「脳神経倫理学」の版間の差分

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<font size="+1">[http://researchmap.jp/isobetaichi 礒部 太一]、[http://researchmap.jp/sakura 佐倉 統]</font><br>
<font size="+1">[http://researchmap.jp/isobetaichi 礒部 太一]、[http://researchmap.jp/sakura 佐倉 統]</font><br>
''東京大学''<br>
''東京大学''<br>
DOI [[XXXX]]/XXXX 原稿受付日:2013年8月18日 原稿完成日:2013年月日<br>
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2013年8月18日 原稿完成日:2015年1月13日<br>
担当編集委員:[http://researchmap.jp/atsushiiriki 入來 篤史](独立行政法人理化学研究所 脳科学総合研究センター)<br>
担当編集委員:[http://researchmap.jp/atsushiiriki 入來 篤史](独立行政法人理化学研究所 脳科学総合研究センター)<br>
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 脳神経倫理学とは、脳神経科学研究の発展に伴う倫理的・社会的問題を扱う学際的で実践的な学問領域である<ref name=ref3>'''Illess, J.''' ed.<br>Neuroethics: Defining the Issues in Theory, Practice And Policy. <br>''Oxford University Press'', Oxford, 2005.<br>(高橋隆雄、粂和彦監訳:脳神経倫理学―理論・実践・政策上の諸問題、''篠原出版新社''、2009.)</ref> <ref name=ref2>'''Illes, J., Barbara J. Sahakian, J. B., Federico, A. C., Morein-Zamir, S.'''<br>The Oxford Handbook of Neuroethics. <br>''Oxford University Press'', Oxford, 2011.</ref> <ref name=ref1><pubmed>17034890</pubmed></ref> <ref name=ref5>'''Gazzaniga, M.'''<br>The Ethical Brain. <br>D''ana Press'', 2005<br>(梶山 あゆみ訳:脳のなかの倫理―脳倫理学序説、''紀伊國屋書店''、2006.)</ref> <ref name=ref12>'''信原幸弘, 原塑'''編<br>脳神経倫理学の展望<br>''勁草書房''、2008.</ref> <ref name=ref17>'''美馬達哉'''<br>脳のエシックス―脳神経倫理学入門<br>''人文書院''、2010</ref> <ref name=ref15>'''福士珠美・佐倉統'''<br>「Brain-Machine Interface (BMI) 研究開発のための倫理とガバナンス:日米における取り組みの現状と将来展望」<br>『電子情報通信学会技術研究報告』107(263), 59-62. 2007</ref> <ref name=ref7>'''Racine, E.'''<br>Pragmatic Neuroethics: Improving Treatment and Understanding of the Mind-Brain.<br>''The MIT Press'', Cambridge, 2010</ref>。[[生命倫理]]や[[医療倫理]]と密接な関係がある応用倫理学の一分野であるが、脳神経科学がもたらす新たな倫理的・社会的課題について対応するという側面から、生命倫理学などとは異なる新たな学問分野として位置づけられることが通常である<ref name=ref12>'''信原幸弘, 原塑'''編<br>脳神経倫理学の展望<br>''勁草書房''、2008.</ref>。現在の脳神経倫理学は、ヒトを対象とした脳活動の画像解析技術が格段に進歩したことを受けて、2000年頃からその重要性が指摘され始めた領域を指す。原語は「Neuroethics」であり、日本語においては「神経倫理学」、「脳倫理」などと称されることもあるが、脳と神経の両方を対象とすることを強調するため、本項目では「脳神経倫理学」とする。
 脳神経倫理学とは、脳神経科学研究の発展に伴う倫理的・社会的問題を扱う学際的で実践的な学問領域である<ref name=ref3>'''Illess, J.''' ed.<br>Neuroethics: Defining the Issues in Theory, Practice And Policy. <br>''Oxford University Press'', Oxford, 2005.<br>(高橋隆雄、粂和彦監訳:脳神経倫理学―理論・実践・政策上の諸問題、''篠原出版新社''、2009.)</ref> <ref name=ref2>'''Illes, J., Barbara J. Sahakian, J. B., Federico, A. C., Morein-Zamir, S.'''<br>The Oxford Handbook of Neuroethics. <br>''Oxford University Press'', Oxford, 2011.</ref> <ref name=ref1><pubmed>17034890</pubmed></ref> <ref name=ref5>'''Gazzaniga, M.'''<br>The Ethical Brain. <br>D''ana Press'', 2005<br>(梶山 あゆみ訳:脳のなかの倫理―脳倫理学序説、''紀伊國屋書店''、2006.)</ref> <ref name=ref12>'''信原幸弘, 原塑'''編<br>脳神経倫理学の展望<br>''勁草書房''、2008.</ref> <ref name=ref17>'''美馬達哉'''<br>脳のエシックス―脳神経倫理学入門<br>''人文書院''、2010</ref> <ref name=ref15>'''福士珠美・佐倉統'''<br>「Brain-Machine Interface (BMI) 研究開発のための倫理とガバナンス:日米における取り組みの現状と将来展望」<br>『電子情報通信学会技術研究報告』107(263), 59-62. 2007</ref> <ref name=ref7>'''Racine, E.'''<br>Pragmatic Neuroethics: Improving Treatment and Understanding of the Mind-Brain.<br>''The MIT Press'', Cambridge, 2010</ref>。[[生命倫理]]や[[医療倫理]]と密接な関係がある応用倫理学の一分野であるが、脳神経科学がもたらす新たな倫理的・社会的課題について対応するという側面から、生命倫理学などとは異なる新たな学問分野として位置づけられることが通常である<ref name=ref12>'''信原幸弘, 原塑'''編<br>脳神経倫理学の展望<br>''勁草書房''、2008.</ref>。現在の脳神経倫理学は、ヒトを対象とした脳活動の画像解析技術が格段に進歩したことを受けて、2000年頃からその重要性が指摘され始めた領域を指す。原語は「Neuroethics」であり、日本語においては「神経倫理学」、「脳倫理」などと称されることもあるが、脳と神経の両方を対象とすることを強調するため、本項目では「脳神経倫理学」とする。


