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== 歴史 == | == 歴史 == | ||
複数の[[テスト]]を組み合わせたテストバッテリーがマウスの行動解析に用いられた研究が初めて発表されたのは1963年である1。この時用いられたテストバッテリーで、Irwinは50種類の観察項目について数値化し、マウスの行動特性を定量化している1。現在用いられている基本的な行動観察バッテリーにおける検査項目のいくつか、例えば自発歩行 (locomotion)、れん縮反射 (twitches) 、驚愕反応 (startle)、などは Irwin によって提案されたテスト項目に由来している。Crawley らは、Irwinのテストバッテリーを改良・簡便化し、遺伝子改変マウスに対して用いる予備観察バッテリーとして提案した2。この他に、簡便な行動観察によるテストバッテリーとしては、神経毒性を調べるために開発された機能観察総合評価 (FOB, functional observational battery) 法3や、Rogersらによって考案された SHIRPA (SmithKline Beecham, Harwell, Imperial College, Royal London Hospital, phenotype assessment) の一次検査4などがある。これらのテストバッテリーは、主に被験体の健康状態を調べることを目的としており、[[情動]]や記憶学習などの高次脳機能を評価するためのテストを含んでいない。一方、1990年代に入り遺伝子改変マウスの表現型解析に情動や記憶学習などの高次脳機能を評価するテストが用いられるようになった。宮川らは明暗選択箱テスト (light/dark transition test, | 複数の[[テスト]]を組み合わせたテストバッテリーがマウスの行動解析に用いられた研究が初めて発表されたのは1963年である1。この時用いられたテストバッテリーで、Irwinは50種類の観察項目について数値化し、マウスの行動特性を定量化している1。現在用いられている基本的な行動観察バッテリーにおける検査項目のいくつか、例えば自発歩行 (locomotion)、れん縮反射 (twitches) 、驚愕反応 (startle)、などは Irwin によって提案されたテスト項目に由来している。Crawley らは、Irwinのテストバッテリーを改良・簡便化し、遺伝子改変マウスに対して用いる予備観察バッテリーとして提案した2。この他に、簡便な行動観察によるテストバッテリーとしては、神経毒性を調べるために開発された機能観察総合評価 (FOB, functional observational battery) 法3や、Rogersらによって考案された SHIRPA (SmithKline Beecham, Harwell, Imperial College, Royal London Hospital, phenotype assessment) の一次検査4などがある。これらのテストバッテリーは、主に被験体の健康状態を調べることを目的としており、[[情動]]や記憶学習などの高次脳機能を評価するためのテストを含んでいない。一方、1990年代に入り遺伝子改変マウスの表現型解析に情動や記憶学習などの高次脳機能を評価するテストが用いられるようになった。宮川らは明暗選択箱テスト (light/dark transition test, 3.3.1 参照) や[[高架式十字迷路]]テスト (elevated plus maze test, 3.3.2 参照) などを用いて初めてノックアウトマウスの不安様行動を評価した5,6。それ以降、遺伝子改変マウスの行動表現型を明らかにすることで、記憶や情動など各種の行動に影響を与える遺伝子が次々と同定された。これらの研究では、多くの場合、テストごとに先行実験の経験を持たないマウスが使用されており、このような方法では複数の異なるテストを用いてマウスの行動特性を評価する場合には大量の被験体が必要となる。Crawley らは、さまざまな行動カテゴリーのテストから比較的簡便に実施できるものを組み合わせた行動テストバッテリーを考案した7,8。この行動テストバッテリーを用いることにより、同一の被験体に対し感覚・[[知覚]]、運動、情動など各種の行動を測定し、多くの遺伝子改変マウスの行動表現型を明らかにしている7,8。多種類の行動カテゴリーのテストを同一の被験体に対して順番に実施し、包括的な行動テストバッテリーとすることにより、限られた数の被験体を用いてマウスの行動特性を少ない労力と時間で効率的に調べることができるようになった2。 | ||
