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==病識とは== | ==病識とは== | ||
1882年に[[w:Arnold Pick|Pick]]がinsightについて「精神状態やその一部の病的な状態について患者がある程度明確に認識していること」と述べている。さらに1914年に[[wj:ジョゼフ・ババンスキー|Babinsky]]による[[半身まひ]]の患者の[[病態失認]](anosognosia)の報告があった。その後1934年に[[w:Aubrey Lewis|Lewis]]<ref name=Lewis1934>'''Lewis, A. (1934).'''<br>The psychopathology of insight.<br>''Br J Medical Psychology''.14:333-348 [https://doi.org/10.1111/j.2044-8341.1934.tb01129.x PDF]</ref>1)が精神疾患で見られる病識欠如について記載し、「病識は自身の中におこる病気に伴う変化に正しく対応し、疾患は精神面で起こっていることを現実認識するもの」と定義し、病識概念が明確になった。 | |||
病識の評価方法は、1970年代までは患者の自由な陳述を臨床的に記載する方法で、「あり」「なし」に2分されていた。その後、Mental Status Exam | 病識の評価方法は、1970年代までは患者の自由な陳述を臨床的に記載する方法で、「あり」「なし」に2分されていた。その後、Mental Status Exam が1980年代に開発され、一定の設問への応答を臨床的に記載した。1990年代になると操作的に定量する尺度である、[[The Schedule for the Assessment of insight-Expanded]] ([[SAI-E]]) <ref name=David1992><pubmed>1422606</pubmed></ref><ref name=酒井佳永2000>'''酒井佳永、金吉晴、秋山剛他 (2000)<br>''':病識評価尺度 (The Schedule for Assessment of Insight)日本語版 (SAI-J)の信頼性と妥当性の検討. ''臨床精神医学'' 29:177-183</ref>2,3), [[The Scale of Assessment of Unawareness of Mental Disorder]] ([[SUMD]])<ref name=Amador1993><pubmed>8494061</pubmed></ref>4)が開発され、実証的研究が広がった。SAI-Eを開発したDavidらは、①何らかの変化があり[[精神疾患]]に基づくと考える、②治療に従う、③精神病症状を認識できる、の3要素がそれぞれ相対的に独立していることを実証した。この3要素は主に専門家の視点で治療の面から評価されるものであり、clinical insight(臨床面での病識)と呼称されるようになっている。 | ||
1990年代より、患者の主観的体験 (subjective experience) | 1990年代より、患者の主観的体験 (subjective experience)に関心がもたれるようになり、自記式の評価尺度が複数開発されている。Beckらによる[[The Beck Cognitive Insight Scale]] ([[BCIS]]) <ref name=Beck2004><pubmed> 15099613</pubmed></ref>5)は、誤認識の気づきとその修正可能性などの[[メタ認知]]機能を測定する尺度である。メタ認知機能は、それより低位の認知機能についてモニターやコントロールを行う機能と想定され(メタ認知の言葉は多義的であり、学問の領域によって異なる定義がされていることに留意する必要がある)、精神疾患の影響を受ける。Beckらの尺度では、自己認識とその確信度を測定して、その総合点をcognitive insight(自己認識の面での病識)と呼び、clinical insightと区別した。 | ||
病識についての研究は、[[統合失調症]]をはじめ精神病症状を持つ障害について主に行われてきたが、2000年代に入り、[[双極性障害]]、[[神経性食思不振症]]、[[認知症]]などの様々な精神疾患で研究が行われるようになり、疾患により機序は異なるものの、結果としてclinical insightがそこなわれることが明瞭になった。 | |||
Konsztowiczら<ref name=Konsztowicz2018><pubmed>29530378</pubmed></ref>6)は、165名の統合失調症を対象に、SUMDとSAI- | Konsztowiczら<ref name=Konsztowicz2018><pubmed>29530378</pubmed></ref>6)は、165名の統合失調症を対象に、SUMDとSAI-Eを用いた準構造面接を行い、[[The Birchwood Insight Scale]] ([[BIS]]) <ref name=Birchwood1997><pubmed>9403906</pubmed></ref>7)とBCISを実施し、探索的因子分析を行ったところ、5因子が抽出された。固有値が大きなものから並べると、「疾病の認識と治療」「症状とその影響」「自己確信度」「客観性と誤謬傾向の認識」「誤謬傾向の気づきと修正可能性」となった。客観的な評価である clinical insight(疾病の認識と治療、病状とその影響)と、自己認識の他覚的評価であるcognitive insightがそれぞれ独立に抽出され、そのうちの4,5番目の因子はメタ認知の機能を反映していると考えられる。 | ||
