「ケタミン」の版間の差分

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== 歴史 ==
== 歴史 ==
 1962年に米国パーク・デービス社によって、麻酔薬フェンサイクリジン(PCP: phencyclidine)の代用物(半減期が短い化合物)として、CI-581(後のケタミン)が合成された。1964年、ミシガン大学のEdward F. Domino博士らが、健常者(囚人)を対象とした実験を実施した<ref name=Domino1965><pubmed>14296024</pubmed></ref> 。ケタミンもPCP同様、中枢神経系の抑制作用、鎮痛作用が見られた。一方、呼吸抑制が少なく、血圧低下も招きにくいことから、ケタミンは大脳皮質は抑制しても、いわゆる大脳辺縁系は抑制しないと考えられ、解離性麻酔薬(dissociative anesthetic)と命名された<ref name=Domino1965><pubmed>14296024</pubmed></ref>  <ref name=Domino2010><pubmed>20693870</pubmed></ref> 。ケタミンは、他の麻酔薬と比べて、呼吸抑制などの副作用が低いため、世界保健機関による必須医薬品になっており、麻酔薬として世界中で使用されている。しかし、ケタミンは、悪夢、浮遊感覚(幽体離脱)などの解離症状も引き起こし、1970年代後半から米国の若者の間でその乱用が大きな社会問題になり、わが国でも2007年に麻薬指定された。
 1962年に米国パーク・デービス社によって、麻酔薬フェンサイクリジン(PCP: phencyclidine)の代用物(半減期が短い化合物)として、CI-581(後のケタミン)が合成された。1964年、ミシガン大学のEdward F. Domino博士らが、健常者(囚人)を対象とした実験を実施した<ref name=Domino1965><pubmed>14296024</pubmed></ref> 。ケタミンもPCP同様、中枢神経系の抑制作用、鎮痛作用が見られた。一方、呼吸抑制が少なく、血圧低下も招きにくいことから、ケタミンは大脳皮質は抑制しても、いわゆる大脳辺縁系は抑制しないと考えられ、解離性麻酔薬(dissociative anesthetic)と命名された<ref name=Domino1965><pubmed>14296024</pubmed></ref>  <ref name=Domino2010><pubmed>20693870</pubmed></ref> 。ケタミンは、他の麻酔薬と比べて、呼吸抑制などの副作用が低いため、世界保健機関による必須医薬品になっており、麻酔薬として世界中で使用されている。しかし、ケタミンは、悪夢、浮遊感覚(幽体離脱)などの解離症状や幻覚などの精神病症状も引き起こし、1970年代後半から米国の若者の間でその乱用が大きな社会問題になり、わが国でも2007年に麻薬指定された。


== 薬理作用 ==
== 薬理作用 ==
 ケタミンの麻酔・鎮痛作用および上記の副作用は、グルタミン酸受容体の一つであるNMDA型グルタミン酸受容体の拮抗作用によると考えられている<ref name=Domino2010><pubmed>20693870</pubmed></ref>。NMDA型グルタミン酸受容体拮抗薬のヒトにおける精神病惹起作用は、NMDA型グルタミン酸受容体遮断作用の強さに比例しているため、統合失調症のNMDA型グルタミン酸受容体機能低下仮説が提唱されている<ref name=Javitt1991><pubmed>1654746</pubmed></ref>。またケタミンは、オピオイド受容体、シグマ受容体などにも弱い親和性を有する<ref name=Domino2010><pubmed>20693870</pubmed></ref>。
 ケタミンの麻酔・鎮痛作用および上記の副作用は、グルタミン酸受容体の一つであるNMDA型グルタミン酸受容体の拮抗作用によると考えられている<ref name=Domino2010><pubmed>20693870</pubmed></ref>。NMDA型グルタミン酸受容体拮抗薬のヒトにおける精神病惹起作用は、NMDA型グルタミン酸受容体遮断作用の強さに比例しているため、統合失調症のNMDA型グルタミン酸受容体機能低下仮説が提唱されている<ref name=Javitt1991><pubmed>1654746</pubmed></ref>。またケタミンは、オピオイド受容体、シグマ受容体などにも弱い親和性を有する<ref name=Domino2010><pubmed>20693870</pubmed></ref>。


