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羅:qualia 英: qualia 独:Qualia 仏:qualia
羅:qualia 英: qualia 独:Qualia 仏:qualia


{{box|text= クオリアは、我々の[[意識]]にのぼってくる感覚意識やそれにともなう経験のことである。脳科学では、クオリアはなんらかの脳活動によって生み出されていると考える。しかし、具体的にどのようなメカニズムがどのようなクオリアを生み出すのか、また、クオリアを生み出す脳活動と生み出さない脳活動では何が違うのか等はわかっていない。そもそも、クオリアは生物の生存にとってどのような意味で有効なのかすらが明らかでない。哲学者は長くクオリアについて論じてきたが、クオリアという概念に意味があるかどうかですら、意見が分かれている。本項では、クオリアに関する概念・議論を解説し、脳科学研究によってクオリア問題に具体的にアプローチする方法にはどのようなものがありうるかを概説する。哲学的な議論に関してはhttp://plato.stanford.edu/entries/qualia/ を参照。}}
{{box|text= クオリアは、我々の[[意識]]にのぼってくる感覚意識やそれにともなう経験のことである。脳科学では、クオリアはなんらかの脳活動によって生み出されていると考える。しかし、具体的にどのようなメカニズムがどのようなクオリアを生み出すのか、また、クオリアを生み出す脳活動と生み出さない脳活動では何が違うのか等はわかっていない。そもそも、クオリアは生物の生存にとってどのような意味で有効なのかすらが明らかでない。哲学者は長くクオリアについて論じてきたが、クオリアという概念に意味があるかどうかですら、意見が分かれている。本項では、クオリアに関する概念・議論を解説し、脳科学研究によってクオリア問題に具体的にアプローチする方法にはどのようなものがありうるかを概説する。哲学的な議論に関しては<ref name=stanford>http://plato.stanford.edu/entries/qualia/</ref> を参照。}}


== クオリアとは ==
== クオリアとは ==
 クオリアとは、[[wj:ラテン語|ラテン語]] qualiaで、単数形は a quale であり、我々が[[意識]]的に主観的に感じたり経験したりする「質」のことを指す。日本語では感覚質とも呼ばれる<ref group=註>クオリアは「質感」と呼ばれることもある。しかし、材料の表面の触った感じ、見た目の感じ、のテクスチャのことを特に「質感」と呼ぶことが多く、混乱を招くので、この項では質感という語は使わない。</ref> 。一般に、夕焼けの赤い感じ、虫歯の[[痛み]]、などの[[比喩]]を使って説明されることが多い。
 クオリアとは、[[wj:ラテン語|ラテン語]] qualiaで、単数形は a quale であり、我々が[[意識]]的に主観的に感じたり経験したりする「質」のことを指す。日本語では感覚質とも呼ばれる<ref group="">クオリアは「質感」と呼ばれることもある。しかし、材料の表面の触った感じ、見た目の感じ、のテクスチャのことを特に「質感」と呼ぶことが多く、混乱を招くので、この項では質感という語は使わない。</ref> 。一般に、夕焼けの赤い感じ、虫歯の[[痛み]]、などの[[比喩]]を使って説明されることが多い。
   
   
=== 狭義・広義でのクオリア ===
=== 狭義・広義でのクオリア ===
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 最も狭い意味でのクオリアとは、一瞬の意識経験のうちのある一つの感覚的な側面を指す。例えば、図1のように、画面の真ん中に十字があり、その左、もしくは、右に赤い丸が提示されているような状況で、読者が十字を見つめているとしよう。このとき、赤丸の赤さだけを取り出せば、二つの画面で、読者は、狭い意味では、同じ赤いクオリアを経験している、と言う。
 最も狭い意味でのクオリアとは、一瞬の意識経験のうちのある一つの感覚的な側面を指す。例えば、図1のように、画面の真ん中に十字があり、その左、もしくは、右に赤い丸が提示されているような状況で、読者が十字を見つめているとしよう。このとき、赤丸の赤さだけを取り出せば、二つの画面で、読者は、狭い意味では、同じ赤いクオリアを経験している、と言う。
   
