「視差エネルギーモデル」の版間の差分

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英:disparity energy model [同] 両眼エネルギーモデル binocular energy model  
英:disparity energy model


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 奥行きや立体構造を知るための強い手がかりである両眼視差は、網膜からの視覚経路において第一次視覚野(V1野)ではじめて検出される。この両眼視差の検出に特化したV1野細胞の受容野機構を記述したモデルが視差エネルギーモデルである。現在、視差エネルギーモデルは脳における両眼視差検出の標準的モデルであり、両眼立体視の神経機構全体を考える上で強い影響力をもっている。1990年カリフォルニア大学バークレー校の大澤らによって提案された<ref name="ref1"><pubmed> 2396096  </pubmed></ref>。  
 奥行きや立体構造を知るための強い手がかりである両眼視差は、網膜からの視覚経路において第一次視覚野(V1野)ではじめて検出される。この領野で両眼視差の検出に特化した細胞の受容野機構を記述したモデルが視差エネルギーモデルである。現在、視差エネルギーモデルは脳における両眼視差検出の標準的モデルであり、両眼立体視の神経機構全体を考える上で強い影響力をもっている。1990年カリフォルニア大学バークレー校の大澤らによって提案された<ref name="ref1"><pubmed> 2396096  </pubmed></ref>。  


== 両眼視差  ==
== 両眼視差  ==
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&nbsp; 視差エネルギーモデルが行っている計算は、2枚の画像についての局所的な相関計算と類似性がある。2枚の画像の局所相関を計算する場合、2枚の画像を一定量ずらしたとき同じ位置にくる画素値をかけあわせて、その局所平均をとる。視差エネルギーモデルが行っている計算は数学的にはこのような計算と捉えることができる<ref name="qian"><pubmed> 9274767</pubmed></ref> 。  
&nbsp; 視差エネルギーモデルが行っている計算は、2枚の画像についての局所的な相関計算と類似性がある。2枚の画像の局所相関を計算する場合、2枚の画像を一定量ずらしたとき同じ位置にくる画素値をかけあわせて、その局所平均をとる。視差エネルギーモデルが行っている計算は数学的にはこのような計算と捉えることができる<ref name="qian"><pubmed> 9274767</pubmed></ref> 。  


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== 視差エネルギーモデルの拡張と種々の両眼視差の検出  ==
== 視差エネルギーモデルの拡張と種々の両眼視差の検出  ==


=== 相対視差  ===
=== 相対視差  ===


 ここまで扱ってきた両眼視差は、中心窩を基準とした座標系における、左右網膜像の位置のずれとして定義されたものであり、絶対視差ともよばれるものである。これにたいし、2つの刺激がもつ絶対視差の差異のことを相対視差とよぶ。われわれは隣接する刺激の奥行きを非常に精度よく弁別できるが、これには眼球の輻輳運動の影響をうけない相対視差が利用されていると考えられている。<br> サルV1野の細胞の大部分は絶対視差をコードしているが、V1野から入力を受けるV2野やV4野には、相対視差に選択性応答を示す細胞が一定の割合で存在する<ref name="ref14"><pubmed> 11967544 </pubmed></ref><ref name="ref15"><pubmed> 17507498 </pubmed></ref>。この選択性は、異なる場所に受容野をもち、一定の違いのある絶対視差に選択性をもつ視差エネルギーモデルの出力を2段階的に統合することで説明される。<ref name="ref14" />。<br>  
 ここまで扱ってきた両眼視差は、中心窩を基準とした座標系における、左右網膜像の位置のずれとして定義されたものであり、絶対視差ともよばれるものである。これにたいし、2つの刺激がもつ絶対視差の差異のことを相対視差とよぶ。われわれは隣接する刺激の奥行きを非常に精度よく弁別できるが、これには眼球の輻輳運動の影響をうけない相対視差が利用されていると考えられている。サルV1野の細胞の大部分は絶対視差をコードしているが、V1野から入力を受けるV2野やV4野には、相対視差に選択性応答を示す細胞が一定の割合で存在する<ref name="ref14"><pubmed> 11967544 </pubmed></ref><ref name="ref15"><pubmed> 17507498 </pubmed></ref>。この選択性は、異なる場所に受容野をもち、一定の違いのある絶対視差に選択性をもつ視差エネルギーモデルの出力を2段階的に統合することで説明される。<ref name="ref14" />。<br>  


