「逆行性健忘」の版間の差分

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(ページの作成:「英語名:retrograde amnesia 仏:amnésie retrograde 同義語:逆向性健忘  逆行性健忘 (retrograde amnesia) とは、発症以前の、過去の出来...」)
 
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 健忘症では、通常、逆行性健忘と前行性健忘の両方がみられるが、前行性健忘が主体で逆行性健忘が軽微なものや、逆に前行性健忘に比べ、逆行性健忘が著しいもの (disproportionate retrograde amnesia) など様々な組み合わせがある。特に、前行性には健忘がないか、ごく軽微であるにもかかわらず、顕著な逆行性健忘を呈する病態を、孤立性逆行性健忘 (isolated retrograde amnesia, focal retrograde amnesia あるいはpure retrograde amnesia) と呼び、記憶の神経基盤に関する重要な手がかりを提供するものとして注目されてきた。多くの場合、発症早期には前行性健忘と逆行性健忘が共存するが、速やかに前行性健忘は改善し、逆行性健忘が残存するというパターンをとる。
 健忘症では、通常、逆行性健忘と前行性健忘の両方がみられるが、前行性健忘が主体で逆行性健忘が軽微なものや、逆に前行性健忘に比べ、逆行性健忘が著しいもの (disproportionate retrograde amnesia) など様々な組み合わせがある。特に、前行性には健忘がないか、ごく軽微であるにもかかわらず、顕著な逆行性健忘を呈する病態を、孤立性逆行性健忘 (isolated retrograde amnesia, focal retrograde amnesia あるいはpure retrograde amnesia) と呼び、記憶の神経基盤に関する重要な手がかりを提供するものとして注目されてきた。多くの場合、発症早期には前行性健忘と逆行性健忘が共存するが、速やかに前行性健忘は改善し、逆行性健忘が残存するというパターンをとる。


== 障害される記憶内容 ==
== 障害される記憶内容 ==
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 逆行性健忘の機序は、それまで保持されていた記憶内容の破壊、あるいは記憶内容の再生障害と考えられる。病因として、脳外傷、脳炎、脳血管障害、てんかん、低酸素性脳症、一過性全健忘など多様である。責任病変として、比較的健忘期間が短いものは、内側側頭葉病変が重視され、より長期に健忘期間がみられるものは、内側よりむしろ側頭葉前方部が重視される。
 逆行性健忘の機序は、それまで保持されていた記憶内容の破壊、あるいは記憶内容の再生障害と考えられる。病因として、脳外傷、脳炎、脳血管障害、てんかん、低酸素性脳症、一過性全健忘など多様である。責任病変として、比較的健忘期間が短いものは、内側側頭葉病変が重視され、より長期に健忘期間がみられるものは、内側よりむしろ側頭葉前方部が重視される。


 内側側頭葉損傷による健忘症候群は、ScovilleとMilnerによる有名な症例H.M.の研究をはじめとする (1)。H.M.は27歳時、難治性てんかんの治療を目的に両側内側側頭葉切除術を施行されたが、術後、重度の前行性健忘と約10年の逆行性健忘が生じた。また、低酸素脳症で両側海馬のCA1領域に限局した梗塞をきたした症例R.B.も、同様に重篤な前行性健忘と2~3年の逆行性健忘を生じた (2)。これらの結果を踏まえ、内側側頭葉がエピソード記憶に重要であることは間違いなく、記銘と保持(固定化)、あるいは想起に関与することが示唆される。内側側頭葉の具体的構造物と記憶障害の関係について、YonedaらはMRIによる脳炎患者の側頭葉構造の体積測定から (3)、Rempel-Clowerらは限局した側頭葉損傷の病理学的な比較検討から (4)、前行性健忘には海馬体が、逆行性健忘には海馬傍回が重要であろうと報告している。しかし、その後の報告でも内側側頭葉損傷による健忘症患者の症状は決して一様ではなく、単純に海馬体と海馬傍回を区別して説明しうるかははっきりしない。おそらく、障害が内側側頭葉領域にとどまらず、側頭葉前方部などに及ぶことで逆行性健忘の期間が長くなる可能性はある。
 内側側頭葉損傷による健忘症候群は、ScovilleとMilnerによる有名な症例H.M.の研究をはじめとする<ref name=ref1><pubmed>13406589</pubmed></ref>。H.M.は27歳時、難治性てんかんの治療を目的に両側内側側頭葉切除術を施行されたが、術後、重度の前行性健忘と約10年の逆行性健忘が生じた。また、低酸素脳症で両側海馬のCA1領域に限局した梗塞をきたした症例R.B.も、同様に重篤な前行性健忘と2~3年の逆行性健忘を生じた<ref name=ref2><pubmed>3760943</pubmed></ref>。これらの結果を踏まえ、内側側頭葉がエピソード記憶に重要であることは間違いなく、記銘と保持(固定化)、あるいは想起に関与することが示唆される。内側側頭葉の具体的構造物と記憶障害の関係について、YonedaらはMRIによる脳炎患者の側頭葉構造の体積測定から<ref name=ref3><pubmed>7995298</pubmed></ref>、Rempel-Clowerらは限局した側頭葉損傷の病理学的な比較検討から<ref name=ref4><pubmed>8756452</pubmed></ref>、前行性健忘には海馬体が、逆行性健忘には海馬傍回が重要であろうと報告している。しかし、その後の報告でも内側側頭葉損傷による健忘症患者の症状は決して一様ではなく、単純に海馬体と海馬傍回を区別して説明しうるかははっきりしない。おそらく、障害が内側側頭葉領域にとどまらず、側頭葉前方部などに及ぶことで逆行性健忘の期間が長くなる可能性はある。