== 使用目的 == | == 使用目的 == | ||
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== 行動テストバッテリーの構成 == | == 行動テストバッテリーの構成 == | ||
行動テストバッテリーは、使用目的に応じて複数のテストを組み合わせて構成される。表1に藤田保健衛生大学 総合医科学研究所 システム医科学研究部門および生理学研究所 行動・代謝分子解析センター 行動様式解析室で使用されている行動テストバッテリーの例を示した。この行動テストバッテリーは、感覚・知覚、運動、情動、[[睡眠]]・リズム、注意、学習・記憶、社会的行動などさまざまな行動カテゴリーのテストからなり、特に遺伝子改変マウスの行動異常をスクリーニングするのに適した組み合わせとなっている。 | |||
{| class="wikitable" | {| class="wikitable" | ||
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Hot plate test | Hot plate test | ||
痛覚感受性を測定するテスト。55℃に熱したプレートにマウスを乗せて、肢をなめたり擦り合わせたりなど熱に対する反応を起こすまでの時間(潜時)を測定する9。このテストで実験群と統制群に差がある場合は、痛みに対する反応性が異なる可能性がある。その場合、恐怖条件づけテスト(3.5.4参照)や受動的回避テストなどのように痛覚刺激を用いる課題では、目的としている行動の測定に問題が生じる可能性がある。例えば電気ショックを与えても痛覚やそれにともなう恐怖が惹起されずにすくみ反応(フリージング)が生じなければ恐怖条件づけテストで記憶を評価することはできない。痛覚感受性のテストとしてはこの他に尾部に熱刺激を加えて回避反応を観察するテールフリックテスト (Tail flick test)10 や後肢にホルマリン溶液を皮下注射して持続性疼痛に対する反応を観察するホルマリンテスト (formalin test)11、非侵害刺激に対する痛み([[アロディニア]])を評価するフォン・フレイ・フィラメントテスト(von Frey filament test)12がよく用いられている。 | |||
====聴覚性驚愕反応/プレパルス抑制テスト==== | ====聴覚性驚愕反応/プレパルス抑制テスト==== | ||
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マウスが壁際を好み、高所を避けるという性質を利用した不安様行動のテスト。自発的交替課題を行うためのY字迷路を高架式にし、壁を持つアーム(クローズドアーム)と壁のないアーム(オープンアーム)を組み合わせ、それぞれのアームへの進入回数から不安様行動を評価した23ものが原型となっている。その後、装置や測定指標の改良を経て、1985 年にPellow らが高架式十字迷路テストとして発表した24。高架式十字迷路では、クローズドアームとオープンアームとを十字に組み合わせた迷路にマウスを置き自由に探索させ、それぞれのアームに滞在していた時間や入った回数、移動距離などを測定する 25。アームへの進入回数およびアーム上の滞在時間を絶対値のまま指標とするとこれらの値は活動性に影響を受けやすいので、オープンアームに対する数値とクローズドアームに対する数値とで比をとって指標にすることが多い。オープンアームに対する進入回数および滞在時間が増加していれば不安様行動の低下が、逆にそれらが低下していれば不安様行動の増加が示唆される。高架式十字迷路テストで測定される不安様行動は、ベンゾジアゼピン系抗不安薬やアドレナリンα受容体関連薬物などの薬剤に対する反応性から妥当性が行動薬理学的に示されている24,26。その他にも、オープンアーム滞在中の血中コルチコステロン濃度の上昇24,27や脱糞の増加24などの生理学的指標の変化も報告されている。このため、高架式十字迷路テストは、ヒトにおける不安に類似した行動を評価していると考えられており、 抗不安薬のスクリーニングによく使われている28。 | マウスが壁際を好み、高所を避けるという性質を利用した不安様行動のテスト。自発的交替課題を行うためのY字迷路を高架式にし、壁を持つアーム(クローズドアーム)と壁のないアーム(オープンアーム)を組み合わせ、それぞれのアームへの進入回数から不安様行動を評価した23ものが原型となっている。その後、装置や測定指標の改良を経て、1985 年にPellow らが高架式十字迷路テストとして発表した24。