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{{box|text= | {{box|text= | ||
カプグラ症候群とは、近親者などが瓜二つの偽物と入れ替わったと確信する[[妄想]]であり、1923年にCapgras. J. とReboul-Lachoux. J.<ref name=ref8>'''Capgras, J. and Reboul-Lachaux, J.'''<br>L’illusions des sosies dans un délire systématisé chronique.<br>Bull. Soc. Clin. Méd. Ment. ii, 6-16.,1923.</ref>によって報告された。近年では、カプグラ症候群、[[フレゴリ症候群]]、[[相互変身妄想]]および[[自己分身症候群]]が妄想性人物誤認症候群の亜型としてまとめられている。カプグラ症候群は[[妄想型統合失調症]]に多いが、[[認知症]]や[[頭部外傷]]で見られることもある。成因論的には、1960年代までは対象の妄想的否認や感情的判断などと言った心因を重視する見解が支配的であったが、1970年代以降、器質因を重視する立場が出現し、[[知覚]]や[[相貌認知障害|相貌認知の障害]]として解釈しようとする立場が優勢となっている。[[大脳]]の右半球や[[前頭葉]]の病変との関連が指摘され、カプグラ症候群を[[認知心理学的]]に説明する仮説も提唱されている。}} | |||
== 概念 == | == 概念 == | ||
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ソジー (sosie) とは、[[wj:古代ローマ|古代ローマ]]の劇作家[[wj:プラウトゥス|Titus Maccius Plautus]]の戯曲「[[w:Amphitryon (play)|Amphitryon]]」の登場人物である。[[wj:アムピトリュオーン|Amphitryon]]の妻[[wj:アルクメーネー|Alcmene]]の篭絡を企む[[wj:ユピテル|Jupiter]]は、[[wj: メルクリウス|Mercure]]をAmphitryon 家の召使に変身させて送り込むが、この召使の名前がSosieである。17世紀後半、フランスの劇作家[[w:Molière|Molière]] がこのPlautusの戯曲を題材にして同名の作品を上演して以来、sosie は瓜二つの替え玉を意味する一般名詞になった<ref name=ref43 />。 | ソジー (sosie) とは、[[wj:古代ローマ|古代ローマ]]の劇作家[[wj:プラウトゥス|Titus Maccius Plautus]]の戯曲「[[w:Amphitryon (play)|Amphitryon]]」の登場人物である。[[wj:アムピトリュオーン|Amphitryon]]の妻[[wj:アルクメーネー|Alcmene]]の篭絡を企む[[wj:ユピテル|Jupiter]]は、[[wj: メルクリウス|Mercure]]をAmphitryon 家の召使に変身させて送り込むが、この召使の名前がSosieである。17世紀後半、フランスの劇作家[[w:Molière|Molière]] がこのPlautusの戯曲を題材にして同名の作品を上演して以来、sosie は瓜二つの替え玉を意味する一般名詞になった<ref name=ref43 />。 | ||
1929年、Lévy-Valensi, J.<ref name=ref33>'''Lévy-Valensi, J.'''<br>L'illusion des sosies. <br>''Gaz. Hôp. Paris'', 55; 1001-1003, 1929</ref>はソジーの錯覚を「カプグラ症候群」と呼ぶことを提唱し、自己や近親者に関する事物、居住する街などに関わる誤認もカプグラ症候群に含めた<ref name=ref43 />。1930年、Vie, J.<ref name=ref45>'''Vié, J.'''<br>Un trouble de l'identification des personnes -L'illusion des sosies.<br>''Ann. Méd. Psychol.'', 88 ; 214-237, 1930.</ref>はCourbon, P. とFail, G.<ref name=ref14>'''Courbon, P., Fail, G.'''<br>L'illusion de Frégoli et schizophrénie.<br>''Bull. Soc. Clin. Méd. Ment.'', 15 ; 121-124.1927.</ref> | 1929年、Lévy-Valensi, J.<ref name=ref33>'''Lévy-Valensi, J.'''<br>L'illusion des sosies. <br>''Gaz. Hôp. Paris'', 55; 1001-1003, 1929</ref>はソジーの錯覚を「カプグラ症候群」と呼ぶことを提唱し、自己や近親者に関する事物、居住する街などに関わる誤認もカプグラ症候群に含めた<ref name=ref43 />。1930年、Vie, J.<ref name=ref45>'''Vié, J.'''<br>Un trouble de l'identification des personnes -L'illusion des sosies.<br>''Ann. Méd. Psychol.'', 88 ; 214-237, 1930.</ref>はCourbon, P. とFail, G.<ref name=ref14>'''Courbon, P., Fail, G.'''<br>L'illusion de Frégoli et schizophrénie.<br>''Bull. Soc. Clin. Méd. Ment.'', 15 ; 121-124.1927.</ref>が報告した[[フレゴリの錯覚]]をカプグラ症候群と合わせ、[[人物誤認]]というカテゴリーに一括した。 | ||
