「前頭前野」の版間の差分

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== 記憶・思考と前頭前野  ==
== 記憶・思考と前頭前野  ==


前頭前野に損傷を受けても、一般に健忘症amnesiaのような記憶障害は生じない。しかし、「いつ、どこかである事柄をしなければならない」という将来の予定に関する記憶(展望記憶prospective memory)の障害、あるいは情報をいつ、どこで得たのかという記憶(出典記憶source memory)の障害、そして時間を隔てて生起したことがらの、どちらが先に起こったのかという順序の記憶 temporal order memoryの障害は見られる。<br>  前頭前野が最も大きく関わる記憶の種類がワーキングメモリーworking memoryである。ヒトで用いられるワーキングメモリー課題の典型の1つに、n-バック課題n-back taskと呼ばれるものがある。この課題では一定間隔をおいて次々に刺激が呈示されるが、被験者はそれぞれの刺激が呈示されるたびに、それがn個前のものと同じか違うかの判断をすることを求められる。nが3の場合を例に取ると、刺激が呈示されて比較が終わった時点では3個前のものを忘れ去り(リセットし)、2個前と1個前に呈示された刺激を「保持」しつつ、呈示されたばかりの刺激を新たに頭の中に入れるという「操作」を繰り返すことを要求される。前頭前野損傷患者はこの課題で著しい障害を示す。人の非侵襲的研究によると、n-バック課題に関係して、前頭前野外側部で顕著な活性化が見られる。 サルで試みられるワーキングメモリー課題の典型として遅延反応delayed responseがある。この課題では、いったん呈示された刺激が消えたあとに、その内容を保持し、それに基づいて適切な反応が求められる。前頭前野破壊ザルは、この課題の遂行に著しい障害を示す。前頭前野からニューロン活動を記録すると、遅延期間中に活動の上昇を示すとともに、保持すべき内容を反映した活動を示すニューロンが多数見出される。<br>  前頭前野損傷患者には評価、計画、推論などの思考過程に障害が見られる。評価に関しては、例えば「この物品はどのくらいの値段だと思いますか」,あるいは「世界で最も大きな船の長さはどのくらいだと思いますか」というような問いに対して,損傷患者は正常と大きくかけ離れた値を出す傾向がある。<br> 計画の立案や遂行においても障害が見られ、損傷患者は「順序だった計画を立てたり」,「計画を完成させたり」,「重要な項目と些細な項目を区別したり」,あるいは「目標と無関係なことがらを持ち込まないようにしたり」することに障害を示す。例えば海外旅行の計画を立てる,というような場合,スーツケースに荷物をつめるという優先度が高いことは重要視しない一方で,親戚にどんなおみやげを買うのか,というような瑣末なことを重要視したりする傾向が見られる<ref name="ref3">'''Boller F, Grafman J (Eds.) '''<br> Handbook of Neuropsychology, 2nd Edition: The Frontal Lobes, Elsevier 2002</ref>[3]。<br> 非侵襲的研究によると、プラニングに関係して前頭前野外側部で活性化が見られるが、特にその中でも外側部の一番前に位置する前頭極frontal poleでは活性化がよく見られる。前頭極は推論に関係した活性化も示すが、この部位は、いくつかの処理を並行的に行う、関係性の統合を行うなど、ワーキングメモリー負荷の高い条件で推論を行うときに重要な役割を果たしていると考えられる。なお、被験者が十分に課題の練習をして熟達してくると、前頭前野の活動性は小さくなり、代わりに大脳基底核の活動性が大きくなる。  
前頭前野に損傷を受けても、一般に健忘症amnesiaのような記憶障害は生じない。しかし、「いつ、どこかである事柄をしなければならない」という将来の予定に関する記憶(展望記憶prospective memory)の障害、あるいは情報をいつ、どこで得たのかという記憶(出典記憶source memory)の障害、そして時間を隔てて生起したことがらの、どちらが先に起こったのかという順序の記憶 temporal order memoryの障害は見られる。<br>  前頭前野が最も大きく関わる記憶の種類がワーキングメモリーworking memoryである。ヒトで用いられるワーキングメモリー課題の典型の1つに、n-バック課題n-back taskと呼ばれるものがある。この課題では一定間隔をおいて次々に刺激が呈示されるが、被験者はそれぞれの刺激が呈示されるたびに、それがn個前のものと同じか違うかの判断をすることを求められる。nが3の場合を例に取ると、刺激が呈示されて比較が終わった時点では3個前のものを忘れ去り(リセットし)、2個前と1個前に呈示された刺激を「保持」しつつ、呈示されたばかりの刺激を新たに頭の中に入れるという「操作」を繰り返すことを要求される。前頭前野損傷患者はこの課題で著しい障害を示す。人の非侵襲的研究によると、n-バック課題に関係して、前頭前野外側部で顕著な活性化が見られる。 サルで試みられるワーキングメモリー課題の典型として遅延反応delayed responseがある。この課題では、いったん呈示された刺激が消えたあとに、その内容を保持し、それに基づいて適切な反応が求められる。前頭前野破壊ザルは、この課題の遂行に著しい障害を示す。前頭前野からニューロン活動を記録すると、遅延期間中に活動の上昇を示すとともに、保持すべき内容を反映した活動を示すニューロンが多数見出される。<br>  前頭前野損傷患者には評価、計画、推論などの思考過程に障害が見られる。評価に関しては、例えば「この物品はどのくらいの値段だと思いますか」,あるいは「世界で最も大きな船の長さはどのくらいだと思いますか」というような問いに対して,損傷患者は正常と大きくかけ離れた値を出す傾向がある。<br> 計画の立案や遂行においても障害が見られ、損傷患者は「順序だった計画を立てたり」,「計画を完成させたり」,「重要な項目と些細な項目を区別したり」,あるいは「目標と無関係なことがらを持ち込まないようにしたり」することに障害を示す。例えば海外旅行の計画を立てる,というような場合,スーツケースに荷物をつめるという優先度が高いことは重要視しない一方で,親戚にどんなおみやげを買うのか,というような瑣末なことを重要視したりする傾向が見られる<ref name="ref3">'''Boller F, Grafman J (Eds.) '''<br> Handbook of Neuropsychology, 2nd Edition: The Frontal Lobes, Elsevier 2002</ref>。<br> 非侵襲的研究によると、プラニングに関係して前頭前野外側部で活性化が見られるが、特にその中でも外側部の一番前に位置する前頭極frontal poleでは活性化がよく見られる。前頭極は推論に関係した活性化も示すが、この部位は、いくつかの処理を並行的に行う、関係性の統合を行うなど、ワーキングメモリー負荷の高い条件で推論を行うときに重要な役割を果たしていると考えられる。なお、被験者が十分に課題の練習をして熟達してくると、前頭前野の活動性は小さくなり、代わりに大脳基底核の活動性が大きくなる。  