高架式十字迷路では、クローズドアームとオープンアームとを十字に組み合わせた迷路にマウスを置き自由に探索させ、それぞれのアームに滞在していた時間や入った回数、移動距離などを測定する 25。アームへの進入回数およびアーム上の滞在時間を絶対値のまま指標とするとこれらの値は活動性に影響を受けやすいので、オープンアームに対する数値とクローズドアームに対する数値とで比をとって指標にすることが多い。オープンアームに対する進入回数および滞在時間が増加していれば不安様行動の低下が、逆にそれらが低下していれば不安様行動の増加が示唆される。高架式十字迷路テストで測定される不安様行動は、ベンゾジアゼピン系抗不安薬やアドレナリンα受容体関連薬物などの薬剤に対する反応性から妥当性が行動薬理学的に示されている24,26。その他にも、オープンアーム滞在中の血中コルチコステロン濃度の上昇24,27や脱糞の増加24などの生理学的指標の変化も報告されている。このため、高架式十字迷路テストは、ヒトにおける不安に類似した行動を評価していると考えられており、 抗不安薬のスクリーニングによく使われている28。 | ||
明暗選択テスト ( | 明暗選択テスト (項目3.3.1) と高架式十字迷路テスト (項目3.3.2) はともに不安様行動を測定する代表的なテストである。それぞれのテストで測定される行動を引き起こしている要因には共通しているものがあるが、一方で異なる要因もあり、この2つのテストで得られる結果から推測される不安様行動の増減が常に同じ方向であるとは限らない。実際、遺伝子改変マウスの行動表現型では双方で不安様行動が低下あるいは亢進している場合もあるが、片方のテストでだけ不安様行動の増減が見られたり29,30、あるいは2つのテストで不安様行動について一方のテストでは低下し、他方では増加しているといった逆方向19,31の表現型が得られることもある。 | ||
===うつ様行動=== | ===うつ様行動=== | ||
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逆さ向きに吊されたマウスが学習性無力感によって動かなくなることを利用したうつ様行動のテスト。マウスを尻尾から逆さに吊るし、無動時間を測定する33。吊されたマウスは脱出しようと動き回るが、次第に動かない時間が増えてくる。このテストでも抗うつ薬を投与すると無動時間が減少する33ことから、無動時間の長さがうつ様行動の指標とされている。 | 逆さ向きに吊されたマウスが学習性無力感によって動かなくなることを利用したうつ様行動のテスト。マウスを尻尾から逆さに吊るし、無動時間を測定する33。吊されたマウスは脱出しようと動き回るが、次第に動かない時間が増えてくる。このテストでも抗うつ薬を投与すると無動時間が減少する33ことから、無動時間の長さがうつ様行動の指標とされている。 | ||
先述した不安様行動テストの場合と同様に、うつ様行動の代表的な2つのテストであるポーソルト強制水泳テスト (項目 | 先述した不安様行動テストの場合と同様に、うつ様行動の代表的な2つのテストであるポーソルト強制水泳テスト (項目 3.4.1) と尾懸垂テスト (項目 3.4.2) でも、それぞれのテストで測定される行動の背景には共通の要因と個別に異なる要因とがある。そのため同じ遺伝子改変マウスに2つのテストを行った場合に、両方でうつ様行動の増減が同方向にみられる34こともあれば一方ではうつ様行動が増加、他方では減少というように逆方向になることもある31。ポーソルト強制水泳テストと尾懸垂テストは、ともに抗うつ剤の評価およびスクリーニングによく使われている。抗うつ薬の臨床における治療効果は、長期間の服用ではじめて得られるとされているが、げっ歯類を用いたこれらの実験では急性投与での効果のみが評価さていれるという問題が指摘されている35。 | ||
===学習・記憶=== | ===学習・記憶=== | ||
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Morris water maze test | Morris water maze test | ||
