「神経符号化」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
(関連項目に係る修正)
10行目: 10行目:


==神経符号化とその研究方法==
==神経符号化とその研究方法==
 神経符号化は外界の刺激が神経活動に変換・表現され、行動を担う神経活動が生成される過程を指す。刺激の認識や行動生成を担う神経活動とそのメカニズムを同定することで、この過程を明らかにする研究を神経符号化研究という。具体的には、神経系のどの部位のどのタイプの神経細胞のどのような活動が、動物の認識・行動を説明するのに必要かつ十分であるかを明らかにすることで、外界の刺激が神経活動に変換され行動に至る過程を解明することを目指す研究領域である。Johns Hopkins大学のVernon Mountcastleは振動の感覚に関わる受容器を特定する次のような手法で、神経符号化研究の古典的な方法論を確立した<ref name=Mountcastle1972><pubmed>4621505</pubmed></ref><ref name=カンデル2014>'''日本語版監修 金澤一郎・宮下保司 (2014).'''<br>カンデル神経科学第5版 第21章感覚の符号化・第23章触覚 メディカル・サイエンス・インターナショナル社</ref> [Mountcastle 1972; カンデル神経科学2014]。
 神経符号化は外界の刺激が神経活動に変換・表現され、行動を担う神経活動が生成される過程を指す。刺激の認識や行動生成を担う神経活動とそのメカニズムを同定することで、この過程を明らかにする研究を神経符号化研究という。具体的には、神経系のどの部位のどのタイプの[[神経細胞]]のどのような活動が、動物の[[認識]]・[[行動]]を説明するのに必要かつ十分であるかを明らかにすることで、外界の刺激が神経活動に変換され行動に至る過程を解明することを目指す研究領域である。[[wj:ジョンズ・ホプキンズ大学|Johns Hopkins大学]]の[[w:Vernon Benjamin Mountcastle|Vernon Mountcastle]]は[[振動感覚|振動の感覚]]に関わる[[受容器]]を特定する次のような手法で、神経符号化研究の古典的な方法論を確立した<ref name=Mountcastle1972><pubmed>4621505</pubmed></ref><ref name=カンデル2014>'''日本語版監修 金澤一郎・宮下保司 (2014).'''<br>カンデル神経科学第5版 第21章感覚の符号化・第23章触覚 メディカル・サイエンス・インターナショナル社</ref> [Mountcastle 1972; カンデル神経科学2014]。


 人間の手には圧力・振動・温度などの物理刺激に反応する12種類の受容器がある。特に指先には触覚に関わる4種類の機械受容器がある。表皮にあるマイスネル小体・メルケル受容器 、深皮にあるラフィニ終末・パチニ小体がそれである。これらの受容器は末梢神経細胞の軸索の終末にあり、そのもう一端は脊髄に投射する。脊髄の神経細胞から先は視床を介して体性感覚野に投射があり、我々の触知覚を担っている。4つの受容器は外界からの力の異なる特徴に対して反応し、順応特性が異なる。受容器が特定されているため、触覚に基づく我々の外界の認識がどの機械受容器を介した神経細胞の活動によって担われているかを問うことができる。
 人間の手には圧力・振動・温度などの物理刺激に反応する12種類の受容器がある。特に指先には触覚に関わる4種類の[[機械受容器]]がある。表皮にある[[マイスナー小体|マイスネル小体]]・[[メルケル受容器]] 、深皮にある[[ラフィニ終末]]・[[パチニ小体]]がそれである。これらの受容器は[[末梢神経細胞]]の[[軸索]]の終末にあり、そのもう一端は[[脊髄]]に投射する。脊髄の神経細胞から先は[[視床]]を介して[[体性感覚野]]に投射があり、我々の[[触知覚]]を担っている。4つの受容器は外界からの力の異なる特徴に対して反応し、順応特性が異なる。受容器が特定されているため、触覚に基づく我々の外界の認識がどの機械受容器を介した神経細胞の活動によって担われているかを問うことができる。