=== 視差の勾配  ===
=== 視差の勾配  ===


 霊長類の高次視覚野には、物体表面が前額平行面から傾いているときに強く応答する細胞が存在する<ref name="taira"><pubmed> 10805708 </pubmed></ref>。奥行き位置を変えてもこの選択性は保たれる。このような物体表面上の特徴点は、網膜上で両眼視差の勾配を作り出す。視差エネルギーモデルは、受容野内部の位置により視差選択性が滑らかにずれたサブユニットからの入力を集めることで(4以上のサブユニット数が必要となる)、視差勾配への選択性を一部もつようになる。ネコV1野はそのような特性を示す細胞が存在することが示されている。しかしながら、この選択性は絶対視差に強く依存しており、ある奥行き面でしか視差勾配選択性を示さない<ref name="sanada"><pubmed> 16394073</pubmed></ref>。<br>  
 物体表面が前額平行面から傾いているとき、物体表面上の特徴点は網膜上で両眼視差の勾配を作り出す。視差エネルギーモデルは、受容野内部の位置により視差選択性が滑らかにずれたサブユニットからの入力を集めることで(4以上のサブユニット数が必要となる)、視差勾配への選択性を一部もつようになる。ネコV1野はそのような特性を示す細胞が存在することが示されている。しかしながら、この選択性は絶対視差に強く依存しており、ある奥行き面でしか視差勾配選択性を示さない<ref name="sanada"><pubmed> 16394073</pubmed></ref>。<br>  


=== 方位視差  ===
=== 方位視差  ===


 前額平行面から奥行き方向に傾いた線分が網膜に投影されるとき、左右の網膜上での線分の方位にはずれが生じる。この方位視差を手がかりに、われわれは線分の奥行き方向の傾きを知ることができる。視差エネルギーモデルは、4つのサブユニットのそれぞれにおいて、左右受容野の傾きが一定量異なるときに、方位視差に対する感受性を一部獲得する。サルV1野にはこれと合致した特性を示す細胞が報告されている。さらに、様々な方位に選択性をもつサブニットからの入力を集めることで、視差エネルギーモデルは、刺激の方位自身には依存せず、方位視差のみに選択性をもつようになるが、そのような特性を示す細胞は報告されていない<ref name="bridge"><pubmed> 11549739 </pubmed></ref>。<br>  
 前額平行面から奥行き方向に傾いた線分が網膜に投影されるとき、左右の網膜上での線分の方位にはずれが生じる。この方位視差を手がかりに、われわれは線分の奥行き方向の傾きを知ることができる。視差エネルギーモデルは、4つのサブユニットのそれぞれにおいて、左右受容野の傾きが一定量異なるときに、方位視差に対する感受性を一部獲得する。サルV1野にはこのような特性を示す細胞が報告されている。さらに、様々な方位に選択性をもつサブニットからの入力を集めることで、視差エネルギーモデルは、刺激の方位自身には依存せず、方位視差のみに選択性をもつようになるが、そのような特性を示す細胞は報告されていない<ref name="bridge"><pubmed> 11549739 </pubmed></ref>。<br>  