メタ認知は受信した情報を集約し、内的な世界と統合する機能と考えられているが、メタ認知の機能が高いほど、clinical | メタ認知は受信した情報を集約し、内的な世界と統合する機能と考えられているが、メタ認知の機能が高いほど、clinical insightやcognitive insightが良好であり、症状の重症度とは独立していることが報告されている<ref name=Lysaker2011><pubmed>20696482</pubmed></ref>8)。Vohs<ref name=Vohs2015><pubmed>25900550</pubmed></ref>9)もメタ認知とclinical insight との相関は明確であるとしている。 | ||
== 病識に影響を与える諸要因 == | == 病識に影響を与える諸要因 == | ||
=== 防衛機制 === | === 防衛機制 === | ||
歴史的に見れば、英語圏では病識は力動精神医学の視点から[[防衛機制]]と考えられてきた時代がある。[[精神病後抑うつ]]もその視点から解釈された。防衛機制の考え方は、病識欠如の一部を説明しており、実際のケースに治療的関わりを行っていく上で、現在でも有用であろう。 | |||
=== 神経認知機能 === | === 神経認知機能 === | ||
主に左半身麻痺の人において、「[[麻痺]]があたかもないように振るまったり、麻痺の存在に関心を示さない」現象が観察されており、ある障害については自覚しているが、ある障害については気づかないといった選択性があることも知られている。1990年代には、[[神経認知機能]]が統合失調症の人の社会機能に大きな影響を与えるとして注目され、病識の客観的な尺度の開発と相まって、複数の実証的研究が報告された。しかし近年のメタ解析では、病識と神経認知機能の関連は小さいと報告されている<ref name=Nair2014><pubmed>24355529</pubmed></ref>10)。Cognitive insight についても同様である。そして、単一の神経認知機能では病識をうまく説明できないとして、2010年代には[[社会認知]]やメタ認知との関連性を検討する研究が増えてきた。Pijnenborgら<ref name=Pijnenborg2020><pubmed>32569706</pubmed></ref>11)は、21研究を[[メタ解析]]して、clinical insightは脳の特定の部位との関連は見出されず、全脳の[[灰白質]]及び[[白質[[の縮小と、前頭部の灰白質の減少と関連していたとしている。そもそも clinical insight は多様な脳機能を基盤にしていると思われる。一方cognitive insight は[[海馬]]及び[[背外側前頭前野]]の構造や機能との関連が見いだされ、自己に関連した情報を保持したり統合する機能と関連していると考えられる。 | |||
=== 精神障害についてのスティグマ === | === 精神障害についてのスティグマ === | ||
病識と[[スティグマ]]の関連については複数の報告があり<ref name=Vidovic2016><pubmed>27333714</pubmed></ref>12)、clinical insight は文化圏によって異なってくるという報告がある<ref name=Berg2018><pubmed>26663787</pubmed></ref>13)。文化圏での受け止め方は直接に影響を与えるだけでなく、家族、友人など身近な人たちの精神疾患への態度となって、大きな影響を与える | |||
=== 誤った認知の影響 === | === 誤った認知の影響 === | ||
[[認知療法]]を統合失調症に適用する過程で整理されてきた考え方であり、[[幻覚]]や[[妄想]]への誤った認知がその後の不快な感情や問題行動をもたらすと考える<ref name=Pogodina1975><pubmed>2002</pubmed></ref>14)。そして誤った認知に基づく病識も false beliefs(誤信念)となる。Birchwood<ref name=Birchwood2000><pubmed>10824654</pubmed></ref>15)は、幻覚によって生じる行動や感情は、患者が幻覚に対して抱いている信念 - 特に幻覚の力や権威に対してのもの - によっており、個人の自己価値や対人関係についてのスキーマに影響を受けることを報告した。 | |||
=== 精神障害についての体験学習(治療体験) === | === 精神障害についての体験学習(治療体験) === | ||
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=== 精神症状 === | === 精神症状 === | ||