   
[[image:Tuchiya Qualia1.png|thumb|300px| '''図1. クオリアの例'''<br>一方で、広い意味でのクオリアとは、一瞬に経験される意識経験の中身、すべてを指す。例えば、図1の二つの図では、赤い丸の位置が違うため、広い意味では、異なるクオリアを経験していることになる<ref group=註>狭義・広義のクオリアの区別は、「何を同じとみなすか」という問題が背後に隠れている。「同じ」の規準が明示されない時に、クオリアという語の定義に混乱が生じやすい。一瞬一瞬の経験は全て違うものとみなすか、それでもその中に共通のものがあるとみなすかが、狭義・広義のクオリアの本質であり、それを明確にすることで、クオリア研究の手法・態度も変わってくる。</ref> 。]]
[[image:Tuchiya Qualia1.png|thumb|300px| '''図1. クオリアの例'''<br>一方で、広い意味でのクオリアとは、一瞬に経験される意識経験の中身、すべてを指す。例えば、図1の二つの図では、赤い丸の位置が違うため、広い意味では、異なるクオリアを経験していることになる<ref group="">狭義・広義のクオリアの区別は、「何を同じとみなすか」という問題が背後に隠れている。「同じ」の規準が明示されない時に、クオリアという語の定義に混乱が生じやすい。一瞬一瞬の経験は全て違うものとみなすか、それでもその中に共通のものがあるとみなすかが、狭義・広義のクオリアの本質であり、それを明確にすることで、クオリア研究の手法・態度も変わってくる。</ref> 。]]
   
   
 狭い意味でのクオリアは、脳科学的に最も研究しやすい。古典的な[[心理物理学]]は、わずかに異なる二つの感覚刺激を被検者に呈示し、どのような刺激の特性は、意識的に同じとみなせるか、違いを区別できるかが詳しく研究されている{{refn|二つの刺激は、時間・空間における異なる二点において呈示されることが多い。また、「同じ・違う」以外にも、AとBどちらがよりXであるか、という質の違いも問うことが可能である(より赤いか、より丸いか、など)。このような強制選択が、どれだけ「意識にのぼるクオリア」そのものを反映しているのか、それとも無意識の脳処理の影響はないのか、 どのような手法が最も狭義のクオリアを研究するのに適しているのか、という問題については議論が続いている (Seth, Dienes, Cleeremans, Overgaard, & Pessoa, 2008)。また、このような被験者の報告が刺激の特性自体以外の状況、たとえば、被験者がどのように刺激に対して注意を向けるかが、どのように狭義のクオリアに影響を与えるのかも研究されている(Carrasco, 2011; Prinzmetal, Amiri, Allen, & Edwards, 1998)。 |group=註}} 。
 狭い意味でのクオリアは、脳科学的に最も研究しやすい。古典的な[[心理物理学]]は、わずかに異なる二つの感覚刺激を被検者に呈示し、どのような刺激の特性は、意識的に同じとみなせるか、違いを区別できるかが詳しく研究されている{{refn|二つの刺激は、時間・空間における異なる二点において呈示されることが多い。また、「同じ・違う」以外にも、AとBどちらがよりXであるか、という質の違いも問うことが可能である(より赤いか、より丸いか、など)。このような強制選択が、どれだけ「意識にのぼるクオリア」そのものを反映しているのか、それとも無意識の脳処理の影響はないのか、 どのような手法が最も狭義のクオリアを研究するのに適しているのか、という問題については議論が続いている (Seth, Dienes, Cleeremans, Overgaard, & Pessoa, 2008)。また、このような被験者の報告が刺激の特性自体以外の状況、たとえば、被験者がどのように刺激に対して注意を向けるかが、どのように狭義のクオリアに影響を与えるのかも研究されている(Carrasco, 2011; Prinzmetal, Amiri, Allen, & Edwards, 1998)。 |group=註}} 。
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===クオリアと関係する概念===
===クオリアと関係する概念===
   