1986年、Christdoulou, G.N.は、[[妄想的人物誤認症候群]] (delusional misidentification syndromes) | 1986年、Christdoulou, G.N.は、[[妄想的人物誤認症候群]] (delusional misidentification syndromes) を提唱し、カプグラ症候群、フレゴリ症候群、[[相互変身症候群]]、[[自己分身症候群]]をその4つの亜型とした<ref name=ref12>'''Christodoulou, G.N.'''<br>The delusional misidentification syndromes. <br>''Bibl Psychiatr, Karger, Basel'', 1986.</ref><ref name=ref35>'''Munro, A.'''<br>Delusional Disorder: Paranoia and Related Illnesses.<br>P178-185. Cambridge, UK; New York: ''Cambridge University Press''; 1999.</ref>。 | ||
== 妄想性人物誤認症候群の4亜型 == | == 妄想性人物誤認症候群の4亜型 == | ||
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===フレゴリ症候群=== | ===フレゴリ症候群=== | ||
妄想の焦点となる特定の者が、無害な外観を呈した周囲の人物に変装し、迫害を加えてくると確信している病態である。フレゴリの錯覚(illusion de Frégoli) | 妄想の焦点となる特定の者が、無害な外観を呈した周囲の人物に変装し、迫害を加えてくると確信している病態である。フレゴリの錯覚(illusion de Frégoli)、[[フレゴリ症状]](Fregoli symptom)とも呼ばれ<ref name=ref6><pubmed>3830335</pubmed></ref>、Courbon とFail<ref name=ref6 />が最初に報告した例は、[[統合失調症]]の27歳女性であった。彼女は、いつも劇場で目にしていた2 人の女優が、身近な人々の姿に変装して自分に言い寄り、性愛的な迫害を加えると訴えた。なお、フレゴリとは舞台での素早い変装で有名なイタリアの役者[[w:Leopoldo Fregoli|Leopoldo Fregoli]] (1867 – 1936) にちなんだものである。 | ||
無害な外見をとった様々の人物に変装した偽物の正体が主題とされ、仮面の背後に隠れている迫害者が、患者にとって愛着の対象であることがある。Vié(1930)<ref name=ref44><pubmed>8149127</pubmed></ref>は、患者が不在の類似性を見いだす(未知の人を既知と誤認)ことから、「陽性ソジー」(sosies positifs)と呼んだ。Christodoulouはこれを同定過多(hyper-identification)と言う視点でとらえた<ref name=ref9 /> <ref name=ref10 /> <ref name=ref11 /> <ref name=ref12 />。 | 無害な外見をとった様々の人物に変装した偽物の正体が主題とされ、仮面の背後に隠れている迫害者が、患者にとって愛着の対象であることがある。Vié(1930)<ref name=ref44><pubmed>8149127</pubmed></ref>は、患者が不在の類似性を見いだす(未知の人を既知と誤認)ことから、「陽性ソジー」(sosies positifs)と呼んだ。Christodoulouはこれを同定過多(hyper-identification)と言う視点でとらえた<ref name=ref9 /> <ref name=ref10 /> <ref name=ref11 /> <ref name=ref12 />。 | ||
===相互変身妄想=== | ===相互変身妄想=== | ||
周囲の身近な人々が相互に変身してしまうという[[妄想的確信]]である<ref name=ref15>'''Courbon P, Tusques J'''<br>Illusion d’intermetamorphose et de charme. <br>''Ann Méd-Psychol'', 90, 401-405, 1932. </ref>。自分の主たる関心を占める対象同士が、同一の人物の外見を保ちながら次々にお互いに入れ替わる。見かけの対象と本物の対象のいずれもが、患者にとって何らかの愛着ないしは迫害の対象であることが多い<ref name=ref27 />。 | |||
