「記憶固定化」の版間の差分

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== メカニズム ==
== メカニズム ==
=== 遺伝子の発現誘導 ===
=== 遺伝子の発現誘導 ===
 タンパク質合成阻害剤と同様に、学習時の[[PKA]]やCaMKIVなどのリン酸化酵素の阻害も長期記憶形成を阻害することが示されている<ref><pubmed>11572782</pubmed></ref> 。PKAやCaMKIVは、神経細胞の活性に呼応して活性化し、[[転写因子]][[CREB]]に対しリン酸化修飾を施し活性化させることで、長期記憶形成に必要な遺伝子群の発現を誘導する<ref><pubmed>9808472</pubmed></ref> 。このCREBの活性によって誘導されるのは、引き続き起こる次の転写や神経細胞の可塑的変化に関わるc-fosやarcといった遺伝子([[最初期遺伝子]]と呼ばれる)<ref><pubmed>11572782</pubmed></ref><ref><pubmed>19116276</pubmed></ref> である。c-fos遺伝子は転写因子をコードしており、中枢神経系におけるc-fos遺伝子の欠損[[マウス]]では、海馬依存的な長期記憶の形成に異常が見られている<ref><pubmed>14534245</pubmed></ref> 。最近の知見から、学習時に活性化してc-fosやarc遺伝子を発現した細胞に記憶が蓄えられることが示されてきている<ref><pubmed>22441246</pubmed></ref><ref><pubmed>24991962</pubmed></ref> 。これらの記憶を蓄えた一群の細胞は、[[記憶痕跡]]細胞(engram cells)と呼ばれている(脳科学辞典・記憶痕跡を参照)。これらの知見から、遺伝子発現やタンパク質合成の開始は長期記憶誘導の[[閾値]]となっており、学習時にこの閾値を超える入力が一部の細胞に入ることで記憶痕跡が形成され長期記憶が獲得されると想定される。
 タンパク質合成阻害剤と同様に、学習時の[[cAMP依存性タンパク質キナーゼ]] ([[PKA]])や[[Ca2+/カルモジュリン依存性タンパク質キナーゼIV|Ca<sup>2+</sup>/カルモジュリン依存性タンパク質キナーゼIV]] ([[CaMKIV]])などの[[リン酸化酵素]]の阻害も長期記憶形成を阻害することが示されている<ref><pubmed>11572782</pubmed></ref>
 
 PKAやCaMKIVは、神経細胞の活性に呼応して活性化し、[[転写因子]][[CREB]]に対しリン酸化修飾を施し活性化させることで、長期記憶形成に必要な遺伝子群の発現を誘導する<ref><pubmed>9808472</pubmed></ref> 。このCREBの活性によって誘導されるのは、引き続き起こる次の転写や神経細胞の可塑的変化に関わる[[c-fos]]や[[arc]]といった遺伝子([[最初期遺伝子]]と呼ばれる)<ref><pubmed>11572782</pubmed></ref><ref><pubmed>19116276</pubmed></ref> である。c-fos遺伝子は転写因子をコードしており、[[中枢神経系]]におけるc-fos遺伝子の[[ノックアウトマウス|欠損マウス]]では、[[海馬]]依存的な長期記憶の形成に異常が見られている<ref><pubmed>14534245</pubmed></ref>
 
 最近の知見から、学習時に活性化してc-fosやarc遺伝子を発現した細胞に記憶が蓄えられることが示されてきている<ref><pubmed>22441246</pubmed></ref><ref><pubmed>24991962</pubmed></ref> 。これらの記憶を蓄えた一群の細胞は、[[記憶痕跡]]細胞(engram cells)と呼ばれている。これらの知見から、遺伝子発現やタンパク質合成の開始は長期記憶誘導の[[閾値]]となっており、学習時にこの閾値を超える入力が一部の細胞に入ることで記憶痕跡が形成され長期記憶が獲得されると想定される。


=== 長期増強(LTP)の誘導 ===
=== 長期増強(LTP)の誘導 ===
 神経細胞間の伝達を行う[[シナプス]]の構造や機能が変化することで特定神経回路で長期増強が誘導され、長期記憶の回路ができると考えられる(図3)。長期増強(long-term potentiation, LTP)は、神経細胞間のシナプスにおいて伝達効率が長期的に上昇する現象である。記憶形成時に実際にLTPの誘導が観察された<ref><pubmed>16931756</pubmed></ref> ことから、LTPは記憶のシナプスレベルの素過程であり、学習時の入力により活性化した一群の神経細胞間のシナプスでLTPが誘導されることが示唆されている。LTPの誘導には、N-メチル-D-アスパラギン酸(NMDA)型[[グルタミン酸受容体]]の活性が必要であるが<ref><pubmed>6306230</pubmed></ref> 、同様に長期記憶の形成もNMDA型受容体の活性に依存している。NMDA型受容体の活性化が、LTPの長期維持(L-LTPの誘導)や記憶の固定化に必要とされるCREBの活性化とそれにより誘導される一連の遺伝子発現に続く反応の引き金となる<ref><pubmed>16891050</pubmed></ref> 。L-LTPの誘導には、シナプスで実際に情報伝達を担っているα-アミノ-3-ヒドロキシ-5-メチル-4-イソオキサゾールプロピオン酸型[[グルタミン酸]]受容体(AMPA型受容体)も、新規タンパク質合成依存的に発現誘導されることが必要である。AMPA型受容体の発現とシナプスへの組み込みは、学習にともなって出現する記憶痕跡細胞中でも新規タンパク質合成依存的に起こることが明らかとなった<ref><pubmed>26023136</pubmed></ref> 。このことから、「記憶の固定化機構としての遺伝子発現やタンパク質合成が、長期記憶回路を細胞選択的に形成する」というアイデアは、仮説の域を超えた現実的な機構として捉えられつつある。
 神経細胞間の伝達を行う[[シナプス]]の構造や機能が変化することで特定神経回路で長期増強が誘導され、長期記憶の回路ができると考えられる(図3)。
 