   
 哲学者らは、クオリアという語で指し示す概念を整理するために、関連する概念をいくつも提案してきた(http://plato.stanford.edu/entries/qualia/)。ここでは、その中で特に脳科学的なクオリア研究に関連する概念を説明する。
 哲学者らは、クオリアという語で指し示す概念を整理するために、関連する概念をいくつも提案してきた<ref name=stanford />。ここでは、その中で特に脳科学的なクオリア研究に関連する概念を説明する。
   
   
====「それになった感じ」====
====「それになった感じ」====
"what it is like”
"what it is like”
 哲学者[[wj:トーマス・ネイジェル|トーマス・ネイジェル]]は、「[[コウモリ]]になるとはどんな感じか?(what it is like to be a bat?)」という問題を提起した(Nagel, 1974)。この問いは、クオリア問題の本質を理解する上で重要である。ポイントは、「我々が想像するに、コウモリになったらこんな感じだろう」という、擬人化した比喩としてのコウモリ理解ではなく、我々がコウモリそれ自体になってしまった時の経験はどのようなものかを問うているという点である。人間としての[[言語]]も記憶も無く、[[wj:超音波|超音波]]をつかって物体の位置を感知し、飛びまわり、逆さまになって生活するという性質をもったコウモリそれ自体になったらどのような感じがするか? それはコウモリにならないと究極的にはわからないだろう。この場合の「わかる」は、概念の理解という意味での「わかる」とは異なる。経験とは、言語的な説明では「わからない」ものである。直接の経験を通してしかわからないのがクオリア問題の本質である。
 哲学者[[wj:トーマス・ネイジェル|トーマス・ネイジェル]]は、「[[コウモリ]]になるとはどんな感じか?(what it is like to be a bat?)」という問題を提起した(Nagel, 1974)。この問いは、クオリア問題の本質を理解する上で重要である。ポイントは、「我々が想像するに、コウモリになったらこんな感じだろう」という、擬人化した比喩としてのコウモリ理解ではなく、我々がコウモリそれ自体になってしまった時の経験はどのようなものかを問うているという点である。人間としての[[言語]]も記憶も無く、[[wj:超音波|超音波]]をつかって物体の位置を感知し、飛びまわり、逆さまになって生活するという性質をもったコウモリそれ自体になったらどのような感じがするか? それはコウモリにならないと究極的にはわからないだろう。この場合の「わかる」は、概念の理解という意味での「わかる」とは異なる。経験とは、言語的な説明では「わからない」ものである。直接の経験を通してしかわからないのがクオリア問題の本質である。
   
   
 そのように考えると、コウモリに限らず、他の[[動物]]、他人、人工的なシステムなどに、たとえ意識があったとして、それになったときにの感じ(what it is like) は、それ自身にならない限りわからない。脳科学から、この問題に対してどのようなアプローチの可能性があるかについては後の章を参照。
 そのように考えると、コウモリに限らず、他の[[動物]]、他人、人工的なシステムなどに、たとえ意識があったとして、それになったときにの感じ(what it is like) は、それ自身にならない限りわからない。脳科学から、この問題に対してどのようなアプローチの可能性があるかについては後の章を参照。
   
   
「それになった感じ」としてのクオリアは、通常、広い意味でのクオリアと同義であると考えて良い。クオリアは、意識の感覚的な側面のみを指す時に限定して使われることもあるが、「それになった感じ」には非感覚的な思考や感情など経験すべての側面が含まれる。(http://plato.stanford.edu/entries/qualia/)
「それになった感じ」としてのクオリアは、通常、広い意味でのクオリアと同義であると考えて良い。クオリアは、意識の感覚的な側面のみを指す時に限定して使われることもあるが、「それになった感じ」には非感覚的な思考や感情など経験すべての側面が含まれる<ref name=stanford />。
   
   
====現象としての意識phenomenal consciousness====
====現象としての意識phenomenal consciousness====
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 Freeman & Simoncelli (Freeman & Simoncelli, 2011)は、[[周辺視野]]の解像度と混みあい効果の影響を考えて、ある自然画像(図2、左)とほぼ同じ広義の視覚クオリアを生み出すような人工画像(図2、右)をつくりだすのに成功した。
 Freeman & Simoncelli (Freeman & Simoncelli, 2011)は、[[周辺視野]]の解像度と混みあい効果の影響を考えて、ある自然画像(図2、左)とほぼ同じ広義の視覚クオリアを生み出すような人工画像(図2、右)をつくりだすのに成功した。