 近年の脳神経科学研究の発展としては、例えば、以下のようなものが挙げられる。ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)のような外部機器と脳を接続することで、リハビリや医療応用を目指すもの。脳神経科学と経済学の交錯領域として、脳神経経済学(ニューロエコノミクス)と呼ばれる領域が隆盛してきている。従来の経済学は経済理論、数理モデル、統計を駆使したものが主流であったが、[[wj:経済学|経済学]]と脳神経科学の融合により、経済学的モデルに対して脳神経科学アプローチによる研究が行われるようになってきた。例えば、不確実な状況下における人間の意志決定に際して、脳内メカニズムの解明を試みるなどの研究がある。将来的には、脳内メカニズムの解明結果を用いて、人間の意志決定の場面などにおいて外部からの意志のコントロールなどの可能性を含んでおり、社会との接点において倫理的・社会的にも注視に値する。また、脳神経マーケティング(ニューロマーケティング)と呼ばれる、脳神経経済学とも密接に関連する領域も研究が盛んである。この研究分野においては、マーケティングという、より実践的で日常的な場面での意志決定などへの脳神経科学的アプローチを用いた研究が行われるようになってきている。例えば、商品の選好場面において、その個人はどのような脳内状態であるのかを明らかにするような研究がある。より実践的には、企業のマーケティング戦略において、購買意欲を駆り立てるような商品開発や広報の方法の仕方などへの応用も視野に入れられている。そのため、社会との接点においては、企業マーケティングにおいて従来の広告などの手法に加えてより消費者への働きかけが強くなる可能性もあるため、脳神経経済学(ニューロエコノミクス)よりもさらに注意が必要である。また、脳神経科学と法学の接点として、裁判において被疑者や証人の脳状態が証拠となりうる可能性を模索する、脳神経法学と呼ばれる領域も近年の研究は盛んである。[[精神鑑定]]や[[wj:DNA|DNA]]判定が裁判での有力な証拠となるように、被疑者や証人の脳状態もまた裁判の証拠として採用される可能性がある。例えば、脳神経科学研究における脳画像診断によって、被疑者の責任の有無に影響を与えることが想定される。一方で、証人や被疑者の脳状態を法廷での判断材料とすることには、信頼性などの面で時期尚早であるという批判も強い。またこの問題は自由意志と責任帰属の問題とも密接に関連し、当人自体と当人の脳状態によってどこまで責任が当人自体に帰属されるのかということに関わる事項である<ref name=ref15>'''Garland, B.''' ed.<br>Neuroscience and the Law: Brain, Mind, and the Scales of Justice. <br>''Dana Press'', New York, 2004<br>(古谷和, 久村典子訳:脳科学と倫理と法―神経倫理学入門、''みすず書房''、2007)</ref> <ref name=ref16>'''樋口範雄'''編<br>ケース・スタディ生命倫理と法 第2版<br>''有斐閣''、2012</ref>。
 近年の脳神経科学研究の発展としては、例えば、以下のようなものが挙げられる。


 ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)のような外部機器と脳を接続することで、リハビリや医療応用を目指すもの。脳神経科学と経済学の交錯領域として、脳神経経済学(ニューロエコノミクス)と呼ばれる領域が隆盛してきている。従来の経済学は経済理論、数理モデル、統計を駆使したものが主流であったが、[[wj:経済学|経済学]]と脳神経科学の融合により、経済学的モデルに対して脳神経科学アプローチによる研究が行われるようになってきた。例えば、不確実な状況下における人間の意志決定に際して、脳内メカニズムの解明を試みるなどの研究がある。将来的には、脳内メカニズムの解明結果を用いて、人間の意志決定の場面などにおいて外部からの意志のコントロールなどの可能性を含んでおり、社会との接点において倫理的・社会的にも注視に値する。


 また、脳神経マーケティング(ニューロマーケティング)と呼ばれる、脳神経経済学とも密接に関連する領域も研究が盛んである。この研究分野においては、マーケティングという、より実践的で日常的な場面での意志決定などへの脳神経科学的アプローチを用いた研究が行われるようになってきている。例えば、商品の選好場面において、その個人はどのような脳内状態であるのかを明らかにするような研究がある。より実践的には、企業のマーケティング戦略において、購買意欲を駆り立てるような商品開発や広報の方法の仕方などへの応用も視野に入れられている。そのため、社会との接点においては、企業マーケティングにおいて従来の広告などの手法に加えてより消費者への働きかけが強くなる可能性もあるため、脳神経経済学(ニューロエコノミクス)よりもさらに注意が必要である。
 また、脳神経科学と法学の接点として、裁判において被疑者や証人の脳状態が証拠となりうる可能性を模索する、脳神経法学と呼ばれる領域も近年の研究は盛んである。[[精神鑑定]]や[[wj:DNA|DNA]]判定が裁判での有力な証拠となるように、被疑者や証人の脳状態もまた裁判の証拠として採用される可能性がある。例えば、脳神経科学研究における脳画像診断によって、被疑者の責任の有無に影響を与えることが想定される。一方で、証人や被疑者の脳状態を法廷での判断材料とすることには、信頼性などの面で時期尚早であるという批判も強い。またこの問題は自由意志と責任帰属の問題とも密接に関連し、当人自体と当人の脳状態によってどこまで責任が当人自体に帰属されるのかということに関わる事項である<ref name=ref15>'''Garland, B.''' ed.<br>Neuroscience and the Law: Brain, Mind, and the Scales of Justice. <br>''Dana Press'', New York, 2004<br>(古谷和, 久村典子訳:脳科学と倫理と法―神経倫理学入門、''みすず書房''、2007)</ref> <ref name=ref16>'''樋口範雄'''編<br>ケース・スタディ生命倫理と法 第2版<br>''有斐閣''、2012</ref>。