幻覚や[[妄想]]、[[解体症状]]、[[陰性症状]]などは病識との関連は弱い<ref name=Pousa2017><pubmed>28237605</pubmed></ref>16)。しかし抑うつ症状はその中では関連性がみられ、"insight paradox"(病識における逆説)と呼ばれている<ref name=BelvederiMurri2015><pubmed>25631453</pubmed></ref>17)。ただし精神症状と病識との関連についての研究の結果は必ずしも一貫しておらず、病識は精神症状とは相対的に独立した事象と考えるべきかもしれない。 | |||
=== メタ認知機能 === | === メタ認知機能 === | ||
Amadorら<ref name=Amador1991><pubmed>2047782</pubmed></ref>18) | Amadorら<ref name=Amador1991><pubmed>2047782</pubmed></ref>18)は、障害認識はある特定の[[高次連合野]]の障害というよりは、[[言語]]、[[知覚]]、[[記憶]]などの機能の各単位と、[[作動記憶]]のような中心的な[[意識野]]との連合が不十分ではないかと推論している。メタ認知(自身や他者の行っていることや考えを統合的に表象する能力)が病識の形成に影響しているとの研究報告が近年増えている<ref name=Gaweda2015><pubmed>25775947</pubmed></ref>34)。 | ||
=== 多要因モデル === | === 多要因モデル === | ||
病識の複数の構成要素には、それぞれ様々な要因が影響している。Vohsら<ref name=Vohs2018><pubmed>29108671</pubmed></ref><ref name=Vohs2016><pubmed>27278672</pubmed></ref>20) | 病識の複数の構成要素には、それぞれ様々な要因が影響している。Vohsら<ref name=Vohs2018><pubmed>29108671</pubmed></ref><ref name=Vohs2016><pubmed>27278672</pubmed></ref>20)は、精神症状、神経認知、社会認知、メタ認知、スティグマがそれぞれ病識の低下に関連していると述べている。脳機能の変化によって外界の認識が変性し、奇妙な体験と感じたり、他者の内界を共感することができなくなったりすることが起こり、自己と世界との統合的な理解が障害されることが中軸にあり、心理社会的要因がそれを修飾しているのではないかと考えられる。病識欠如と脳構造を調査した研究では、さまざまな部位の体積低下(前頭部、側頭部、頭頂部、後頭部、[[視床]]、[[基底核]]、[[小脳]]など)との関連が報告されている<ref name=Lysaker2013><pubmed>23898850</pubmed></ref>21)。特に初発の統合失調症においては、[[前頭前野]]、[[側頭葉]]内側部、[[前頭前野眼窩部]]の灰白質の減少と病識欠如との関連性が報告されている<ref name=Shenton2010><pubmed>20954428</pubmed></ref>22)。 | ||
== 病識への治療的介入とその効果 == | == 病識への治療的介入とその効果 == | ||
=== 薬物療法 === | === 薬物療法 === | ||
初発統合失調症への薬物療法の大規模な効果試験 The European First Episode Schizophrenia Trial (EUFEST)<ref name=Pijnenborg2015><pubmed>25907250</pubmed></ref>23) | 初発統合失調症への薬物療法の大規模な効果試験 The European First Episode Schizophrenia Trial (EUFEST)<ref name=Pijnenborg2015><pubmed>25907250</pubmed></ref>23)の二次解析で、455名の病識の改善度を[[陽性・陰性症状評価尺度]] ([[Positive and Negative Syndrome Scale]], [[PANSS]])のG12項目(現実検討と病識の評価項目)で検討したところ、急性症状の改善と並行して、特に治療開始3か月で明らかな改善が見られた。しかしPhahladira ら<ref name=Phahladira2019><pubmed>30385130</pubmed></ref>24)は、105名の初発の統合失調症圏(妄想性障害や統合失調感情障害を含む)の人を回復過程に沿って評価したところ、PANSS・G12項目は精神症状の回復とともに有意に改善したが、患者の評価したthe Birchwood Insight Scale(BIS)は、治療の必要性についての下位尺度のみが改善し、精神疾患についての気づきや、症状の原因帰属は有意な改善が見られなかった。Clinical antipsychotic trials of intervention effectiveness (CATIE)試験<ref name=Ozzoude2019><pubmed>30172739</pubmed></ref>25)の中で、373名の統合失調症について、PANSS・G12の改善は、血中濃度から推定したドーパミンD2受容体の占拠率からは予測することができなかった。 | ||
=== 個人精神療法 === | === 個人精神療法 === |