[[image:tuchiya qualia2.png|thumb|right '''図2. 広い意味で同じ視覚クオリアを生み出す2枚の画像(Freeman & Simoncelli, 2011) '''<br>左のオリジナルの写真も、右の人工的な画像も、中心の点を見つめる限り、ほぼ同じような視覚経験を生み出す。人間の視覚システムの周辺視野における解像度などの特徴を考慮に入れたコンピューターモデルには、左右の写真は区別がつかない。]]
[[image:Tuchiya Qualia2.png|thumb|300px| '''図2. 広い意味で同じ視覚クオリアを生み出す2枚の画像(Freeman & Simoncelli, 2011) '''<br>左のオリジナルの写真も、右の人工的な画像も、中心の点を見つめる限り、ほぼ同じような視覚経験を生み出す。人間の視覚システムの周辺視野における解像度などの特徴を考慮に入れたコンピューターモデルには、左右の写真は区別がつかない。]]


 [[ヒト]]の視覚システムは見つめている焦点が最も解像度が高く、周辺視野に行けばいくほど解像度が悪くなる。また、周辺視野では[[混みあい効果]] (crowding(Pelli & Tillman, 2008))という現象が生じる。これらの影響のため、特に複雑な内容の自然画像では、直接に焦点を当てて見ている部位以外では、異なる画像も同じクオリアを起こす。
 [[ヒト]]の視覚システムは見つめている焦点が最も解像度が高く、周辺視野に行けばいくほど解像度が悪くなる。また、周辺視野では[[混みあい効果]] (crowding(Pelli & Tillman, 2008))という現象が生じる。これらの影響のため、特に複雑な内容の自然画像では、直接に焦点を当てて見ている部位以外では、異なる画像も同じクオリアを起こす。
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===「難しい問題(Hard problem)」とクオリア===
===「難しい問題(Hard problem)」とクオリア===
 哲学者[[wj:ディビット・チャルマーズ|ディビット・チャルマーズ]]によって提唱された意識の「難しい問題」とは、クオリアと脳内で起こる物理化学現象の間にある大きなギャップのことを指す<ref> Chalmers, D. J. <br>The conscious mind <br>Oxford University Press. New York, 1996<br>林一<br>意識する心―脳と精神の根本理論を求めて<br>白楊社</ref>。「難しい問題」の議論には、色々な問題が含まれる。
 哲学者[[wj:ディビット・チャルマーズ|ディビット・チャルマーズ]]によって提唱された意識の「難しい問題」とは、クオリアと脳内で起こる物理化学現象の間にある大きなギャップのことを指す<ref> Chalmers, D. J. <br>The conscious mind <br>Oxford University Press. New York, 1996<br>林一<br>意識する心―脳と精神の根本理論を求めて<br>白楊社</ref>。「難しい問題」の議論には、色々な問題が含まれる。
 たとえば、狭い意味での赤いクオリアを引き起こすような神経活動が、なぜ、青いクオリアを引き起こさないのか、という問題がある。これは「難しい問題」の一例である。哲学者の中には、もし突然、自分が経験するすべての赤と青のクオリアが入れ替わってしまったとしてもそれには自分が全く気づけないはずだ、という「逆転クオリア」の思考実験を行い、どのように神経科学が進んだとしてもこのような問題は解き明かすことができない類の問題である、と論じているものもいる(http://plato.stanford.edu/entries/qualia-inverted/)。はたして、脳科学が根源的にクオリアの謎を解き明かすことはできないのか、実際に研究の手立てがないのかについては、後の項を参照。
 たとえば、狭い意味での赤いクオリアを引き起こすような神経活動が、なぜ、青いクオリアを引き起こさないのか、という問題がある。これは「難しい問題」の一例である。哲学者の中には、もし突然、自分が経験するすべての赤と青のクオリアが入れ替わってしまったとしてもそれには自分が全く気づけないはずだ、という「逆転クオリア」の思考実験を行い、どのように神経科学が進んだとしてもこのような問題は解き明かすことができない類の問題である、と論じているものもいる<ref name=stanford2 >http://plato.stanford.edu/entries/qualia-inverted/</ref>。はたして、脳科学が根源的にクオリアの謎を解き明かすことはできないのか、実際に研究の手立てがないのかについては、後の項を参照。


