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<font size="+1">[https://researchmap.jp/hiranoy *平野好幸]、[https://researchmap.jp/read0071193 清水栄司]</font><br> | |||
''千葉大学 子どものこころの発達教育研究センター''<br> | |||
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2021年1月14日 原稿完成日:2021年1月XX日<br> | |||
担当編集委員:[http://researchmap.jp/tadafumikato 加藤 忠史](順天堂大学大学院医学研究科 精神・行動科学/医学部精神医学講座)<br> | |||
<nowiki>*</nowiki>:責任著者 | |||
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英:specific phobia 独:spezifische Phobien 仏:phobie spécifique<br> | 英:specific phobia 独:spezifische Phobien 仏:phobie spécifique<br> | ||
同義語:特定の恐怖症、特異的(個別的)恐怖症、単一恐怖症 | 同義語:特定の恐怖症、特異的(個別的)恐怖症、単一恐怖症 | ||
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{{box|text= 限局性恐怖症(ICD-10では「特異的(個別的)恐怖症」という訳語)は、特定の状況や対象(恐怖刺激)に限定された、著しい恐怖または不安の出現を特徴とする不安症である。高所恐怖症や動物恐怖症が最も一般的であるが、複数の恐怖刺激を持つことが多い。また、10~30%の例では数年~数十年症状が続き、他の不安症、うつ病、物質関連障害などの発症のきっかけとなりうるため、曝露療法などの早期の対処が望まれる。}} | {{box|text= 限局性恐怖症(ICD-10では「特異的(個別的)恐怖症」という訳語)は、特定の状況や対象(恐怖刺激)に限定された、著しい恐怖または不安の出現を特徴とする不安症である。高所恐怖症や動物恐怖症が最も一般的であるが、複数の恐怖刺激を持つことが多い。また、10~30%の例では数年~数十年症状が続き、他の不安症、うつ病、物質関連障害などの発症のきっかけとなりうるため、曝露療法などの早期の対処が望まれる。}} | ||
<ref name=Eaton2018><pubmed>30060873</pubmed></ref> | == 歴史的推移 == | ||
限局性恐怖症(ICD-10では「特異的(個別的)恐怖症」という訳語)は、特定の状況や対象(恐怖刺激)に限定された、著しい恐怖または不安の出現を特徴とする不安症である<ref name=Eaton2018><pubmed>30060873</pubmed></ref>。 | |||
古代ギリシャで編纂されたヒポクラテス全集(Hippocratic Corpus)には、医師が診療した2名の男性患者が紹介されており、これが文献上の最初の症例である。一人目はニカノールという名の男で、昼でなく、夜の宴会で笛(アウロスという名の二本管の木製の縦笛)を吹く少女(flute girls:当時のアウロス奏者は奴隷階級でしばしば売春業を兼ねていた)に対する恐怖症であった。二人目はダモクレスという男で、高所と橋に対する恐怖症であった<ref name=King2013>'''King, H. (2013).'''<br>Fear of flute girls, fear of falling. In Mental Disorders in the Classical World (pp. 265-282). Brill. [https://doi.org/10.1163/9789004249875_014 [PDF]]</ref>2。このような「病的な恐怖(morbid fear)」は後にphobiaと名付けられるが、その語源は、ポボス(Phobos, フォボス)というギリシャ神話の恐怖の神である<ref name=Kleinknecht1991>'''Kleinknecht, R. A. (1991).'''<br>Simple and Social Phobia. In R. A. Kleinknecht (Ed.), Mastering Anxiety: The Nature and Treatment of Anxious Conditions (pp. 87-112). Springer US. [https://doi.org/10.1007/978-1-4899-7319-1_4|PDF]</ref>3。前述のヒポクラテス全集の2症例からおよそ500年後の古代ローマのAulus Cornelius Celsusが、狂犬病のウイルス感染による恐水症状に対してhydrophobiaと名付けたのが最初のphobiaの使用である。 | 古代ギリシャで編纂されたヒポクラテス全集(Hippocratic Corpus)には、医師が診療した2名の男性患者が紹介されており、これが文献上の最初の症例である。一人目はニカノールという名の男で、昼でなく、夜の宴会で笛(アウロスという名の二本管の木製の縦笛)を吹く少女(flute girls:当時のアウロス奏者は奴隷階級でしばしば売春業を兼ねていた)に対する恐怖症であった。二人目はダモクレスという男で、高所と橋に対する恐怖症であった<ref name=King2013>'''King, H. (2013).'''<br>Fear of flute girls, fear of falling. In Mental Disorders in the Classical World (pp. 265-282). Brill. [https://doi.org/10.1163/9789004249875_014 [PDF]]</ref>2。このような「病的な恐怖(morbid fear)」は後にphobiaと名付けられるが、その語源は、ポボス(Phobos, フォボス)というギリシャ神話の恐怖の神である<ref name=Kleinknecht1991>'''Kleinknecht, R. A. (1991).'''<br>Simple and Social Phobia. In R. A. Kleinknecht (Ed.), Mastering Anxiety: The Nature and Treatment of Anxious Conditions (pp. 87-112). Springer US. [https://doi.org/10.1007/978-1-4899-7319-1_4|PDF]</ref>3。前述のヒポクラテス全集の2症例からおよそ500年後の古代ローマのAulus Cornelius Celsusが、狂犬病のウイルス感染による恐水症状に対してhydrophobiaと名付けたのが最初のphobiaの使用である。 | ||
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== 治療 == | == 治療 == | ||
限局性恐怖症では、恐怖の対象や状況を回避することで苦痛を緩和できるため治療を受ける患者の割合は少ないが、回避できない場合等に治療が求められる。心理療法(精神療法)としては認知行動療法が用いられる。中でも、曝露療法、または脱感作が、古くから用いられている。曝露療法は、患者が自らの意思で段階的に恐怖刺激に直面し、その間の不安感の減少を自覚し、恐怖刺激への接触を自信が持てる成功体験として学習することを反復練習し、恐怖刺激への馴化(慣れ)を生じさせていくものである。ごくまれに、恐怖刺激への曝露を、1回のセッションで長時間集中的に実施する方法も用いられる<ref name=Ost1989><pubmed>2914000</pubmed></ref><ref name=Öst1987>Öst, L.-G. (1987). One-session Treatments for a Case of Multiple Simple Phobias. Scandinavian Journal of Behaviour Therapy, 16(4), 175-184. [https://doi.org/10.1080/16506078709455800|[PDF]]</ref>17,18。またバーチャルリアリティ(仮想現実)技術を利用した曝露療法も行われている<ref name=Rothbaum1995><pubmed>7694917</pubmed></ref>19が、その長期的な有効性の評価はあまり行われていない。 | 限局性恐怖症では、恐怖の対象や状況を回避することで苦痛を緩和できるため治療を受ける患者の割合は少ないが、回避できない場合等に治療が求められる。心理療法(精神療法)としては認知行動療法が用いられる。中でも、曝露療法、または脱感作が、古くから用いられている。曝露療法は、患者が自らの意思で段階的に恐怖刺激に直面し、その間の不安感の減少を自覚し、恐怖刺激への接触を自信が持てる成功体験として学習することを反復練習し、恐怖刺激への馴化(慣れ)を生じさせていくものである。ごくまれに、恐怖刺激への曝露を、1回のセッションで長時間集中的に実施する方法も用いられる<ref name=Ost1989><pubmed>2914000</pubmed></ref><ref name=Öst1987>'''Öst, L.-G. (1987).'''<br>One-session Treatments for a Case of Multiple Simple Phobias. Scandinavian Journal of Behaviour Therapy, 16(4), 175-184. [https://doi.org/10.1080/16506078709455800|[PDF]]</ref>17,18。またバーチャルリアリティ(仮想現実)技術を利用した曝露療法も行われている<ref name=Rothbaum1995><pubmed>7694917</pubmed></ref>19が、その長期的な有効性の評価はあまり行われていない。 | ||