水を張った円形のプール内で、水面下に設置されたプラットフォーム(逃避台)をマウスに泳いで探索させることで空間記憶を測定するテスト36。水からの逃避が動機づけとなっており、マウスは迷路外にある視覚的手がかりを利用してプラットフォームを 探索する。プールの大きさは施設やプロトコルによって異なるが、直径80〜200cm、高さ30〜50cm のものが使われることが多い。プール内の水は白色の塗料やスキムミルク、酸化チタンなどを用いて白濁させ、水面下のプラットフォームをマウスに対して不可視化する。一般的に用いられる方法では、最初にマウスをプールとプラットフォームに慣らせるために visible platform task を行う。この課題では、プラットフォームにマウスが目視できる旗やオブジェクトなどの目印をつけるか、プラットフォームそのものが水面より上になるように設置し、被験体の水泳能力や視覚能力を評価する。プラットフォームの位置は試行毎にランダムに設定される。Visible platform task での成績に特に異常が見られなければ、次にプラットフォームを不可視にしてその位置を探索・学習させるhidden platform task を行う。通常、訓練の初期はランダムにプラットフォームの位置を探索するか、接触走性 (Thigmotaxis) によって壁に沿って泳いでプラットフォームにたどり着くことが多いが、訓練が進むにしたがって直接プラットフォームのある方向へ泳ぐようになる。接触走性によって迷路外の刺激を使わずに壁に沿って探索する戦略が固定してしまうとこのテストでの空間記憶の評価は難しくなってしまうのでマウスがプラットフォームを探索する戦略についても注意が必要である37。統制群のマウスでプラットフォームにたどり着くまでの時間や距離が短縮され、プラットフォーム位置についての学習が成立した後、プローブテストを行う。プローブテストでは、プラットフォームを取り除いた状態でマウスを自由に探索させ、プラットフォームが設置されていた領域にマウスが留まる時間の長さによって空間記憶をどのくらい保持・想起できるかを評価する。モリス水迷路は、もともとはラットを対象として考案されたテストであり、マウスでの使用には問題点も指摘されている。例えば、課題遂行の動機付けが水からの逃避ではない空間学習記憶においてマウスはラットと同等の遂行能力を持つものの、モリス水迷路においてはマウスの遂行能力はラットに比較して劣っていることが報告されている38。また、水泳能力や視力、水に対する反応性などの違いが混交要因 ( | 水を張った円形のプール内で、水面下に設置されたプラットフォーム(逃避台)をマウスに泳いで探索させることで空間記憶を測定するテスト36。水からの逃避が動機づけとなっており、マウスは迷路外にある視覚的手がかりを利用してプラットフォームを 探索する。プールの大きさは施設やプロトコルによって異なるが、直径80〜200cm、高さ30〜50cm のものが使われることが多い。プール内の水は白色の塗料やスキムミルク、酸化チタンなどを用いて白濁させ、水面下のプラットフォームをマウスに対して不可視化する。一般的に用いられる方法では、最初にマウスをプールとプラットフォームに慣らせるために visible platform task を行う。この課題では、プラットフォームにマウスが目視できる旗やオブジェクトなどの目印をつけるか、プラットフォームそのものが水面より上になるように設置し、被験体の水泳能力や視覚能力を評価する。プラットフォームの位置は試行毎にランダムに設定される。Visible platform task での成績に特に異常が見られなければ、次にプラットフォームを不可視にしてその位置を探索・学習させるhidden platform task を行う。通常、訓練の初期はランダムにプラットフォームの位置を探索するか、接触走性 (Thigmotaxis) によって壁に沿って泳いでプラットフォームにたどり着くことが多いが、訓練が進むにしたがって直接プラットフォームのある方向へ泳ぐようになる。接触走性によって迷路外の刺激を使わずに壁に沿って探索する戦略が固定してしまうとこのテストでの空間記憶の評価は難しくなってしまうのでマウスがプラットフォームを探索する戦略についても注意が必要である37。統制群のマウスでプラットフォームにたどり着くまでの時間や距離が短縮され、プラットフォーム位置についての学習が成立した後、プローブテストを行う。プローブテストでは、プラットフォームを取り除いた状態でマウスを自由に探索させ、プラットフォームが設置されていた領域にマウスが留まる時間の長さによって空間記憶をどのくらい保持・想起できるかを評価する。モリス水迷路は、もともとはラットを対象として考案されたテストであり、マウスでの使用には問題点も指摘されている。例えば、課題遂行の動機付けが水からの逃避ではない空間学習記憶においてマウスはラットと同等の遂行能力を持つものの、モリス水迷路においてはマウスの遂行能力はラットに比較して劣っていることが報告されている38。また、水泳能力や視力、水に対する反応性などの違いが混交要因 (4.5 結果の解釈における注意事項を参照) となり、結果が大きく変わることがあるので実験の選択および得られた結果の解釈には注意が必要である37。 | ||