==心理学・脳科学におけるクオリア問題へのアプローチ==
==心理学・脳科学におけるクオリア問題へのアプローチ==
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===心理学研究における錯視を使ったクオリアの特徴づけ===
===心理学研究における錯視を使ったクオリアの特徴づけ===
 伝統的な心理学研究の手法の中でも、[[錯覚]] {{refn|「錯視」や「錯覚」というと、外界に正確な「答え」があり、それを脳が「間違えて」プロセスしてしまうために起こる、「おかしな」主観的な感覚という響きがある。しかし、このような考え方の根底には、暗示的に我々の主観の外に世界の実体があり、その実体をできるかぎり正確に再構成するのが、意識・クオリアに期待されている機能である、ということが仮定されている。一方で、幻覚・夢などを含め、意識にのぼるクオリアそれだけが我々が経験できる実体であり、世界の姿こそが、過去何百年もの科学実験を通して「間接的に」推測されるものであり、どこまでいってもより確からしい推測しかできない、と考えることもできる。後者の考えでは、錯視・錯覚・幻覚・夢の方がむしろ本質で、通常の意識経験もそれの一部と考えることができる(Llinas & Pare 1991)。|group=註}}を使った研究は、クオリア問題に最も直接的にアプローチしていると言って良い<ref name=下條信輔>下條信輔<br>「意識」とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤<br>講談社現代新書, 1999</ref>。錯覚を生み出す刺激は、ほぼ全ての感覚モダリティで見つかっているが、最も劇的なのは、視覚におけるもので、特に[[錯視]]と呼ばれる。たとえば、色の波長としては全く同じ黄色い四角形が、茶色やオレンジ見える錯視や、円筒の影になっている部分とそうでない部分のタイルが全く違う濃さの灰色のタイルに見えるが、光の波長としては二つの四角形は全く同じである、という錯視がある(図3)。このような錯視を元に、心理物理学者は、クオリアの性質を様々な観点から特徴づけてきた。
 伝統的な心理学研究の手法の中でも、[[錯覚]] {{refn|「錯視」や「錯覚」というと、外界に正確な「答え」があり、それを脳が「間違えて」プロセスしてしまうために起こる、「おかしな」主観的な感覚という響きがある。しかし、このような考え方の根底には、暗示的に我々の主観の外に世界の実体があり、その実体をできるかぎり正確に再構成するのが、意識・クオリアに期待されている機能である、ということが仮定されている。一方で、幻覚・夢などを含め、意識にのぼるクオリアそれだけが我々が経験できる実体であり、世界の姿こそが、過去何百年もの科学実験を通して「間接的に」推測されるものであり、どこまでいってもより確からしい推測しかできない、と考えることもできる。後者の考えでは、錯視・錯覚・幻覚・夢の方がむしろ本質で、通常の意識経験もそれの一部と考えることができる(Llinas & Pare 1991)。|group=註}}を使った研究は、クオリア問題に最も直接的にアプローチしていると言って良い<ref name=下條信輔>下條信輔<br>「意識」とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤<br>講談社現代新書, 1999</ref>。錯覚を生み出す刺激は、ほぼ全ての感覚モダリティで見つかっているが、最も劇的なのは、視覚におけるもので、特に[[錯視]]と呼ばれる。たとえば、色の波長としては全く同じ黄色い四角形が、茶色やオレンジ見える錯視や、円筒の影になっている部分とそうでない部分のタイルが全く違う濃さの灰色のタイルに見えるが、光の波長としては二つの四角形は全く同じである、という錯視がある(図3)。このような錯視を元に、心理物理学者は、クオリアの性質を様々な観点から特徴づけてきた。
   