薬物療法は、通常推奨されることはない。が、医師の判断によっては、強い不安に対して、短期間に限って選択的セロトニン受容体再取り込み阻害薬(SSRI)やベンゾジアゼピン系抗不安薬が処方されることがある<ref name=松永寿人2016>'''松永寿人. (2016).'''<br>特定の恐怖症(限局性恐怖症). In 今日の精神疾患治療指針 第2版(電子版). 医学書院.</ref>16。 | 薬物療法は、通常推奨されることはない。が、医師の判断によっては、強い不安に対して、短期間に限って選択的セロトニン受容体再取り込み阻害薬(SSRI)やベンゾジアゼピン系抗不安薬が処方されることがある<ref name=松永寿人2016>'''松永寿人. (2016).'''<br>特定の恐怖症(限局性恐怖症). In 今日の精神疾患治療指針 第2版(電子版). 医学書院.</ref>16。 | ||
== 曝露療法の増強薬の研究 == | == 曝露療法の増強薬の研究 == | ||
あくまでも研究のごく初期段階ではあるが、曝露療法の治療効果を増強する薬物の投与が検討されている。抗生物質である<small>D</small>-サイクロセリンは、NMDA(N-メチル-<small>D</small>-アスパラギン酸)型グルタミン酸受容体作動薬として作用し、恐怖記憶の消去を促進すると考えられ、高所恐怖症の患者にバーチャルリアリティ曝露療法を行う前に<small>D</small>-サイクロセリンを投与することで、プラセボと比較して効果が改善することが報告された<ref name=Ressler2004><pubmed>15520361</pubmed></ref>20。また、コルチゾールの経口投与も曝露療法の有効性を高めることが報告された<ref name=deQuervain2011><pubmed>21444799</pubmed></ref><ref name=Soravia2014><pubmed>24265104</pubmed></ref>21,22。以上の曝露療法の効果増強薬の検討は、研究の初期レベルであり、一致しない結果の報告もあり、十分なエビデンスがあるとは言えないことに留意されたい。 | |||
== 疫学 == | == 疫学 == | ||
生涯有病率は3~15%(中央値は7.2%)であり、国によって大きく異なるが1、米国での有病率の割合は、アジア人やラテン系アメリカ人では、非ラテン系白人、アフリカ系アメリカ人、アメリカ先住民より低い<ref name=日本精神神経学会2014>'''日本精神神経学会. (2014).'''<br>DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル (高橋三郎, 大野裕, 染矢俊幸, 神庭重信, 尾崎紀夫, 三村將, & 村井俊哉, Trans.). 医学書院. </ref>23。日本における生涯有病率は3.4%、12ヵ月有病率は2.3%であり、遷延性の高さを反映している<ref name=Ishikawa2016><pubmed>26148821</pubmed></ref>24。生涯有病率の性差では、女性では男性よりも生涯有病率が高い。その理由に明白な証拠はないものの、女性には育児を行う年代にも初発のピークがみられることから<ref name=Eaton2018 /><ref name=Eaton2012>'''Eaton, W. W., Alexandre, P., Kessler, R. C., Martins, S. S., Mortensen, P. B., Rebok, G. W., Storr, C. L., & Roth, K. (2012).'''<br>The Population Dynamics of Mental Disorders. In Public Mental Health (pp. 125-150). Oxford University Press.[https://doi.org/10.1093/acprof:oso/9780195390445.003.0006 [PDF]]</ref>1,25、危険を忌避する行動が生存に適していた可能性がある。生涯有病率の国別比較では、低所得の国では、高所得の国よりも低い傾向があった(それぞれ5.7%と8.1%)<ref name=World1993>'''World Health Organization (1993).'''<br>The ICD-10 classification of mental and behavioural disorders-diagnostic criteria for research.</ref>26。対象となる恐怖は、動物、高所、閉所、飛行、水、血液、嵐の順に多かった<ref name=Eaton2018 /><ref name=Stinson2007><pubmed>17335637</pubmed></ref>1,27。 | 生涯有病率は3~15%(中央値は7.2%)であり、国によって大きく異なるが1、米国での有病率の割合は、アジア人やラテン系アメリカ人では、非ラテン系白人、アフリカ系アメリカ人、アメリカ先住民より低い<ref name=日本精神神経学会2014>'''日本精神神経学会. (2014).'''