 被験者(ヒトもしくはサル)に振動する物体を握らせ、振動の有無を報告させる。振動の振幅を変化させ、報告が可能な最小の振幅(閾値)を特定する。この作業を異なる振動数のもとで行うと、閾値は刺激の周波数に依存していることがわかる。次に同じ実験条件下で、機械受容器から投射する求心性繊維から電気記録を行うことで、振動に対する機械受容器の応答を記録し、神経活動が生じる振幅の閾値を調べる。すると、メルケル細胞の閾値は被験者の閾値よりもずっと高い位置にあり、被験者が振動を認識している状況でも活動をしていない状況があることがわかる。これにより、メルケル細胞の活動は振動の感覚を担う神経符号としては棄却される。一方、マイスネル小体・パチニ小体の閾値の周波数特性はそれぞれ低周波数(20-40Hz以下)・高周波数 (40-500Hz)での被験者のそれとほぼ一致することが示された。他の求心性繊維の活動は被験者の報告の結果を説明できないため、マイスネル小体・パチニ小体の活動が振動の感覚を担う神経符号であることが示された。
 被験者(ヒトもしくはサル)に振動する物体を握らせ、振動の有無を報告させる。振動の振幅を変化させ、報告が可能な最小の振幅(閾値)を特定する。この作業を異なる振動数のもとで行うと、閾値は刺激の周波数に依存していることがわかる。次に同じ実験条件下で、機械受容器から投射する[[求心性線維]]から電気記録を行うことで、振動に対する機械受容器の応答を記録し、神経活動が生じる振幅の[[閾値]]を調べる。すると、メルケル細胞の閾値は被験者の閾値よりもずっと高い位置にあり、被験者が振動を認識している状況でも活動をしていない状況があることがわかる。これにより、メルケル細胞の活動は振動の感覚を担う神経符号としては棄却される。一方、マイスネル小体・パチニ小体の閾値の周波数特性はそれぞれ低周波数(20-40Hz以下)・高周波数 (40-500Hz)での被験者のそれとほぼ一致することが示された。他の求心性線維の活動は被験者の報告の結果を説明できないため、マイスネル小体・パチニ小体の活動が振動の感覚を担う神経符号であることが示された。


[[ファイル:Shimazaki Neural Coding Fig1.png|サムネイル|'''図1. 神経符号化研究の概略図'''<br>Johns Hopkins大学Kenneth O. Johnson氏による講義ノートより筆者が改変。]]
[[ファイル:Shimazaki Neural Coding Fig1.png|サムネイル|'''図1. 神経符号化研究の概略図'''<br>Johns Hopkins大学Kenneth O. Johnson氏による講義ノートより筆者が改変。]]


 このように神経符号化研究では、観測者である動物に行動課題を課してそのパフォーマンスを計測する心理物理実験を行う。一方で同じ条件下で神経生理実験により神経活動を計測し、その活動から行動を予測する。そして両者の比較を行い動物の認識・行動を説明できる神経細胞・神経活動の候補を絞り込んでゆく。通常、前者は心理測定関数(psychometric function)、後者は神経測定関数(neurometric function)という形で記述される。図1に神経符号化研究の概略図を記した。ある神経細胞の特定の活動が動物の行動に必要な情報を担っている(神経符号の候補である)ためには、その神経活動の情報を用いて予測される最適な行動の成績が動物のそれを上回っていなければならない。そうでなければ、その神経細胞の活動は神経符号としては棄却される。なぜならば、行動に用いられた情報が神経活動として存在しているはずであり、その情報は計測した神経細胞もしくは行動予測に使用した活動特徴以外に存在しているはずだからである。
 このように神経符号化研究では、観測者である動物に行動課題を課してそのパフォーマンスを計測する心理物理実験を行う。一方で同じ条件下で神経生理実験により神経活動を計測し、その活動から行動を予測する。そして両者の比較を行い動物の認識・行動を説明できる神経細胞・神経活動の候補を絞り込んでゆく。通常、前者は[[心理測定関数]](psychometric function)、後者は[[神経測定関数]](neurometric function)という形で記述される。'''図1'''に神経符号化研究の概略図を記した。ある神経細胞の特定の活動が動物の行動に必要な情報を担っている(神経符号の候補である)ためには、その神経活動の情報を用いて予測される最適な行動の成績が動物のそれを上回っていなければならない。そうでなければ、その神経細胞の活動は神経符号としては棄却される。なぜならば、行動に用いられた情報が神経活動として存在しているはずであり、その情報は計測した神経細胞もしくは行動予測に使用した活動特徴以外に存在しているはずだからである。


