-Vの診断基準には大きな影響を与えていないが、今後は影響を与える可能性は残っている。診断中のSpecifiersのひとつとして遺伝性疾患の記述は増えていくと推測される。例えば、脆弱X症候群による自閉症スペクトラム障害などである。

日常臨床では以前より遺伝負因は精神診断に参考にされてきたものの、分子遺伝学的研究成果はこれまでのところ診断に大きな影響を与えていない。薬理ゲノム学の所見は今後日常臨床に利用されていく可能性がある。

ヒトゲノムプロジェクトが期待された成果の一つに多因子疾患の画期的な治療法、予防法の開発がある。しかし、がんを除けば、現時点ではまだ期待通りになっておらず、精神疾患の研究も例外ではない。NIHの支出した精神科関係の研究費の中で分子遺伝学的研究に費やされた研究費は数%程度で多くはないものの、現時点では研究成果が日常臨床に影響をあたえるような影響を与えていないことから、費用対効果について批判的に見る目もある5。