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Katsumiwatanabe (トーク | 投稿記録) 細 (→無意識と記憶) |
Katsumiwatanabe (トーク | 投稿記録) 細 (→無意識とコントロール) |
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フロイトにさかのぼるまでもなく、無意識の研究は記憶の研究と深い関わりを持っており、無意識的記憶とメタ認知との多重的な関係を見て取ることができる。記憶のモデルとして「[[記銘]]→[[保持]]→[[想起]]」を想定した場合、「記銘したのは覚えているが内容が思い出せない」「内容は思い出せるがどこで記銘したのか思い出せない」「記銘したことも保持している事も明らかであるが想起できない」など、無意識的記憶あるいは潜在的記憶と呼ぶことができる状況が多岐にわたることが見てとれる。 | フロイトにさかのぼるまでもなく、無意識の研究は記憶の研究と深い関わりを持っており、無意識的記憶とメタ認知との多重的な関係を見て取ることができる。記憶のモデルとして「[[記銘]]→[[保持]]→[[想起]]」を想定した場合、「記銘したのは覚えているが内容が思い出せない」「内容は思い出せるがどこで記銘したのか思い出せない」「記銘したことも保持している事も明らかであるが想起できない」など、無意識的記憶あるいは潜在的記憶と呼ぶことができる状況が多岐にわたることが見てとれる。 | ||
== 無意識とコントロール == | === 無意識とコントロール === | ||
無意識を議論する際には、意思による操作(コントロール)が可能かどうかという観点もしばしば[[取り入れ]]られる。例えば、複雑な行動や精緻な動作を学習([[手続き学習]])する場合、初期段階では学習前の行動や動作を引きずっていたり複数動作の協調がうまく行えないために、「やるべき事は分かっているのにできない」状態になる。しかし、何度もくり返すことによって習慣化された行動に関しては、細かな意識的コントロールなしに遂行できるようになり、「どうやってやっているのかは説明できないけどできる」状態になる。両方とも、自己の意思によるコントロールからの逸脱を観察することによって、無意識的過程が存在することが推測されている。また、多くの人が感情や情動の自己操作は難しいと感じている。このような意思や知識によるトップダウン的なコントロールの困難さは、他にも、[[錯覚]]などの[[知覚]]現象、ステレオタイプや社会的偏見などにも広く見られ、コントロール可能性と無意識の概念は分けて考えることはできない。 | 無意識を議論する際には、意思による操作(コントロール)が可能かどうかという観点もしばしば[[取り入れ]]られる。例えば、複雑な行動や精緻な動作を学習([[手続き学習]])する場合、初期段階では学習前の行動や動作を引きずっていたり複数動作の協調がうまく行えないために、「やるべき事は分かっているのにできない」状態になる。しかし、何度もくり返すことによって習慣化された行動に関しては、細かな意識的コントロールなしに遂行できるようになり、「どうやってやっているのかは説明できないけどできる」状態になる。両方とも、自己の意思によるコントロールからの逸脱を観察することによって、無意識的過程が存在することが推測されている。また、多くの人が感情や情動の自己操作は難しいと感じている。このような意思や知識によるトップダウン的なコントロールの困難さは、他にも、[[錯覚]]などの[[知覚]]現象、ステレオタイプや社会的偏見などにも広く見られ、コントロール可能性と無意識の概念は分けて考えることはできない。 |
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