==具体的な問題事例==
==具体的な問題事例==
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| 具体的事例(これらは一例である、すべての課題を網羅したものではない)
| 具体的事例(これらは一例である、すべての課題を網羅したものではない)
|-
|-
| rowspan="13" | 1.脳神経科学の倫理学
| rowspan="12" | 1.脳神経科学の倫理学
| 人間の概念の変容
| 人間の概念の変容
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| [[脳バンク]]
| [[脳バンク]]
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|-
| rowspan="3" | 2.倫理の脳神経科学
| rowspan="4" | 2.倫理の脳神経科学
| 倫理のメカニズム解明
| 倫理のメカニズム解明
|-
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62行目: 66行目:
| 価値規範の脳内メカニズム
| 価値規範の脳内メカニズム
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|-
| rowspan="9" | 3.脳神経科学と社会
| 価値判断の脳内メカニズム
|-
| rowspan="6" | 3.脳神経科学と社会
| エンターテイメントにおける問題
| エンターテイメントにおける問題
|-
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===基礎的・哲学的問題===
===基礎的・哲学的問題===
====人間の概念の変容====
====人間の概念の変容====
 脳神経科学技術を用いることで、本来の人間とはいかなるものかという概念が変容することに関する問題。哲学的議論の中では、拡張された心の理論(extended mind theory)などによって議論が展開されており、例えば、脳神経科学技術を用いた外部機器が、記憶などの人間の精神活動に関わる高次脳機能の補助的役割を担うことは、当人の脳を延長した一部として捉えることが出来るのではないか、ということが問題となる<ref name=ref16>'''樋口範雄'''編<br>ケース・スタディ生命倫理と法 第2版<br>''有斐閣''、2012</ref>。つまり、このような外部機器が記憶の補助を行うことで、どこからどこまでが人間の脳(心)なのかという線引きが曖昧になり、本来の人間の脳(心)の位置づけや意味合いに変容がもたらされる可能性がある。
 脳神経科学技術を用いることで、本来の人間とはいかなるものかという概念が変容することに関する問題。哲学的議論の中では、拡張された[[心の理論]](extended mind theory)などによって議論が展開されており、例えば、脳神経科学技術を用いた外部機器が、記憶などの人間の精神活動に関わる高次脳機能の補助的役割を担うことは、当人の脳を延長した一部として捉えることが出来るのではないか、ということが問題となる<ref name=ref16>'''樋口範雄'''編<br>ケース・スタディ生命倫理と法 第2版<br>''有斐閣''、2012</ref>。つまり、このような外部機器が記憶の補助を行うことで、どこからどこまでが人間の脳(心)なのかという線引きが曖昧になり、本来の人間の脳(心)の位置づけや意味合いに変容がもたらされる可能性がある。