=== 2次特徴の両眼視差  ===
=== 2次特徴の両眼視差  ===


  視覚系が利用可能な両眼視差のうち、最も強い奥行き手がかりとなるものは輝度のエッジにより生じる両眼視差である。しかし、テクスチャーエッジ(例えば、縦縞と横縞の境界)など2次特徴とよばれる刺激により生じる両眼視差も奥行き知覚は可能である(2次特徴にたいして、輝度エッジは1次特徴と呼ばれている)。<br> 視覚野の細胞の多くは、輝度エッジの両眼視差にしか応答しない。しかし、2次特徴の両眼視差に選択性をもつ細胞がネコ18野(細胞構築学的にはV2野とされる)で発見されている。2次特徴の両眼視差は、両眼視差エネルギーモデルの各サブユニットの左右受容野を、線形フィルターではなく、”フィルター&gt;整流&gt;フィルター”というカスケード型の非線形機構で置き換えることで検出できる。<br><ref name="ref16"><pubmed> 16624957 </pubmed></ref>。<br>  
 視覚系が利用可能な両眼視差のうち、最も強い奥行き手がかりとなるものは輝度のエッジにより生じる両眼視差である。しかし、テクスチャーエッジ(例えば、縦縞と横縞の境界)など2次特徴とよばれる刺激により生じる両眼視差も奥行き知覚は可能である(輝度エッジは1次特徴と呼ばれている)。視覚野の細胞の多くは、輝度エッジの両眼視差にしか応答しない。しかし、2次特徴の両眼視差に選択性をもつ細胞がネコ18野(細胞構築学的にはV2野とされる)で発見されている。2次特徴の両眼視差は、両眼視差エネルギーモデルの各サブユニットの左右受容野を、線形フィルターではな『”フィルター&gt;整流&gt;フィルター』というカスケード型の非線形機構で置き換えることで検出できる。<br><ref name="ref16"><pubmed> 16624957 </pubmed></ref>。<br>  


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== 視差エネルギーモデルと両眼対応点問題  ==
== 視差エネルギーモデルと両眼対応点問題  ==