 ケタミンは不斉炭素を有するため、二つの光学異性体を有する。NMDA型グルタミン酸受容体への親和性は、(S)-ケタミンの方が(R)-ケタミンより3-4倍程度強いことは知られており<ref name=Domino2010><pubmed>20693870</pubmed></ref>(2)、ヨーロッパや中国では(S)-ケタミンは麻酔薬(麻酔作用は、NMDA型グルタミン酸受容体遮断作用が関与)として使用されている。一方、米国や日本では、(S)-ケタミンは麻酔薬として認可されていない。
 ケタミンは不斉炭素を有するため、二つの光学異性体を有する。NMDA型グルタミン酸受容体への親和性は、(S)-ケタミンの方が(R)-ケタミンより3-4倍程度強いことが知られており<ref name=Domino2010><pubmed>20693870</pubmed></ref>(2)、ヨーロッパや中国では(S)-ケタミンは麻酔薬(麻酔作用は、NMDA型グルタミン酸受容体遮断作用が関与)として使用されている。一方、米国や日本では、(S)-ケタミンは麻酔薬として認可されていない。


(<u>編集部コメント:物性上の特徴はこちらでまとめて頂ければと思います。</u>)
(<u>編集部コメント:物性上の特徴はこちらでまとめて頂ければと思います。</u>)
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==適用==
==適用==
===麻酔薬===
===麻酔薬===
<u>編集部コメント:多くの初学者が麻酔薬としてのケタミンに関して検索してくることが予想されますので、それについてはこちらにまとめて頂ければと思います。</u>)
 強い鎮痛作用、麻酔作用がある一方、呼吸抑制は見られたとしても一過性のことが多く、直接血圧低下を起こすことが少ないことなどから、全身麻酔および吸入麻酔の補助などに用いられている。筋弛緩作用はなく、むしろ筋緊張が亢進することがある<>
 
 ケタミンは視床・新皮質を機能的に抑制する一方、辺縁系を活性化する薬理学的特徴を有する。


=== 抗うつ作用 ===
=== 抗うつ作用 ===
 1970年代後半から1980年代初頭に、米国ではPCPやケタミンの乱用が大きな社会問題になった。これらの薬物乱用者の多くはうつ症状を呈する方が多く、一部の方は、既存のモノアミン系抗うつ薬に効果が無く、即効性抗うつ効果を期待してケタミンを使用する方が居たよう<ref name=Domino2010><pubmed>20693870</pubmed></ref>(2)。このように、一部の医師や研究者は、ケタミンの抗うつ効果に気づいていたが、精神病惹起作用を有する乱用薬物ケタミンが抗うつ薬になるとは思っていたなかったとEdward F. Domino博士は後に語っていた。
 1970年代後半から1980年代初頭に、米国ではPCPやケタミンの乱用が大きな社会問題になった。これらの薬物乱用者の中にはうつ症状を呈する者も多く、一部には、既存のモノアミン系抗うつ薬に効果が無く、即効性抗うつ効果を期待してケタミンを使用する者もいたという<ref name=Domino2010><pubmed>20693870</pubmed></ref>。このように、一部の医師や研究者は、ケタミンの抗うつ効果に気づいていたが、精神病惹起作用を有する乱用薬物ケタミンが抗うつ薬になるとは思っていたなかったとEdward F. Domino博士は後に語っている。
 