== 反応の抑制・切り替えと前頭前野  ==
== 反応の抑制・切り替えと前頭前野  ==
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== 前頭前野とドーパミン  ==
== 前頭前野とドーパミン  ==


前頭前野の高次機能は神経伝達物質のドーパミン,セロトニン、ノルエピネフリン,GABA(ガンマアミノ酪酸)などによって支えられている。これらの物質が欠乏すると,人はワーキングメモリー課題の遂行、プラニング、意思決定や反応抑制の障害を示したり、情動障害を示したりする。<br>  ドーパミンは大脳皮質の中では前頭葉に最も多く分布しており、前頭前野の働きに最も重要な役割を果たす神経伝達物質である。ドーパミンの働きの異常に関係した病気であるパーキンソン病や統合失調症の患者は,前頭前野機能に関係した課題で成績が悪くなる。サルの前頭前野にドーパミンの阻害剤を投与してドーパミンを枯渇させると,サルは前頭前野が関係する色々な課題が出来なくなる。一方ドーパミンは欠乏だけでなく,多すぎてもこうした課題に障害を起こす。前頭前野のドーパミン量と認知課題の成績の間には逆U字関係が認められており、前頭前野が効率的に働くためには,ドーパミン量がある「最適レベル」にある必要があると考えられている。強い[[ストレス]]は前頭前野内のドーパミン濃度を上昇させる。一方、老化に伴って前頭前野内のドーパミン濃度は減少する。どちらの場合も認知機能は低下するが、濃度を適度に下げる,あるいは上げるような薬物を投与すると人でもサルでも前頭前野は効率的に働くようになる。またワーキングメモリー課題の成績が良くない人にドーパミンの働きを高める薬物を投与すると課題成績が良くなる一方、もともと成績のよい人にそうした薬物を投与すると課題成績が悪くなる、ということも見られる[4]。ドーパミンの受容体にはD1からD5の5種類があるが、認知課題に最も重要なのがD1受容体である。ニューロンレベルの研究で、このドーパミンD1受容体の作動薬を微量投与すると、投与量とワーキングメモリー関連ニューロン活動の間にも、逆U字の関数関係が認められる。すなわち適切な投与量ならS/N比がよくなることによりワーキングメモリー活動は促進されるが、投与量が少なすぎる、あるいは多すぎる場合はワーキングメモリー活動は阻害されるのである。サルの前頭前野の外側部にドーパミンD1受容体の作動薬を投与すると、視覚野連合野の刺激反応性が向上するという報告がある。これはさきに述べた前頭前野のトップダウン信号にドーパミンが重要な役割を果たすことを示す。<br>  COMT (catechol-O-methyl transferase)は、ドーパミンやノルアドレナリンなどのカテコールアミンとよばれる神経伝達物質の代謝酵素である。ヒトのCOMTには遺伝子多型があり、最初のメチオニンから数えて158番目のアミノ酸がバリン(Val)の場合とメチオニン(Met)の場合がある。COMTの酵素活性は、Val型の方が高いので、前頭前野でのドーパミンの分解はVal型で早く、Met型の者は、Val型の者よりも、ドーパミン代謝が減弱している。その結果Val型の人は前頭前野活動が非効率的で認知課題の遂行が落ちる傾向にある。人にドーパミンの働きを高める薬物を投与すると、同じ量でもVal型の人ではワーキングメモリー課題成績が上昇するのに、Met型の人では課題成績が減少する、ということも見られる<ref name="ref4"><pubmed>16310964</pubmed></ref>。ここでも前頭前野におけるドーパミンと認知行動の間の逆U字関数関係が見られる。ただ、遺伝子多型と行動との関係は複雑であり、課題の条件やドーパミン量の操作法に関係して、いろいろな研究の結果は必ずしも一致しているわけではない。  
