「空間的注意」の版間の差分

編集の要約なし
編集の要約なし
編集の要約なし
 
(2人の利用者による、間の3版が非表示)
1行目: 1行目:
<div align="right"> 
<font size="+1">[http://researchmap.jp/orca 松嶋 藻乃]、[http://researchmap.jp/masakitanaka 田中 真樹]</font><br>
''北海道大学 医学研究科 神経生理学分野''<br>
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2012年5月18日 原稿完成日:2012年12月25日<br>
担当編集委員:[http://researchmap.jp/read0048432 定藤 規弘](自然科学研究機構 生理学研究所 [[大脳皮質]]機能研究系)<br>
</div>
英:spatial attention 独:räumliche Aufmerksamkeit 仏:attention spatiale  
英:spatial attention 独:räumliche Aufmerksamkeit 仏:attention spatiale  


{{box|text=
 脳はすべての感覚入力を等しく処理しているわけではなく、その一部だけを優先的に処理して外界の認知や行動の制御に用いている。このように感覚入力を選択し、処理を促進させる神経機構を注意(attention)という。注意は特定の感覚種(modality)や属性(attribute)に受動的、能動的に向けられる。例えば、オーケストラの特定の楽器の音色にだけ注意を向けることができるし、文字列の中から数字だけを選び出すことができる。また、視野内に不意に現れたボールに反射的に注意が向けられることもある。こうした属性のうち、特定の位置に向けられるものを空間的注意とよび、その神経機構と脳損傷による障害が主に視覚系を中心に詳しく調べられている。  
 脳はすべての感覚入力を等しく処理しているわけではなく、その一部だけを優先的に処理して外界の認知や行動の制御に用いている。このように感覚入力を選択し、処理を促進させる神経機構を注意(attention)という。注意は特定の感覚種(modality)や属性(attribute)に受動的、能動的に向けられる。例えば、オーケストラの特定の楽器の音色にだけ注意を向けることができるし、文字列の中から数字だけを選び出すことができる。また、視野内に不意に現れたボールに反射的に注意が向けられることもある。こうした属性のうち、特定の位置に向けられるものを空間的注意とよび、その神経機構と脳損傷による障害が主に視覚系を中心に詳しく調べられている。  


 空間的注意は、空間上のある位置からくる感覚入力に対して、検出力・弁別力が高まる現象として知られている。また逆に、この機能が失われると特定の位置にある物体に気づくことができなくなる(半側空間無視の項を参照)。注意一般と同様に、顕著な刺激に対して受動的(外発的・ボトムアップ)に誘導される場合と、目的指向性に能動的(内発的・トップダウン)に誘導される場合がある。いずれの場合も、ある位置に注意を向けることで、そこに呈示された視覚刺激に対する神経応答が増強することが知られている。最近、眼球運動関連領域が注意のトップダウン信号を生成していることが示唆され、注目されている。  
 空間的注意は、空間上のある位置からくる感覚入力に対して、検出力・弁別力が高まる現象として知られている。また逆に、この機能が失われると特定の位置にある物体に気づくことができなくなる(半側空間無視の項を参照)。注意一般と同様に、顕著な刺激に対して受動的(外発的・ボトムアップ)に誘導される場合と、目的指向性に能動的(内発的・トップダウン)に誘導される場合がある。いずれの場合も、ある位置に注意を向けることで、そこに呈示された視覚刺激に対する神経応答が増強することが知られている。最近、眼球運動関連領域が注意のトップダウン信号を生成していることが示唆され、注目されている。  
}}


== 空間的注意の測定方法  ==
== 空間的注意の測定方法  ==
9行目: 18行目:
[[Image:Posner.jpg|thumb|right|300px|'''図1. Posner課題''' <br />被験者は、スクリーン中央を[[固視]]しながら、ターゲット(右列の赤丸)の呈示後すぐにボタンを押すように指示される(単純反応時間課題)。ターゲットに先立って、その位置を知らせる手がかりが固視点の周りに呈示される。80%の試行では矢印が示す方向にターゲットが現れ(一致条件)、20%の試行では反対側に提示される(不一致条件)。両矢印の場合は、50%の確率で右または左にターゲットが提示される(対照条件)。]]  
[[Image:Posner.jpg|thumb|right|300px|'''図1. Posner課題''' <br />被験者は、スクリーン中央を[[固視]]しながら、ターゲット(右列の赤丸)の呈示後すぐにボタンを押すように指示される(単純反応時間課題)。ターゲットに先立って、その位置を知らせる手がかりが固視点の周りに呈示される。80%の試行では矢印が示す方向にターゲットが現れ(一致条件)、20%の試行では反対側に提示される(不一致条件)。両矢印の場合は、50%の確率で右または左にターゲットが提示される(対照条件)。]]  


