16,040
回編集
細編集の要約なし |
細編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
同義語:作業記憶、作動記憶 | 同義語:作業記憶、作動記憶 | ||
{{box|text= | {{box|text= ワーキングメモリーは、外界から入ってきた感覚情報などを、それが消えた後に数秒から数十秒の間、短期記憶として保持し、それを用いて他の認知機能を実行する為の、脳の機能である。短期記憶の意味で用いられる事が多いが、本来は純粋な短期記憶ではなく、それを用いて他の認知機能を実行したり、記憶内容に操作を加えたりする為の機能を指す。}} | ||
== ワーキングメモリーとは == | == ワーキングメモリーとは == | ||
28行目: | 28行目: | ||
ワーキングメモリーは動物にもあり、ヒトに近い脳の構造と機能を持つ[[[サル]]等を用いて盛んに研究されている。動物を用いた研究は、ヒトでは困難な特定部位の限定的な破壊あるいは不活性化実験による、脳部位と行動との間の因果性解明やニューロンレベルでの機能理解などにおいて大いに貢献しているが、特にワーキングメモリーへの強い関与が示唆される、前頭前皮質などの高次脳領域については、動物種間での脳部位同士の対応関係が必ずしも自明ではない<ref name=Neubert2014><pubmed>24485097</pubmed></ref> 点や、用いられる行動課題も異なる場合が多く、また同じワーキングメモリー課題を課しても、ヒトが[[言語化]]、あるいは意味記憶との連関を多用しながら課題を解くのが一般的であるのに対して、動物は必ずしもそうではない(あるいはどのようにして解いているのかが正確にはわからない)等、課題の解き方が異なる為、使われる脳部位も使い方も異なる可能性がある、という点などから、実験結果をヒトと比較する際には注意が必要である<ref name=Tremblay2023><pubmed>36536242</pubmed></ref> 。 | ワーキングメモリーは動物にもあり、ヒトに近い脳の構造と機能を持つ[[[サル]]等を用いて盛んに研究されている。動物を用いた研究は、ヒトでは困難な特定部位の限定的な破壊あるいは不活性化実験による、脳部位と行動との間の因果性解明やニューロンレベルでの機能理解などにおいて大いに貢献しているが、特にワーキングメモリーへの強い関与が示唆される、前頭前皮質などの高次脳領域については、動物種間での脳部位同士の対応関係が必ずしも自明ではない<ref name=Neubert2014><pubmed>24485097</pubmed></ref> 点や、用いられる行動課題も異なる場合が多く、また同じワーキングメモリー課題を課しても、ヒトが[[言語化]]、あるいは意味記憶との連関を多用しながら課題を解くのが一般的であるのに対して、動物は必ずしもそうではない(あるいはどのようにして解いているのかが正確にはわからない)等、課題の解き方が異なる為、使われる脳部位も使い方も異なる可能性がある、という点などから、実験結果をヒトと比較する際には注意が必要である<ref name=Tremblay2023><pubmed>36536242</pubmed></ref> 。 | ||
[[ファイル:Hirabayashi Working Memory Fig2.png|サムネイル|'''図2. マカクザルの背外側前頭前皮質から記録された、空間作業記憶に関わる単一神経細胞の持続的スパイク発火'''<br>文献<ref name=Funahashi1989><pubmed>8413653</pubmed></ref><ref name=Constantinidis2018 />より。]] | |||
== 神経機構 == | == 神経機構 == | ||
ワーキングメモリーの神経機構は、特にどのようにして情報を保持するかという短期記憶の観点について研究が進められてきた。一般的には、長い間、神経細胞の持続的な[[スパイク]]発火によって情報の保持が実現されている('''図2''')、と考えられてきた。この情報保持に関わる持続的発火自体はこれまでに非常に多くの報告があり<ref name=Constantinidis2018><pubmed>30089641</pubmed></ref> 、それがどのように実現されているかについても様々なモデルが提唱されてきた。最も基本的なモデルは、近隣の神経細胞同士が互いに興奮性の結合を持つ[[セルアセンブリ]]を形成し、スパイク発火を伝えあう事で、多少の摂動が加えられても一定の状態に戻る安定した「[[アトラクター]]」を形成し、これによって持続的な発火を実現している、というものである<ref name=Wang2001><pubmed>11476885</pubmed></ref> 。興奮性結合は近隣の神経細胞同士に限らず、異なる脳部位同士、あるいは3つ以上の脳部位間での結合に基づいたモデルも提唱されている<ref name=Mejias2022><pubmed>35200137</pubmed></ref> 。神経細胞が持続的発火を実現するには、一定の入力に対して長い時定数で発火する必要があり、大脳皮質においては、一般に低次の感覚皮質に比べて高次[[連合野]]の方がこの時定数が長い事から、これが低次感覚皮質よりも高次連合野の方がワーキングメモリーへの関与が強い理由であるという説が提唱されている<ref name=Leavitt2017><pubmed>28515011</pubmed></ref> 。 | ワーキングメモリーの神経機構は、特にどのようにして情報を保持するかという短期記憶の観点について研究が進められてきた。