 ここで注意すべきは、神経活動から予測される最適な行動に基づく心理実験課題の成績は実際に動物が行動によって報告した結果に基づく成績と同じである必要はなく、それを上回っていても良いことである。末梢神経等の初期段階で利用可能な情報が意思決定に余すとこなく使用されるとは限らないからである。しかしながら驚くべきことに、いくつかの事例において行動の成績が感覚受容器のパフォーマンスに接近していることが示されている。例えば人間は少なくとも数個の光子があればその報告が可能であると推定されており<ref name=Hecht1942><pubmed>19873316</pubmed></ref><ref name=Barlow1956><pubmed>13346424</pubmed></ref><ref name=Rieke1998>'''Rieke, F.  & Baylor, D. A. (1998)'''<br>Single-photon detection by rod cells of the retina. Reviews of Modern Physics. 70(3):1027</ref>[Hecht 1942; Barlow 1956; Rieke 1998]、これは網膜視細胞の検出限界に近いと考えられている。これらの結果は、中枢神経系が効率的に入力情報を使用して行動を生成していることを示唆している<ref name=Barlow1972><pubmed>4377168</pubmed></ref>[Barlow 1972]。一方、過去の知見に依存しない課題では、末梢神経のパフォーマンスを行動のパフォーマンスが上回ることはない。我々の認識精度の上限は感覚デバイスの精度に制限され、それを上回ることはないからである。
 ここで注意すべきは、神経活動から予測される最適な行動に基づく心理実験課題の成績は実際に動物が行動によって報告した結果に基づく成績と同じである必要はなく、それを上回っていても良いことである。末梢神経等の初期段階で利用可能な情報が意思決定に余すとこなく使用されるとは限らないからである。しかしながら驚くべきことに、いくつかの事例において行動の成績が感覚受容器のパフォーマンスに接近していることが示されている。例えば人間は少なくとも数個の光子があればその報告が可能であると推定されており<ref name=Hecht1942><pubmed>19873316</pubmed></ref><ref name=Barlow1956><pubmed>13346424</pubmed></ref><ref name=Rieke1998>'''Rieke, F.  & Baylor, D. A. (1998)'''<br>Single-photon detection by rod cells of the retina. Reviews of Modern Physics. 70(3):1027</ref>[Hecht 1942; Barlow 1956; Rieke 1998]、これは[[網膜]][[視細胞]]の検出限界に近いと考えられている。これらの結果は、[[中枢神経系]]が効率的に入力情報を使用して行動を生成していることを示唆している<ref name=Barlow1972><pubmed>4377168</pubmed></ref>[Barlow 1972]。一方、過去の知見に依存しない課題では、末梢神経のパフォーマンスを行動のパフォーマンスが上回ることはない。我々の認識精度の上限は感覚デバイスの精度に制限され、それを上回ることはないからである。


 もちろん、このような古典的な神経符号化研究の手法で行動を担う神経細胞を明快に特定できるのは、行動に必要な信号の通る経路が明らかだからである。これ以外の状況では、たとえ神経細胞から行動を予測できたとしても、行動がその部位の活動に依存すると断定することはできない。そのため損傷実験や電気刺激・光遺伝学による介入実験と組み合わせる事で、行動を担う神経活動を明らかにする事が試みられている。
 もちろん、このような古典的な神経符号化研究の手法で行動を担う神経細胞を明快に特定できるのは、行動に必要な信号の通る経路が明らかだからである。これ以外の状況では、たとえ神経細胞から行動を予測できたとしても、行動がその部位の活動に依存すると断定することはできない。そのため[[損傷実験]]や電気刺激・[[光遺伝学]]による介入実験と組み合わせる事で、行動を担う神経活動を明らかにする事が試みられている。


 Mountcastleらの神経符号化研究では神経活動から刺激の有無を推定する復号化の手法が用いられるが、刺激が神経活動へどのように変換されるかを表す符号化の方式を明らかにする事は神経符号化研究における主要な課題である。神経符号化は神経系における情報の変換と表現を指すともされ<ref name=Perkel1968>'''Perkel, D. H. & Bullock, T. H. (1968).'''<br>Neural coding. Neurosciences Research Program Bulletin</ref>[Perkel and Bullock 1968]、それぞれ符号化・復号化の手法を用いて情報神経細胞が担う情報を明らかにすることが試みられている。詳しくは次節の符号化・復号化の項目で述べる。近年では入力刺激から意思決定までをいわゆるend-to-endで実装した深層ニューラルネットワークが人間のパフォーマンスを上回ったことから、深層ニューラルネットワークの各層と脳の領野の活動を比較する新しいタイプの神経符号化研究も生まれている<ref name=Yamins2014><pubmed>24812127</pubmed></ref>[Yamins 2014]。
 Mountcastleらの神経符号化研究では神経活動から刺激の有無を推定する[[復号化]]の手法が用いられるが、刺激が神経活動へどのように変換されるかを表す符号化の方式を明らかにする事は神経符号化研究における主要な課題である。神経符号化は神経系における情報の変換と表現を指すともされ<ref name=Perkel1968>'''Perkel, D. H. & Bullock, T. H. (1968).'''<br>Neural coding. Neurosciences Research Program Bulletin</ref>[Perkel and Bullock 1968]、それぞれ符号化・復号化の手法を用いて情報神経細胞が担う情報を明らかにすることが試みられている。詳しくは次節の符号化・復号化の項目で述べる。近年では入力刺激から意思決定までをいわゆるend-to-endで実装した[[深層ニューラルネットワーク]]が人間のパフォーマンスを上回ったことから、深層ニューラルネットワークの各層と脳の領野の活動を比較する新しいタイプの神経符号化研究も生まれている<ref name=Yamins2014><pubmed>24812127</pubmed></ref>[Yamins 2014]。


==符号化と復号化==
==符号化と復号化==

案内メニュー