 注意をある位置や色などに向けると、その属性をもつ対象の検出や弁別が素早く、正確になる。19世紀、[[wikipedia:ja:ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ|Helmholtz]]は電気スパークによる一瞬の光で、暗い部屋の壁に掲げた文字列の一部を読ませる実験を行い、前もって注意を向けていた位置に書かれた文字は読めるが、他の文字はまったく判読できないことを示した<ref>'''von Helmholtz, H.'''<br>Helmholtz's treatise on physiological optics<br>Dover(New York):1962</ref>。こうした注意の効果を定量化する方法として、現在もっとも有名で広く利用されているのがPosner課題(<ref>'''Posner, M.I.'''<br>Orienting of attention.<br>''Q J Exp Psychol'' 32, 3-25:1980</ref>、図1)である。試行中、被験者はスクリーン中央の固視点を見続けるように指示され、左右に提示されたボックスのいずれかの中心にターゲットが現れると、できるだけ素早く手元のボタンを押すことになっている(単純反応時間課題)。ターゲットに先立って、その位置を知らせる手がかりが固視点に呈示される。左または右向きの矢印が現れた場合、80%の試行ではそれと同じ側にターゲットを提示し(一致条件)、20%の試行では反対側に提示する(不一致条件)。矢印の代わりにプラス記号が現れた試行では、50%の確率で右または左にターゲットを提示し、対照条件(注意を向けない)とする。このとき、一致条件では対照条件に比べて[[反応時間]]が短縮し、不一致条件では対照条件に比べて反応時間が延長する。一般に、注意を向けたことによる反応時間の短縮をbenefit、注意を他に向けたことによる反応時間の延長をcostと呼び、costの方がbenefitよりも大きいことが多い。画面中央の矢印に従って注意を配分するように、被験者が意図的に制御する注意誘導を、[[内発的注意|内発的(endogenous)注意]]と呼ぶ。内発的注意は、[[目的指向性注意|目的指向性]](goal-directed,goal-oriented)、または[[トップダウン注意|トップダウン(top-down)注意]]とよばれることもある。  
 注意をある位置や色などに向けると、その属性をもつ対象の検出や弁別が素早く、正確になる。19世紀、[[wikipedia:ja:ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ|Helmholtz]]は電気スパークによる一瞬の光で、暗い部屋の壁に掲げた文字列の一部を読ませる実験を行い、前もって注意を向けていた位置に書かれた文字は読めるが、他の文字はまったく判読できないことを示した<ref>'''von Helmholtz, H.'''<br>Helmholtz's treatise on physiological optics<br>Dover(New York):1962</ref>。こうした注意の効果を定量化する方法として、現在もっとも有名で広く利用されているのがPosner課題(<ref>'''Posner, M.I.'''<br>Orienting of attention.<br>''Q J Exp Psychol'' 32, 3-25:1980</ref>、図1)である。試行中、被験者はスクリーン中央の[[固視]]点を見続けるように指示され、左右に提示されたボックスのいずれかの中心にターゲットが現れると、できるだけ素早く手元のボタンを押すことになっている(単純反応時間課題)。ターゲットに先立って、その位置を知らせる手がかりが固視点に呈示される。左または右向きの矢印が現れた場合、80%の試行ではそれと同じ側にターゲットを提示し(一致条件)、20%の試行では反対側に提示する(不一致条件)。矢印の代わりにプラス記号が現れた試行では、50%の確率で右または左にターゲットを提示し、対照条件(注意を向けない)とする。このとき、一致条件では対照条件に比べて[[反応時間]]が短縮し、不一致条件では対照条件に比べて反応時間が延長する。一般に、注意を向けたことによる反応時間の短縮をbenefit、注意を他に向けたことによる反応時間の延長をcostと呼び、costの方がbenefitよりも大きいことが多い。画面中央の矢印に従って注意を配分するように、被験者が意図的に制御する注意誘導を、[[内発的注意|内発的(endogenous)注意]]と呼ぶ。内発的注意は、[[目的指向性注意|目的指向性]](goal-directed,goal-oriented)、または[[トップダウン注意|トップダウン(top-down)注意]]とよばれることもある。  