 ある刺激の両眼視差を正しく検出するためには、その左右の網膜像を正しく対応づけることが不可欠である。この課題を対応点問題とよぶ。刺激が視野の中にただ1つしか存在せず、左右の網膜上にはその投影像が1つずつしか存在しない状況では解は自明である。しかし、視野の中に似た刺激が多数存在し、左右の網膜上に似た特徴が多数存在する状況下では、左右眼の特徴を対応づけるのは容易ではない。組み合わせの総数が膨大なものとなり、正しい組み合わせ(コレクトマッチ)を、正しくない組み合わせ(フォールスマッチ)から選び出すが困難になるためである。<br> 上記の多数の刺激が存在する状況では、フォールスマッチが細胞の受容野内部に入る状況は頻繁に起こる。このとき視差エネルギーモデルはフォールスマッチにも応答することが示されている。しかしながら、われわれの視覚系は、フォールスマッチに基づいて奥行きを知覚することはなく、コレクトマッチに基づく正しい奥行きを知覚している。このためには視差エネルギーモデルが出力するフォールスマッチの信号を遮断し、コレクトマッチの信号を選び出す神経機構が必要となる。 <br> V1野細胞は、視差エネルギーモデルの予測よりはある程度の減弱はあるものの、フォールスマッチにも強く応答する<ref name="ref17"><pubmed> 9212245  </pubmed></ref><ref name="ref18"><pubmed> 9305841  </pubmed></ref><ref name="ref19"><pubmed> 10844045  </pubmed></ref>。ただし、一方でサルV4野やIT野など腹側視覚経路の細胞はコレクトマッチには応答するが、フォールスマッチにはあまり応答しない<ref name="ref20"><pubmed> 15371518  </pubmed></ref><ref name="ref21"><pubmed> 12597865  </pubmed></ref>。このことは視差情報がこの経路に沿って処理されるなかで、対応点問題が解決されている可能性を示唆している。対応点問題を解決するための神経機構としては、空間周波数チャネルの収斂に基づく機構や<ref name="ref20"><pubmed> 8759452  </pubmed></ref>、前述した異なる視差選択性モデル(位置モデル+位相モデル+ハイブリッドモデル)の集団活動に基づく機構などが提案されている<ref name="read" />。V4野で実際に周波数チャネルの収斂が起こっていることが示されている<ref name="kumano"><pubmed> 17959744 </pubmed></ref>。  
 両眼視差を正しく検出するためには、左眼の網膜像のどの特徴と右眼の網膜像のどの特徴とが対応するのか(同じ外界刺激の投影像であるのか)を正しく決めることが不可欠である。この課題を対応点問題とよぶ。刺激が視野の中にただ1つしか存在せず、左右の網膜上にはその投影像が1つずつしか存在しない状況では解は自明である。しかし、視野の中に似た刺激が多数存在し、左右の網膜上に似た特徴が多数存在する状況下では、この対応づけは容易ではない。<br> 上記の多数の刺激が存在する状況では、正しくない組み合わせ(=フォールスマッチ)が細胞の受容野内部に入る状況は頻繁に起こる。このとき視差エネルギーモデルはフォールスマッチにも応答することが示されている。しかしながら、われわれの視覚系は、フォールスマッチに基づいて誤った奥行きを知覚することはなく、正しい組み合わせ(=コレクトマッチ)に基づいて奥行きを正しく知覚している。このためには視差エネルギーモデルが出力するフォールスマッチの信号を遮断し、コレクトマッチの信号を選び出す神経機構が必要となる。 <br> V1野細胞は、視差エネルギーモデルの予測よりは低いものの、フォールスマッチにも強く応答する<ref name="ref17"><pubmed> 9212245  </pubmed></ref><ref name="ref18"><pubmed> 9305841  </pubmed></ref><ref name="ref19"><pubmed> 10844045  </pubmed></ref>。一方でサルV4野やIT野など腹側視覚経路の細胞はフォールスマッチにはあまり応答しない<ref name="ref20"><pubmed> 15371518  </pubmed></ref><ref name="ref21"><pubmed> 12597865  </pubmed></ref>。このことは視差情報がこの経路に沿って処理されるなかで、対応点問題が解決されていることを示している。対応点問題を解決するための神経機構としては、空間周波数チャネルの収斂に基づく機構や<ref name="ref20"><pubmed> 8759452  </pubmed></ref>、位置モデル、位相モデルやハイブリッドモデルなど異なる視差機構をもつ細胞の集団活動を利用した機構などが提案されている<ref name="read" />。V4野では周波数チャネルの収斂が実際に起こっていることが示されている<ref name="kumano"><pubmed> 17959744 </pubmed></ref>。
 V1野複雑型細胞の応答は、基本的には視差エネルギーモデルでよく説明できるが、前述したようにフォールスマッチへの応答が視差エネルギーモデルの予測より減弱する。さらに、視差エネルギーモデルが予測するよりも、自然界に実在する両眼視差のパターンにたいしてより大きな応答変動をすることも示されている。このような応答を説明する機構の1つして、4つ以上のサブユニットからの興奮抑制入力を受け取るモデルが提案されている。<ref name="haefnar"><pubmed> 18184571</pubmed></ref> <ref name="tanabe2011"><pubmed> 21632950</pubmed></ref> <br>
 
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 V1野複雑型細胞の応答は、基本的には視差エネルギーモデルでよく説明できるが、前述したようにフォールスマッチへの応答が視差エネルギーモデルの予測より減弱する。さらに、視差エネルギーモデルが予測するよりも、自然界に実在する両眼視差のパターンにたいしてより大きな応答変動をすることも示されている。このような応答を説明する機構の1つして、複雑型細胞が、4つ以上の単純型細胞から興奮および抑制入力を受け取るモデルが提案されている。<ref name="haefnar"><pubmed> 18184571</pubmed></ref> <ref name="tanabe2011"><pubmed> 21632950</pubmed></ref> <br>  


== 参考文献  ==
== 参考文献  ==
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