 2000年にYale大学のJohn H. Krystal博士らは、うつ病患者を対象としたプラセボ対照二重盲検試験を実施し、ケタミンの抗うつ効果を科学的に証明した<ref name=Berman2000><pubmed>10686270</pubmed></ref> 。ケタミン投与後、精神病惹起作用や解離症状が出現し、1時間以内に消失した。その後、抗うつ効果がみられ、投与3日後でも確認された<ref name=Berman2000><pubmed>10686270</pubmed></ref> 。当初、この論文は注目されなかったが、2006年に米国精神衛生研究所(NIH/NIMH)のCarlos A. Zarate博士らが、治療抵抗性うつ病患者を対象としたプラセボ対照二重盲検試験を実施し、ケタミンの即効性抗うつ効果と持続(1週間以上)効果を報告した<ref name=Zarate2006><pubmed>16894061</pubmed></ref> 。興味深いことに、ケタミンは重度のうつ病患者の希死念慮・自殺願望にも即効性の効果がある事が報告された<ref name=Grunebaum2018><pubmed>29202655</pubmed></ref> 。その後、多くの研究グループの追試によりケタミンの抗うつ効果および希死念慮抑制効果が確認された<ref name=Newport2015><pubmed>26423481</pubmed></ref>  <ref name=Kishimoto2016><pubmed>26867988</pubmed></ref><ref name=Wilkinson2018><pubmed>28969441</pubmed></ref> 。欧米では、ケタミンの抗うつ効果は、気分障害研究の歴史において、過去60年間で最も大きな発見、あるいは精神医学分野ではクロルプロマジン以来の大発見と言われている<ref name=橋本謙二2020a>'''橋本謙二(2020)'''<br>難治性うつ病治療に対するケタミンへの期待<br>医学のあゆみ 272(5):495-499</ref><ref name=橋本謙二2020b>'''橋本謙二(2020)'''<br>難治性うつ病の画期的治療薬として期待されるケタミン<br>精神神経学雑誌 122(6):473-480</ref> 。しかしながら、ケタミンの問題点(投与直後の精神病惹起作用、解離症状、繰り返し投与による薬物依存など)が解決していないにも関わらず、米国のケタミンクリニックや病院では、難治性うつ病に対してケタミンの適応外使用が日常的に行われている<ref name=Sanacora2017><pubmed>28249076</pubmed></ref>
 2000年にイェール大学のJohn H. Krystal博士らは、うつ病患者を対象としたプラセボ対照二重盲検試験を実施し、ケタミンの抗うつ効果を科学的に証明した<ref name=Berman2000><pubmed>10686270</pubmed></ref> (5)。ケタミン投与後、精神病惹起作用や解離症状が出現し、1時間以内に消失した。その後、抗うつ効果がみられ、投与3日後でも確認された<ref name=Berman2000><pubmed>10686270</pubmed></ref> (5)。当初、この論文は注目されなかったが、2006年に米国精神衛生研究所(NIH/NIMH)のCarlos A. Zarate博士らが、治療抵抗性うつ病患者を対象としたプラセボ対照二重盲検試験を実施し、ケタミンの即効性抗うつ効果と持続(1週間以上)効果を報告した<ref name=Zarate2006><pubmed>16894061</pubmed></ref> (6)。興味深い事に、ケタミンは重度のうつ病患者の希死念慮・自殺願望にも即効性の効果がある事が報告された<ref name=Grunebaum2018><pubmed>29202655</pubmed></ref> (7)。その後、多くの研究グループによりケタミンの抗うつ効果および希死念慮抑制効果は追試された<ref name=Newport2015><pubmed>26423481</pubmed></ref>  <ref name=Kishimoto2016><pubmed>26867988</pubmed></ref><ref name=Wilkinson2018><pubmed>28969441</pubmed></ref> (8-10)。欧米では、ケタミンの抗うつ効果は、気分障害研究の歴史において、過去60年間で最も大きな発見、あるいは精神医学分野ではクロルプロマジン以来の大発見と言われている<ref name=橋本謙二2020a>'''橋本謙二(2020)'''<br>難治性うつ病治療に対するケタミンへの期待<br>医学のあゆみ 272(5):495-499</ref><ref name=橋本謙二2020b>'''橋本謙二(2020)'''<br>難治性うつ病の画期的治療薬として期待されるケタミン<br>精神神経学雑誌 122(6):473-480</ref> (11,12)。しかしながら、ケタミンの問題点(投与直後の精神病惹起作用、解離症状、繰り返し投与による薬物依存など)が解決していないにも関わらず、米国のケタミンクリニックや病院では、難治性うつ病に対してケタミンの適応外使用が日常的に行われている<ref name=Sanacora2017><pubmed>28249076</pubmed></ref> (13)。