   
[[image=Tuchiya Qualia2.png|thumb|right '''図2. 視覚クオリアの特徴を捉える錯視'''<ref name=Lamme2015> Lamme, V. A. F. <br>The Crack of Dawn. Perceptual Functions and Neural Mechanisms that Mark the Transition from Unconscious Processing to Conscious Vision<br>Barbara Wengeler Stiftung, 2015</ref><br>左:矢印で示された左のオレンジのタイルと上の茶色のタイルは同じ波長の光だが、周囲の色との関係性で違う色として経験される。周りのタイルを全て隠すとそれが確認できる。右:同じく、上の暗い灰色と下の明るい灰色も、同じ波長の同じ強さの光であるが、異なる強さの灰色として感じられる。]]
[[image:Tuchiya Qualia3.png|thumb|300px| '''図3. 視覚クオリアの特徴を捉える錯視'''<ref name=Lamme2015> Lamme, V. A. F. <br>The Crack of Dawn. Perceptual Functions and Neural Mechanisms that Mark the Transition from Unconscious Processing to Conscious Vision<br>Barbara Wengeler Stiftung, 2015</ref><br>左:矢印で示された左のオレンジのタイルと上の茶色のタイルは同じ波長の光だが、周囲の色との関係性で違う色として経験される。周りのタイルを全て隠すとそれが確認できる。右:同じく、上の暗い灰色と下の明るい灰色も、同じ波長の同じ強さの光であるが、異なる強さの灰色として感じられる。]]


 たとえば、このような錯視から、感覚的なクオリアは、一般に、時間・空間的な文脈(コンテクスト){{refn|狭い意味でのクオリアの性質も、常に時間・空間的な文脈の中で決定される。|group=註}} の中で決定されること、自分の意志の持ち方や、注意の向け方を変えることで変更することはできないこと(irrevocability, (Ramachandran and Hubbard 2001))、などが提案されてきた{{refn|ルビンの壺やネッカーの立方体の様に、曖昧さが増幅された図形の中には、意志・注意の力でクオリアを変更できるものある。ただし、そのような図形は限られており、そのような状況であっても、赤を青と感たり、音を色と感じるなどのようにあ、思いのままにクオリアを変更することはできない。意志・注意の力がどれだけ感覚経験に影響を与えうるかにはまだ議論がある(Firestone & Scholl 2016)。|group=註}}。  
 たとえば、このような錯視から、感覚的なクオリアは、一般に、時間・空間的な文脈(コンテクスト){{refn|狭い意味でのクオリアの性質も、常に時間・空間的な文脈の中で決定される。|group=註}} の中で決定されること、自分の意志の持ち方や、注意の向け方を変えることで変更することはできないこと(irrevocability, (Ramachandran and Hubbard 2001))、などが提案されてきた{{refn|ルビンの壺やネッカーの立方体の様に、曖昧さが増幅された図形の中には、意志・注意の力でクオリアを変更できるものある。ただし、そのような図形は限られており、そのような状況であっても、赤を青と感たり、音を色と感じるなどのようにあ、思いのままにクオリアを変更することはできない。意志・注意の力がどれだけ感覚経験に影響を与えうるかにはまだ議論がある(Firestone & Scholl 2016)。|group=註}}。  
   
   
 また、クオリアが脳内の神経活動によって規定されるものであるということを、読者自身が直接経験するにも、錯視は有効な手段である。以下のリンク先のビデオを見て欲しい。目を動かさず、まばたきをしないようにして画面中央を見続けていると何が経験されるだろうか?
 また、クオリアが脳内の神経活動によって規定されるものであるということを、読者自身が直接経験するにも、錯視は有効な手段である。'''図4'''のビデオを見て欲しい。目を動かさず、まばたきをしないようにして画面中央を見続けていると何が経験されるだろうか?
   