<br>DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル (高橋三郎, 大野裕, 染矢俊幸, 神庭重信, 尾崎紀夫, 三村將, & 村井俊哉, Trans.). 医学書院. </ref>23。日本における生涯有病率は3.4%、12ヵ月有病率は2.3%であり、遷延性の高さを反映している<ref name=Ishikawa2016><pubmed>26148821</pubmed></ref>24。生涯有病率の性差では、女性では男性よりも生涯有病率が高い。その理由に明白な証拠はないものの、女性には育児を行う年代にも初発のピークがみられることから<ref name=Eaton2018 /><ref name=Eaton2012>'''Eaton, W. W., Alexandre, P., Kessler, R. C., Martins, S. S., Mortensen, P. B., Rebok, G. W., Storr, C. L., & Roth, K. (2012).'''<br>The Population Dynamics of Mental Disorders. In Public Mental Health (pp. 125-150). Oxford University Press.[https://doi.org/10.1093/acprof:oso/9780195390445.003.0006 [PDF]]</ref>1,25、危険を忌避する行動が生存に適していた可能性がある。生涯有病率の国別比較では、低所得の国では、高所得の国よりも低い傾向があった(それぞれ5.7%と8.1%)<ref name=World1993>'''World Health Organization (1993).'''<br>The ICD-10 classification of mental and behavioural disorders-diagnostic criteria for research.</ref>26。対象となる恐怖は、動物、高所、閉所、飛行、水、血液、嵐の順に多かった<ref name=Eaton2018 /><ref name=Stinson2007><pubmed>17335637</pubmed></ref>1,27。 | ||
多くの患者は恐怖症の発症について特定の理由を思い出すことができない。発症年齢は二峰性を示すが、通常小児期早期に始まり、大多数は10歳前に発症する(中央値は7~11歳の間)。ほとんどが青年期までに発症するが、いずれの年齢においても発症する可能性がある<ref name=日本精神神経学会2014 />23。女性においては、中年期と老年期にもピークを示す<ref name=Eaton2018 /><ref name=Eaton2012 />1,25。心的外傷的経験の結果として発症する場合(例えば窒息)は、どんな年齢でもその経験に近い出来事の後にほとんど常に生じる<ref name=日本精神神経学会2014></ref>23。航空機、閉所等の状況性の限局性恐怖症は、嵐、水等の自然環境、動物、血液・注射・負傷を恐怖刺激とする限局性恐怖症より、発症年齢が遅い傾向にある。成人期まで持続した恐怖症では、大多数の人で寛解しない傾向がある。 | |||
危険因子としては、女性、離婚または死別、18歳未満の早婚、教育歴の低さなどが考えられている<ref name=Eaton2018></ref><ref name=Stinson2007><pubmed>17335637</pubmed></ref><ref name=Breslau2011><pubmed>21534936</pubmed></ref>1,27,28。また、否定的感情、行動抑制といった気質要因、親の過保護、親の喪失、身体的または性的虐待、恐怖の対象や状況との否定的または心的外傷的な経験といった環境要因がある<ref name=日本精神神経学会2014></ref>23。双子研究のメタ解析では、約30%(動物32%、状況25%、血液・注射・負傷33%)の平均遺伝率を持つことから、遺伝的要因が存在する可能性がある<ref name=VanHoutem2013><pubmed>23774007</pubmed></ref>29。 | 危険因子としては、女性、離婚または死別、18歳未満の早婚、教育歴の低さなどが考えられている<ref name=Eaton2018></ref><ref name=Stinson2007><pubmed>17335637</pubmed></ref><ref name=Breslau2011><pubmed>21534936</pubmed></ref>1,27,28。また、否定的感情、行動抑制といった気質要因、親の過保護、親の喪失、身体的または性的虐待、恐怖の対象や状況との否定的または心的外傷的な経験といった環境要因がある<ref name=日本精神神経学会2014></ref>23。双子研究のメタ解析では、約30%(動物32%、状況25%、血液・注射・負傷33%)の平均遺伝率を持つことから、遺伝的要因が存在する可能性がある<ref name=VanHoutem2013><pubmed>23774007</pubmed></ref>29。 |