==== 抗うつ作用におけるNMDA型グルタミン酸受容体の役割 ====
==== 抗うつ作用におけるNMDA型グルタミン酸受容体の役割 ====


 ケタミンの主の薬理作用は、グルタミン酸受容体の一つであるNMDA型グルタミン酸受容体の拮抗作用であることから、多くの研究者はケタミンの抗うつ作用はNMDA型グルタミン酸受容体の拮抗作用と信じており、海外の幾つかの製薬企業がNMDA型グルタミン酸受容体拮抗薬を開発した。しかしながら、ケタミン以外のNMDA型グルタミン酸受容体拮抗薬は、うつ病患者においてケタミン様の強力は抗うつ効果を示さず、開発中止に追い込まれた<ref name=Hashimoto2019><pubmed>31215725</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020a><pubmed>32224141</pubmed></ref><ref name=Yang2019><pubmed>31699965</pubmed></ref> (14-16)。興味深い事に、強力で選択性の高いNMDA型グルタミン酸受容体拮抗薬(+)-MK-801 (dizocilpine)は、うつ病患者において抗うつ効果を示さなかった<ref name=Hashimoto2020a><pubmed>32224141</pubmed></ref> (15)。さらに、これまで実施されたケタミンの臨床試験結果から、ケタミン投与後の解離症状は、ケタミンの抗うつ効果には関連無いことが判ってきた。以上の事から、筆者らはケタミンの抗うつ効果におけるNMDA型グルタミン酸受容体拮抗作用以外の関与を考える必要性を提唱した<ref name=Hashimoto2019><pubmed>31215725</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020b><pubmed>32430328</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020a><pubmed>32224141</pubmed></ref><ref name=Yang2019><pubmed>31699965</pubmed></ref>  <ref name=橋本謙二2020c>'''橋本謙二 (2020)'''<br>NMDA型グルタミン酸受容体はケタミンの抗うつ効果に関係しているか?<br>臨床精神薬理 23, 787-792.</ref> (14-18)。
 ケタミンの主の薬理作用は、グルタミン酸受容体の一つであるNMDA型グルタミン酸受容体の拮抗作用であることから、多くの研究者はケタミンの抗うつ作用はNMDA型グルタミン酸受容体の拮抗作用と信じており、海外の幾つかの製薬企業がNMDA型グルタミン酸受容体拮抗薬を開発した。しかしながら、ケタミン以外のNMDA型グルタミン酸受容体拮抗薬は、うつ病患者においてケタミン様の強力は抗うつ効果を示さず、開発中止に追い込まれた<ref name=Hashimoto2019><pubmed>31215725</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020a><pubmed>32224141</pubmed></ref><ref name=Yang2019><pubmed>31699965</pubmed></ref>。興味深い事に、強力で選択性の高いNMDA型グルタミン酸受容体拮抗薬(+)-MK-801 (dizocilpine)は、うつ病患者において抗うつ効果を示さなかった<ref name=Hashimoto2020a><pubmed>32224141</pubmed></ref>。さらに、これまで実施されたケタミンの臨床試験結果から、ケタミン投与後の解離症状は、ケタミンの抗うつ効果には関連ないことが判ってきた。以上の事から、Hashimotoらはケタミンの抗うつ効果におけるNMDA型グルタミン酸受容体拮抗作用以外の関与を考える必要性を提唱した<ref name=Hashimoto2019><pubmed>31215725</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020b><pubmed>32430328</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020a><pubmed>32224141</pubmed></ref><ref name=Yang2019><pubmed>31699965</pubmed></ref>  <ref name=橋本謙二2020c>'''橋本謙二 (2020)'''<br>NMDA型グルタミン酸受容体はケタミンの抗うつ効果に関係しているか?<br>臨床精神薬理 23, 787-792.</ref> 。<ref name=公益社団法人日本麻酔科学会2015>'''公益社団法人日本麻酔科学会(2015)'''<br>麻酔薬および麻酔関連薬使用ガイドライン 第 3 版第4訂</ref>