====バーンズ円形迷路テスト==== | ====バーンズ円形迷路テスト==== | ||
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マウスに場所(文脈)や音、光などの条件刺激と電気刺激などの無条件刺激を組み合わせて与えることで条件づけした後、条件刺激を再度提示した際にマウスがすくみ反応(フリージング) を示した時間を測定し、その割合を記憶能力の指標とするテスト41。条件づけした文脈や手がかり刺激を与えてもすくみ反応を示さなかったり、示している時間が短かったりすれば、記憶能力の異常が示唆される。このテストは古典的条件づけおよび文脈記憶のテストとして広く使われている。恐怖条件づけでは、マウスに電気ショックなどの非常に強い刺激を用いるため、このテストを経験させた動物はその後の行動特性が大きく変化する可能性がある。そのため、本テストはテストバッテリーの終盤に行うことが多い。逆に実験者による取り扱いに(ハンドリング)に全く慣れていない個体をテストの被験体として用いると、ケージから取り出しなどのハンドリングも含めて無条件刺激となってしまい、どんな文脈に対してもすくみ反応を示してしまうこともある。このような場合は、文脈や手がかりを記憶しているかどうかの評価ができなくなってしまうので、実験を計画する際には注意が必要である。 | マウスに場所(文脈)や音、光などの条件刺激と電気刺激などの無条件刺激を組み合わせて与えることで条件づけした後、条件刺激を再度提示した際にマウスがすくみ反応(フリージング) を示した時間を測定し、その割合を記憶能力の指標とするテスト41。条件づけした文脈や手がかり刺激を与えてもすくみ反応を示さなかったり、示している時間が短かったりすれば、記憶能力の異常が示唆される。このテストは古典的条件づけおよび文脈記憶のテストとして広く使われている。恐怖条件づけでは、マウスに電気ショックなどの非常に強い刺激を用いるため、このテストを経験させた動物はその後の行動特性が大きく変化する可能性がある。そのため、本テストはテストバッテリーの終盤に行うことが多い。逆に実験者による取り扱いに(ハンドリング)に全く慣れていない個体をテストの被験体として用いると、ケージから取り出しなどのハンドリングも含めて無条件刺激となってしまい、どんな文脈に対してもすくみ反応を示してしまうこともある。このような場合は、文脈や手がかりを記憶しているかどうかの評価ができなくなってしまうので、実験を計画する際には注意が必要である。 | ||
行動テストバッテリーを構成する際には、テストの順番とテスト間の間隔についても注意する必要がある。最初に行うテストを除き、全てのテストにおいてマウスは先行して経験した実験の影響を受けるので、全ての被験体について同じ順番でテストを実施するのが望ましい。行動テストバッテリーに含まれる各種テストは、被験体に与えるストレスが低いと考えられるテストから始め、徐々にストレスレベルが高いと考えられるテストを受けるような順番で構成されている。特に恐怖条件づけテスト(項目3.5.4 参照)のように電気ショックを与えるものは、その後の行動に影響を与える可能性が高く、テストバッテリーの中では終盤に実施するのが一般的である7。行動テストバッテリーにおけるテスト間の間隔については、Paylor らがバッテリー内のテスト間隔を1週間にした場合と1-2日にした場合とを比較した研究を発表している42。この研究によるとテストの間隔が1-2日あれば1週間の間隔を空けた場合と比較して行動テストの結果に大きな違いは見られなかった42。この知見に基づき、Crawleyらの研究室をはじめ、藤田保健衛生大学、生理学研究所などでも行動テストバッテリーを実施する場合は、テスト間の間隔は1日以上空けることとしている。 | |||
==実施にあたって留意すべき事項== | ==実施にあたって留意すべき事項== | ||
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====遺伝的背景==== | ====遺伝的背景==== | ||