====エンハンスメント<ref name=ref12>'''信原幸弘, 原塑'''編<br>脳神経倫理学の展望<br>''勁草書房''、2008.</ref> ====
====エンハンスメント ====
 別名、能力増強や補綴とも呼ばれる。記憶力や集中力などの認知機能を高める薬物や機械などを使用することで、もともとその個人が持っていた能力を増強することを意味する。病気などの場合に平均的なレベルにまで症状を改善する治療とは異なり、元々の平均的なレベルからさらに能力を底上げすることを指す。スポーツの世界では肉体的能力を増強するために[[wj:ドーピング|ドーピング]]が行われることがあるが、エンハンスメントはより広義に[[認知機能]]なども含んで増強を目的とするものである。アメリカでは、[[中枢神経刺激薬]]の[[メチルフェニデート]](商品名:リタリン)を使用して[[学習]]効果を増強する行為が問題視され、議論の発端になった。
 別名、能力増強や補綴とも呼ばれる<ref name=ref12>'''信原幸弘, 原塑'''編<br>脳神経倫理学の展望<br>''勁草書房''、2008.</ref>。記憶力や集中力などの認知機能を高める薬物や機械などを使用することで、もともとその個人が持っていた能力を増強することを意味する。病気などの場合に平均的なレベルにまで症状を改善する治療とは異なり、元々の平均的なレベルからさらに能力を底上げすることを指す。スポーツの世界では肉体的能力を増強するために[[wj:ドーピング|ドーピング]]が行われることがあるが、エンハンスメントはより広義に[[認知機能]]なども含んで増強を目的とするものである。アメリカでは、[[中枢神経刺激薬]]の[[メチルフェニデート]](商品名:リタリン)を使用して[[学習]]効果を増強する行為が問題視され、議論の発端になった。


====マインドリーディング====
====マインドリーディング====
 外部から当人が考えていることなどを読み取ることを意味する。特に、当人の望まない状況下での心や思考の読み取りが問題となる。心や思考の読み取りに関しては、現行では、[[wj:嘘発見器|嘘発見器]]などの心理学的手法のものが主流であるが、最近では[[ブレイン・マシン・インターフェース]](BMI)などの技術を用いて脳の状態から心や思考の読み解きが行われる状況が想定される<ref name=ref9>'''神谷之康'''<br>マインドリーディングの原理と倫理<br>''脳21''、11(2): 28-32, 2008</ref>。
 外部から当人が考えていることなどを読み取ることを意味する。特に、当人の望まない状況下での心や思考の読み取りが問題となる。心や思考の読み取りに関しては、現行では、[[wj:嘘発見器|嘘発見器]]などの心理学的手法のものが主流であるが、最近では[[ブレイン・マシン・インターフェース]](BMI)などの技術を用いて脳の状態から心や思考の読み解きが行われる状況が想定される<ref name=ref9>'''神谷之康'''<br>マインドリーディングの原理と倫理<br>''脳21''、11(2): 28-32, 2008</ref>。


====マインドコントロール<ref name=ref9>'''神谷之康'''<br>マインドリーディングの原理と倫理<br>''脳21''、11(2): 28-32, 2008</ref><ref name=ref11>'''川人光男, 佐倉統'''<br>ブレイン・マシン・インタフェースBMI倫理4原則の提案<br>''現代化学''、471:21-25, 2010</ref>====
====マインドコントロール====
 マインドリーディングとも密接に関わる問題であり、外部から当人の考えや意志決定などを操作することを意味する。特に、当人の望まない状況下での心や思考の操作が問題となる。マインドコントロールもマインドリーディングも、現在の脳神経科学では「本当の意味での人間の精神活動の機微を捉えている段階ではない」という点にも留意が必要である。
 マインドリーディングとも密接に関わる問題であり、外部から当人の考えや意志決定などを操作することを意味する<ref name=ref9>'''神谷之康'''<br>マインドリーディングの原理と倫理<br>''脳21''、11(2): 28-32, 2008</ref><ref name=ref11>'''川人光男, 佐倉統'''<br>ブレイン・マシン・インタフェースBMI倫理4原則の提案<br>''現代化学''、471:21-25, 2010</ref>。特に、当人の望まない状況下での心や思考の操作が問題となる。マインドコントロールもマインドリーディングも、現在の脳神経科学では「本当の意味での人間の精神活動の機微を捉えている段階ではない」という点にも留意が必要である。