 これまでに逆行性健忘を説明するために提唱された理論として、Squireらの「記憶の固定化の2段階理論」(5)のほか、Nadelらの「多重痕跡理論 (multiple trace theory) 」(6)が挙げられる。Squireらの理論では、「海馬のシナプスが急速に変化することで、海馬システムが一時的な記憶の貯蔵庫として働く」急速な固定化の段階と、「海馬システムが新皮質にある記憶表象を繰り返し活性化させることで生じ、次第に皮質間の相互結合を強めることで、記憶が海馬システムから独立したものとなる」緩徐な固定化の段階が存在するというモデルを提唱している。一方、Nadelらは、新皮質同士の長期にわたる相互結合を仮定せずに、海馬を含む側頭葉内側部が新皮質と絶えず相互作用を営み、相互の情報内容を常に更新していくというモデルを想定した。すなわち、Squireらの理論では、海馬の役割が時間とともに減少するのに対して、Nadelらの理論では、記銘だけではなく想起においても海馬が関与するというものである。
 これまでに逆行性健忘を説明するために提唱された理論として、Squireらの「記憶の固定化の2段階理論」<ref name=ref5><pubmed>7620304</pubmed></ref>のほか、Nadelらの「多重痕跡理論 (multiple trace theory) 」<ref name=ref6><pubmed>10985275</pubmed></ref>が挙げられる。Squireらの理論では、「海馬のシナプスが急速に変化することで、海馬システムが一時的な記憶の貯蔵庫として働く」急速な固定化の段階と、「海馬システムが新皮質にある記憶表象を繰り返し活性化させることで生じ、次第に皮質間の相互結合を強めることで、記憶が海馬システムから独立したものとなる」緩徐な固定化の段階が存在するというモデルを提唱している。一方、Nadelらは、新皮質同士の長期にわたる相互結合を仮定せずに、海馬を含む側頭葉内側部が新皮質と絶えず相互作用を営み、相互の情報内容を常に更新していくというモデルを想定した。すなわち、Squireらの理論では、海馬の役割が時間とともに減少するのに対して、Nadelらの理論では、記銘だけではなく想起においても海馬が関与するというものである。


 これらのモデルはいずれも海馬を含む内側側頭葉の役割を中心に据えているが、逆行性健忘が数十年という長期に及ぶ孤立性逆行性健忘では、損傷部位を特定できないことも多い。損傷部位がはっきりしていて多いのは、側頭極(側頭葉先端部)、嗅内野(28野)、海馬傍回を含む両側側頭葉の前方であるが、両側または一側前頭葉の背外側前頭前野または内側の帯状回前部、前頭葉底面を含む広範な前頭葉障害、あるいは視床病変での報告もある (7)(8)(9)(10)。遠隔記憶の多様性を考えれば、そのさまざまな側面にかかわる種々の脳領域での病変が健忘を引き起こすと考えられ、逆行性健忘の責任病変が一定でないのはむしろ当然かもしれない。
 これらのモデルはいずれも海馬を含む内側側頭葉の役割を中心に据えているが、逆行性健忘が数十年という長期に及ぶ孤立性逆行性健忘では、損傷部位を特定できないことも多い。損傷部位がはっきりしていて多いのは、側頭極(側頭葉先端部)、嗅内野(28野)、海馬傍回を含む両側側頭葉の前方であるが、両側または一側前頭葉の背外側前頭前野または内側の帯状回前部、前頭葉底面を含む広範な前頭葉障害、あるいは視床病変での報告もある<ref name=ref7><pubmed>17015852</pubmed></ref> <ref name=ref8><pubmed>10426519</pubmed></ref> <ref name=ref9>'''Mangels JA, Gershberg FB, Shimamura AP, Knight RT'''<br>Impaired retrieval from remote memory in patients with frontal lobe damage.<br>''Neuropsychology'' 1996; 10: 32-41.
</ref> <ref name=ref10><pubmed>11440756</pubmed></ref>。遠隔記憶の多様性を考えれば、そのさまざまな側面にかかわる種々の脳領域での病変が健忘を引き起こすと考えられ、逆行性健忘の責任病変が一定でないのはむしろ当然かもしれない。


== 機能性逆行性健忘 ==
== 機能性逆行性健忘 ==