==== (S)-ケタミン ====
==== (S)-ケタミン ====
esketamine
esketamine


 米国Johnson & Johnson社は、NMDA型グルタミン酸受容体への親和性が強い(S)-ケタミンの鼻腔内投与を難治性うつ病患者の追加投与として開発した。2016年に治療抵抗性うつ病患者に対する(S)-ケタミン(0.2 and 0.4 mg/kg)の静脈投与によるプラセボ対照二重盲検試験が報告された。(S)-ケタミンは即効性抗うつ効果を示したが、副作用の出現も大きかった<ref name=Singh2016><pubmed>26707087</pubmed></ref>(19)。その後、J&J社は、(S)-ケタミンの鼻腔内投与を難治性うつ病患者の追加投与として開発し、2019年に米国およびヨーロッパで承認された<ref name=Jauhar2019><pubmed>31548292</pubmed></ref><ref name=Kim2019><pubmed>31116916</pubmed></ref> (20,21)。しかしながら、副作用の問題から、(S)-ケタミンはリスク評価軽減戦略(Risk Evaluation and Mitigation Strategies, REMS)の下で使用しなければならなく、患者は点鼻薬を医師の診察室や医療機関において、自分で投与できるが、自宅に持って帰る事は禁止されている<ref name=橋本謙二2020b></ref> (12)。さらに(S)-ケタミンの抗うつ効果に関する問題点も指摘されている<ref name=Horowitz2020><pubmed>32456714</pubmed></ref><ref name=Turner2019><pubmed>31680014</pubmed></ref>(22,23)。
 米国Johnson & Johnson社は、NMDA型グルタミン酸受容体への親和性が強い(S)-ケタミンの鼻腔内投与を難治性うつ病患者の追加投与として開発した。2016年に治療抵抗性うつ病患者に対する(S)-ケタミン(0.2 and 0.4 mg/kg)の静脈投与によるプラセボ対照二重盲検試験が報告された。(S)-ケタミンは即効性抗うつ効果を示したが、副作用も多かった<ref name=Singh2016><pubmed>26707087</pubmed></ref>。その後、J&J社は、(S)-ケタミンの鼻腔内投与を難治性うつ病患者の追加投与として開発し、2019年に米国およびヨーロッパで承認された<ref name=Jauhar2019><pubmed>31548292</pubmed></ref><ref name=Kim2019><pubmed>31116916</pubmed></ref>。しかしながら、副作用の問題から、(S)-ケタミンはリスク評価軽減戦略(Risk Evaluation and Mitigation Strategies, REMS)の下で使用しなければならず、患者は点鼻薬を医師の診察室や医療機関において、自分で投与できるが、自宅に持って帰ることは禁止されている<ref name=橋本謙二2020b></ref> 。さらに(S)-ケタミンの抗うつ効果に関する問題点も指摘されている<ref name=Horowitz2020><pubmed>32456714</pubmed></ref><ref name=Turner2019><pubmed>31680014</pubmed></ref>


==== (R)-ケタミン ====
==== (R)-ケタミン ====
arketamine
arketamine


 筆者は、2010年ごろからケタミンの抗うつ作用に対するNMDA型グルタミン酸受容体遮断作用の関与を疑っていた。うつ病の動物モデルを用いて、二つの光学異性体を比較すると、(R)-ケタミンが、(S)-ケタミンよりも抗うつ効果が強く、持続効果も長いことを報告した<ref name=Yang2015><pubmed>26327690</pubmed></ref><ref name=Zhang2014><pubmed>24316345</pubmed></ref> (24,25)。しかしながら、我々の論文はほとんど注目されなかった。2016年5月に、米国メリーランド大学や米国衛生研究所(NIH)のグループは、我々の論文の追試を行い、Nature誌に掲載した<ref name=Zanos2016><pubmed>27144355</pubmed></ref> (26)。この報告以来、多くの研究者が(R)-ケタミンの抗うつ効果に注目するようになった。両異性体の薬物動態には大きな差が無いことから、両異性体の抗うつ効果の差は、薬物動態の寄与は低いと考えられた。NMDA型グルタミン酸受容体への親和性は、(S)-ケタミンの方が(R)-ケタミンより3-4倍程度強いことから、ケタミンの抗うつ作用には、NMDA型グルタミン酸受容体以外の関与があると思われる<ref name=Hashimoto2019><pubmed>31215725</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020b><pubmed>32430328</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020a><pubmed>32224141</pubmed></ref><ref name=Yang2019><pubmed>31699965</pubmed></ref>  <ref name=橋本謙二2020c />(14-18)。
 ケタミンの抗うつ作用にはNMDA型グルタミン酸受容体遮断作用は関与しないと考えたHashimotoらは、うつ病の動物モデルを用いて、二つの光学異性体を比較し、(R)-ケタミンが、(S)-ケタミンよりも抗うつ効果が強く、持続効果も長いことを報告した<ref name=Yang2015><pubmed>26327690</pubmed></ref><ref name=Zhang2014><pubmed>24316345</pubmed></ref>。これらの論文はほとんど注目されなかったが、後に、米国メリーランド大学や米国衛生研究所(NIH)のグループの追試により注目され<ref name=Zanos2016><pubmed>27144355</pubmed></ref>、以後、多くの研究者が(R)-ケタミンの抗うつ効果に注目するようになった。両異性体の薬物動態には大きな差が無いことから、両異性体の抗うつ効果の差は、薬物動態の寄与は低いと考えられた。NMDA型グルタミン酸受容体への親和性は、(S)-ケタミンの方が(R)-ケタミンより3-4倍程度強いことから、ケタミンの抗うつ作用には、NMDA型グルタミン酸受容体以外の作用が関与する可能性が指摘されている<ref name=Hashimoto2019><pubmed>31215725</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020b><pubmed>32430328</pubmed></ref><ref name=Hashimoto2020a><pubmed>32224141</pubmed></ref><ref name=Yang2019><pubmed>31699965</pubmed></ref>  <ref name=橋本謙二2020c />