====自由意志と責任帰属====
====自由意志と責任帰属====
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====脳バンク====
====脳バンク====
 [[ゲノムバンク]]などと同様に、個人の脳情報を蓄積することに関する問題。脳情報取得のインフォームド・コンセント(IC)や、脳情報の秘匿性や保管に関する問題。<ref name=ref21>'''加藤忠史&ブレインバンク委員会<br>脳バンク:精神疾患の謎を解くために<br>''光文社''、2011.</ref>
 [[ゲノムバンク]]などと同様に、個人の脳情報を蓄積することに関する問題。脳情報取得のインフォームド・コンセント(IC)や、脳情報の秘匿性や保管に関する問題<ref name=ref21>'''加藤忠史&ブレインバンク委員会<br>脳バンク:精神疾患の謎を解くために<br>''光文社''、2011.</ref>




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====信仰の脳内メカニズム====
====信仰の脳内メカニズム====
 [[wj:宗教|宗教]]への信仰は人類史上において長い歴史を持つが、近年では、宗教への信仰の脳内メカニズムについて脳神経科学的手法を用いて明らかにしようとする研究が行われている。また、信仰と密接な関係にある神の認識についても研究が進んでいる状況である。崇高な宗教心や修行について、科学的手法を用いてその状態を把握することには宗教団体や信者の中からの反発心を引き起こす懸念も想定される。その一方で、これまで不透明であった、宗教体験や解脱などについて客観的手法でその様態を提示することは、社会の中の宗教のあり方に影響を及ぼすことも予想される。<ref name=ref12>'''信原幸弘, 原塑'''編<br>脳神経倫理学の展望<br>''勁草書房''、2008.</ref>
 [[wj:宗教|宗教]]への信仰は人類史上において長い歴史を持つが、近年では、宗教への信仰の脳内メカニズムについて脳神経科学的手法を用いて明らかにしようとする研究が行われている。また、信仰と密接な関係にある神の認識についても研究が進んでいる状況である。崇高な宗教心や修行について、科学的手法を用いてその状態を把握することには宗教団体や信者の中からの反発心を引き起こす懸念も想定される。その一方で、これまで不透明であった、宗教体験や解脱などについて客観的手法でその様態を提示することは、社会の中の宗教のあり方に影響を及ぼすことも予想される<ref name=ref12>'''信原幸弘, 原塑'''編<br>脳神経倫理学の展望<br>''勁草書房''、2008.</ref>


====価値規範の脳内メカニズム====
====価値規範の脳内メカニズム====
 先に述べた「倫理判断のメカニズム解明」とも密接に関わるが、真・善・美などの判断・評価・行為などの基準となるべき原則についても、脳神経科学的手法を用いての研究がなされている。真・善・美などの基準は、人間社会における倫理判断を含む様々な側面の基盤となるものであるため、それらが慣習的な経験から形成されているというだけではなく、どのような脳内メカニズムによって体現化されているのかまで明らかになることが期待される。その一方で、真・善・美などの判断などには文化的・社会的な要因の影響が想定されるため、比較研究などの視点からの研究も必要であると予測される。<ref name=ref23>'''金井良太<br>脳に刻まれたモラルの起源:人はなぜ善を求めるのか<br>''岩波書店''、2013.</ref>
 先に述べた「倫理判断のメカニズム解明」とも密接に関わるが、真・善・美などの判断・評価・行為などの基準となるべき原則についても、脳神経科学的手法を用いての研究がなされている。真・善・美などの基準は、人間社会における倫理判断を含む様々な側面の基盤となるものであるため、それらが慣習的な経験から形成されているというだけではなく、どのような脳内メカニズムによって体現化されているのかまで明らかになることが期待される。その一方で、真・善・美などの判断などには文化的・社会的な要因の影響が想定されるため、比較研究などの視点からの研究も必要であると予測される<ref name=ref23>'''金井良太<br>脳に刻まれたモラルの起源:人はなぜ善を求めるのか<br>''岩波書店''、2013.</ref>