遺伝子改変マウスの表現型解析を行う場合において、バックグラウンド系統として現在よく使われているのは C57BL6/J という系統である。一方で遺伝子改変マウスの作製に用いられるES細胞には、最も早くES細胞株が確立されたマウス系統である129由来のものが多く使用されていた43,44。この129という系統から派生した亜系統(亜系統について次段落参照)では脳梁の形成不全が生じており、記憶・学習に障害があるとされたため45、遺伝子改変マウスを行動解析する際には多くの場合、遺伝的背景を129系 からC57BL6/J系統にする戻し交配 (バッククロス) が行われている。実際、129系の亜系統のうち、129/J, 129/SvJ, 129/Sv では空間学習の成績低下が知られている46。しかし、別の亜系統129S6/SvEvTac ではモリス水迷路や恐怖条件づけで測定される学習・記憶は正常であると報告されている46。作業記憶についてもT迷路やY迷路を用いた自発的交替課題で129S2/SvHsd (129) とC57BL/6JOlaHsd との間で交替率(正答率)に大きな違いは見られない47。その他にも、C57BL6/Jではprepulse inhibition ( | 遺伝子改変マウスの表現型解析を行う場合において、バックグラウンド系統として現在よく使われているのは C57BL6/J という系統である。一方で遺伝子改変マウスの作製に用いられるES細胞には、最も早くES細胞株が確立されたマウス系統である129由来のものが多く使用されていた43,44。この129という系統から派生した亜系統(亜系統について次段落参照)では脳梁の形成不全が生じており、記憶・学習に障害があるとされたため45、遺伝子改変マウスを行動解析する際には多くの場合、遺伝的背景を129系 からC57BL6/J系統にする戻し交配 (バッククロス) が行われている。実際、129系の亜系統のうち、129/J, 129/SvJ, 129/Sv では空間学習の成績低下が知られている46。しかし、別の亜系統129S6/SvEvTac ではモリス水迷路や恐怖条件づけで測定される学習・記憶は正常であると報告されている46。作業記憶についてもT迷路やY迷路を用いた自発的交替課題で129S2/SvHsd (129) とC57BL/6JOlaHsd との間で交替率(正答率)に大きな違いは見られない47。その他にも、C57BL6/Jではprepulse inhibition (項目3.1.2 参照) が低いのに対して、129/SvEvTacや129/J、129/SvJは高いことが報告されている48。このように遺伝的背景が129系統であっても必ずしも表現型解析に問題が生じるわけではないのでC57BL6系へのバッククロスは必ずしも必要ではないと考えられる。また、戻し交配を行う場合に注意すべきこととして、ドナー系統(もとの系統)の遺伝子の残存がある。C57BL6/Jによる戻し交配を6回経て生まれたマウスは、遺伝子の98.4%がC57BL6/J由来のものとなる。しかし、これは理論上の値であり、遺伝子判定を行った上で遺伝子改変マウスを選別して戻し交配を行うのでターゲットとした遺伝子の周辺にはドナー系統の遺伝子が残存しており表現型に影響を与える可能性がある (隣接遺伝子効果, Flanking-gene effect) ので注意が必要である49。現在ではC57BL6系統のES細胞株も確立されており、戻し交配を経ることなくC57BL6純系で遺伝子改変マウスを得ることができる50。 | ||
====系統による行動特性の違い==== | ====系統による行動特性の違い==== | ||
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===実験環境=== | ===実験環境=== | ||
マウスの行動は実験時の照明の明るさ、温度や騒音などの環境条件によって大きく影響を受けるため55、実験を行う際は環境を可能な限り統制する必要がある。すなわち、できる限り実験室内やテスト装置内の照度を一定にし、防音室のように防音加工が施された独立スペースにおいてテストを行うなどの対策を講じることが望ましい。今日では、多くの行動テストにおいて、被験体の行動をコンピュータプログラムによる画像の取得と自動解析によってデータ化することが可能となっている。自動化された実験では、被験体の近くで実験者が直接的に行動を観察し記録を行うことはなくなった。その結果、実験者は解析中に実験室から離れることが可能となり、実験者の動きや息づかい、匂いなど実験者が意図せず無意識的に発する刺激によってマウスの行動が影響される可能性は小さくなっている。それでも、実験者がマウスを扱う以上は、実験者の影響を完全に排除することは難しい。この他、実験を行う時間帯や順番なども結果に影響を及ぼし得るので注意が必要である(節4.3実験者効果とカウンターバランスを参照)。 | |||
