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脳はエストロゲンを合成する一方、末梢で合成されたエストロゲンが脳に供給され得る。このような生体におけるエストロゲン、およびエストロゲン合成の基質であるテストステロンの動態は、川戸らの研究グループによって研究されている<ref name=Hojo2009><pubmed>19589866</pubmed></ref>。オスラットの海馬におけるテストステロン濃度は17 nM、17β-エストラジオール濃度は8 nMであった。精巣摘出したラットの実験を行って比較したところ、海馬内のテストステロンの8割は血中から供給され,2割は海馬内で合成されることが明らかとなった。一方、メスでは海馬の17β-エストラジオール(1 nM)は血中17β-エストラジオール(0.1~0.01 nM)より10倍以上も濃度が高く、また、メスでは血中から海馬に入る17β-エストラジオールの寄与は非常に低く,海馬内合成が主である。海馬における17β-エストラジオール量はオスの方がメスより8倍も多く、性腺や血中での量比とは逆転している。これらの知見から、テストステロンは血液脳関門を透過する一方、17β-エストラジオールの血液脳関門透過性は低いと考えられる。なお、脳においてニューロンおよびアストロサイトが主に17β-エストラジオールを合成すると考えてられており、オリゴデンドロサイトやミクログリアなどの細胞種の17β-エストラジオール合成への寄与は小さい<ref name=Brann2022><pubmed>36552208</pubmed></ref>。 | 脳はエストロゲンを合成する一方、末梢で合成されたエストロゲンが脳に供給され得る。このような生体におけるエストロゲン、およびエストロゲン合成の基質であるテストステロンの動態は、川戸らの研究グループによって研究されている<ref name=Hojo2009><pubmed>19589866</pubmed></ref>。オスラットの海馬におけるテストステロン濃度は17 nM、17β-エストラジオール濃度は8 nMであった。精巣摘出したラットの実験を行って比較したところ、海馬内のテストステロンの8割は血中から供給され,2割は海馬内で合成されることが明らかとなった。一方、メスでは海馬の17β-エストラジオール(1 nM)は血中17β-エストラジオール(0.1~0.01 nM)より10倍以上も濃度が高く、また、メスでは血中から海馬に入る17β-エストラジオールの寄与は非常に低く,海馬内合成が主である。海馬における17β-エストラジオール量はオスの方がメスより8倍も多く、性腺や血中での量比とは逆転している。これらの知見から、テストステロンは血液脳関門を透過する一方、17β-エストラジオールの血液脳関門透過性は低いと考えられる。なお、脳においてニューロンおよびアストロサイトが主に17β-エストラジオールを合成すると考えてられており、オリゴデンドロサイトやミクログリアなどの細胞種の17β-エストラジオール合成への寄与は小さい<ref name=Brann2022><pubmed>36552208</pubmed></ref>。 | ||
=== 脳の性差と性行動 === | === 脳の性差と性行動 === | ||
産まれてすぐに去勢したラットにエストロゲンを投与すると、雄の性行動が誘導される一方で、ゴナドトロピンの分泌と雌の性行動が抑制されることが示された<ref name=Booth1977><pubmed>845532</pubmed></ref>。この知見から、脳の性分化が、精巣由来のアンドロゲンが脳内でエストロゲンへ変換されることによって起こることが示唆された。シトクロムP450アロマターゼは性的二型核で高度に発現しており<ref name=Sasano1998><pubmed>9578823</pubmed></ref><ref name=Selmanoff1977><pubmed>891467</pubmed></ref>、これら脳領域でテストステロンをエストロゲンに変換することによって、男性化や男性特有の性行動に寄与すると考えられている<ref name=McCarthy2008><pubmed>18195084</pubmed></ref>。しかし、このメカニズムは鳥類やげっ歯類の研究結果を基に提唱されたものであり、ヒトや霊長類に拡張できるかについてはまだ議論がある。 | 産まれてすぐに去勢したラットにエストロゲンを投与すると、雄の性行動が誘導される一方で、ゴナドトロピンの分泌と雌の性行動が抑制されることが示された<ref name=Booth1977><pubmed>845532</pubmed></ref>。この知見から、脳の性分化が、精巣由来のアンドロゲンが脳内でエストロゲンへ変換されることによって起こることが示唆された。シトクロムP450アロマターゼは性的二型核で高度に発現しており<ref name=Sasano1998><pubmed>9578823</pubmed></ref><ref name=Selmanoff1977><pubmed>891467</pubmed></ref>、これら脳領域でテストステロンをエストロゲンに変換することによって、男性化や男性特有の性行動に寄与すると考えられている<ref name=McCarthy2008><pubmed>18195084</pubmed></ref>。しかし、このメカニズムは鳥類やげっ歯類の研究結果を基に提唱されたものであり、ヒトや霊長類に拡張できるかについてはまだ議論がある。 | ||
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=== シナプスの構造と機能 === | === シナプスの構造と機能 === | ||