====価値判断の脳内メカニズム====
====価値判断の脳内メカニズム====
価値判断とは、貨幣価値に代表される物的あるいは物欲的な価値などであり、それらと関連する脳内メカニズムがどのような働きをしているのかに関する研究である。<ref name=ref23>'''金井良太<br>脳に刻まれたモラルの起源:人はなぜ善を求めるのか<br>''岩波書店''、2013.</ref>
価値判断とは、貨幣価値に代表される物的あるいは物欲的な価値などであり、それらと関連する脳内メカニズムがどのような働きをしているのかに関する研究である<ref name=ref23>'''金井良太<br>脳に刻まれたモラルの起源:人はなぜ善を求めるのか<br>''岩波書店''、2013.</ref>


==脳神経科学と社会==
==脳神経科学と社会==
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====エンターテインメントにおける問題====
====エンターテインメントにおける問題====
 例えば、[[wj:脳を鍛える大人のDSトレーニング|脳を鍛える大人のDSトレーニング]]は[[wj:ニンテンドーDS|ニンテンドーDS]]用のソフトとして社会に普及したが、実際の研究データから即座に「頭をよくする」ことを言及することには誇張が含まれることが、多くの脳科学者によって指摘されている。このような脳神経科学研究を用いたエンターテインメントなどが社会に普及する際に拡大解釈が付随することに関する問題であり、脳科学的知見がエンターテインメントを通して誇張されることの問題が深刻である。<ref name=ref22>'''住田朋久・礒部太一'''<br>脳ブームの社会的背景とマスメディア<br>''新通史日本の科学技術第3巻''、pp.568-576, 2011</ref>
 例えば、[[wj:脳を鍛える大人のDSトレーニング|脳を鍛える大人のDSトレーニング]]は[[wj:ニンテンドーDS|ニンテンドーDS]]用のソフトとして社会に普及したが、実際の研究データから即座に「頭をよくする」ことを言及することには誇張が含まれることが、多くの脳科学者によって指摘されている。このような脳神経科学研究を用いたエンターテインメントなどが社会に普及する際に拡大解釈が付随することに関する問題であり、脳科学的知見がエンターテインメントを通して誇張されることの問題が深刻である<ref name=ref22>'''住田朋久・礒部太一'''<br>脳ブームの社会的背景とマスメディア<br>''新通史日本の科学技術第3巻''、pp.568-576, 2011</ref>


====メディアに関する問題====
====メディアに関する問題====
 「エンターテインメントにおける問題」にも関係するが、テレビや雑誌などにおいて脳科学者を自称する人物が、実際の脳科学研究の事例を誇張や拡大解釈して紹介や説明を行うことに関する問題。また、そのようなメディア上での脳科学の説明を聞いた聴衆が、誤解や拡大解釈をもとに脳科学に関する知識を理解し受容することに関する問題。<ref name=ref22>'''住田朋久・礒部太一'''<br>脳ブームの社会的背景とマスメディア<br>''新通史日本の科学技術第3巻''、pp.568-576, 2011</ref>
 「エンターテインメントにおける問題」にも関係するが、テレビや雑誌などにおいて脳科学者を自称する人物が、実際の脳科学研究の事例を誇張や拡大解釈して紹介や説明を行うことに関する問題。また、そのようなメディア上での脳科学の説明を聞いた聴衆が、誤解や拡大解釈をもとに脳科学に関する知識を理解し受容することに関する問題<ref name=ref22>'''住田朋久・礒部太一'''<br>脳ブームの社会的背景とマスメディア<br>''新通史日本の科学技術第3巻''、pp.568-576, 2011</ref>


====疑似科学化の問題====
====疑似科学化の問題====
 確たるデータや証拠がない状況で、あたかも科学らしく振る舞うことに関する問題。他の科学技術分野と同じように、脳神経科学に関しても同様の問題が生じている。<ref name=ref22>'''住田朋久・礒部太一'''<br>脳ブームの社会的背景とマスメディア<br>''新通史日本の科学技術第3巻''、pp.568-576, 2011</ref>
 確たるデータや証拠がない状況で、あたかも科学らしく振る舞うことに関する問題。他の科学技術分野と同じように、脳神経科学に関しても同様の問題が生じている<ref name=ref22>'''住田朋久・礒部太一'''<br>脳ブームの社会的背景とマスメディア<br>''新通史日本の科学技術第3巻''、pp.568-576, 2011</ref>