   
[[File:MotionBlindnessf.gif <br>Wikipediaより]]
[[ファイル:MotionBlindnessf.gif|thumb|300px| '''図4. 視覚的動きによって物体の消失'''<br>Wikipediaより]]


 常に画面上に存在し続けて、[[網膜]]の[[視細胞]]を刺激し続ける黄色い3つの点が、意識から消えたりまた帰ってきたりするのではないだろうか? この現象は[[motion-induced blindness]] (MIB、視覚的動きによって物体の消失)と呼ばれる(Bonneh, Cooperman, & Sagi, 2001)。このような現象は、たとえ、感覚入力が一定であっても、脳内の神経活動が何らかの形で活動状態を変えるために、それにともなって黄色のクオリアが変化する、ということを直接に示す。
 常に画面上に存在し続けて、[[網膜]]の[[視細胞]]を刺激し続ける黄色い3つの点が、意識から消えたりまた帰ってきたりするのではないだろうか? この現象は[[motion-induced blindness]] (MIB、視覚的動きによって物体の消失)と呼ばれる(Bonneh, Cooperman, & Sagi, 2001)。このような現象は、たとえ、感覚入力が一定であっても、脳内の神経活動が何らかの形で活動状態を変えるために、それにともなって黄色のクオリアが変化する、ということを直接に示す。
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===アクセス可能な意識と現象としての意識・クオリアへの実証的な研究===
===アクセス可能な意識と現象としての意識・クオリアへの実証的な研究===
 自分自身の一瞬の経験を振り返ってみると、その時に注意を向けていなかった周辺視野での印象、机の木の木目のように、いかんとも言語で表現できない複雑な感覚の側面がある。先の節で述べたように、これらの意識の側面はクオリアや現象としての意識の中に含まれるが、意識的なアクセスはされていないとも考えられる{{refn|意識的なアクセスが可能な状態(accessibility)であれば意識にのぼるという考え方と、実際にアクセスがなければ意識にはのぼっていないという考え方がある。(Cohen, Cavanagh, Chun, & Nakayama, 2012; Tsuchiya et al., 2015)|group=註}}
 自分自身の一瞬の経験を振り返ってみると、その時に注意を向けていなかった周辺視野での印象、机の木の木目のように、いかんとも言語で表現できない複雑な感覚の側面がある。先の節で述べたように、これらの意識の側面はクオリアや現象としての意識の中に含まれるが、意識的なアクセスはされていないとも考えられる{{refn|意識的なアクセスが可能な状態(accessibility)であれば意識にのぼるという考え方と、実際にアクセスがなければ意識にはのぼっていないという考え方がある。(Cohen, Cavanagh, Chun, & Nakayama, 2012; Tsuchiya et al., 2015)|group=註}}。意識的なアクセス可能性とクオリアという問題は、クオリア問題の本質に関わっている。現在、このトピックは心理学・脳科学による実証的な研究が盛んに行われている。
。意識的なアクセス可能性とクオリアという問題は、クオリア問題の本質に関わっている。現在、このトピックは心理学・脳科学による実証的な研究が盛んに行われている。
   
   
 アクセスできる意識は、報告可能な意識内容であるため、報告が正確である限り、実験者・被験者の間で共有可能である。報告内容を客観的なデータとして扱い、同時に脳活動を記録することで、アクセスできる意識がどのように脳活動と関連するのかを厳密に研究できる<ref name=Dehaene />。このような手法は、他の科学分野と同様に客観的に研究が可能である。このような考えのもとに発展してきたのが1990年以降の意識研究の主流である[[neural correlates of consciousness]] (NCC)アプローチである<ref name=koch2004> Koch, C<br>The Quest for Consciousness<br>CO: Roberts and Publishers, 2004</ref>。
 アクセスできる意識は、報告可能な意識内容であるため、報告が正確である限り、実験者・被験者の間で共有可能である。報告内容を客観的なデータとして扱い、同時に脳活動を記録することで、アクセスできる意識がどのように脳活動と関連するのかを厳密に研究できる<ref name=Dehaene />。このような手法は、他の科学分野と同様に客観的に研究が可能である。このような考えのもとに発展してきたのが1990年以降の意識研究の主流である[[neural correlates of consciousness]] (NCC)アプローチである<ref name=koch2004> Koch, C<br>The Quest for Consciousness<br>CO: Roberts and Publishers, 2004</ref>。
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==外部リンク==
==外部リンク==
*[[http://plato.stanford.edu/entries/qualia/ | Qualia(哲学)]]
*[http://plato.stanford.edu/entries/qualia/ Qualia(哲学)]


==参考文献==
==参考文献==
<references />
<references />

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