前頭前野の高次機能は神経伝達物質のドーパミン,セロトニン、ノルエピネフリン,GABA(ガンマアミノ酪酸)などによって支えられている。これらの物質が欠乏すると,人はワーキングメモリー課題の遂行、プラニング、意思決定や反応抑制の障害を示したり、情動障害を示したりする。<br>  ドーパミンは大脳皮質の中では前頭葉に最も多く分布しており、前頭前野の働きに最も重要な役割を果たす神経伝達物質である。ドーパミンの働きの異常に関係した病気であるパーキンソン病や統合失調症の患者は,前頭前野機能に関係した課題で成績が悪くなる。サルの前頭前野にドーパミンの阻害剤を投与してドーパミンを枯渇させると,サルは前頭前野が関係する色々な課題が出来なくなる。一方ドーパミンは欠乏だけでなく,多すぎてもこうした課題に障害を起こす。前頭前野のドーパミン量と認知課題の成績の間には逆U字関係が認められており、前頭前野が効率的に働くためには,ドーパミン量がある「最適レベル」にある必要があると考えられている。強い[[ストレス]]は前頭前野内のドーパミン濃度を上昇させる。一方、老化に伴って前頭前野内のドーパミン濃度は減少する。どちらの場合も認知機能は低下するが、濃度を適度に下げる,あるいは上げるような薬物を投与すると人でもサルでも前頭前野は効率的に働くようになる。またワーキングメモリー課題の成績が良くない人にドーパミンの働きを高める薬物を投与すると課題成績が良くなる一方、もともと成績のよい人にそうした薬物を投与すると課題成績が悪くなる、ということも見られる<ref name="ref4"><pubmed>16310964</pubmed></ref>。ドーパミンの受容体にはD1からD5の5種類があるが、認知課題に最も重要なのがD1受容体である。ニューロンレベルの研究で、このドーパミンD1受容体の作動薬を微量投与すると、投与量とワーキングメモリー関連ニューロン活動の間にも、逆U字の関数関係が認められる。すなわち適切な投与量ならS/N比がよくなることによりワーキングメモリー活動は促進されるが、投与量が少なすぎる、あるいは多すぎる場合はワーキングメモリー活動が促進されることはなく、阻害される場合もある。サルの前頭前野の外側部にドーパミンD1受容体の作動薬を投与すると、視覚野連合野の刺激反応性が向上するという報告がある。これはさきに述べた前頭前野のトップダウン信号にドーパミンが重要な役割を果たすことを示す。<br>  COMT (catechol-O-methyl transferase)は、ドーパミンやノルアドレナリンなどのカテコールアミンとよばれる神経伝達物質の代謝酵素である。ヒトのCOMTには遺伝子多型があり、最初のメチオニンから数えて158番目のアミノ酸がバリン(Val)の場合とメチオニン(Met)の場合がある。COMTの酵素活性は、Val型の方が高いので、前頭前野でのドーパミンの分解はVal型で早く、Met型の者は、Val型の者よりも、ドーパミン代謝が減弱している。その結果Val型の人は前頭前野活動が非効率的で認知課題の遂行が落ちる傾向にある。人にドーパミンの働きを高める薬物を投与すると、同じ量でもVal型の人ではワーキングメモリー課題成績が上昇するのに、Met型の人では課題成績が減少する、ということも見られる<ref name="ref4">。ここでも前頭前野におけるドーパミンと認知行動の間の逆U字関数関係が見られる。ただ、遺伝子多型と行動との関係は複雑であり、課題の条件やドーパミン量の操作法に関係して、いろいろな研究の結果は必ずしも一致しているわけではない。  


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