17β-エストラジオールは、シナプスの構造や機能の調節において重要な役割を果たしていると考えられている。Runeらの研究グループは、in vitroで培養したラット海馬切片をシトクロムP450アロマターゼ阻害薬であるレトロゾールで処置して17β-エストラジオールを減少させると、スパインやシナプスの密度が減少し、シナプス前タンパク質シナプトフィジンとシナプス後タンパク質スピノフィリンの発現が低下することを示した<ref name=Kretz2004><pubmed>15229239</pubmed></ref>。レトロゾール処置によるシナプトフィジンとスピノフィリンの減少は、メスマウスの海馬においても観察されている<ref name=Zhou2010><pubmed>20097718</pubmed></ref>。 | 17β-エストラジオールは、シナプスの構造や機能の調節において重要な役割を果たしていると考えられている。Runeらの研究グループは、in vitroで培養したラット海馬切片をシトクロムP450アロマターゼ阻害薬であるレトロゾールで処置して17β-エストラジオールを減少させると、スパインやシナプスの密度が減少し、シナプス前タンパク質シナプトフィジンとシナプス後タンパク質スピノフィリンの発現が低下することを示した<ref name=Kretz2004><pubmed>15229239</pubmed></ref>。レトロゾール処置によるシナプトフィジンとスピノフィリンの減少は、メスマウスの海馬においても観察されている<ref name=Zhou2010><pubmed>20097718</pubmed></ref>。 | ||
また、17β-エストラジオールと長期増強(LTP)との関連も報告されている。雄ラットの海馬スライスにレトロゾールを処置すると、海馬CA1領域のLTPの振幅が60%減少する一方、ベースラインには影響しない<ref name=Grassi2011><pubmed>21749911</pubmed></ref>。レトロゾールは、脳内でテストステロンを増加させる可能性があるが、Tozziらは、アンドロゲン受容体阻害薬が雄ラットから調製した海馬切片のLTPに影響を及ぼさないことを示している<ref name=Tozzi2019><pubmed>31866827</pubmed></ref>。従って、17β-エストラジオールは海馬CA1錐体細胞層に作用して、LTPに影響すると考えられる。 | また、17β-エストラジオールと長期増強(LTP)との関連も報告されている。雄ラットの海馬スライスにレトロゾールを処置すると、海馬CA1領域のLTPの振幅が60%減少する一方、ベースラインには影響しない<ref name=Grassi2011><pubmed>21749911</pubmed></ref>。レトロゾールは、脳内でテストステロンを増加させる可能性があるが、Tozziらは、アンドロゲン受容体阻害薬が雄ラットから調製した海馬切片のLTPに影響を及ぼさないことを示している<ref name=Tozzi2019><pubmed>31866827</pubmed></ref>。従って、17β-エストラジオールは海馬CA1錐体細胞層に作用して、LTPに影響すると考えられる。 | ||
遺伝子発現変化を伴わないnon-genomic signaling pathwaysおよび遺伝子発現変化を伴うgenomic signaling pathwaysの双方が17β-エストラジオールによるシナプスの構造形成や機能の調節に関わっている。Non-genomic signaling pathwaysにおいて、AktシグナルやERKシグナルを中心としたリン酸化シグナルが主要なメカニズムであると考えられている<ref name=Levenga2017><pubmed>29173281</pubmed></ref><ref name=Mao2016><pubmed>26567109</pubmed></ref><ref name=Sweatt2001><pubmed>11145972</pubmed></ref>。一方、17β-エストラジオールはCREBの活性化を介してBDNFやPDS95の発現を増大させ、シナプス可塑性を調節することも示唆されている<ref name=Lu2019><pubmed>30728170</pubmed></ref>。 | 遺伝子発現変化を伴わないnon-genomic signaling pathwaysおよび遺伝子発現変化を伴うgenomic signaling pathwaysの双方が17β-エストラジオールによるシナプスの構造形成や機能の調節に関わっている。Non-genomic signaling pathwaysにおいて、AktシグナルやERKシグナルを中心としたリン酸化シグナルが主要なメカニズムであると考えられている<ref name=Levenga2017><pubmed>29173281</pubmed></ref><ref name=Mao2016><pubmed>26567109</pubmed></ref><ref name=Sweatt2001><pubmed>11145972</pubmed></ref>。一方、17β-エストラジオールはCREBの活性化を介してBDNFやPDS95の発現を増大させ、シナプス可塑性を調節することも示唆されている<ref name=Lu2019><pubmed>30728170</pubmed></ref>。 | ||
=== 認知機能 === | === 認知機能 === | ||