===自己分身症候群=== | ===自己分身症候群=== | ||
患者は、自分とそっくり同じの分身がいると確信する<ref name=ref10 />。これは普通、他の型の[[人物誤認症候群]] | 患者は、自分とそっくり同じの分身がいると確信する<ref name=ref10 />。これは普通、他の型の[[人物誤認症候群]]と共存し、単独で見られることは稀である。自己を対象とした[[替え玉妄想]]であることから、Christodoulouはこれを人物誤認症候群の第4の型とした。この場合、自分自身が替え玉であると訴えるカプグラ症候群との異同が問題となる<ref name=ref39 />。 | ||
==成因論 == | ==成因論 == | ||
Capgras らが最初の報告の中で「[[知覚]]の錯覚ではなく感情判断の結果である」と述べて以来、カプグラ症候群は対象の[[妄想的否認]]や感情的判断の問題とされてきた<ref name=ref43 />。木村ら<ref name=ref29>'''木村敏、坂敬一、山村靖ほか'''<br>族否認症候群について<br>''精神経誌''、70 ; 1085-1109, 1968.</ref>は、カプグラ症候群を妄想主題と規定し、受動的な愛の要求の挫折が自己の来歴の妄想的改変と自己および他者の意味変更を余儀なくすると述べた。西田ら<ref name=ref37>'''西田博文、奥村幸夫'''<br>Capgras症状と継子妄想<br>精神経誌、81 : 649-665, 1979. </ref>は、乳幼児期の対人知覚様式への[[退行]]がカプグラ現象を成立させるとみなした。カプグラ症候群における誤認の対象が重要な人物に限定されるという対象の選択性は、疫学的にも支持され、既婚者の74.6%が配偶者を、未婚者の82.8% が両親を替玉とみなした<ref name=ref30><pubmed>3521582</pubmed></ref>。 | Capgras らが最初の報告の中で「[[知覚]]の錯覚ではなく感情判断の結果である」と述べて以来、カプグラ症候群は対象の[[妄想的否認]]や感情的判断の問題とされてきた<ref name=ref43 />。木村ら<ref name=ref29>'''木村敏、坂敬一、山村靖ほか'''<br>族否認症候群について<br>''精神経誌''、70 ; 1085-1109, 1968.</ref>は、カプグラ症候群を妄想主題と規定し、受動的な愛の要求の挫折が自己の来歴の妄想的改変と自己および他者の意味変更を余儀なくすると述べた。西田ら<ref name=ref37>'''西田博文、奥村幸夫'''<br>Capgras症状と継子妄想<br>精神経誌、81 : 649-665, 1979. </ref>は、乳幼児期の対人知覚様式への[[退行]]がカプグラ現象を成立させるとみなした。カプグラ症候群における誤認の対象が重要な人物に限定されるという対象の選択性は、疫学的にも支持され、既婚者の74.6%が配偶者を、未婚者の82.8% が両親を替玉とみなした<ref name=ref30><pubmed>3521582</pubmed></ref>。 | ||
1971年、Weston, M. J.<ref name=ref45 />は、頭部外傷後の[[せん妄]]状態においてカプグラ症候群が出現した症例を報告した。以降、カプグラ症候群における器質的要因の関与が主張されるようになった。[[脳器質性障害]]による人物や事物の同定障害に[[相貌失認]]<ref name=ref5>'''Bodamer, J.'''<br>Die | 1971年、Weston, M. J.<ref name=ref45 />は、頭部外傷後の[[せん妄]]状態においてカプグラ症候群が出現した症例を報告した。以降、カプグラ症候群における器質的要因の関与が主張されるようになった。[[脳器質性障害]]による人物や事物の同定障害に[[相貌失認]]<ref name=ref5>'''Bodamer, J.'''<br>Die Prosop-Agnosie (Die Agnosie des Physiognomieerkennens). <br>''Arch. Psychiat. Nervenkr.'', 179 ; 6-53, 1947.</ref>と[[重複錯誤記憶]]<ref name=ref40>'''Pick. A.'''<br>Zur Casuistik der Erinnerungstäuschungen. <br>''Arch. Psychiatr. Nervenkr.'', 6 ; 568-574, 1876. </ref>がある。カプグラ現象とこれらの障害との関連や、脳の機能的離断との関連が研究されていくにつれ、カプグラ現象の神経学的基盤に関する仮説が提唱されるようになった。1980年代には、重複記憶錯誤を妄想的人物誤認症候群に含める著者もいた。 | ||