 また、同様の結果は、ターゲットの位置を前もって知らせる手がかりとして左右のボックスのいずれかをフラッシュさせても得ることができる。フラッシュのように顕著な刺激に対し強制的に注意が向けられることを、[[外発的注意|外発的(exogenous)注意]]と呼び、[[刺激駆動性注意|刺激駆動性]](stimulus-driven)または[[ボトムアップ注意|ボトムアップ(bottom-up)注意]]とよばれることもある。しかし、ターゲットがフラッシュ直後に呈示されず、数百ミリ秒後が経過した後に呈示された場合は結果が異なってくる。すなわち、手がかりが出た位置に現れたターゲットへの反応時間は、その他の位置に出た場合比べて却って遅くなる。これは[[復帰抑制]](inhibition of return; IOR)とよばれる現象で、視野内のまだ注意していない位置に注意を向けやすくする働きがあると考えられている<ref>'''Posner, M.I., and Cohen, Y.''' <br>Components of visual orienting. In Attention and performance X. pp. 531-556<br>Erlbaum(London):1984</ref><ref name="ref2"><pubmed> 3405288</pubmed></ref>。  
 また、同様の結果は、ターゲットの位置を前もって知らせる手がかりとして左右のボックスのいずれかをフラッシュさせても得ることができる。フラッシュのように顕著な刺激に対し強制的に注意が向けられることを、[[外発的注意|外発的(exogenous)注意]]と呼び、[[刺激駆動性注意|刺激駆動性]](stimulus-driven)または[[ボトムアップ注意|ボトムアップ(bottom-up)注意]]とよばれることもある。しかし、ターゲットがフラッシュ直後に呈示されず、数百ミリ秒後が経過した後に呈示された場合は結果が異なってくる。すなわち、手がかりが出た位置に現れたターゲットへの反応時間は、その他の位置に出た場合比べて却って遅くなる。これは[[復帰抑制]](inhibition of return; IOR)とよばれる現象で、視野内のまだ注意していない位置に注意を向けやすくする働きがあると考えられている<ref>'''Posner, M.I., and Cohen, Y.''' <br>Components of visual orienting. In Attention and performance X. pp. 531-556<br>Erlbaum(London):1984</ref><ref name="ref2"><pubmed> 3405288</pubmed></ref>。  
54行目: 63行目:
 前頭眼野、[[補足眼野]]、LIP野(頭頂間溝外側部)、[[上丘]]などの眼球運動関連領野が実際に空間的注意に関与することは、ヒトやサルを用いた実験で繰り返し示されてきた。fMRIを用いて、画面上の刺激に次々に眼球運動を行っている最中と、眼を動かさないで同様の刺激に注意を向けている場合で活動が上昇する脳部位をfMRIを用いて詳細に比較した研究によると、これらの課題で活動した部位は、前頭眼野とLIP野近傍では8割以上、補足眼野でも約6割が重複していた<ref><pubmed>9808463</pubmed></ref><ref><pubmed>17921456</pubmed></ref>。また、前述の視覚探索課題中でも、眼球運動関連領野内の視覚応答性をもつニューロンの多くが、その受容野に注意を向けた際に活動の大きさを変化させた。  
 前頭眼野、[[補足眼野]]、LIP野(頭頂間溝外側部)、[[上丘]]などの眼球運動関連領野が実際に空間的注意に関与することは、ヒトやサルを用いた実験で繰り返し示されてきた。fMRIを用いて、画面上の刺激に次々に眼球運動を行っている最中と、眼を動かさないで同様の刺激に注意を向けている場合で活動が上昇する脳部位をfMRIを用いて詳細に比較した研究によると、これらの課題で活動した部位は、前頭眼野とLIP野近傍では8割以上、補足眼野でも約6割が重複していた<ref><pubmed>9808463</pubmed></ref><ref><pubmed>17921456</pubmed></ref>。また、前述の視覚探索課題中でも、眼球運動関連領野内の視覚応答性をもつニューロンの多くが、その受容野に注意を向けた際に活動の大きさを変化させた。  