1996年、Lancet誌に、閉経後の女性にエストロゲンを投与すると、アルツハイマー病発症のリスクが低下するとの論文が掲載され、エストロゲンと認知機能との関連性がとりわけ注目される契機となった<ref name=Tang1996><pubmed>8709781</pubmed></ref>。また、乳がん患者におけるシトクロムP450アロマターゼ阻害剤治療に係る知見から、エストロゲンが言語および視覚学習/記憶、実行機能、処理速度に重要であることが示唆された<ref name=Bender2007><pubmed>17898668</pubmed></ref><ref name=Phillips2011><pubmed>21046229</pubmed></ref><ref name=Rocha-Cadman2012><pubmed>22677000</pubmed></ref><ref name=Underwood2018><pubmed>29264751</pubmed></ref>。また、シトクロムP450アロマターゼ阻害薬による記憶障害が可逆的であることも明らかとなった。げっ歯類を用いてより直接的な研究が実施されており、例えば、雄および雌のラットに 14日間レトロゾールを脳室内投与したところ、海馬17β-エストラジオール濃度が低下し、海馬錐体ニューロンの発火頻度が減少した。またこのとき、作業記憶と新規物体認識記憶にレトロゾール用量依存的な障害が生じた<ref name=Marbouti2020><pubmed>32882397</pubmed></ref>。同様に、雄および雌のマウスにレトロゾールを投与すると、空間記憶障害が生じた<ref name=Zhao2018><pubmed>29452160</pubmed></ref>。さらに、レトロゾール投与により記憶の固定が損なわれたマウスに外因的に E2を補充すると、記憶が回復する<ref name=Tuscher2016><pubmed>27178577</pubmed></ref>。これらの知見から、17β-エストラジオールは記憶や学習に役割を果たしていると考えらえている。 | |||
=== | === 神経保護=== | ||
エストロゲンは、アルツハイマー病やパーキンソン病、脳梗塞など、様々な要因により生じる神経障害に対して保護作用を有していることが知られている<ref name=Brann2007><pubmed>17379265</pubmed></ref>。エストロゲンの神経保護メカニズムはgenomic signaling pathwaysとnon-genomic signaling pathwaysに大別される。 | エストロゲンは、アルツハイマー病やパーキンソン病、脳梗塞など、様々な要因により生じる神経障害に対して保護作用を有していることが知られている<ref name=Brann2007><pubmed>17379265</pubmed></ref>。エストロゲンの神経保護メカニズムはgenomic signaling pathwaysとnon-genomic signaling pathwaysに大別される。 | ||
17β- | |||
17β-エストラジオールによる神経保護を媒介する遺伝子群について'''表1'''に示した。17β-エストラジオールは酸化ストレスやアポトーシス、炎症に関連する遺伝子の発現を制御することにより神経保護作用を示す。 | |||
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17β-エストラジオールによるnon-genomic signaling pathwaysを介した神経保護には、主にキナーゼ経路が関わると考えられている。ERK経路の活性化や<ref name=Mize2003><pubmed>12488359</pubmed></ref>Akt経路の活性化<ref name=Zhang2009><pubmed>19889994</pubmed></ref>、Wntシグナル伝達の調節<ref name=Quintanilla2005><pubmed>15659394</pubmed></ref>などがメカニズムである。 | 17β-エストラジオールによるnon-genomic signaling pathwaysを介した神経保護には、主にキナーゼ経路が関わると考えられている。ERK経路の活性化や<ref name=Mize2003><pubmed>12488359</pubmed></ref>Akt経路の活性化<ref name=Zhang2009><pubmed>19889994</pubmed></ref>、Wntシグナル伝達の調節<ref name=Quintanilla2005><pubmed>15659394</pubmed></ref>などがメカニズムである。 | ||
また、17β-エストラジオールはミトコンドリア効率の改善<ref name=Jones2009><pubmed>18930048</pubmed></ref>や活性酸素種などの高反応性化学物質の直接消去も行う<ref name=Behl1997><pubmed>9106616</pubmed></ref>。さらに、アストロサイトのグルタミン酸動態に干渉したり<ref name=Acaz-Fonseca2014><pubmed>24444786</pubmed></ref>、ミクログリアの炎症反応を抑制したりと<ref name=Bruce-Keller2000><pubmed>11014219</pubmed></ref>、多種多様なメカニズムにより神経保護に役割を果たす。17β- | また、17β-エストラジオールはミトコンドリア効率の改善<ref name=Jones2009><pubmed>18930048</pubmed></ref>や活性酸素種などの高反応性化学物質の直接消去も行う<ref name=Behl1997><pubmed>9106616</pubmed></ref>。さらに、アストロサイトのグルタミン酸動態に干渉したり<ref name=Acaz-Fonseca2014><pubmed>24444786</pubmed></ref>、ミクログリアの炎症反応を抑制したりと<ref name=Bruce-Keller2000><pubmed>11014219</pubmed></ref>、多種多様なメカニズムにより神経保護に役割を果たす。17β-エストラジオールによる神経保護メカニズムの概要を'''図4'''に示した。 | ||
図4. エストロゲンによる神経保護メカニズムの概要(文献<ref name=Ishihara2015><pubmed>25815107</pubmed></ref>を改変) | 図4. エストロゲンによる神経保護メカニズムの概要(文献<ref name=Ishihara2015><pubmed>25815107</pubmed></ref>を改変) | ||
== 参考文献 == | == 参考文献 == |