 2020年にブラジルの研究者が、治療抵抗性うつ病患者を対象とした(R)-ケタミン(0.5 mg/kg)のオープンラベルの予備試験を報告した。(R)-ケタミンは、静脈投与1時間後には強力な抗うつ効果を示し、1週間後でも確認された。興味深い事に、(R)-ケタミンの投与量は、上記の(S)-ケタミンの投与量(0.2 and 0.4 mg/kg)<ref name=Singh2016><pubmed>26707087</pubmed></ref> (19)より高いにも関わらず、解離症状などの副作用は殆ど観察されなかった<ref name=Leal2020><pubmed>32078034</pubmed></ref> (27)。(R)-ケタミンの即効性抗うつ効果と副作用については、今後、大規模な臨床試験が必要であろう。
 2020年にブラジルの研究者が、治療抵抗性うつ病患者を対象とした(R)-ケタミン(0.5 mg/kg)のオープンラベルの予備試験を報告した。(R)-ケタミンは、静脈投与1時間後には強力な抗うつ効果を示し、1週間後でも確認された。興味深い事に、(R)-ケタミンの投与量は、上記の(S)-ケタミンの投与量(0.2 and 0.4 mg/kg)<ref name=Singh2016><pubmed>26707087</pubmed></ref>より高いにも関わらず、解離症状などの副作用は殆ど観察されなかった<ref name=Leal2020><pubmed>32078034</pubmed></ref> (R)-ケタミンの即効性抗うつ効果と副作用については、今後、大規模な臨床試験が必要であろう。


====抗うつ作用機序 ====
====抗うつ作用の機序 ====
=====mechanistic target of rapamycin系 =====
=====mechanistic target of rapamycin系 =====
 2010年に米国イェール大学のRonald S. Duman博士らは、ケタミンの抗うつ作用に細胞内mTOR系が関与している事を報告した<ref name=Hashimoto2019><pubmed>31215725</pubmed></ref> (36)。一方、ケタミンの抗うつ作用にmTOR系が関与しないという反論も報告された<ref name=Zanos2016><pubmed>27144355</pubmed></ref>  <ref name=Autry2011><pubmed>21677641</pubmed></ref> (26,37)。筆者らは、mTOR系は(S)-ケタミンの抗うつ作用には関与するが、(R)-ケタミンの抗うつ作用には関与しないことを報告した<ref name=Yang2018><pubmed>28651788</pubmed></ref> (38)。2020年に、イェール大学の同グループは、mTORの阻害薬ラパマイシンが、治療抵抗性うつ病患者に対するケタミンの抗うつ効果をブロックせず、逆に増強することを発表した<ref name=Yang2018><pubmed>28651788</pubmed></ref> (39)。ケタミンの抗うつ作用におけるmTOR系の役割については、今後詳細に検討する必要がある。
 2010年に米国Yale大学のRonald S. Duman博士らは、ケタミンの抗うつ作用に細胞内mTOR系が関与している事を報告した<ref name=Hashimoto2019><pubmed>31215725</pubmed></ref> 。一方、ケタミンの抗うつ作用にmTOR系が関与しないという反論も報告された<ref name=Zanos2016><pubmed>27144355</pubmed></ref>  <ref name=Autry2011><pubmed>21677641</pubmed></ref> 。Hashimotoらのグループは、mTOR系は(S)-ケタミンの抗うつ作用には関与するが、(R)-ケタミンの抗うつ作用には関与しないことを報告した<ref name=Yang2018><pubmed>28651788</pubmed></ref> 。2020年に、Yale大学の同グループは、mTORの阻害薬ラパマイシンが、治療抵抗性うつ病患者に対するケタミンの抗うつ効果をブロックせず、逆に増強することを発表した<ref name=Yang2018><pubmed>28651788</pubmed></ref> 。ケタミンの抗うつ作用におけるmTOR系の役割については、今後詳細に検討する必要がある。