 長期増強(long-term potentiation, LTP)は、神経細胞間のシナプスにおいて伝達効率が長期的に上昇する現象である。記憶形成時に実際にLTPの誘導が観察された<ref><pubmed>16931756</pubmed></ref> ことから、LTPは記憶のシナプスレベルの素過程であり、学習時の入力により活性化した一群の神経細胞間のシナプスでLTPが誘導されることが示唆されている。LTPの誘導には、[[NMDA型グルタミン酸受容体|N-メチル-<small>D</small>-アスパラギン酸(NMDA)型グルタミン酸受容体]]の活性が必要であるが<ref><pubmed>6306230</pubmed></ref> 、同様に長期記憶の形成もNMDA型グルタミン酸受容体の活性に依存している。
 
 NMDA型グルタミン酸受容体の活性化が、LTPの長期維持(L-LTPの誘導)や記憶の固定化に必要とされるCREBの活性化とそれにより誘導される一連の遺伝子発現に続く反応の引き金となる<ref><pubmed>16891050</pubmed></ref> 。L-LTPの誘導には、シナプスで実際に情報伝達を担っている[[AMPA型グルタミン酸受容体|α-アミノ-3-ヒドロキシ-5-メチル-4-イソオキサゾールプロピオン酸 (AMPA)型グルタミン酸受容体]]([[AMPA型グルタミン酸受容体]])も、新規タンパク質合成依存的に発現誘導されることが必要である。AMPA型受容体の発現とシナプスへの組み込みは、学習にともなって出現する記憶痕跡細胞中でも新規タンパク質合成依存的に起こることが明らかとなった<ref><pubmed>26023136</pubmed></ref>
 
 このことから、「記憶の固定化機構としての遺伝子発現やタンパク質合成が、長期記憶回路を細胞選択的に形成する」というアイデアは、仮説の域を超えた現実的な機構として捉えられつつある。


=== 長期記憶の維持 ===
=== 長期記憶の維持 ===
 通常の長期記憶の[[テスト]]は、学習後1日目で評価されてきた。しかし、実際は長期記憶は数週間以上維持されるものである。このような固定化された長期記憶の長期間の維持には、学習後の複数回の遺伝子発現の上昇が必要であることが報告されている。
 通常の長期記憶のテストは、学習後1日目で評価されてきた。しかし、実際は長期記憶は数週間以上維持されるものである。このような固定化された長期記憶の長期間の維持には、学習後の複数回の遺伝子発現の上昇が必要であることが報告されている。


 学習後のタンパク質合成阻害剤の長期記憶形成阻害の実験から、記憶の固定化のタイムウインドウは、学習後3時間位までが想定されていた。しかし、学習12時間後のタンパク質合成阻害剤の処理が、2日目の記憶には影響を及ぼさないが、学習後7日目の記憶テストに阻害を与えることが明らかになった<ref><pubmed>17224407</pubmed></ref> 。例えば学習12時間後の脳由来神経栄養因子(Brain-derived neurotrophic factor, BDNF)遺伝子の発現を抑制すると、上述のタンパク質合成阻害と同じ結果が得られる。最初期遺伝子の一つであるarc遺伝子でも同様の現象が報告されている<ref><pubmed>25589774</pubmed></ref> 。
 学習後のタンパク質合成阻害剤の長期記憶形成阻害の実験から、記憶の固定化のタイムウインドウは、学習後3時間位までが想定されていた。しかし、学習12時間後のタンパク質合成阻害剤の処理が、2日目の記憶には影響を及ぼさないが、学習後7日目の記憶テストに阻害を与えることが明らかになった<ref><pubmed>17224407</pubmed></ref> 。例えば学習12時間後の[[脳由来神経栄養因子]]([[brain-derived neurotrophic factor]], [[BDNF]])遺伝子の発現を抑制すると、上述のタンパク質合成阻害と同じ結果が得られる。最初期遺伝子の一つであるarc遺伝子でも同様の現象が報告されている<ref><pubmed>25589774</pubmed></ref> 。


 このような後期固定化段階が、記憶の[[想起]]無しに自発的に起こることによって記憶の長期安定化に繋がっていると示唆される。
 このような後期固定化段階が、記憶の[[想起]]無しに自発的に起こることによって記憶の長期安定化に繋がっていると示唆される。