====神経神話====
====神経神話====
 「疑似科学の問題」とも関連するが、実際には誤っている脳科学に関連する情報にも関わらず、広く社会(市民)の間で受け入れられている知識。例えば、「右脳型と左脳型の人がいる」などのような知識がそれに当たる。<ref name=ref23>'''信原幸弘, 原塑, 山本愛実'''編<br>脳神経科学リテラシー<br>''勁草書房''、2010.</ref>
 「疑似科学の問題」とも関連するが、実際には誤っている脳科学に関連する情報にも関わらず、広く社会(市民)の間で受け入れられている知識。例えば、「右脳型と左脳型の人がいる」などのような知識がそれに当たる<ref name=ref23>'''信原幸弘, 原塑, 山本愛実'''編<br>脳神経科学リテラシー<br>''勁草書房''、2010.</ref>


====専門家と社会とのコミュニケーションの問題<ref name=ref14>'''礒部太一'''<br>ELSI研究者のブレイン・マシン・インターフェースへの認識:倫理的・社会的問題と社会との関係について<br>''東京大学大学院情報学環紀要 情報学研究''、84, 2013</ref>====
====専門家と社会とのコミュニケーションの問題====
 脳科学の専門家はどのように社会(市民)とコミュニケーションを取るのかに関する問題。サイエンスカフェなどの場において専門家が自身の研究内容を参加者に紹介し、対話を行う試みなどがある。特に近年、このような取り組みの必要性が指摘されるようになり、活発的にこのような取り組みが行われるようになってきている。
 脳科学の専門家はどのように社会(市民)とコミュニケーションを取るのかに関する問題<ref name=ref14>'''礒部太一'''<br>ELSI研究者のブレイン・マシン・インターフェースへの認識:倫理的・社会的問題と社会との関係について<br>''東京大学大学院情報学環紀要 情報学研究''、84, 2013</ref>。サイエンスカフェなどの場において専門家が自身の研究内容を参加者に紹介し、対話を行う試みなどがある。特に近年、このような取り組みの必要性が指摘されるようになり、活発的にこのような取り組みが行われるようになってきている。


====教育と脳神経科学====
====教育と脳神経科学====
 教育という側面でも、脳神経科学が大きな影響を及ぼすことが予想される。例えば、脳画像などの教育への援用の問題がある。それは、医療などでの診断以外の場である教育の現場において入学者選抜などの機会で脳画像の状態を判断基準の1つとする問題である。つまり、脳神経科学の知見による、教育現場等における社会生活上の不公平、不利益の誘発の問題と位置づけられる。<ref name=ref3>'''Illess, J.''' ed.<br>Neuroethics: Defining the Issues in Theory, Practice And Policy. <br>''Oxford University Press'', Oxford, 2005.<br>(高橋隆雄、粂和彦監訳:脳神経倫理学―理論・実践・政策上の諸問題、''篠原出版新社''、2009.)</ref>
 教育という側面でも、脳神経科学が大きな影響を及ぼすことが予想される。例えば、脳画像などの教育への援用の問題がある。それは、医療などでの診断以外の場である教育の現場において入学者選抜などの機会で脳画像の状態を判断基準の1つとする問題である。つまり、脳神経科学の知見による、教育現場等における社会生活上の不公平、不利益の誘発の問題と位置づけられる<ref name=ref3>'''Illess, J.''' ed.<br>Neuroethics: Defining the Issues in Theory, Practice And Policy. <br>''Oxford University Press'', Oxford, 2005.<br>(高橋隆雄、粂和彦監訳:脳神経倫理学―理論・実践・政策上の諸問題、''篠原出版新社''、2009.)</ref>