===== 脳由来神経栄養因子 =====
===== 脳由来神経栄養因子 =====
 2011年に、米国サウスウェスタン大学のLisa M. Monteggia博士らは、ケタミンの抗うつ効果には、脳由来神経栄養因子(BDNF: brain-derived neurotrophic factor)が関与していることを報告した<ref name=Abdallah2020a><pubmed>32092760</pubmed></ref> (37)。筆者らも、二つのケタミン異性体の抗うつ効果は、TrkB受容体拮抗薬でブロックされることから、BDNF-TrkB系が重要であることを報告した<ref name=Yang2015><pubmed>26327690</pubmed></ref> (25)。ケタミンの抗うつ作用におけるBDNF-TrkB系の役割は、多くの研究グル-プから追試されており、ケタミンの持続効果(1週間以上持続)に関与していると推測されている。
 2011年に、米国Southwestern大学のLisa M. Monteggia博士らは、ケタミンの抗うつ効果には、脳由来神経栄養因子(BDNF: brain-derived neurotrophic factor)が関与していることを報告した<ref name=Abdallah2020a><pubmed>32092760</pubmed></ref> 。Hashimotoらのグループも、二つのケタミン異性体の抗うつ効果は、TrkB受容体拮抗薬でブロックされることから、BDNF-TrkB系が重要であることを報告した<ref name=Yang2015><pubmed>26327690</pubmed></ref>。ケタミンの抗うつ作用におけるBDNF-TrkB系の役割は、多くの研究グル-プから追試されており、ケタミンの持続効果(1週間以上持続)に関与していると推測されている。


===== トランスフォーミング成長因子 =====
===== トランスフォーミング成長因子 =====
 2020年に、筆者らはRNA-seq解析を用いて、ケタミン異性体の抗うつ効果の差に、トランスフォ-ミング成長因子β1が関与していることを報告した<ref name=Zhang2020><pubmed>32066676</pubmed></ref> (40)。興味深い事に、TGF-β1がうつ病モデルにおいて即効性抗うつ効果と持続効果を有することを報告した<ref name=Zhang2020><pubmed>32066676</pubmed></ref> (40)。
 2020年に、Hashimotoらのグループは、RNA-seq解析を用いて、ケタミン異性体の抗うつ効果の差に、トランスフォ-ミング成長因子β1が関与していること<ref name=Zhang2020><pubmed>32066676</pubmed></ref> 、およびTGF-β1がうつ病モデルにおいて即効性抗うつ効果と持続効果を有することを報告した<ref name=Zhang2020><pubmed>32066676</pubmed></ref>