一般的には、長い間、神経細胞の持続的な[[スパイク]]発火によって情報の保持が実現されている('''図2''')、と考えられてきた。この情報保持に関わる持続的発火自体はこれまでに非常に多くの報告があり<ref name=Constantinidis2018><pubmed>30089641</pubmed></ref> 、それがどのように実現されているかについても様々なモデルが提唱されてきた。最も基本的なモデルは、近隣の神経細胞同士が互いに興奮性の結合を持つ[[セルアセンブリ]]を形成し、スパイク発火を伝えあう事で、多少の摂動が加えられても一定の状態に戻る安定した「[[アトラクター]]」を形成し、これによって持続的な発火を実現している、というものである<ref name=Wang2001><pubmed>11476885</pubmed></ref> 。興奮性結合は近隣の神経細胞同士に限らず、異なる脳部位同士、あるいは3つ以上の脳部位間での結合に基づいたモデルも提唱されている<ref name=Mejias2022><pubmed>35200137</pubmed></ref> 。神経細胞が持続的発火を実現するには、一定の入力に対して長い時定数で発火する必要があり、大脳皮質においては、一般に低次の感覚皮質に比べて高次[[連合野]]の方がこの時定数が長い事から、これが低次感覚皮質よりも高次連合野の方がワーキングメモリーへの関与が強い理由であるという説が提唱されている<ref name=Leavitt2017><pubmed>28515011</pubmed></ref> 。 | ||
34行目: | 34行目: | ||
また、長い時定数を実現する分子基盤として[[NMDA型グルタミン酸受容体]]の関与が示唆されており、実際にその阻害によってワーキングメモリー課題における持続的なスパイク発火、及びその刺激選択性が損なわれる事が示されている<ref name=vanVugt2020><pubmed>32051326</pubmed></ref><ref name=Wang2013><pubmed>23439125</pubmed></ref> 。 | また、長い時定数を実現する分子基盤として[[NMDA型グルタミン酸受容体]]の関与が示唆されており、実際にその阻害によってワーキングメモリー課題における持続的なスパイク発火、及びその刺激選択性が損なわれる事が示されている<ref name=vanVugt2020><pubmed>32051326</pubmed></ref><ref name=Wang2013><pubmed>23439125</pubmed></ref> 。 | ||
近年では、実は一つの神経細胞が持続的に発火するのではなく、一つの神経細胞の発火は短期間でありながら、複数の神経細胞が互いに異なるタイミングで発火する事で、神経細胞の集団として持続的な発火を実現しているというデータが[[齧歯類]]を中心に多く報告されている他、必ずしもスパイク発火を伴わず、シナプス強度の短期的な調節によって情報が保持されているとするモデル<ref name=Mongillo2008><pubmed>18339943</pubmed></ref> も提唱されている。このようなシナプス強度の短期的な調節は、低次の感覚皮質に比べて前頭前皮質においてより顕著に見られ、脳領域間でのワーキングメモリーへの関与の強さの相違と一致している他、スパイク発火による保持とも両立し得るが、技術的観点から実験的検証がやや難しい。あるいは、多くの神経細胞の、多くの試行におけるスパイク発火の平均が持続的に見えても、個々の神経細胞の個々の試行ごとに見ると実はスパイク発火はスパースである事が多く、実際の事象としては持続的なスパイク発火ではなく、一過性の[[γ帯域]]の[[振動性バースト]] | 近年では、実は一つの神経細胞が持続的に発火するのではなく、一つの神経細胞の発火は短期間でありながら、複数の神経細胞が互いに異なるタイミングで発火する事で、神経細胞の集団として持続的な発火を実現しているというデータが[[齧歯類]]を中心に多く報告されている他、必ずしもスパイク発火を伴わず、シナプス強度の短期的な調節によって情報が保持されているとするモデル<ref name=Mongillo2008><pubmed>18339943</pubmed></ref> も提唱されている。このようなシナプス強度の短期的な調節は、低次の感覚皮質に比べて前頭前皮質においてより顕著に見られ、脳領域間でのワーキングメモリーへの関与の強さの相違と一致している他、スパイク発火による保持とも両立し得るが、技術的観点から実験的検証がやや難しい。あるいは、多くの神経細胞の、多くの試行におけるスパイク発火の平均が持続的に見えても、個々の神経細胞の個々の試行ごとに見ると実はスパイク発火はスパースである事が多く、実際の事象としては持続的なスパイク発火ではなく、一過性の[[γ帯域]]の[[振動性バースト]]であるという結果も報告されている<ref name=Lundqvist2016><pubmed>26996084</pubmed></ref> 。この方式だと、理論的には持続的発火に比べて複数の物を同時にワーキングメモリーとして保持するのに有利である他、スパイク発火を節約でき、エネルギー代謝の観点からもメリットがある。ワーキングメモリーの保持が神経細胞の発火を伴うのか、伴わないのか、発火は持続的か否か、もし持続的なスパイク発火を伴うのであれば、それは個々の神経細胞によるのか、それとも細胞集団によるのか、あるいはこれらの組み合わせなのかについては、現在も議論が続いている。 | ||
== ワーキングメモリーと注意機能 == | == ワーキングメモリーと注意機能 == |