1988年、Anderson<ref name=ref2><pubmed>3273156</pubmed></ref>は相貌失認とカプグラ現象という二つの病態において、顔の形態的知覚情報と感情的意味情報の統合不全において生じる葛藤が、二次的な妄想的合理化を生むという仮説を提示した。1990年、Ellis, H.D. とYoung, A.W.<ref name=ref18><pubmed>2224375</pubmed></ref>はBauer, R.M.<ref name=ref3>'''Bauer, R.M.'''<br>The cognitive psychophysiology of prosopagnosia. In<br>(ed.) , Ellis, H., Jeeves, M. et al. Aspects of Face Processing. <br>''Martinus Nijhoff, Dordrecht'', 1986. </ref>の相貌認知に係わる神経機構仮説を援用することによって、Andersonの仮説を説明した。国内においても、1980年代以降は器質的要因が注目され、[[老年期認知症]]や[[前頭葉]]・[[側頭葉]]病変などの脳器質性障害を基盤として生じる人物誤認現象が報告されている。 | 1988年、Anderson<ref name=ref2><pubmed>3273156</pubmed></ref>は相貌失認とカプグラ現象という二つの病態において、顔の形態的知覚情報と感情的意味情報の統合不全において生じる葛藤が、二次的な妄想的合理化を生むという仮説を提示した。1990年、Ellis, H.D. とYoung, A.W.<ref name=ref18><pubmed>2224375</pubmed></ref>はBauer, R.M.<ref name=ref3>'''Bauer, R.M.'''<br>The cognitive psychophysiology of prosopagnosia. In<br>(ed.) , Ellis, H., Jeeves, M. et al. Aspects of Face Processing. <br>''Martinus Nijhoff, Dordrecht'', 1986. </ref>の相貌認知に係わる神経機構仮説を援用することによって、Andersonの仮説を説明した。国内においても、1980年代以降は器質的要因が注目され、[[老年期認知症]]や[[前頭葉]]・[[側頭葉]]病変などの脳器質性障害を基盤として生じる人物誤認現象が報告されている。 | ||
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1979年、Alexander, Stuss & Benson<ref name=ref1><pubmed>571979</pubmed></ref>は、カプグラ症候群が[[重複記憶錯誤]](Reduplicative Paramnesia)の一型であり、二つの症状の神経心理学的、脳病理学的基盤が同一であると主張した。重複記憶錯誤は「今いる場所ないし人物は確かに本物であるが、同じ場所ないし人物がもう一つないしそれ以上存在している」という確信で、一般的には器質性疾患において認められ、神経学的背景として右半球損傷、前頭葉損傷が指摘されている。カプグラ症候群を認める症例においても右半球や前頭葉の損傷が関連するとされているが、重複記憶錯誤ほど明確ではない。 | 1979年、Alexander, Stuss & Benson<ref name=ref1><pubmed>571979</pubmed></ref>は、カプグラ症候群が[[重複記憶錯誤]](Reduplicative Paramnesia)の一型であり、二つの症状の神経心理学的、脳病理学的基盤が同一であると主張した。重複記憶錯誤は「今いる場所ないし人物は確かに本物であるが、同じ場所ないし人物がもう一つないしそれ以上存在している」という確信で、一般的には器質性疾患において認められ、神経学的背景として右半球損傷、前頭葉損傷が指摘されている。カプグラ症候群を認める症例においても右半球や前頭葉の損傷が関連するとされているが、重複記憶錯誤ほど明確ではない。 | ||
重複記憶錯誤では、患者は非現実的で矛盾した内容を確信的に語るため、背景に何らかの思考障害や妄想性障害が想定されることがある。濱中<ref name=ref22>'''濱中淑彦'''<br>記憶錯誤・作話と妄想のあいだ <br>「幻覚と妄想の臨床」、P135-168、医学書院、東京、1992. M61)</ref> | 重複記憶錯誤では、患者は非現実的で矛盾した内容を確信的に語るため、背景に何らかの思考障害や妄想性障害が想定されることがある。濱中<ref name=ref22>'''濱中淑彦'''<br>記憶錯誤・作話と妄想のあいだ <br>「幻覚と妄想の臨床」、P135-168、医学書院、東京、1992. M61)</ref>によれば、カプグラ症候群ではしばしば入れ替わった対象に対して猜疑的、被害的である一方、重複記憶錯誤では対象の重複に対しむしろ肯定的な態度を示し、[[多幸]]的ないし[[無関心]]な傾向がみられる場合が多い。また、カプグラ症候群では入れ替わりの対象は原則として人物であり、場所のみを対象とする報告がない一方で、重複記憶錯誤では人物の重複よりむしろ場所の重複が主であると言う差異がある。両者を同一の現象と見なすかどうかについては、未だ学派により意見の分かれるところである。 | ||
== 相貌失認との関連 == | == 相貌失認との関連 == |