===== 代謝物(2R,6R)-ヒドロキシノルケタミン、その他 =====
===== 代謝物(2R,6R)-ヒドロキシノルケタミン、その他 =====
 2016年に米国メリーランド大学と米国衛生研究所のグループが、ケタミンの抗うつ効果は、ケタミン自体でなく、(R)-ケタミンから代謝される(2R,6R)-ヒドロキシノルケタミン(HNK: hydroxynorketamine)である事をNature誌に報告した<ref name=Zanos2016><pubmed>27144355</pubmed></ref> (26)。この論文では、(2R,6R)-HNKは主代謝物でないにも関わらず、ケタミンと同じ投与量(10 mg/kg)で抗うつ効果が認められている<ref name=Zanos2016><pubmed>27144355</pubmed></ref> (26)。一方、筆者らは(2R,6R)-HNKの生成はケタミンの抗うつ効果には必須でないことを報告した<ref name=Chang2018><pubmed>29893929</pubmed></ref><ref name=Shirayama2018><pubmed>29155993</pubmed></ref><ref name=Yamaguchi2018><pubmed>29802366</pubmed></ref><ref name=Yang2017><pubmed>28104224</pubmed></ref><ref name=Zhang2018a><pubmed>29997397</pubmed></ref><ref name=Zhang2018b><pubmed>30215218</pubmed></ref>(41-46)。2019年に、米国メリーランド大学と米国衛生研究所のグループは、(2R,6R)-HNKの生成は(R)-ケタミンの作用に一部関与しているかもしれないと修正した<ref name=Zanos2019><pubmed>30941749</pubmed></ref> (47)。2020年に同グループは治療抵抗性うつ病患者を対象とした臨床試験において、ケタミンの抗うつ効果と血液中(2R,6R)-HNK濃度との間には負の相関があることを報告した。すなわち、彼らの仮説と逆の結果であった<ref name=Zanos2019><pubmed>30941749</pubmed></ref>(48)。この論文報告に対して、イェール大学のChadi G. Abdallah博士は、コメント「Is this the end of the HNK pipeline?」を発表した<ref name=Farmer2020><pubmed>32252062</pubmed></ref>(49)。米国衛生研究所のCarlos Zarate博士らが、(2R,6R)-HNKの臨床試験を計画しているので、うつ病患者での結果が楽しみである。
 2016年に米国Maryland大学と米国衛生研究所のグループが、ケタミンの抗うつ効果は、ケタミン自体でなく、(R)-ケタミンから代謝される(2R,6R)-ヒドロキシノルケタミン(HNK: hydroxynorketamine)であるとNature誌に報告した<ref name=Zanos2016><pubmed>27144355</pubmed></ref>(2R,6R)-HNKは(R)-ケタミンの主代謝物ではないが、この論文では、ケタミンと同じ投与量(10 mg/kg)で抗うつ効果を確認している<ref name=Zanos2016><pubmed>27144355</pubmed></ref>。一方、Hashimotoらのグループは、(2R,6R)-HNKの生成はケタミンの抗うつ効果には必須でないと報告した<ref name=Chang2018><pubmed>29893929</pubmed></ref><ref name=Shirayama2018><pubmed>29155993</pubmed></ref><ref name=Yamaguchi2018><pubmed>29802366</pubmed></ref><ref name=Yang2017><pubmed>28104224</pubmed></ref><ref name=Zhang2018a><pubmed>29997397</pubmed></ref><ref name=Zhang2018b><pubmed>30215218</pubmed></ref>。2019年に、米国Maryland大学と米国衛生研究所のグループは、(2R,6R)-HNKの生成は(R)-ケタミンの作用に一部関与しているかもしれないとした<ref name=Zanos2019><pubmed>30941749</pubmed></ref> 。一方、同グループは2020年に、治療抵抗性うつ病患者を対象とした臨床試験において、ケタミンの抗うつ効果と血液中(2R,6R)-HNK濃度との間には負の相関があるという、(2R,6R)-HNKがケタミンの抗うつ作用に関与するという仮説とは逆の結果が報告され<ref name=Zanos2019><pubmed>30941749</pubmed></ref>、抗うつ薬としての(2R,6R)-HNKの開発に対して疑問も提起されている<ref name=Farmer2020><pubmed>32252062</pubmed></ref>。米国衛生研究所のCarlos Zarate博士らが、(2R,6R)-HNKの臨床試験を計画しているので、うつ病患者での結果が楽しみである。


 最後に、現時点でケタミンやケタミン異性体の抗うつ効果の詳細な作用機序は明らかでない。マウスを用いた強制水泳試験や尾懸垂試験は、うつ病患者の抗うつ効果を必ずしも予測しないので、注意が必要である<ref name=Abdallah2020b><pubmed>32291407</pubmed></ref> (50)。将来、ケタミンの新規治療ターゲットが同定されれば、ケタミンの副作用を有さない新規抗うつ薬の創製につながると期待される。
 最後に、現時点でケタミンやケタミン異性体の抗うつ効果の詳細な作用機序は明らかでない。マウスを用いた強制水泳試験や尾懸垂試験は、うつ病患者の抗うつ効果を必ずしも予測しないので、注意が必要である<ref name=Abdallah2020b><pubmed>32291407</pubmed></ref> (50)。将来、ケタミンの新規治療ターゲットが同定されれば、ケタミンの副作用を有さない新規抗うつ薬の創製につながると期待される。

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