 神経活動と空間的注意の相関だけでは、それらの因果関係は分からない。最近、これに答える実験がなされた(図6、<ref><pubmed>11158629</pubmed></ref>)。Mooreらは周辺視野に呈示された視覚刺激の輝度変化を検出すると手元のレバーを離すようにサルを訓練した。ターゲットとなる視覚刺激から注意をそらすために視野全体に多数の点滅する妨害刺激を提示しておき、注意の度合いをサルが検出可能なターゲットの輝度変化として定量化した。前頭眼野に電極を刺入し、電気刺激を与えてその場所にあるニューロンが符号化している[[サッカード]]の行き先(movement field)を前もって調べておき、そこにターゲットを配置した。輝度を変化させる直前に、眼球運動が起こらない程度の弱い電気刺激を与えたところ、サルが検出することのできる輝度変化の閾値が有意に低下した。このことから、前頭眼野の信号は、注意を一定の場所に向ける要因となっていることが示唆された。同様の現象は、別の研究者たちによって[[上丘]]の電気刺激でも生じることが確認されている<ref><pubmed>15601760</pubmed></ref>。  
 神経活動と空間的注意の相関だけでは、それらの因果関係は分からない。最近、これに答える実験がなされた(図6、<ref><pubmed>11158629</pubmed></ref>)。Mooreらは周辺視野に呈示された視覚刺激の輝度変化を検出すると手元のレバーを離すようにサルを訓練した。ターゲットとなる視覚刺激から注意をそらすために視野全体に多数の点滅する妨害刺激を提示しておき、注意の度合いをサルが検出可能なターゲットの輝度変化として定量化した。前頭眼野に電極を刺入し、電気刺激を与えてその場所にあるニューロンが[[符号化]]している[[サッカード]]の行き先(movement field)を前もって調べておき、そこにターゲットを配置した。輝度を変化させる直前に、眼球運動が起こらない程度の弱い電気刺激を与えたところ、サルが検出することのできる輝度変化の[[閾値]]が有意に低下した。このことから、前頭眼野の信号は、注意を一定の場所に向ける要因となっていることが示唆された。同様の現象は、別の研究者たちによって[[上丘]]の電気刺激でも生じることが確認されている<ref><pubmed>15601760</pubmed></ref>。  


 私たち昼行性の[[霊長類]]では、視覚によって物の位置を特定することが多いが、[[wikipedia:ja:フクロウ|フクロウ]]のような夜行性の動物では、[[聴覚]]によって音源の位置を正確に特定できる。そのような聴覚処理においても、眼球運動領野によって空間的注意が制御されていることが示されている。Knudsenらは、音源の位置に対する正確なマップがある[[視蓋]](上丘)から音刺激に対するニューロン活動を記録し、霊長類の前頭眼野に相当する[[外套部]]に電気刺激を与えた<ref><pubmed>16421572 </pubmed></ref>。記録しているニューロンと刺激部位が担当する空間位置が一致しているときは、音刺激に対する感覚応答が上昇して音源に対する空間選択性が高くなり、逆に一致していない場合には、音刺激に対する応答が低下して空間選択性が低くなった。  
 私たち昼行性の[[霊長類]]では、視覚によって物の位置を特定することが多いが、[[wikipedia:ja:フクロウ|フクロウ]]のような夜行性の動物では、[[聴覚]]によって音源の位置を正確に特定できる。そのような聴覚処理においても、眼球運動領野によって空間的注意が制御されていることが示されている。Knudsenらは、音源の位置に対する正確なマップがある[[視蓋]](上丘)から音刺激に対するニューロン活動を記録し、霊長類の前頭眼野に相当する[[外套部]]に電気刺激を与えた<ref><pubmed>16421572 </pubmed></ref>。記録しているニューロンと刺激部位が担当する空間位置が一致しているときは、音刺激に対する感覚応答が上昇して音源に対する空間選択性が高くなり、逆に一致していない場合には、音刺激に対する応答が低下して空間選択性が低くなった。  
72行目: 81行目:


== 参考文献  ==
== 参考文献  ==
<references />  
<references />
 
 
(執筆者:松嶋藻乃、田中真樹 担当編集委員:定藤規弘)