Crabbeらは、実験環境が行動解析の結果にどのような影響を与えるかを明らかにするため、3つの異なる研究施設において、機器、プロトコル、餌、ケージ、床敷き、ケージ内のマウスの匹数、明暗サイクル、ケージ交換の頻度、マウスの週齢などの条件を統一した上で、8種類の行動テストを実施した56。これらの条件を統一しても、各研究機関で得られたデータの間には統計的に有意な差が生じることが明らかとなった。研究施設間で統一できていなかった条件としては、実験者、マウスの輸送条件、使用した水道水、実験室の構造、換気用フィルター、湿度などがあげられている。このようにマウスの行動表現型は、実験者が認識していないような要因によっても影響を受ける可能性がある。特に効果の小さい表現型については実験を行った研究室の環境に依存する可能性が高いと考えられ、他の研究室では再現されない場合も想定される。論文で発表されている結果や他の研究室で得られたデータについて、比較あるいは追試する場合は上記のような可能性について考慮しなければならない。また、行動実験プロトコルを作成する際には、他の研究者が追試やデータ比較を行うことができるように実験環境の情報についても詳細に記すべきである57。 | Crabbeらは、実験環境が行動解析の結果にどのような影響を与えるかを明らかにするため、3つの異なる研究施設において、機器、プロトコル、餌、ケージ、床敷き、ケージ内のマウスの匹数、明暗サイクル、ケージ交換の頻度、マウスの週齢などの条件を統一した上で、8種類の行動テストを実施した56。これらの条件を統一しても、各研究機関で得られたデータの間には統計的に有意な差が生じることが明らかとなった。研究施設間で統一できていなかった条件としては、実験者、マウスの輸送条件、使用した水道水、実験室の構造、換気用フィルター、湿度などがあげられている。このようにマウスの行動表現型は、実験者が認識していないような要因によっても影響を受ける可能性がある。特に効果の小さい表現型については実験を行った研究室の環境に依存する可能性が高いと考えられ、他の研究室では再現されない場合も想定される。論文で発表されている結果や他の研究室で得られたデータについて、比較あるいは追試する場合は上記のような可能性について考慮しなければならない。また、行動実験プロトコルを作成する際には、他の研究者が追試やデータ比較を行うことができるように実験環境の情報についても詳細に記すべきである57。 | ||
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===結果の解釈における注意事項=== | ===結果の解釈における注意事項=== | ||
ある特定の行動を測定する場合、遺伝的背景・実験環境・目的の行動領域以外の行動異常など、その行動の測定結果に影響を及ぼす「混交要因」が必ず存在する。例えば、空間記憶のテストとしてよく用いられるモリス水迷路(項目3.5.1)においては、水泳能力、視力、プラットフォームに登る動機づけの強さ、逃避戦略などが混交要因になり得る。例えばあるマウスの水泳能力が低い場合、モリス水迷路でそのマウスの成績が低下していても、その原因は記憶・学習の障害でなく水泳能力の低下である可能性がある。このような場合、モリス水迷路でそのマウスの空間記憶を評価することは困難であり、水泳能力を必要としないバーンズ迷路テスト(項目3.5.2)や8方向放射状迷路 (項目 3.5.3) など別の実験で評価する必要がある。例えば、Neurogranin ノックアウトマウスは、モリス水迷路のhidden platform task においてプラットフォームが存在した領域を学習することはできなかったが、バーンズ迷路では逃避箱の存在した穴の位置を学習し、プローブテストにおいてその記憶を想起することができた60。このマウスがモリス水迷路でプラットフォームの位置を学習することができなかった原因は、空間記憶の障害以外の要因である可能性が高い60。このように、ある特定の行動を評価するためには、異なる混交要因をもつ複数のテストで行動の指標を測定し、評価しようとしている行動以外の影響をできるだけ小さくして総合的に判断しなければならない。行動実験によって得られた結果を解釈する際は、Morganによって提唱された「低次の心的な能力によって説明可能なことは、高次の心的な能力によって解釈してはならない」とするモーガンの公準 (Morgan's Canon)61に従うことが推奨される。先の例で言えば、モリス水迷路で成績が悪かった場合において、水泳能力や視力の低下によって成績が低下していると解釈できるなら、空間記憶が障害されているという解釈には慎重になる必要がある。 | |||
==脳科学研究における行動テストバッテリーの役割== | ==脳科学研究における行動テストバッテリーの役割== |